第6章第19節
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第6章第19節投稿しました。
ジハード達がメクリアからの親書に対応している頃、ノゾム達は学園の中庭にいた。
中庭ではすでに多くの生徒達が思い思いの場所に座って昼食に舌鼓を打っている。中庭に隣接している食堂の中は食欲を満たそうと集まった生徒達でごった返しており、ガヤガヤという喧騒が外まで響いていた。
適当な木陰を見つけて地面に座り、各々が持ってきた弁当箱を開けると、それぞれの個性溢れる昼食がまるで博覧会の様に広がる。
アイリスディーナやソミアは白い柔らかそうなパンにハムやチーズを挟んだものを、ランチボックス内に敷き詰めている。
シーナやティマの弁当はアイリスディーナ達とよく似ており、丸いドーナツ状のパンにフルーツや青いサラダが添えられていた。ただ彼女は小食なのか、同じ女性であるアイリスディーナと比べてもその量はかなり少ない。
一方、体が大きいマルスは食べる量も多いのか、彼はランチボックスを二つ持ってきていて、箱一杯に大きなパンを詰めたものとおかずを入れたものがある。
持ってきたおかずは冷えてはいるが、色取り取りの野菜が見栄えが良く添えてある。多分店の余り物なのだろう。
ミムル、トムは2人で大きなランチボックスを広げている。トムが作ったのかと聞いたら意外にもミムルらしい。
冷めていても彩り豊かな食材をふんだんに使った昼食は、見ているだけで涎が垂れそうだった。
ただ、なぜかトムの顔が青ざめているように見えるのが、ノゾムは気になったのだが。
ちなみに、ノゾムとフェオの食事は相変わらず安くて食指が伸びそうにない黒パンである。
フェオは金欠状態から抜け出せておらず、苦学生のノゾムは元々それほどお金を持っていない。
量も正直満足できるほどではないが、それも仕方ないだろう。
もそもそと乾燥した味気のない黒パンを頬張る。
「むっ、はむ……」
硬く、パサパサした黒パンは飲み込みづらい。特に今日のパンは普段より食べ辛いような気がする。
ノゾムは首を傾げながらも、ゆっくりと咀嚼して柔らかくしてから飲み込む。それでも喉の奥に詰まる様な感覚が残り、ノゾムは顔を顰めていた。
午後の授業の終わりに突然教室を訪れたジハード。
教官長の突然の訪問に茫然としている間に、ノゾムはジハードに連れ出され、そのまま修復されたばかりの武技園に放り込まれて模擬戦に突入。一体 何事かとジハードに問いかける前に、顎落としを打ち込まれる羽目になったのである。
命の危険すら感じ、ノゾムは全力で抵抗した。逃げ回ったとも言うが。
もっとも、必死の抵抗も空しく、ノゾムは宙に放り投げられ、叩き落され、カエルのような悲鳴を上げる羽目になってしまったが。
「はあ……」
ノゾムの口からため息が漏れだす。同時に彼は先程の模擬戦を思い出しながら“あのオトボケ中年が……”と心の中で怨嗟の声を上げていた。
最近ジハードに対するノゾムの心象が劣化の一途を辿っている。まあ、良く言えば慣れてきている。悪く言えばノゾムも遠慮がなくなっているという所だろうか。
「ノゾム、大丈夫か?」
「まだ、顔色が良くないけど……」
「まあ、師匠との鍛錬でもあったから……」
憔悴した様子のノゾムを心配したのか、アイリスディーナとシーナが憂いを浮かべた表情でノゾムを見つめている。
そんな彼女たちにノゾムは笑みを浮かべて手を振りながらも、再び大きくため息を吐きだした。
数日置きに行われるようになったジハードとの模擬戦。
優れた教官からの直接指導は、通常は1階級などの上位階級のみが許されているのだが、ノゾムに関してはジハードが直接指導するという異常事態になっていた。
もっとも、そんな事になった原因は分かり切っているのだが。
「まあ、ノゾムがあの模擬戦で大暴れしたのが理由やろうな」
「実際、ノゾム君以外にジハード先生に顎落としを抜かせた人って、私達の学年にはいなかったし……」
「つまり、ノゾムの自業自得だな」
フェオ、ティマ、マルスの言葉に、ノゾムはがっくりと肩を落とす。
別にノゾムとしては自分の剣をジハードやリサ達、そして下級生の前で披露したことに後悔はないし、あれで良かったとは思っている。
実際、ケンが学園中に植え付けた噂は下火になりつつあるし、下級生たちに至っては積極的にノゾムに話しかけてくる者もいた。
まだ森でこなす依頼に不安がある下級生達はこぞってノゾムに話を聞きに来るし、エルドルにいたっては時折木刀を持ってきて“お願いします!”とノゾムに打ち合いを申し込んでくる時もあった。
ノゾムとしても自分の知識が役に立つのは嬉しいのか、時間が空いている時は下級生達の質問には丁寧に答えているし、エルドルとも軽く打ち合うくらいはしている。
今では下級生の間でのノゾムの評判はうなぎ上りで、侮蔑や不謹慎な視線を向けてくる者はほとんどいない。
朝寮を出ると心地よく挨拶してくる後輩達に、ノゾムも気が付けば笑顔で返事を返すようになっていた。
いつも蔑まれ続けていたノゾムだが、彼の周囲はここしばらくの間に劇的に変化している。
とはいえ、今後ジハードとの模擬戦が続くのかと思うと、ノゾムとしては瞼の裏に懐かしい光景を思い出してしまい、自然と目頭が熱くなってきてしまうのだ。
「ジハード先生、もう少しまともな人だと思ったんだけどな~」
最近少し印象が変わりつつあるが、ジハードは元々理知的な人物だ。
非常に博識で、ソルミナティ学園やアルカザムの中で大きな権力を持ちながらも、それに溺れない理性と高潔さを併せ持っている。
各国から一目置かれ、尊敬を集めている人物であることは間違いなく、このソルミナティ学園にとっても大黒柱と言える存在だ。
ただ、やはりこの学園で教導や、この都市を纏める議会への窓口としての役目などに追われ、自分の剣を振るう機会が減ったことは間違いない。
ジハードは元々生粋の剣士だ。未熟な学生たちが多く、自らの剣を振るう機会が少ない中、それなりに自分と打ち合えるノゾムの存在が嬉しかったのかもしれない。
今ではジハードは数日置きにノゾムと模擬戦を仕組むようになっていた。
そのおかげで、ノゾムはシノと一緒に修業をしていた時のような命の危険を何度も味わう羽目になっている。
「確かにやりすぎかもしれないが、それだけノゾムを評価しているのだろうな」
「それに、このおかげでノゾムの実力について疑う奴はもういないだろ? 最近はノゾムに罵声を浴びせていた奴らも俺達と目を合わせようとしないし」
繰り返しジハードと模擬戦をしているうちに、ノゾムの実力は確実に学園中に周知されていった。
今ではノゾムの技量について疑う者はいない。
浮気者のろくでなしという噂については賛否両論分かれていることに変わりはないが、今までノゾムを蔑視してきた生徒達の大半はノゾムを避けるようになっていた。
今まで馬鹿にしてきた相手が想像以上の実力者だと分かり、報復を恐れているのだ。
もっともノゾムとしては報復する気はないし、そんな余裕もない。リサやケン、そしてティアマットの事で精一杯で、他を気にしている余裕などそうないからだ。
「ノゾム君、最近どうなの?」
「何が?」
「その……あの龍について。やっぱりまだ……」
「ああ、今日もあの夢を見たよ……」
夢の中でのティアマットとの戦い。機殻竜と戦い、アイリスディーナ達にすべてを告白した時から定期的に起こっているその争いの中で、未だにかの龍は彼を乗っ取ろうと暴れまわっていた。
その度に圧倒され、何度も何度も自分の死を幻視する。
それでも彼はティアマットに精神を食われずに、現実世界で目を覚ますことができていた。
とはいえ、その精神的な負担は決して軽くはなかった。
よく見るとノゾムの眼の下には隈が出来ており、血色もあまりよくない。 正直ノゾムは午前中の授業はあまり集中できず、今でも頭の中に霞がかかるようだった。
ノゾムの顔色の悪さはジハードとの神経を削るような模擬戦も理由ではあるが、ティアマットとの精神の引き合いによるところが大きいのだろう。
“それに最近、あいつの様子が何処かおかしい気がする……”
今まで明確な殺意をもってノゾムを殺そうとしてきたテイアマットだが、最近ノゾムはその様子に変化を感じていた。
いつもと同じ様に怒りを灯した瞳。しかしその奥に何か別の感情が渦巻いているように思えるのだ。
ただ、それが何なのかは、まだノゾムには分からなかった。
考えに耽りながら、ノゾムは再び乾燥した黒パンを頬張る。
「はいトム! 一杯食べてね」
「う、うん……」
ふとノゾムの視界の端に、手に持ったサンドイッチを差し出すミムルの姿が映った。
ぴったりとトムに寄り添い、世話を焼く彼女の姿には普段のお茶目な雰囲気はまるでなく、何処からどう見ても仲睦まじい恋人同士にしか見えない。
しかしなぜだろうか。ミムルが差し出したサンドイッチを見つめるトムの目が泳いでいるのは。
先程から変な様子のトムにノゾムが声を掛けてみる。
「トム? どうかしたのか?」
「い、いや、何でもないよ!?」
言い淀むトムの姿にノゾムは首を傾げる。
何か変な物でもあるのだろうかとミムルのランチボックスを覗き込んでみるが、中には綺麗に切りそろえられたサンドイッチが入っているのみだ。
「随分綺麗に作ってあるな」
「当たり前だよ。トムの為だもん!」
「意外だ……野次馬根性とデバガメの権化にこんな料理スキルがあるなんて」
「……どういう意味よ」
普段の本能一直線の言動と行動からは想像できないほど丁寧に作られたサンドイッチに、ノゾムとマルスは思わず感嘆の声を上げる。
思わず本音が出ていしまったマルスにミムルがジト目で睨んでいるが、彼がそんな言葉を漏らしてしまうのも無理はない。
事実、周りの仲間達は言葉にしないものの、目を見開いて意外そうな表情を浮かべていたのだから。
「確かに意外やけど、匂いもええし、中々美味そうやんか」
最近赤貧生活が続いているせいで碌な食事にありつけていない所為か、フェオが物欲しそうにミムルのサンドイッチを見つめている。
「何、欲しいの? 別にいいけど、お金貰うわよ?」
「金取るんかい!?」
サンドイッチを一切れ取り出して代金を請求するミムルにフェオが声を思わず声を上げるが、彼女は“何言ってんのコイツ?”と言う様に首を傾げている。
どうやら彼女の料理はトム以外にはお高いらしい。
「ま、まあいいじゃないかな? せっかくみんなで食べるんだし、分けてあげてもいいと思うよ?」
「トムがそう言うならいいけど…ほら、感謝しなさいよ」
「おお、さすがトム! 話が分かる!」
不満そうに口を尖らせていたフェオだが、トムの鶴の一声でミムルがサンドイッチを分けてくれた事にすぐに気を良くした。
了承を得たフェオが調子のいい返事を返し、そのままミムルが手に持っていたサンドイッチを掴み捕る。
ちょっとミムルが不満そうに口を尖らせているが、仕方ないかと言う様に溜息を吐くと、手に持ったランチボックスを皆に差し出してきた。
「俺達も貰っていいのか?」
「いいよ。あまり多くないけどね」
多少先程の感想に不満があったとはいえ、料理を褒められたのは素直に嬉しかったのだろう。
ちょっと投げやりな口調とは裏腹に、ミムルの口元には笑みが浮かんでいた。
「それじゃ、いただきま~す」
「折角だし、御馳走になろうかな」
「そ、それじゃ……私はこれを」
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
「え? ちょ……」
ソミアやアイリスディーナ達も気になるのか、ミムルのランチボックスに手を伸ばし、サンドイッチを一切れ摘まむ。
シーナが動揺しているのが気になったが、折角なのだからとノゾムもミムルからサンドイッチを受け取った。
なるほど、サンドイッチに挟まれた肉は厚めで、かなり香辛料が使われているのか、食欲を誘う匂いが鼻に香る。
普段の言動からは想像もつかないが、味の方もかなり期待できそうだ。
「み、皆、食べるの……?」
みんなが一切れずつサンドイッチを受け取った中、シーナだけが彼女のサンドイッチを受け取らなかった。
「あれ、シーナ君はいいのか?」
「え、ええ。私はあまり食べれないから……」
シーナが昼食に持ってきたパンは、まだほんの数口しか食べた形跡がない。細身の彼女の身体付きから考えると、元々小食で、食事の時もゆっくり食べるのだろう。
申し訳なさそうに手を振るシーナ。
そんな彼女の様子を全く気にするそぶりも見せず、フェオはミムルから奪い取ったサンドイッチを頬張った。
「へへ、じゃあ早速……ぐはあああああ!」
「……え?」
次の瞬間、フェオが突然絶叫を上げて地面に倒れ込んだ。土草に顔を埋めてビクンビクンと体を震わせているその光景に、その場にいた全員が言葉を失う。
「ああ、当たっちゃったのね……」
「……シーナ、どういう事?」
額に手を当てて天を仰いでいるシーナに、ノゾムが恐る恐る声を掛ける。
「ミムルは、料理自体は出来るんだけど、時々とんでもない味のものが混ざる時があるの。しかも見た目や香りは普通のものと全く分からないから、実際に確かめるには食べてみるしかなくて……」
「「「…………」」」
シーナの言葉を聞いて呆然としていたノゾムは、恐る恐る自分の手に持ったサンドイッチを確かめてみる。
匂いや挟まれている食材は普通のサンドイッチと変わらないのに、シーナの言葉を聞いたせいで、危険極まりない毒物を掴まされたような気がしてきた。
アイリスディーナ達も眼前でいきなり起きた惨劇に言葉を失っている。
ノゾムの視界の端では、ミムルがいきなり地面に伏したフェオに向かって「いきなり大声上げて倒れるなんて失礼ね!」とか言いながらぷんすか怒っている。どうやらなぜフェオが倒れたのか分かっていないらしい。
「ま、いっか。はいトムの分!」
「あ、ありがとう。う、嬉しいよ……」
だが、倒れ伏したフェオを“ま、いっか”の一言で放置して、ミムルは何事もなかったかのようにぴたりと身を寄せた。
その手に持つのはたった今、ノゾム達の間で劇物指定されたサンドイッチ。
ぴょこぴょことミムルの尻尾がトムの反応を期待するように動いている。キラキラと恋人を見つめる視線は純粋に恋する乙女そのものだ。
「ねえねえ、早く、早く!」
甘えるように猫撫で声を上げながら、ミムルはさらに身を摺り寄せる。
いつもニヤケ顔で周りをおちょくる時とは違う純真な眼差しは、傍から見ても彼女がどれだけ思いを込めてトムの弁当を用意したかが見て取れた。
そんなミムルの様子を見てしまえば、ノゾム達も手に持ったサンドイッチが死にかねない劇物かもしれないと分かっても、もう突き返すことを出来なかった。実際にその純な好意を向けられているトムについては言わずもがな。
ノゾムとアイリスディーナ、トム達の視線が交わる。
サンドイッチを手に持ったノゾム達は固く目を閉じて覚悟を決めると、一斉に齧り付いた。
同時に、食欲を誘う香りとはまるで正反対の、何とも言えない味が口の中に広がる。
それは一言でいえば味覚の爆発。
真っ白いのになぜか塩辛いパンに、野菜は吐き気を覚えるほどのえぐさと渋みを感じる。そして挟まれた肉は舌の上で何故か激烈な甘さと酸味を主張していた。
おおよそ人が感じる味というものを全て凝縮した、正にミラクルと言えるほどのサンドイッチ。一瞬でノゾムの顔が真っ赤になり、次の瞬間蒼白に変化する。
「ノゾム君? ちょっと!?」
真っ白になっていく意識を慌てた様なシーナの声を聴きながら、ノゾムは意識を失った。
相変わらず昼時になると人がごった返し、喧騒に包まれるソルミナティ学園の食堂。
その一角に置かれたテーブルで昼食を取る3人の視線の先には、学園の中庭で倒れたノゾムに寄り添い、慌てふためくアイリスディーナ達の姿があった。
3人の1人、カミラは目の前に置かれた料理を突きながら、隣に佇む親友と級友の姿を横目で覗いてみる。
手に持ったスプーンは下げられたまま、スープは完全に冷めてしまっていた。
「リサ」
「え! な、何!?」
「スープ、冷めているわよ」
「……あ」
呆けている彼女に声を掛けると、慌てたように食事を再開する。
だが冷め切ってしまったスープは美味しくないのか、リサはちょっと顔を顰めていた。
そんなリサの隣では、ケンが同じように食事を取っている。
「リサ、どうかしたのかい?」
「う、ううん……。何でもない……」
ケンの問い掛けに、リサは硬い表情で答えていた。
いつもと同じように笑みを浮かべたその表情。だが最近その笑みを見ると、カミラの胸の奥に違和感が急速に高まってくるようになった。
リサもまた最近浮かべるケンの笑顔に言いようのない違和感と不安感を覚えているのか、彼女の返答もどこかぎこちないものになっている。
ずれた歯車の様にかみ合わないリサとケン。2人の間に沈黙が横たわり、広がる距離はまるで底の見えない渓谷の様に思えた。
カミラは黙ったまま、ジッとギクシャクした会話を続ける2人を眺めていた。
「ねえ、あれ……」
「あ、あの人……」
そんなカミラの耳に、周囲の騒ぎに紛れて聞こえてきた声。
聞こえた方向にカミラが目を向けると、2人の下級生達がリサ達の様子を窺っていた。
「あの人、リサ先輩、だよね。ノゾム先輩の前の彼女……」
「ノゾム先輩が捨てたって人? でもあの噂って結局デマなんでしょ? じゃあやっぱり……」
無遠慮な視線がカミラ達に向けられた。
一度耳に入ってきてしまった言葉は、どうしようもなくカミラを意識させる。それは隣に座っていたリサも同様だった。
彼女達の声にリサが唇を震わせる。下を向いている彼女の顔は前髪に隠れ、その表情を窺うことは出来ない。
下級生達が語っていたのは、最近再びこの学園内で舞い上がっているノゾムとリサの噂。だが今回流れている話は、今までのものとは全く違っていた。
以前はノゾムが浮気してリサを捨てた人非人という話だったが、最近一部の下級生達の間では、これまでの話は全部出鱈目で、恋人だったノゾムに能力抑圧が発現したからリサは見限って捨てたのではないかという話になっていた。
好奇と憶測、そして疑惑と不信。そんな無作法な視線がリサに向けられる。
「……ゴメン、先に戻ってるね」
先程の下級生達の言葉を気にしたリサが黙って手に持っていたスプーンを置き、席を立つ。
その声は傍から見ても明らかに力が無く、弱々しい。
「リサ、僕も行くよ」
「う、ううん大丈夫。ゴメンね……」
傍に寄ろうとするケンを片手で制して、リサは食堂を出て行く。
付添いを断った時の彼女の顔は、どこか作り物めいた笑みだった。
「ッ!!」
リサの姿が見えなくなるとケンは先程リサを眺めてヒソヒソ話をしていた下級生達を睨みつけた。
ケンの全身から発せられる怒気は一瞬で真っ黒な敵意へと昇華され、下級生達に叩きつけられる。
あまりに濃密な威圧感の前に、カミラ達を覗き見ていた下級生達はビクリと体を震わせると、慌てた様子で席を立ち、顔を蒼くしながら食堂を出て行った。
「全く、困ったものだよ。最近の下級生は……」
「ちょっとケン!?」
ここは鍛練場でもなければ人気のない森の中ではない。多くの人が集まる学生食堂だ。
ケンの敵意に反応したのか、今やカミラ達は食堂中の人達の注目を集めている。
いや、敵意というよりも殺気に近かったかもしれない。ピリピリと毛が逆立つような剣呑な雰囲気が食堂に満ち始めていた。
殺気というのは、文字通り相手を殺すという意思だ。
この様な公共の場で殺意を向けるなど、どう考えてもマナー違反どころの話ではない。
事実、周りで食事をしていた他の生徒達も眉を顰め、不快感を露わにしてケンを睨んでいた。
「……ふん」
だがケンは、そんな彼らを一瞥しても後悔や反省をする様子は見られない。
謝ることなど何一つしてないと言う様にケンは鼻を鳴らす。自分のやったことに間違いはないと確信している顔だ。
迷いのない、しかし不安を掻き立てられるその表情が、カミラの胸の渦巻く焦燥感を掻き立ってくる。
「ケン、ちょっとついてきて」
「ん、何だ?」
「いいから!」
自身の焦燥感に掻き立てられるまま席を立ち、ケンについてくるよう促すカミラ。
何やら不思議がっているケンの手を掴み、半ば無理矢理食堂から連れ出す。
あのまま食堂に残っていたら、何を仕出かすか分からない。
そんな不安に駆られるまま、何か言いたそうなケンを無視してカミラは足早に食堂を出て行った。
カミラがケンを連れて行ったのは、にぎやかな喧騒とは無縁の、静まり返った廊下の片隅だった。
窓から差し込む日の光がジリジリと肌を焼く。
人気のないこの場所につくと、カミラは荒々しい口調でケンを非難した。
「一体どういうつもり!? いきなりあんな場所で下級生相手に殺気を向けるなんて!」
確かにあんな醜聞を人前で堂々と話す下級生達にも問題はあるが、それにしてもケンの態度は余りに横暴だった。
しかも、その後の周りに値する不遜な態度も目に余る。全く関係ない人達にまで敵意を向ける必要性は全くない。
唯でさえ今のリサは不安定で、心が揺れ動いているのだ。そんな中で先のケンの態度は余計な反感を買い、リサをさらに追い詰めてしまうかもしれない。
いや、既に最近のケンは、先程の噂を聞いてリサが傷付いたような表情を浮かべる度に怒気を露わにし、周囲から要らぬ不評を買うようになっていた。
そしてケンが周囲に敵意を剥き出しにしたせいで、自分達に向けられる視線が厳しいものになっていくという悪循環もはじまっている。
事実として、ノゾムがその実力を示した後も、リサの味方をしてくれていた同級生達すら、最近は話しかけてこなくなってきていた。
「リサを傷つけたんだから当然の報いだろう」
だが、カミラの言葉を聞いてもケンは聞く耳を持たない。それよりもリサを傷つけた下級生達をさらに敵視し、その端正な顔を歪めている。
そんな態度にカミラは鋭く目を細めてケンを睨みつける。その視線は強い疑いの色に染まっていた。
「あなた、やっぱり最近変よ。以前はそんな風に周囲に当たることなんてしなかったじゃない」
カミラの鋭い視線に、ケンもまたその目を細めた。
だが、すぐに彼は大きく息を吐くと、肩をすくめる。次の瞬間には先程の激情は露程もなくなり、普段通りのケンの姿があった。
「変? 何処がだい? リサを守るには必要だろう?」
「どこがよ……下手に周りに当たり散らせば、皆から不要な怒りを買うことくらいわかるじゃない」
ケンの平坦な口調とは正反対の怒りを押し殺したカミラの声色。
肩を震わせながら、カミラの眼はじっとケンを捉えていた。まるで瞳の奥に隠れる何かを知ろうとするかのように。
あからさまに不審な行動をしているカミラを見ても、ケンは全く表情を変えず、その口元には微笑みすら浮かべている。
普段と変わらない、自分のしている事は何一つ間違っていないというようなその顔に、カミラの胸の奥で怒りの炎が急速に高まってくる。
だが、そんなカミラの苦言に対するケンの答えは、彼女を絶句させるものだった。
「カミラこそ何言っているんだよ? リサを傷つける奴は排除するしかないじゃないか?」
「っ!?」
柔和な笑みを浮かべたその瞳の色は冷たく、平坦な声色は、ケンがその言葉を全く疑っていない事を確信させる。
まるで自分以外の存在はリサ以外いないようなケンの言動に、カミラの背筋には背筋に氷柱が突き刺さったような感覚が襲ってきた。
まるで全身が凍りついたように指一本動かせず、何か言おうにも言葉が出てこない。
「確かにノゾムもそれなりに強くなったみたいだけど、結局リサを守れるのは僕たちだけだろ」
「アンタ……。一体何を……」
虚ろな笑みをさらに深くして、ケンが言い放った言葉にイヤな予感が急速に膨れあがってくる。
そこにいるはずのケンの姿が、まるでガラス越しに見た光景のように現実味を失っていく。
独り言のように語られる言葉は、カミラの耳にはまるで知らない言葉のように聞こえてきた。
カミラの脳裏にノゾムの言葉が浮かぶ。
押し倒され、罵声を浴びせられても決して激高しなかったノゾム。
そして何より、動揺し、狼狽していたリサに向けた言葉はずっと穏やかなものだった。
“俺、ずっと逃げてた。本当にリサの事を考えれば、あの時俺はどんなに罵倒されても、殴られても、リサに声を掛け続けるべきだった”
“俺は君のためになるのではなんていいながら、鍛錬に逃げて君に向き合おうとしなかった。まじめに鍛錬を続けていれば、君はいつかあの噂は違うんだって思ってくれるなんて考えていた。
馬鹿な話だよな。逃げてリサと向き合おうとしなかった俺が、リサに見てもらえるはずなんてないのに……“
ノゾムの言葉がまるで流星のように流れていく。同時にカミラの背筋に全身が凍りつくほどの悪寒が走った。
あの時、ノゾムは確かに自分の浮気を否定した。
“俺は浮気なんてしていない!”という言葉が一気に真実味を帯び、同時に今まで彼女が信じていた事実がまるで紙屑のように薄っぺらなものに変わっていく。
“ノゾムが裏切った”という認識が“裏切ったのはケン”という真実に置き換わり、今まで信じていた事が全てコインの裏表の様に完全に逆転してしまっていた。
「そ、そんな……。じ、じゃあ私は……」
まるで天地が逆転し、闇夜の空に向かって墜ちていくような感覚を前にして、カミラはただ茫然と立ちすくむしかなかった。
我を失ったように立ち竦むカミラを前にして、ケンは親愛の笑みを浮かべている。
「僕はリサを絶対に守る。そのためにもノゾムを排除しないと……。カミラだってそうだろ?」
当然の事に様に言い放つ言葉は、既にどうしようもなく彼女を苛立たせるだけだった。
今まで騙されていたという事実に気付かされ、もはや妄想でしかないケンの言葉を聞かされ、呆けていたカミラの顔が一気に怒りの色に染まっていく。
「っ! アンタ……!」
「そんな顔しなくても君は協力してくれるはずさ。だって僕達は“仲間”だからね」
“仲間”
その言葉がカミラの胸に抜突き刺さる。掴みかかろうとしたカミラの手はまるで凍りついたようにその動きを止めた。
そう、ケンの嘘に踊らされ、ノゾムを叱責して罵倒し、リサを立ち直らせようとしながらも、結果的に彼女の歩みを停滞させた。
そしてカミラがリサとノゾムの仲を修復不能にまでズタズタに引き裂く一助をしてしまったのは紛れもない事実だからだ。その事実がどうしようもなく彼女を責め立て始める。
突きだした手が力無く垂れさがる。
いつの間にか硬く握りしめた手には爪が食い込み、彼女は込み上げる罪悪感に肩を震わせていた。
その時チャイムが鳴った。食事を終えて教室へと戻る生徒達が、2人がいる廊下に見え始める。
「時間だね。そろそろ戻ろうか」
教室の戻ろうと促し、背を向けて歩き始めるケン。全くトーンの変わらない言葉はやはり空々しく、幽霊のようにカミラの耳をすり抜けている。
ケンが歩き始め、教室に戻る生徒達から奇異な目を向けられても、カミラは俯いたまま動けなかった。
その唇は固く噛みしめられ、握りしめられた拳は何時の間にか滲み出た血で真っ赤に染まっている。
まるで彼女の後悔を物語る様に。
薬品の香りが充満する保健室の中で椅子に座り、艶めかしい美脚を惜しげもなくしさらした美女は、目の前のベッドに寝かされた少年を眺めると呆れたように額に手を当てた。
「で、ここに連れてきたわけか……」
保健室の主であるノルンが溜息を吐きながら記録簿にペンを走らせながら、ベッドに寝かされたノゾムとフェオがここに運び込まれた経緯を聞いていた。
ベッドに寝かされているのはノゾムとフェオのみ。どうやらアイリスディーナ達が選んだ物はあの奇跡のサンドイッチではなかったようだ。
アイリスディーナ達の話では、彼女達が食べたサンドイッチは普通に美味しかったらしい。
絶妙な味覚のバランスを実現した奇跡のサンドイッチ。正直作ってみろと言われてもノゾムは到底作れる気がしなかった。
そんな驚異の産物を食せたのだが、生憎満足感というものは微塵も湧き上がらない。
ちなみに、事の元凶である山猫族の少女は、どうしてこうなるんだろうとしきりに首を傾げていた。どうしてそうなったのか聞きたいのは自分達なのだがと、ノゾムは心の中で嘆いている。
「ノルン先生、すみません」
「別に怒っているわけじゃないよ。ただ、私もこんな話で保健室に来た生徒は初めてでね……」
寝かされたノゾムが申し訳なさそうな声を上げる。隣に寝ているフェオは未だに辛いのか、布団をかぶってウンウン唸っている。
ノルンの診断ではとりあえず味覚以外に問題はないらしい。ただ、口の中は完全にマヒしていて舌の感覚もないが。
「まあ、熱が出たわけではないし、暫くすれば大丈夫だろう……多分な」
その言葉にノゾムを含めたその場にいたメンバー達の額に汗が流れる。
別に食べ物が腐っていたというわけでもなく、普段の食材を使って味覚のみで人をノックアウトするという快挙に、ミムルを除いた全員が微妙な表情を浮かべていた。
「ノゾム君とフェオ君は今日のところはもう帰った方がいいだろう。アンリには私から言っておくから、もう寮に戻りなさい。言っておくけど、念の為に絶対安静です」
「わ、分かりました……」
チャイムが鳴ると同時に仲間たちは教室へと戻り、ノゾム達はそのまま寮へと戻り、自分のベッドに横になることになった。
落ち着ける自室の中で眠りに落ちるノゾム。
だがこの数日後、彼は騒音の中で目覚め、そのまま新たな事件に巻き込まれることになる。
そしてそれが、崩壊の始まりだった。
本来なら一節に纏めたかったのですが、リサとケン、カミラのやり取りで四苦八苦し、気が付けば……。
いや、ほんと更新遅れてすみませんでした!