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第6章第17節

お待たせしました。

第6章第17節です。

9月1日、一部修正しました。

 黒い光沢が輝く執務机に、大量の紙束が山脈の様にそびえ立っている。

 そんな書類に山に埋もれるように、1人の大男が背中を丸めて必死にペンを走らせている。

 自らの執務室で、先の模擬戦の後始末に追われているジハードは目の前にうず高く積まれた書類に溜息をもらすと、傍らにいた妙齢の女性に向かってぼそりと呟いた。


「インダ女史、そろそろ終わりだと思うのだが……」


「いいえ、まだです。後は修復工事の計画書と見積書の確認をしていただき、決済が降り次第、すぐに修復工事を開始。その後は確認作業の手間を省くために、工事の監督もしていただきます」


 暖かさなど微塵もない、氷雪の様な宣言がジハードの耳に突き刺さった。

 いつもなら平坦な口調の中にも僅かな温もりを覗かせてくれる女性なのだが、ここ最近の彼女の態度は氷河の様に凍り付いていた。


「……妙に私の仕事増えていないか? 普通なら計画書と見積もりの確認だけで、工事の監督までは……」


 インダ女史の顔色を窺いながら、それとなく抗議してみるジハードだが、彼女は無表情のまま、事務的な言葉を叩きつけてきた。


「念のためです。今回武技園での授業を担当されていたのはジハード殿ですので、その被害の後始末はジハード殿がするのが筋かと。

それに武技園は今後、4学年の生徒達が使う予定でした。授業を滞りなく進めるためにも、素早い作業の完了が必要と考えます。ご安心を、必要な書類は全て武技園に運んでおきますし、仕事のための机も用意しておきます」


 どうやらインダは監督しながら、いつもの仕事もこなせと言っているらしい。

 大人が外に出された机で必死に書類を掻き続ける姿は、間違いなく失笑物だろう。

 効率的な選択をしただけだと言いながらも、インダの宣告はある意味死刑宣告に等しい。こんな姿を生徒に見られでもしたら教師として人生は間違いなく絶望的だ。

 それ以前に男として情けなさすぎて再起不能になりそうだが。


「私は一応君の上司なのだが……」


「ジハード殿、まだ終わっておりませんが?」


 がっくりと肩を落とすジハードに、インダがにべもなく“仕事をしろ”と急かしてくる。

 やれやれと大きくため息をつきながら、ジハードはインダに顔を向けた。

 インダの表情は淡々としていながらも、銀縁の眼鏡の奥に見える切れ目の瞳がキッ! とジハードを睨みつけてきた。やはり先の模擬戦で調子に乗ったことがかなりお冠らしい。

 だがジハードは刺すような視線を向けられながらも、ニヤッと口元を吊り上げて見せる。


「そう怒るな。綺麗な顔が台無しだぞ?」


「別に綺麗と思われたいとは思いません! いいから早く仕事をしてください!」


 茶化してくるジハードにインダが大声を張り上げる。

 そんな彼女の様子を眺めながら、ジハードは心底楽しそうに“ハハハ!”と腹を抱えて笑い始めた。

 豪胆というか、考えなしというか、数日前の模擬戦でその風格を見せつけた人物とは思えない奔放さである。

 だが、突然ジハードはニヤけた顔を引き締めた。

 突然変わったジハードの雰囲気に、インダも何事かと目を見開く。


「それに、今日は急な用事が入ったのだ。少し時間を割かねばならぬ」


「用事? それはどういう……」


 そんな話は聞いていませんが……。とインダが言葉を続けようとした時、執務室の扉がコンコンと叩かれた。

 一体誰がと、戸惑いの色を顔に浮かべたままのインダと違い、ジハードは抑揚のない口調で、扉の奥で待つ人物に入るように促した。

 執務室に入ってきた人物。その姿を認めた時、インダの目が一気に真剣味を帯びたものになる。


「どうも~。お待たせしました~」


 入ってきたのは、インダとは月と太陽の様に正反対に、のんびりと間延びした声の持ち主。陽だまりのような笑顔を浮かべているアンリ・ヴァール。

 そして、彼女の後ろから恐る恐る執務室に入ってきたのは、今学園中の話題になっている人物、ノゾム・バウンティスだった。







 放課後、マルスと一緒にアイリスディーナ達と合流しようとしていたノゾム。この時、彼は内心ウキウキしていた。

 マルスの話では、何でも退院祝いに彼が牛頭亭で夕飯を奢ってくれるらしい。

 今朝の食事は消化の良いスープだけだったし、食べ応えのある物はここ数日食べていない。

 牛頭亭の味は文句ないほど美味いし、苦学生で食べ盛りのノゾムにとっては小躍りしそうな話だった。

 ところが、いざ教室を出ようとした時、ノゾム達はアンリの声で引き止められる。

 彼女はジハードがノゾムに用があると彼らに告げると、ノゾムだけをこの執務室に連れてきた。

 一体何の用だろうと疑問を抱いたノゾムだが、とりあえずマルスにすまないと謝り、正門前で待ってもらった。


「すまないな、急に呼びつけてしまって……」


「いえ、別にそんな事は……」


 質のいいソファーに座り込みながら、互いに向かい合うノゾムとジハード。数日ぶりの邂逅だ。

 背中に体重を預けると、柔らかく、包み込むような感触が返ってくる。

 高いんだろうな~と意味もない感想を抱きながら、ノゾムは改めて姿勢を正してジハードの話に耳を傾けた。


「は、はあ……。それでジハード先生。俺に話があるって聞きましたが?」


「ああ、君がその刀術をどこで習ったのか気になってな……」


 ソルミナティ学園で刀術を教える教師はいない。これはかの国とアークミル大陸との間にほとんど交流がないせいだ。

 これは政治的な理由ではない。東の国とこの大陸との間の海はほとんど一年中荒れており、大型の船舶でも安全な航海を保証できないのだ。

 半年に一度、一ヶ月間ほど海が穏やかになる時があり、その間に細々とした国交を続けているのが現状である。

 しかも、その一ヶ月ですら他の季節に比べて気象、海象が穏やかであるというだけで、決して安全な航海ではないのだ。

 大規模な国交が難しい状況である以上、当然刀術を伝えてくる人間も少ない。

 そんな中で、ノゾムにこれだけの刀術を教え込む人物はどれほどの者だったのか。ジハードが興味を抱くのも尤もであった。

 ノゾムとしても師匠の事を隠しておく必要性は無いので、軽い気持ちでジハードの質問に答え始める。

 ただ、ジハードにはそれ以外にも気になる理由があったのだが。


「シノ、という名のお婆さんです。少し前まで郊外の森に棲んでいました。最近、亡くなりましたけど……」


「ふむ……。シノか……」


 シノの名前を聞いた瞬間、ジハードが眉を顰めて考え込み始めた。

 ノゾムは一体何か気になることでもあるのだろうかと首を傾げながらも、ジハードの言葉をじっと待つ。


「君の師……シノという女性についてだが、東方の出身であることは間違いないのだな?」


「はい、師匠はお家騒動で実家を追い出されてこの大陸に来たと言っていました。80歳くらいでしたから、この大陸に来たのは60年ほど前で、それから人目を忍んでずっと1人で暮らしてきたそうです」


 シノがこの大陸に渡ってきた歳について、ノゾムは詳しくは聞いていない。

 だが、少なくとも婚約などの話があった事を考えれば、女盛りの年齢だったことは予想がつく。

 ノゾムの話に耳を傾けていたジハードは、顎鬚に手を当てながら、時折分かった様に頷いていた。


「ふむ、それで、君の刀は師から受け継いだものか?」


「はい、つい最近、師匠は睡死病で亡くなりました。これはその時託された物です」


 亡くなったという話を聞いて、ジハードの傍らで話を聞いていたインダが目を見開いた。彼女が何を考えているのかは分からないノゾムだが、その瞳の奥には何やら戸惑いの色が覗いているように思える。

 一方、ジハードはノゾムの師の死亡を聞いて一瞬目眉を顰めたものの、その視線はノゾムが差している刀に注がれていた。


「……拝見してもいいかな?」


「はい、構いませんが……」


 自分の愛刀が妙に注目されていることに戸惑いながらも、ノゾムはゆっくりと自分の刀を剣帯から外してジハードに手渡した。

 ジハードは一礼してノゾムの刀を受け取ると、鯉口を切って刃を覗かせる。

 窓から差し込む西日淡く刀身を輝かせている。そのままジハードが刀を引き抜くと、シャリン……と鈴を鳴らしたような音色が、波紋の様に執務室に広がった。

 一見するとなんの変哲もない刃は、まるで誘蛾灯の様に人を惹きつける何かを放っている。

 その威容に思わずインダが息を飲む。目を細めていたジハードも、一層鋭い眼差しをその刃に向けていた。


「……なるほどな。ノゾム君はこの刀の名を知っているか?」


 ジハードは静かに刀を鞘に納めてノゾムに返しながら、おもむろに刀の銘を尋ねてきた。

 ノゾムは傍らに戻しながらも、ゆっくりと首を振る。


「いえ、師匠もこの刀の名を言いませんでしたし、銘も刻まれていませんでした」


「そうか……」


 ノゾムの返答にジハードは一言つぶやくと、考え耽ってしまう。

 口元に皺を寄らせて考え込むその様は、傍から見ても何か事情がありそうな表情だった。


「あの、ジハード先生はこの刀について御存知なのですか?」


 あれほどの実力を持った師の愛刀。

 ノゾム自身も今まで自分が使ってきた2本と比べて、その質がかなり優れたものであることは十分に理解できている。

 だからこそ、この刀に銘が刻まれていない事に疑問を感じもしたが、彼にとっては刀そのものより、そこに籠められた想いの方がはるかに重要だった。

 その為、刀の銘自体は二の次だったのだが、ジハードの様子を窺って見ると、どうやらこの刀には何か歴史があるらしい。


「私は刀については詳しくないから断言できないが、これほどの刀剣で名を持たないとなると、1つしか思いつかない。恐らくこの刀の銘は“無銘”だ」


「無銘? でもそれは……」


 オウム返しの様に呟くノゾムだが、その声には疑問の音色がありありと聞き取れる。

 無銘とは、製作者が名を刻まなかった刀の事だ。名を付けるに値しなかったという意味で、大抵粗悪品が多い。

 だがノゾムの刀は、外見はともかく、その質は明らかに数打ちの物からはかけ離れている。幾らノゾムの技量が優れていたとはいえ、模擬戦の時にジハードの剣撃を受けても全く問題なかったのだから。


「確かに、無銘の刀は総じて出来があまり良くない物が多い。だがこの名は、かの国ではもう一つ、別の意味を持つ」


 今一度ジハードはノゾムの傍らに置かれた刀に目配せすると、ゆっくりと重苦しい口を開いた。


「それは……とある刀匠が作り上げていた系譜の刀であるということだ」


 ジハードの話によると、この刀匠の腕は間違いなく大陸史上でも指折りの名匠だったのだが、彼は酷く人嫌いで偏屈だったらしい。

 彼の考えは、

“この世は常に無常であり、不変のものなど一つもない。金も愛も友情も、時の前には塵芥。ゆえに、姿形も質も変わる刀に名など不要!”

というもので、自分の作った刀もまた時の流れで風化し、この世から消えていく物だからと一切名を刻まなかったらしい。


「彼の作った刀にはこの“無常”の概念が組み込まれているらしくてな。その刀が刻んできた歴史によって性質が変化するらしい」


 刻んできた歴史。つまり、渡ってきた使い手によって、その質は大きく様変わりするそうなのだ。

 炎を操る剣士に渡れば、その刀身は灼熱の溶岩の様に赤く脈打ち、冷徹な指導者の手に渡れば、まるで斬首刀のように冷たい光を放つ。


「だが、そんなものがなくても、刀としての質は間違いなく最高のもので、多くの剣士たちがこの刀を求め、血を流した。そして、その度にこの刀は犠牲者の血を吸い、さらに多くの人達を狂わせていったらしい」


“その刀の性質を変化させる”という特徴によって引き起こされた悪循環。

 そんな事もあり、今ではこの刀匠の“無銘”という系譜の刀は、東の国では危険極まりない妖刀の類として畏怖されているそうだ。

 正直、ノゾムは自分が使っている刀がそんなとんでもない呪刀だとは思いもしなかった。

 確かにかなりの業物だとは感じていたが、そんな呪いを発するような気配は微塵もなかったのだ。


「そんないわくつきの刀を使いこなしたのがシノ・ミカグラ。君の師であり、ミカグラ流の師範代。そして開祖以来の鬼才と謳われていた、刀術の申し子だ。

 彼女は数多くの“無銘”を掻き集め、次々と調伏していったらしい」


「ミカグラ……」


「ん? 君は自分の流派の名を知らなかったのか?」


「え、ええ。師匠からその名を聞いたことはありませんでしたし、私も気にしたことはありませんでした……」


 当時のノゾムに必要だったのは、自分の逃げ場であり、事実から目をそむけるための口実。

 その為にシノの刀術にのめり込んだが、とにかく鍛錬し続けることに逃げていたノゾムには、流派の名よりも刀術の技を学ぶことしか考えていなかった。

 シノ自身も当時はまだノゾムに気を許したわけでもなかったし、家族のことや家の刀術に対してはまだ複雑な思いを抱いていたのかもしれない。

 ノゾムが自分の流派の名を知らなかったことはともかく、ジハードの話ではシノが調伏した“無銘”は今でもミカグラ家が所有しているらしい。

 だがシノが出奔した時に、彼女が特に愛用していた数本が行方不明になっているそうだ。


(もしかして、俺が今まで使っていた刀って……)


 既にその呪いが解かれているとはいえ、かつては東の国で猛威を振るった妖刀を使っていたことに、ノゾムは内心背筋が凍る想いだった。

 そんなノゾムの心の内を知らぬまま、ジハードは話を続けている。


「私は直接の面識はないが、その名はよく知っている。東に住む剣姫。類まれなる刀術の持ち主というだけでなく、その見目麗しさから、こちらでは黒真珠に例えられていたらしい」


「黒真珠……? あの耄碌婆さ……師匠がですが?」


 黒真珠という言葉に、ノゾムが疑わしい表情を浮かべる。

 彼の脳裏に浮かぶのは、子供のような笑顔を浮かべながら、茶菓子を口いっぱいに頬張る老女。そして、背筋が凍るような笑みを浮かべて刀を振り上げている夜叉の姿だった。

 真珠は貞淑とか、純粋とかの暗示や、災い避けとしての力を持つと言われる石だ。

 ノゾムにはどう考えても、暴力や理不尽の権化である師の姿には似合う石だとは思えなかった。

 ちなみに、黒を持つ石は“全ての色を持つ”と言う意味で、特に強い力を持つ石が多い。非常に個性的ともいえる。

 子供のように“純粋”だと考えれば、実の所、あの師匠にはよく似合う石ともいえる。とある弟子に向けた想いも“一途”と言えるだろう。

 もっとも、ノゾムには修行の時にいびられた記憶が強すぎて、中々素直に頷けない話だが。


「ああ、君は師の事については詳しくないのか?」


「ええ、師匠はあまり自分の事を詳しくは話しませんでした」


 ノゾムは他愛のない世間話程度でシノ自身の話は聞いてはいたし、技の習得については厳しく教えられてきたが、彼女が故郷でどんな活躍をしてきたかというのは聞いたことがなかった。

 シノ自身があまり話そうとしなかったこともあるし、当時はノゾム自身が彼女に対して踏み込めなかった部分もある。

 それはシノもまた同じ。

 最後には互いに相手の思いを全身で受け止め合ったものの、互いの人生すべてを語り尽くすにはあまりに時間がなかった。


「そうか……。聞きたい事はとりあえずこれだけだ。すまないな、時間をかけさせてしまって」


「いえ、私も師匠の事が聞けて良かったです」


 これで話すことは終わったのか、ジハードがソファーから身を起こした。それに続くようにノゾムが立ち上がる。


「それでは失礼します」


 ノゾムはジハード達に一礼し、扉の奥へと消えていった。彼に続くように、アンリもまた部屋を出て行く。

 2人を見送った後、ジハードが大きく息を吐きだした。

 天井を見上げながら、深々とソファーに背を預け、納得したように肩の力を抜く。


「なるほど、あの剣姫の直弟子だったのか……。それに、師の刀を受け継いだという事は、もはや刀術については皆伝したと考えるべきだろう」


「そんな……。僅か2年程で皆伝など……」


 腕を組み、納得したような表情を見せるジハードと、いまだに驚きを隠しきれないインダ。

 彼女としても、落ちこぼれだと断じていたノゾム・バウンティスが、かつて遠いこの大陸にもその名が轟いていた剣豪の直弟子だとは思いもしなかった。


「だが、彼の精錬された刀術を考えれば、納得する。剣と刀の違いはあれど、技量は既に私と大差はない。むしろ、気の制御などの一部については私を上回っているだろうな」


「……よろしかったのですか? あの“無銘”といい、彼には不確定な要素が大きすぎます」


 彼の刀である“無銘”。そして彼の流派であるミカグラ流といい、正直このアルカザムには全く存在しなかった要素である。

 しかも、師の刀を受け継いだという事は、シノ・ミカグラは自らの正統な後継者として、彼を認めたという事になる。

 それが学園内、対外的に、いったいどんな反応をするのか?正直全く見当がつかないというのがインダの意見だった。


「それに、この前のキクロプスの件もあります。アビスグリーフの件で反対勢力が騒いでいる今は……」


 インダは不安げな表情を浮かべつつ、重苦しい声を漏らし続けている。

 だが、そんな彼女の苦い表情とは裏腹に、ジハードの表情は杞憂だとでも言うように、落ち着き払ったものだった。


「まあ、デリケートな話が続くのは確かだろう。だが、キクロプスの件は間違いなくノゾム・バウンティスか、シノ・ミカグラだ」


 実際に現場でキクロプスの遺体を確認したジハードは、確信をもってそう答える。

 模擬戦で身を持って体感した、ミカグラ流の気術が持つ殺傷力。

 鋼鉄の盾を難なく切り裂き、粉砕するあの気術なら、キクロプス達の遺体があれほど損壊していたのも納得だった。


「彼が“能力抑圧”持ちであることを考えれば、可能性が高いのはシノ・ミカグラだろうが、どちらにしても反対勢力の者である可能性はほぼ無くなっている。一応確認は必要だろうが、2人共この都市に仇成す理由がないからな」


 能力抑圧によって能力を制限されているノゾムならともかく、あのシノ・ミカグラならあれくらいの敵は難なく屠殺して見せるだろう。ジハードはそう判断した。

 正直、シノ・ミカグラの存在は全く知られていなかったが、彼女は故郷を出奔してから全く表舞台に出ていない。恐らく世捨て人になったという話も本当だろう。

 潜伏するにしては長すぎるし、そうだとしても彼女がこの大陸に来た時期とアルカザムの建設時期は全く違うのだ。

 インダの言うとおり、まったく無警戒でいる訳にはいかないのが、立場と責任を背負わされた人間である。

 しかし、キクロプスの件については、この巨人達を倒した存在が全く不明だったために、過剰な警戒を余儀なくされていた部分はある。

 しかし、相手の存在が知れた今、過剰な警戒をする必要はない。必要なところに必要な分だけ労力を割けばいいのだ。

 そういう意味では、ジハードの心配は軽減されたと言えた。


「それに、彼が模擬戦で善戦してくれたことは、この学園には非常に大きなプラスとなるかもしれん」


 だが、それ以外にもノゾム・バウンティスの存在は、この学園で大きなものになるかもしれない可能性を秘めていた。


「この学園が育成しようとしている、大侵攻に対抗できるための人材の育成。私はここ数年、その道に暗雲が漂い始めていると思う」


 ソルミナティ学園が育成しようとしているのは、絶望的な状況になった際に崩れ落ちそうになった人達を支えられる人間だ。その人間には、周りを敵で埋め尽くされ、四面楚歌な状況になっても、決して下を向かない強力な意志力が必要になる。

 再び起きるかもしれない大侵攻に備え、実力主義を旨として活動を続けてきたジハード達。

 だが、ここ数年の生徒達の質は、この学園が目指していた人間とはかけ離れ始めていた。


「インダ女史も気付いているとは思うが、この学園には、ある種の“ランク思考”に囚われかけている」


 この学園は生徒達の実力ごとに階級という枠組みを当てはめている。

 しかし、ソルミナティ学園が作られてから10年近くが経ち、生徒達がその区分けに囚われるようになってきたのだ。

 その結果、育成されるのは、決まった実力を決まった状況で発揮するだけの存在。

 規格化された戦力というのは、兵士としては戦力配分しやすく、有用なのかもしれないが、“大侵攻という困難を乗り越えられる人材を育成する”という意味では決して適していない。

 だが、今の学園生徒達は自らの階級を寄る辺にしており、そこから脱しようとする意気込みが感じられない。

 つまり、上位の者には敵わないという考えが、刷り込みに近い形で生徒達に蔓延したせいで、結果的に周囲の人達を引っ張るだけの意志力を持つ人間が育成されづらい環境になってしまっているのだ。


「だが、ノゾム・バウンティスの奮戦がその空気を払拭した……そうですね?」


 インダの言葉にジハードは静かに頷く。

 そういう意味では、今回の模擬戦でのノゾム・バウンティスの奮戦は、ジハードにとっては望外の幸運だった。

 10階級で、能力抑圧という枷を嵌められた人間が、その技量と意思力でもって大陸有数の剣豪に迫ったのだ。そのインパクトはこの階級という区分けに凝り固まった思考を打ち壊すには十分な衝撃がある。

 事実、その影響はこの学園に入って日の浅い1学年に既に表れ始めていた。

 それを考えれば、武技園が1週間ばかり使えなくなった程度の事など、些細な事だ。


「……分かりました。ジハード殿の判断に従います」


 難しく考え込んでいたインダだが、最後はしっかりと彼の眼を見据えて頷いてくれた。その様子にジハードの顔もほころぶ。


「後、気にかかるのはあの刀だな。使い手によって変質するあの刀が、どのようになるのか、注視せねばなるまい」


 ジハードの言葉に同意するように、インダが黙って首肯する。

 だが次の言葉を聞いた瞬間、インダの額に冷や汗が浮かんだ。


「ノゾム君には指導の一環として、定期的に私と模擬戦をしてもらおう。そうすれば彼と、彼の刀の様子を探ることも出来る」


「……ええっと。本気ですか?」


 一瞬沈黙してしまったものの、何とか言葉を続けるインダ。

 眉間に指を当てているのは、頭痛がしているからだろうか。


「大丈夫だ、きちんと手加減はするさ。この前のように、彼が病院送りになるような事態にはしないさ」


「そうでなく! いえ、それもそうですが……やるなら森か外縁部でやってください! 毎日起こる爆発騒ぎで管理不行届き、おまけに巻き込まれて被害者続出なんて真っ平ごめんです! もし今度あんな大損害出しましたら、教師総出で学園から締め出しますからね!」


「…………」


 どうやら武技園の事で後始末に追われ、ストレスが溜まっていたインダの堪忍袋の緒が切れたようだ。

 いつもの彼女なら決して向けない罵詈雑言に晒され、ジハードは言葉を失う。

 プリプリ怒ったインダが、追加の書類ですから! と荒々しく執務机に書類の束を積み上げていく。ズンズンと書類の山を積み上げる手に、遠慮とか配慮といった気遣いは一切感じられない。

 処理するたびに追加される増援に耐えきれなくなったのか、ジハードは遂に背を丸めて机に突っ伏してしまう。屹立した書類の山だけが、そんな彼を嘲笑うように見下ろしていた。









 一方、ノゾムとアンリは今し方出てきた扉の向こうでジハードに降りかかった惨状には全く気付かぬまま、その場で別れていた。


「無銘か……。業物とは思っていたけど、何やらいわくつきみたいだな、お前」


 閑散とした廊下を歩きつつ、腰に差した刀の柄をコンコンと叩きながら、ノゾムはそう独りごちた。

 不思議と惹きつけられる刀だと感じていたが、この刀も中々厄介な由来があるらしい。

 とはいっても、何が変わるわけでもない。師が調伏したらしいし、妖刀という気配は感じられない所を考えると、今すぐ何か起こるというわけでもないだろうとノゾムは考えていた。

 何より、ノゾムはこの刀を手放す気にはなれない。

 これ以外の刀はないし、師の想いが詰まった刀だ。たとえ金を天井まで山積みにされても、ノゾムは渡す事はないだろう。


「まあ、気にしても仕方ないけれど。今更お前を手放す気はないし……」


 刀の柄を優しくなでると、ひんやりと心地いい感触が伝わってくる。

 不思議と心休まるその手触り。

 まるでそれが“無銘”の返答であるように思え、ノゾムの口元には自然と笑みが浮かんでいた。


「それにしてもミカグラ流か……」


 正直、ノゾムは自分の刀術がどんな名であるか気にしたことはない。

 今までは自分にとって逃げる場所でしかなかった。

 しかし、その名をしっかりと自分の耳で聞くと妙に気になってくるのだ。

 シノはかつて東の国で有数の名家の出だった。

 いったい、かの国で、この刀術はどんな意味を持っていたのだろうか?

 そんな疑問が沸々と心に湧いてくる。 


「……調べてみようかな?」


 今度図書館で調べてみようかと思いながら、ノゾムは仲間達の元に行こうと、ゆっくりと正門を目指して歩き始める。

 そのまま廊下の角を曲がろうとしたノゾム。だが、曲がり角で彼の視界に、突然真紅のヴェールが広がった。


「……え?」


 ノゾムが呆けたような声を漏らす。

 今彼の目の前に立っているのは、ノゾムが全く予想していなかった人物だった。

 彼女は驚きで固まっているノゾムから目を逸らし、俯いたままその場に立ち尽くしている。

 ノゾムもまた意表を突かれ、完全に思考が止まっていた。

 どうしてここに彼女がいるのだろう。ここは教官達の部屋が集まる棟で、普段生徒達は、用がない限り訪れない区画だ。

 ましてこの階にあるのは教官長であるジハードの執務室。軽い気持ちで訊ねてくる者など皆無だ。

 唖然としているノゾムを余所に、リサ・ハウンズがボソリと消えるような声色で呟く。


「退院、したんだ……」


 そっけない、だが、何処か淡い色を思い浮かべる音色がノゾムの耳に響く。

 その言葉に我に返ったのか、ノゾムは詰まりながらも返事を返す。


「あ、ああ、怪我や衰弱は酷かったけど、アイリス達が素早く手当してくれたからね」


 ノゾムは体のあちこちに巻かれたままの包帯を眺めながら、間を拾うように頭を掻いた。

 目を逸らしていたリサがじっと、無表情のままノゾムを見つめる。

 腕から足へ、そのまま上へと彼女の視線がノゾムの身体を登っていく。まるで彼の身体を確かめるように。


「そう……」


 だが、その口から出た言葉はあまりによそよそしい物だった。

 一切の情動を感じさせないリサと、予想外の出来事で動揺が収まっていないノゾム。互いに無言のまま見つめ合い、ただ時間だけが流れていく。


「…………」


「…………」


 耳鳴りがするほどの静寂と、じっと見つめてくるリサ。そして黙って彼女の視線を受け止めているノゾム。

 やがて埒が明かないと思ったのか、先に口を開いたのはノゾムだった。


「なあリサ、どうしてここに……」


「偶然よ」


 ノゾムが言い切る前に、リサは自分の言葉でノゾムの声を断ち切った。

 以前声を掛けていた時は激しく動揺していたリサだが、今では依然と同じように突き放すような口調だった。

 冷淡な表情を浮べているリサの胸の内は、ノゾムには分からない。

 だがノゾムには、自分を冷たく突き刺してくるリサの瞳の奥が、僅かに揺れているように見えた。


「……そっか」


 ただ一言、そう呟くノゾムの顔には自然と笑みが浮かんでいた。

どんな理由にしろ、リサから声を掛けて来てくれたことが嬉しかったのだ。

 微笑むノゾムを見たリサは、くしゃりと顔を歪めた。同時に彼女から、言いようのない、激情に満ちた視線がノゾムに押し当てられる。

 叩きつけられる感情の塊。

 まるで波立つ波頭のように、崩れては高まる心の起伏を現すようだった。向けられた眼に込められた想いが憤怒なのか、寂寥なのか、哀情なのか、ノゾムには全く判別がつかない。

 ノゾムにとってそれは今の自分とリサとの距離を如実に感じさせる。

 付き合っていた頃、リサの瞳を見れば彼女が何を考えていたのか手に取るように分かった。向けられる笑顔はスッとノゾムの心に入り込んで、気が付けば笑みを返していた。

 だが、今のノゾムには今のリサの考えが分からない。向けられる視線に乗せられた激情を感じても、その思いを読み取ることが出来ない。今までの時間と距離が2人の間には大きく横たわっていた。

 だが、このまま黙っていることもできない。

 チリッとした痛みを胸に感じながらも、ノゾムは口を開く。

 離れて、途切れてしまった関係。ティアマットの言うとおり、既に壊れてしまった自分とリサだが、せめてこれだけは確かめたかった。


「なあリサ、君は今でも夢を追えているのか?」


 どん底に落とされたノゾムが逃避の建前とし、未だに胸の奥に引っ掛かっている事。


“リサが夢を追えること”


 それが、ノゾムがこの街に来た理由。どんなに否定しても否定しきれない始まりの気持ち。

 そう確かめたかったのか、それとも自分がそう信じ込みたいのか。

 ノゾム自身胸の奥にわだかまる気持ちを飲み込み、ジッとリサの答えを待つ。


「……関係ない」


 そんなノゾムの視線から逃げるようにリサは目を逸らすと、そのまま立ち去ろうとする。


「リサ、ちょっと待て」


 まるで逃げるように背を向けてリサに待ったをかけるようにノゾムが手を伸ばす。だがその手はノゾムの背後から不意に掛けられた声に止められた。


「ノゾム、ジハード先生との話は終わったのか?」


 いきなり声を掛けられたことにノゾムが驚き、背後に目をやると、正門前で待っているはずだった仲間達の姿が目に飛び込んできた。

 ノゾムの後ろにアイリスディーナ達の姿を横目で認めたリサが、スッと静かに、逃げるように立ち去っていく。

 アイリスディーナ達に意識を向けていたノゾムが気付いた時には、リサは既に廊下を曲がって見えなくなっており、彼は追いかける機会を逸してしまった。


「ノゾム? どうかしたのか?」


 ノゾムの陰に隠れてリサの姿は見えなかったのだろう。呆然と立ちすくんでいるノゾムをいぶかしみ、アイリスディーナが声を掛ける。


「……さっきまでリサが、いた」


「そうか……。話をしたのか?」


「いや、大した事は話せなかった」


 せっかくの機会を逸した事を惜しんでいるのか、それとも最後に見せたリサの眼が気になっているのか、ノゾムの声は何処かわびしさを感じさせるものだった。


「……すまない、もう少し時間をかければよかったな」


 タイミングが悪い時に声を掛けてしまった事を申し訳なく思っているのか、アイリスディーナの声は若干沈んでいた。

 そんな彼女の言葉を否定するようにノゾムは首を振る。


「いや、アイリスの所為じゃないよ。あの様子だと、俺もリサもたいした話はできなかったと思う」


 今回、本当に久しぶりにリサから声を掛けてくれた。

 だが、その直後に叩きつけられた激情に満ちた視線。リサの中では、ノゾムは未だに自分を裏切った相手なのかもしれない。

 しかし、今の彼女がただノゾムに対して怒りの感情のみであるというわけではないようだ。向けられる憤怒の眼光の中に、それ以外の感情が見え隠れしていたのだから。

 だがそれ以上に重要だったのは、最後にノゾムがリサに掛けた言葉に対する彼女の反応だった。


「それに、分かったこともある」


 明らかにノゾムの問い掛けに答えることを避ける態度と言葉。

 それは以前カミラが言っていた言葉

 

“……リサはあの時からずっと前に進めなくなっちゃったのよ”


 その言葉がノゾムの脳裏に甦る。

 だとしたら今のリサはやっぱり……。


「ノゾム君?」


「あ、ああ。大丈夫」


 シーナがノゾムの顔を覗きこんでくる。

 いきなり目の前に現れたシーナに驚いたノゾムは返答に詰まってしまうが、既にリサの姿は見えないし、例えこれ以上話を聞こうとしても彼女は拒絶するだろう。

 ノゾムの言葉に答えようとしなかった様子からもその事が見て取れる。多分今から追いかけても、多分追いつけない。


「はあ……よし!」


 溜息を吐きながらも、ノゾムは頬を叩いて気持ちを入れ替える。

折角仲間達が退院を祝ってくれるんだ。こんな所で暗い顔をするわけにはいかない。


「さあ、行こう。昨日から味気のない病院食ばっかりだったから、コッテリしたものが喰いたいんだ」


「よっしゃ! マルス、今日は奢ってくれるんやったな?」


 気合を入れ直したノゾムに追従するように、フェオが細い糸目を嬉しそうに曲げてマルスの肩に手を回す。

 何気に“誰に”奢るのかを濁している辺り、彼の意図は欲に濁りきっていることが窺える。


「いや、ノゾムはともかく、あとの奴は割り勘だ。特にお前は他の奴より2割増しな」


 しかしマルスは、そんなフェオの意図を見破っていたのか、言質を取ろうとした彼の言葉を一刀両断にした。


「なんでや! 不公平やんか!?」


「お前が以前叩き壊した店の修理代。まだ返済が終わっていないんだが?」


 ブーブー文句を垂れるフェオに、以前彼が牛頭亭に負わせた損害を正確に突き付ける。

 肩を組んだまま至近距離から向けられる非難の眼を誤魔化すように、フェオが明後日の方向に視線を逸らした。


「……あ、ワイ用事思い出した」


 そのままスッと身を話して離脱しようとするフェオ。

 しかし、あいにく彼は今借金取りと肩を組んでいる。そんな状態で逃げ切れるはずもない。

 即座に襟首をマルスに捕まれて引き戻される。

 そのまま首に腕を回され、ヘッドロックをするように捕縛されてしまった。


「さあ、行こう。今日はフェオが奢ってくれるらしいぞ」


 先程嵌めようとしたお返しとでもいうのだろうか。“誰が”の部分を入れ替えて宣言するマルス。同時に、周りにいた仲間達の眼が光った。


「それじゃ! 遠慮なくゴチになりま~す!」


「なりま~す!」


 最初に声を上げたのはミムルとソミアだった。お嬢様育ちのはずのソミアが妙にノリがいいのは、最近仲良くなった山猫族の影響だろうか。

 純真無垢な彼女に変な影響がなければいいな、とノゾムが考える中、ミムル達に続くようにシーナ、トム達が “よろしく”とフェオの肩を叩いていく。


「ちょ! ワイは一言も言ってないで!」


 次々と無情な宣告を前に、慌てて声を張り上げるフェオだが、周囲の仲間達は全く聞こえているそぶりを見せない。

 それに伴ってフェオの顔がどんどん青くなっていく。最近金欠に悩ませされているフェオだが、どうやら街で生きていくためのデッドラインを割ってしまったようだ。このままでは数日で狐の干し物ができあがってしまうかもしれない。

 追い詰められたフェオが最後の希望を託すように、ノゾムを凝視した。


「ノゾム! お前はワイの味方に……」


「俺、穴ウサギのステーキデラックス版な」


 だが彼の懇願とは裏腹に、無情な言葉が突き刺さる。

 最後の仲間が敵に回ったことで、希望を断たれたフェオが自棄になって暴れるが、力では到底マルスに敵わない。

 連行される罪人のように引き摺られていく狐尾族の青年。

 初めは力の限り抵抗していたが、徐々にその声の勢いは衰え、最後はマジ泣きで懇願してきた。

 その姿といったら、子猫を捨てた時の様な罪悪感を覚えるほどで、これ以上はさすがに哀れと思った仲間達により、支払いは割り勘に戻されることになった。

 ちなみに、懇願するフェオの姿に仔猫のような可愛らしさと愛くるしさは微塵もなかったことは言うまでもない。











 ノゾムが仲間達と下校している時、リサはただ1人、学園の廊下をトボトボと歩いていた。

 薄暗い西日が窓から差し込み、照らされた背中はどこか哀愁を漂わせている。

 生徒達はもうとっくに下校しているのか、廊下には人の気配は感じられない。

 授業が終わり、これからケン達と帰ろうとした時に、彼女の目に飛び込んできたノゾムの姿。

 アンリ先生に連れられながら、数日ぶりに見た彼の姿は、リサに言いようのない激情と焦燥に駆りたたせた。

 ここしばらく覚えていた、胸の奥が詰まるような感覚。そして全身を襲う震え。

 しかし虚脱にも似た悪寒に身を震わせながらも、気が付けばケン達に用事があると断りを入れて、リサはノゾムの後を追っていた。

 彼の後を追うリサの脳裏に甦っていたのは、合同授業の前日にノゾムが語った、2年前のあの噂が全くの出鱈目であるという話だった。

 それを確かめたいのか、それとも否定したいのか。

 自分自身でも何がしたいのかわからないまま彼の後を追い、顔を突き合わせても何もいえないまま時間を浪費し、そして背を向けた。


「リサ」


 不意に声を掛けられ、ゆっくりとリサが振り向くと、そこにいたのは帰ったはずの親友であるカミラの姿だった。

 突然用事があると言いだしたリサをいぶかしんで、探していたのかもしれない。


「ノゾムに、会っていたの?」


 普段、明朗闊達なカミラらしくない、何処か遠慮したような声色。

 彼女もあの夜にノゾムから話を聞いた1人であり、リサの動揺を誰よりもよく理解する人間の1人だ。

 もしかしたら、リサが未だに多少の平静さを保っているのは、彼女のおかげなのかもしれない。


「偶然、会っただけ……」


 リサは、動揺渦巻く心内を悟られまいと、カミラの言葉を否定する。

 だが、その答えは明らかにその場凌ぎだと分かるようなものだった。

 カミラもそんなリサの動揺はよく分かっている。

 特に今日、“彼”が退院したという話を聞くまで、リサは学園に来ても寮にいても、ずっと心ここに在らずだった。

 友人や後輩達が話しかけてもボーとしたままで、ケンやカミラが言葉をかけてようやく気が付く有様だったのだ。

 だから、カミラは突然駆け出したリサの用事が何だったのかに目星はついていた。


「……そう」


 カミラは一言呟くと、リサの隣に並んで歩き始める。

 ノゾムが語った話について、判断しかねているのは彼女も同じ。

 今までは一切の余地もなくノゾムを全ての元凶と決めていた。


“君は今でも夢を追えているのか?”


 しかし、ノゾムから話を聞かされ、アイリスディーナ達の言葉を聞いた今、彼らの言葉はまるで白地の布に垂らした墨のように、ジワリとした疑念を彼女達の心に広げていた。


「……何?」


「ううん、何でもない」


 カミラはここ最近、ノゾムに対する態度が激変したケンに首を傾げていたが、あの合同授業を終えてから彼の様子が、さらに奇妙になってきた事も感じていた。

 普段通りリサに微笑みかけながらも、何処かその笑みに混じり始めた薄暗い影。

 学園ではノゾムとジハードの模擬戦を興奮した様子で下級生達が話しているが、その話を聞いた時、ケンが厳しい視線で下級生達を睨んでいたことがあった。

 リサもまたそんなケンの変貌を敏感に感じ取ったのか、最近はどこかケンに対して肩を震わせる時があった。

 カミラは隣を歩く親友の顔を横目で覗いてみる。


「ねえカミラ……」


「……な、何?」


 前を向いたまま、突然リサが声を掛けてくる。

 考えに耽っていたカミラはやや狼狽を見せながらも、リサの言葉を待つ。

 彼女が何かを伝えようと口を開いた。


「……ううん、何でもない」


 しかし、何も話を切り出せず、リサは押し黙ってしまった。

 カミラも何を話したらいいのか分からず、結局口を閉ざしたまま、2人は歩き続けた。

 黄昏が照らし出す校舎。

 夜の帳が降り始めた廊下の先は、気味が悪いほど薄暗かった。








 闇に包まれかけた廊下の端で、1つの影が立ち去る2人の少女の様子を窺っていた。

 ギリッと硬く噛みしめた奥歯が鳴る。


「っ! ノゾムの奴……」


 押し殺すように吐き出された声は陰鬱で、まるでムカデのようなおぞましさを感じさせる。

 正直、影にとってこの展開は全く予想することなどできなかった。

 完全に潰したと思っていた相手。しばらくすれば失意の後に学園からいなくなると考えていた相手は、何故か今でもこの学園にいる。

 それだけでなく、3学年の中でも容姿、実力、そして内面でも抜きん出たアイリスディーナ・フランシルトやエルフなど、多くの仲間達が集まるようになっていた。

 だが、影を最も動揺させたのは、ジハード・ラウンデルというこの学園でも別格の相手に迫った事実。

 影がノゾムを追い出すそもそもの理由としたのが“ノゾム・バウンティスではリサ・ハウンズを守ることができない”というものだった。

 それを真っ向から否定する内容に、動揺と怒りを隠しきれない。

 影にとって、もはやノゾム・バウンティスの存在はあってはならない存在となっていた。

 なんとかして奴を排除しないといけない。

 そんな考えにいたった影は、ノゾムを排除できそう手段がないかと、考えを巡らせる。

 しかし、既にノゾム本人を追い詰めて自主退学に追い込むことは難しくなっていた。

 アイリスディーナを始めとした3学年の有力者と懇意にしている事や、あの模擬戦を直接目にした下級生達は、あの噂を既に出鱈目の事だと考えている。

 3、4学年は未だに懐疑的だが、何よりリサ自身がノゾムの姿を目で追うようになっていた。


「くそ……」


 既に闇に染まった廊下で、影はただ1人、顔に手を当てて怨嗟の呻き声を上げていた。

 あの時、リサがノゾムを選んだ時から胸の奥で猛り狂っていた嫉妬の炎が、再び影の瞳にどす黒い光を灯す。

 彼は気付かない。大事な人を守るための目的と手段が、既に入れ替わっているということに。

 彼は気付かない。例え剣の腕や魔法の力量を磨いても、その歪んでしまった性根や気持ちは著しく愛しい人から遠ざかっていることに。

 そして彼は閉じきった狭い自分の世界の中で、邪魔者を排除する為の常軌を逸した手段と手に入りもしない幸せを夢想する。

 暗がりで醜く顔を歪めながら、影であるケン・ノーティスはゆっくりと暗闇に消えていった。



う~ん。ミカグラ流の名については第1章で上げてもよかったかな?

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― 新着の感想 ―
[良い点] コミカライズから来ました。 面白く読ませてもらってます。 [気になる点] 「インダ女史も気付いているとは思うが、この学園には、ある種の“ランク思考”に囚われかけている」 むしろこのインダ…
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