第6章第16節
とりあえず、第16節投稿しました。
また、前節である第6章第15節に少々修正を加えてあります。
1シーンのみですが、この節もその影響を少々受けています。
「ん……」
ゆっくりと意識浮上してくる。
ぼんやりと目に映っているのは、最近よく見るようになった保険室……ではなく、薄汚れた木目が目立つ、よく知らない部屋の天井。
「ここは……もしかして病院?」
鼻につくのは消毒液独特の香り。部屋の片隅には消毒液やピンセットと言った器具を入れた手押し車が置いてある。
どうやらノゾムはいつの間にか病院の一室に運び込まれたらしい。
「……夜?」
窓の外に見えるのは寝静まったアルカザムの町並み。
そして空に瞬く星の光が、窓の奥から小さな部屋を照らしていた。
「ノ、ゾム?」
いつからそこにいたのだろう。
囁くような小さな声に導かれるようにノゾムが部屋の入口に目を向けると、そこには手に水桶を持ったアイリスディーナが佇んでいた。
廊下の窓から差し込む月の光が、唯でさえ端麗な彼女の姿をより幻想的に、より艶やかに照らし出している。
「お、おはよう。 いい天気だね……よ、夜だけど」
「…………」
その艶姿に、ノゾムの胸がドクンと高鳴る。
そんな風に早鐘を打つ心臓に対して、彼の口から出たのは取り繕うような言葉だけだった。
「し、しかし、いつの間に夜に……。午後の授業、まだあったんだけど、すっぽかしちゃったな~」
「…………」
間が持たず、恥ずかしそうに頭を掻くノゾム。
一方、アイリスディーナは黙したままじっとノゾムを見つめていた。
全く表情を動かさないまま固まっているアイリス。整った無表情な顔が、凛とした彼女の雰囲気と相まって、妙に迫力のあるものに変わっていく。
「……ところでアイリスさん、なんで黙っているんです?」
なぜか敬語で話しかけてしまうノゾム。呆然とした表情を浮かべていたアイリスディーナの視線は、既にピリピリとした怒気を感じさせるほど厳しいものになっている。
ただ事ではない雰囲気に気圧されたノゾムが恐る恐る窺っていると、アイリスディーナはおもむろに水桶に掛けていたタオルを引っ掴むとノゾムめがけて放り投げてきた。
「うお!」
いきなりの出来事に思わず声を上げたノゾム。
眼前を通り過ぎたタオルに驚いていると、今度は手近にあった消毒液の瓶を振りかぶっているアイリスディーナが視界の端に映った。
「ちょっ! アイリス! 一体何!?」
「うるさい! 人の気も知らないで、何が“おはよう”だ!」
咄嗟に頭を抱えたノゾムの頭上を高速で消毒液が通過する。
壁にぶち当たった瓶が盛大な音を立てて割れ、鼻を突く刺激臭が部屋に満ちていく。
なぜか怒っているアイリスディーナは、あたふたしているノゾムの事などお構いなしに、手当たり次第に近くの物を投げつけてくる。
「危ない! 当たる、当たるって!」
続けて飛んでくるのはガーゼ、ピンセット、包帯等の小物類。
ベッドから動けないノゾムは身を縮めるしかない。
その時、アイリスディーナの後ろから救世主が顔を覗かせた。
「ああ、ノゾム君、目が覚めたのか」
「ノルン先生、アイリスを止めてください!」
救いの手が来たと顔を綻ばせるノゾム。
ノルン先生は未だに物を投げつけているアイリスディーナと、そんな彼女を見て狼狽しているノゾムを交互に眺めると、なぜか大きく溜息を吐いた。
「……さて、私は皆を呼んでくるから、しばらく待っていなさい」
「ちょっ、ノルン先生!?」
いきなり呆れ顔で部屋から去ろうとするノルンにノゾムが目を見開く。
待ってくださいと言う様にノゾムが手を伸ばすが、ノルンは構わず廊下に消えていった。
「せめて、アイリスを止めてください!」
ノゾムが悲痛な声を上げる。
次の瞬間、彼の眼に映ったのは、アイリスディーナが持っていて水桶が中身をぶちまけながら自分に向ってくる光景だった。
しばらくの後、ノゾムは頭から水を滴らせながら仲間達に囲まれていた。
病院に入院している人間とは思えないその姿に、仲間のだれもが口を閉ざしてしまっている。
「あの、何で俺、こんなところにいるんですか? それに……」
微妙な空気が満ちた部屋の中で、最初に口を開いたのは現状を全く理解できないまま、ずぶ濡れにされたノゾムだった。
彼はまだブスッと怒っている様子のアイリスディーナに目を向けるが、彼女はノゾムの視線に気づくとツンとそっぽを向いてしまう。理由は分からないが未だに怒りが治まっていないようだった。
「ジハード先生との模擬戦で気絶したんだ。覚えていないのか?」
「ええっと……ああ、そういえば」
ノルンの言葉に促されるように、ノゾムは模擬戦の事を思い出し始めた。
激突したノゾムの“幻無-閃-”とジハードの“一刀”。
結果から言えば、ノゾムの幻無-閃-は一瞬の拮抗の後、ジハードの顎落しに押しつぶされた。
それも無理はない。能力抑圧下にある状態では気による極強化の効果も減退してしまうのだ。
ノゾムの刀を圧しきったジハードの顎落しは、そのままノゾムの足元の地面に激突。
炸裂した衝撃波で吹き飛ばされながら、ノゾムは意識を失ったのだ。
「おまけにジハード先生は模擬戦中に最後しか本気で剣を振るわなかったと……。全く師匠といい、ジハード先生といい、あのクラスの人達はつくづく出鱈目だ……」
たとえ能力抑圧で本来の威力が発揮できなかったとはいえ、ジハードは自分の持つ最高の技を一方的に押し潰してきた。
そして、最初の“一刀”をワザと外した上、自分の技を真正面から受けきる桁違いの気量と技量、そしてこの学園を実質仕切るだけの政治的な手腕と実績も持ち合わせている。
今更ながら、ジハードのすさまじさにノゾムは嘆息するしかない。
「……貴方がそれを言うのかしら?」
そんなノゾムを見て肩を落とすシーナ達。彼女達からしてみれば、手加減をし、かつノゾムの得意な接近戦に付き合ったとはいえ、相手は10年前の大侵攻で英雄とまで呼ばれている人物なのだ。
そんな人物と、能力抑圧というハンデを持ちながらあそこまで戦える人間がどれほどいるのだろうか。
彼女の顔に張り付いた乾いた笑みが、他の仲間達の思いを物語っている。
そんなシーナ達を尻目に、ノルンがノゾムに声を掛けてきた。
「さてノゾム君、君は自分がどのくらい寝ていたと思う?」
ノゾムがチラリと横目でアイリスディーナを窺うが、彼女はまだ不機嫌そうな顔をしている。
アイリスディーナがどうしてそんなに怒っているのか分からないノゾムだが、とりあえずノルンの質問に答えることにした。
「ええっと、もう夜ですし……半日くらいですか?」
窓から外をみると日が落ちているし、回りも寝静まっていることから真夜中なのは間違いないと考えていたのだが。
「いや、正確には2日と半日だ」
「……は?」
ノルンが付け足した言葉にノゾムは口を半開きにして呆けてしまった。
「それに、体のあちこちに内出血の痕があるだろう? 実の所、君はかなり危ない状態だったんだ」
彼女の言葉にノゾムが自分の腕を見て見ると、あちこちに蒼くなった痣が見て取れた。
ノルンの話では、武技園でのジハードとの模擬戦時に気絶したノゾムはかなり衰弱していたらしい。
浅いとはいえ、全身に負った無数の切り傷。
おまけに体が極端に弱り、そのせいで回復魔法も効き目が薄く、中々傷が塞がらなかった。
思った以上に重傷だったことにノゾムが目を見開いているが、ノルンはかまわず説明を続ける。
「原因は気の過剰使用と極端な身体強化を繰り返したことだ。特に最後の抜刀術が不味かったんだ」
「最後のって……」
“幻無‐閃‐”の事だろうかと首を傾げるノゾムに、ノルンが頷いて答える。
「あの、気の過剰使用で衰弱っていうのは分かるんですけど、身体強化の方は?」
「ノゾム君はジハード先生の“一刀”に一瞬とはいえ拮抗している。これは普通に考えればあり得ない事だ」
そう言いながらノルンは包帯を取り出して一部に魔力を籠めると、その包帯を思いっきり引っ張った。
普通なら千切れてしまうはずの包帯は、伸ばす際にノルンが魔力を一瞬増すことで耐えきっている。
「確かに極端な強化をし、それを動きに完全に連動させれば、少ない力で普通は耐えきれない動きを可能には出来る。しかし、その調和が一瞬でも乱れれば……」
そのまま彼女はグイッと思いっきり包帯を引っ張る。薄い包帯の布は十分な魔力が与えられる前に限界を迎え、バチンと音を立てて弾け飛んだ。
「……こうなる。これは包帯が千切れたが、ノゾム君の場合は極端な気の消費で動きが鈍っていた為に、気と全身の動きの調和が一瞬乱れ、自分自身の身体を傷つけたんだ」
ノルン先生曰く、最悪の場合、全身の筋肉が破断し、骨から内臓まで、何もかもグチャグチャになっていた可能性もあるそうだ。
「そうですね、それは間違いありません。あの技にはそれだけのリスクがありますから……。でも、普段力で圧倒できない俺には、いざという時にはどうしても師匠の技が必要なんです」
「分かっている。“あの力”の事を考えれば、君にその技を使うなとは言えない」
唯でさえ、戦う術の少ないノゾム。
能力抑圧の開放も内に封じられたティアマットを起こしてしまうリスクを考えれば、能力抑圧を解かずとも、使える“奥の手”の存在は必要だ。
それはノルンも理解している。
それでも彼女は悲しそうな笑みを浮かべると、傍にいたアイリスディーナ達に目配せし、優しく言い聞かせるようにノゾムに告げた。
「でも、君が傷ついたら悲しむ人達がいることは覚えておいて欲しい。アイリスディーナ君達は衰弱した君の看病をずっと手伝ってくれたんだから」
「あっ……」
その言葉を聞いたノゾムが、ハッとした表情でアイリスディーナの方に振り向いた。
思い出したのは、先程この部屋に水桶を持ってきてくれていたアイリスディーナの姿。そんなものをここに持ってくる理由など、ノゾムの看病以外にはない。
ようやく彼は、何故アイリスディーナがあんなに怒っていたのかを理解したのだ。
「っていうかノゾム、何であんな無茶したんだ? 無理にあそこまでやりあう必要はなかったんじゃねえか?」
「そうだ! いくらなんでも無茶しすぎだ! 危うく取り返しのつかないことになるかもしれなかったんだぞ!?」
ようやく状況を理解したノゾムにマルスとアイリスディーナが詰め寄ってきた。
マルスはまだ冷静に尋ねているが、アイリスディーナは明らかに激昂している。
彼女が怒っている理由を理解した今となっては、ノゾムはただ頭を下げるしかなかった。
「ゴ、ゴメン、皆。ジハード先生と剣を交えていたら、なんか懐かしくなっちゃってつい……。師匠と鍛錬していたときはあんな感じだったから」
ノゾムの言葉を聞いたアイリスディーナが、まるで顔を付けるようにぐいっと身を乗り出して叱りつけてくる。
「だからと言って、やり過ぎた!」
感情が昂り過ぎているのだろうか。
普段の冷静な彼女からは想像もできない激しい口調にノゾムは目を大きく見開いていた。
他の仲間達もオロオロして狼狽えている。それほど今の彼女の様子は尋常ではなかった。
「あんなに血塗れになって……」
そして昂った彼女の感情が一気に落ち込む。
呆然とした表情で呆けていたノゾムの目に映ったのは、ジワリと潤んだアイリスディーナの瞳だった。
「あ~あ~。泣かせた~~」
「ちょっ!」
ミムルのからかう様な言葉が響き、一瞬慌てるノゾム。
だが、その軽い言葉はすぐに重い沈黙に取って代わられた。
普段から凛とした表情を崩さないアイリスディーナがここまで感情を露わにする所を見れば、彼女がどれだけノゾムを心配していたかはすぐに見て取れる。
「その……ゴメン、アイリス。心配させちゃって……」
「………イヤだ、許さない」
まるで子供の用に拗ねた表情を見せているアイリスディーナ。
辛そうに顔を歪めているアイリスディーナを見て、ノゾムは胸を射抜かれたような痛みを感じた。
「この前だってノゾムは無理したじゃないか……。どうしていつも心配させるんだ……」
「…………」
アイリスディーナの脳裏に浮かんでいたのは、この前ノゾムがティアマットに乗っ取られかけた時の事だった。
あの時もノゾムは重傷を負い、およそ1週間近く寝たきりの生活を余儀なくされた。
その内5日近くノゾムは意識が戻らず、衰弱した彼の身体は、何時その命の灯を消してしまってもおかしくなかった。
そして目覚めた後も、視覚や聴覚などの五感に影響が出ていた。
その時の恐怖がアイリスディーナの心を締め付けていたのだ。
まるで怯える子供のように腕を抱え、瞳を涙で濡らしたまま俯くアイリスディーナ。
ノゾムはそんな彼女の様子に心を痛めながらも、せめて自分の思いはきちんと伝えておこうと考え、ゆっくりと口を開いた。
「……言い訳かもしれないけどさ。俺、ずっと逃げてきただろ? リサ達だけじゃなく、この学園からも」
一言ずつ確かめるように、ノゾムは自分の想いを語っていく。
「あの時、この学園の生徒達が見ていた。もう一度向き合うと決めた以上、あそこで逃げたくなかったんだ」
多くの人が見ている場だった。
今までのノゾムなら周りから向けられる軽蔑の視線や、心無い言葉で自分の殻に閉じこもり、何もできなかった。何もしようとしなかっただろう。
だが、今のノゾムの口から出た言葉はしっかりとした芯を感じさせる言葉だった。
ノゾムは未だに俯いているアイリディーナから目を逸らさず、真正面から見つめている。
「だから、全力でジハード先生にぶつかった。正直、アンリ先生からこの模擬戦の話を聞いた時は驚いたけど……」
今回の発端はアンリ先生が話を持ってきたこと。恐らくジハード先生に話を通したのも彼女だろうとノゾムは考えた。模擬戦の前、いつも以上に彼女が張り切っている姿が印象的だった。
ノゾムがチラリとアンリに目を向けると、彼女は笑みを浮かべてVサインを送ってきた。
年月が重なった噂というのは、いつの間にか独り歩きしていくものだ。
そして確証の無い話は何時の間にか“真実”として認識され、当たり前の話としてまかり通るようになってしまう。
今回の模擬戦はそのこびり付いた偽りを吹き飛ばすための起爆剤となりえる。
全ての噂を払拭することは叶わないだろうが、少なくともあの噂を信じていた者達には大きな衝撃を与えることは出来たはずだ。
初めからアンリは全て分かっていてこんな話を持ちかけてきたのかもしれない。そんな考えがノゾムの頭の片隅に過る。
「だから、この技を惜しみなく使ったんだ。まあ、師匠との手合わせを思い出したという事も大きいけどね。師匠の時もそうだったけど、ジハード先生も俺の気術じゃ傷一つ負っていないわけだし……。だから、ええっと、その……」
「……とりあえず、その頭、拭くわよ」
「えっ? わぷ!」
アイリスディーナの表情を窺う様にしていた彼の頭に、シーナがタオルを投げつけた。
未だにノゾムの頭からは水滴が滴っている。
彼女はそのままタオルでノゾムの頭をグシャグシャと拭きながら、アイリスディーナに視線を向けた。
「そんな拗ねてもしょうがないでしょ。ノゾム君の話では、今回の事は必要だったと思うわ。これからの事を考えればね」
「それは……分っている」
肩をすくめながら話しかけてくるシーナの言葉にアイリスディーナもゆっくりと頷いた。
元々理知的な彼女はノゾムの話を十分に理解している。今の彼がこの学園で再び頑張ろうとする理由も。
「それに、今回はノゾム君が羽目を外してしまっても仕方なかったわよ。思い出の人と一緒にいた頃を思い出してしまったのだから」
その事もアイリスディーナは理解している。ノゾムの師であるシノと同格の剣士との純粋な模擬戦。
普段から学園で気術を使わないようにしてきたノゾムにとって、この学園で初めて思いっきり自分の気術を使える相手だった。彼の師との修練の時と同じように。
師との思い出を楽しそうに話してくれた時のノゾムの表情を思い出せば、彼が羽目を外してしまった事も無理ないのかもしれない。
ただ、理解していても、彼女は無茶をしたノゾムに対して胸が詰まる様な思いを感じてしまうのだ。
「その、心配させてゴメン……」
申し訳なさそうに頭を下げ続けるノゾムを目にして、彼女もまた冷静になってくる。
まだ胸の奥に悶々としたものを感じるが、それでも彼の口からきちんと話を聞けたのか、胸の奥のつかえも幾分和らいでいた。
「……いや、私こそすまない。考えてみれば、学園でのノゾムの評価はほとんど変わっていなかったんだ。それを考えれば、確かに今回の話は有効な話ではある……」
しばしの沈黙の後、アイリスディーナもようやくノゾムに目を向けてくれた。
ノゾムもホッとしたのか、その顔に笑みが戻ってくる。
「アイリス、ありがとう。心配してくれて……」
安堵した様に微笑みを浮かべるノゾムを見て、アイリスディーナの顔が急激に熱を帯びてくる。
キュッと締め付けられていた胸がさらに激しく鼓動を打ち始め、彼女の視線が宙を泳ぎ始める。
「い、いや! き、気にしないでくれ!」
「むっ……」
そんなアイリスディーナの様子を見ていたシーナが眉を顰めた。
内心面白くなさそうな表情を浮かべていた彼女がノゾムの頭を吹いていた手に思いっきり力が入る。
「痛っ、痛たた! シーナ痛い!」
「……ふん!」
ノゾムの苦情を無視してガシガシと彼の頭を拭き終ると、シーナはツンとそっぽを向いてベッドから離れて行った。
何やらミムル達がニヤニヤとした笑みを浮かべているが、シーナがジロリと睨みつけると、慌てて目を逸らしてそそくさと後ろに下がっていく。
「そういえば懐かしいって言っていたけど、今更だが、お前と師匠の打ち合いってあんな感じだったのか?」
話を変えるようにマルスがノゾムに尋ねてくる。
「ん~。あそこまで極端なことはしなかったけどね。幻無とかはギリギリ避けれるくらいの精度で放ってくることはあったよ。破振打ちとかは死なない程度に手加減はしてくれるくらい?」
とりあえず、師匠との涙が滲むような思い出を語っていくノゾム。段々皆の頬が引き攣ってくる様子を眺めながら、彼は苦笑を浮かべていた。
「それに、確かに顎落しは使っていたけれど、ジハード先生も手加減はキチンとしてくれたよ。打ち合っている時もこちらの様子を窺いながら剣を振るっていたし、あのバカでっかい気刃も直接当ててこなかったし……」
「そう言うレベルの問題か!?」
マルスのツッコミも尤もである。
ノゾムは知らない事だが、ジハードの“一刀”の所為で、今現在武技園に設置された魔法障壁に問題が発生し、アリーナは使用不能になっている。
一週間ほどで復旧できるそうだが、それでも模擬戦で放っていいレベルの攻撃でない事は明らかだ。
いくら当てないようにしていたからと言って、それを“手加減”と言い切る生徒は少なくともこの学園にはいないだろう。
「まあ、師匠クラスと模擬戦しようと思ったらそのくらい覚悟しないといけないんじゃないかな? 多分だけど……」
「…………」
そんなノゾムの言葉に絶句するアイリスディーナ達。
改めて彼女達は、今回の模擬戦が異常を極めた原因を認識した。
「じゃあ、今日はみんなそろそろ戻りなさい。ノゾム君は今日の朝まで、私が看ているから」
「分かりました。ノルン先生、お願いします」
ノゾムが目覚め、身体に問題がないことも確認されたので集まっていた仲間達はそれぞれ帰路につき、唯一ノルンだけがこの部屋に残り、ノゾムの様子を観ることになった。
「でも、一昨日の事でこれから、ノゾム君の周囲は随分変わるだろうな……」
「え?」
みんなが帰った後、残ったノルンがぼそりと呟いた言葉にノゾムが首を傾げる。
「なんでノゾム君が不思議がるんだ?」
「いや、あの噂ってまだ完全には払拭しきっていませんよね?」
“ノゾムが弱い”という事は今回の模擬戦で打ち砕くことが出来たとは思うのだが、問題はリサを裏切った最低野郎という方だ。こちらに関しては今回の模擬戦で何の影響もないとノゾムは考えていた。
「それは君が……。まあ、学園の様子を聞いていないなら無理もないのか……」
意味ありげな言葉を呟くとノルンはじっとノゾムを見つめ始める。
「な、何ですか……?」
背中が痒くなるような視線を受けて、ノゾムがたじろいだ様子を見せる。
「まあ、百聞は一見にしかず、だな。明日学園に行けば分かるさ」
「……はあ?」
さらに気になる発言を残すと、ノゾムが尋ねる間も無くノルンは部屋を出て行く。
おそらく寝具を借りに行ったのだろうが、訳が分からないノゾムはただ唖然とした表情でノルンが消えた扉を眺めるだけだった。
翌日の朝、念のために簡単な診察を受けたノゾムは、日が高くなり始めたぐらいの頃に学園へ登校した。
今はおそらく午前の授業の真っ最中。
ノゾムの頭の中に昨日ノルン先生が言っていた意味深な言葉が過ぎっていたが、とりあえず彼は教室に向かった。
既に授業中である所為か、学園の廊下には人通りがなく、ノゾムの足音だけがだだっ広い廊下に木霊していく。
ふと、ノゾムが窓の外に目を向けると、1学年の生徒たちが基礎訓練に勤しんでいた。
木剣を持って素振りをしたり、武器の扱い方を教えられているその姿は、2年前のノゾム達の姿そのものだ。
彼自身、故郷では特訓と称して木剣を振り回していたが、きちんと扱い方を習ったのはここが最初だった。
もっとも、彼自身剣よりも刀の方が遥かに適正が高く、今はこうして剣ではなく刀を振るっているのだが。
「あれ? エルドル君か?」
よく見ると剣を振るう生徒達の中にはエルドル達の姿もある。たぶんこのクラスは1学年の1階級なのだろう。
そのとき、学園中に休憩時間を告げる鐘が鳴った。
あちこちの教室から生徒たちが「さっきの授業分かった?」とか「ううん。全然!」とか、思い思いの言葉を交わしながら出てくる。
ノゾムが今いるのは1学年の教室の近くだ。このまま2学年の教室を通り過ぎて、3学年の区画まで行くつもりだったのだが、その時、ノゾムは教室から出てきた一人の生徒と目が合った。
「あっ……」
「ん?」
ハッとした表情でノゾムを見つめる女子生徒。
面識のない少女の妙な反応にノゾムは首を傾げる。
さらに近くにいた1学年の生徒達が、彼女の視線に気づいてノゾムのほうを見ると、彼女達も先程の女子生徒と同じように目を見開いた。
はじめは自分の噂を知っているからの反応なのだろうかと考えたが、彼女達の視線にはそんな話をするときのような、蔑みとか嘲りなどの負の感情が感じられない。
一体何だろうかとノゾムが首を傾げていると、1人の下級生がおずおずと前に進み出てきた。
「あ、あの。ノゾム・バウンティス先輩、ですよね……?」
「あ、ああ、そうだけど」
恐る恐るといった雰囲気でノゾムに話しかけてくる下級生に、ノゾムも返答も何処かぎこちないものになってしまう。
目の前の少女は何やらモジモジしながら、ノゾムの様子を窺う様に言葉を続けた。
「その、ちょっとお聞きしたい事があるんですけど、“能力抑圧”持ちだって聞いていたんですけど、本当なんですか……?」
「ああ、そうだけど……」
緊張して身構えていたせいなのか、ノゾムの返答もどこかぎくしゃくしている。
そんなノゾムの様子とは裏腹に、彼の返答を聞いた目の前の少女は、突然満面の笑顔を浮かべて、ズイッと身を乗り出してきた。
少女の瞳にはキラキラとした憧憬の光が輝いている。
「あ、あの! この前の模擬戦、見ていました!」
「そ、そう……」
何やら妙に力を籠めて告げられた言葉に、ノゾムは思わず腰が引けてしまう。
一方、何故か興奮した少女はそんなノゾムの様子に気付かぬまま、堰を切った様にしゃべり続けていた。
「すごく感動しました! 能力抑圧で満足に動けないのにあのジハード先生と渡り合うなんて!」
「いや、別に渡り合ったわけじゃ……」
変なところで感覚がずれているノゾムは手加減されて一方的に蹂躙されたと考えているのだが、目の前の少女は正常な感覚を持ち合わせた一般生徒である。
英雄とまで呼ばれたジハードに巨剣“顎落し”を抜かせたノゾム。
憧れで脚色された部分も相まって、彼女にはノゾムはジハードの匹敵する実力者に映っていた。
「私、この入学は出来たんですけど、それから中々思う様に行かなくて……。魔法も気術も私よりずっと上手い人ばかりで……」
突然落ち込んだ表情を見せる少女。
確かにこの学園は大陸中から多くの才能ある生徒達を集めている。故郷では神童ともてはやされても、ここに来たら自分より才のある者の方がいて、次第に埋没してしまう者も少なくない。
この少女もそんな人間の1人かもしれない。
だが、少女の落ち込んだ表情は一転し、再び熱の篭もった目でノゾムを見つめてくる。
「でも! あの時のノゾム先輩の姿を見て分かったんです! たとえ力で勝てなくても、出来ることは一杯あるんだって! 私、才能あまりありませんし! クラスも10階級ですけど、“それが何だ!”って思えるようになりました!」
「そ、そうなんだ……」
ノゾムの力無い返答は目の前で熱弁する下級生の耳には全く入っていない。
戸惑うノゾムを置き去りにして、少女は更にヒートアップしていく。少女が感極まった様子で、いきなりノゾムの手を取ったのだ。
「はあ!?」
「私、ノゾム先輩の事、応援しています! 頑張ってください!」
「あ、ありがとう……」
手を離し、ぺこりとお時期をすると、少女は一目散に友達の所に戻っていく。
戻ってきた少女を歓迎した仲間達が何やらキャーキャーと騒いでいるが、ノゾムは全く状況について行けずに呆然とするだけだった。
「あ、あれ? なんか変だな……」
自分の予想と違う周囲の反応に戸惑うノゾム。
そんな時、遠くから彼を呼ぶ声が聞こえてきた。
「やあ、ノゾム君。どうだい?」
話しかけてきたのは、今朝一足早く学園に来ていたノルン先生だった。
彼女は片手を上げながら、何やら含みのある笑みを浮かべてノゾムに近寄ってくる。
「ノルン先生、これってどういう事ですか?」
「君が入院している間、学園中、特にあの模擬戦を直に見ていた下級生の間では君の話でもちきりでね。君の事について色々と聞かれたんだよ」
驚いたノゾムが周囲を見渡してみると、教室の中や廊下の影からこちらを窺う多くの下級生たちの姿が見えた。
「当然あの噂についても聞かれたからね。尋ねられる度にあの噂は出鱈目で、根も葉もないものだと言っておいたんだ。
特に下級生たちはあの噂を聞いてから日が浅いからね。君が頑張ってジハード先生といい勝負をしたから、“あの噂はノゾム君には関係ない”と一言いうだけで納得してくれたよ」
自分が寝ている間に起こっていた出来事に、ノゾムは目を見開く。
だが、次にノルンが口にした言葉に、彼は完全に言葉を失った。
「何より大きかったのはアイリスディーナ君の姿だな」
「え?」
「君が倒れた直後、アイリスディーナ君達はいの一番に君に駆け寄り、必死に君を助けようと心を砕いた。そして、その後も必死に君の看病をしていた」
ノルン曰く、誰もが憧れていた存在であり、教師からも一目置かれている アイリスディーナ達。そんな彼女達が必死になって助けようとするその姿が下級生達の心に響いたらしい。
「さらに言うなら、君はこの前エルドル君達を助けていただろう? 彼らがその時の話を周りにいた同級生たちにしていたことも大きかった。実際に助けられた人の話を身近に聞いて、君は噂で言われているような冷血漢でないと、みんな気づいたんだよ」
「そうだったんですか……」
アイリスディーナ達やノルン先生達、そしてエルドル達から聞いた生のノゾムの姿。それらが下級生達から、刷り込まれたノゾムの虚像を拭い去ったのだ。
だが、先程まで微笑んでいたノルンが、突然表情を曇らせた。
「ただ、あの噂が流れ始めた頃から在籍している3、4学年生についてはまだ懐疑的なところがあるけど……」
「いいですよ、今までの事を考えれば十分です」
入学したての1学年生や噂が流れた当時を知らない2学年生はともかく、 あの噂を長く耳にしていた生徒達については、そのデマを完全に払拭することは出来ていないらしい。
確かにノゾムとジハードが模擬戦をしてから数日しか経っていない。数年間信じてきた話を覆すには、まだ時間が足りないのだろう。
だが、ノゾムにとってはここ数日での出来事は、まさに寝耳に水だった。
もちろん、問題が完全に解決したわけではない。
しかし、今まで先が全く見えていなかった道の先が一気に開けてきたように思えた。
「そう、十分すぎるよ……」
奮闘してくれた仲間達の姿を思い浮かべる。心に満ちているのは今までにないほどの充足感。彼の口元に自然と笑みが浮かぶ。
再び心配させてしまったことは申し訳なかったが、それでもノゾムは満ち足りた気持ちだった。
「それじゃ、私は保健室に戻るよ。ノゾム君も早く教室に行くといい。クラスの皆も心配していたからね」
「はい、ありがとうございました」
ノルンが踵を返して去っていく。
ノゾムは深々と感謝の気持ちを言葉にしながら、彼女を見送っている。
日常に戻っていくノルンの後ろ姿。それを見つめる彼の目には微笑む仲間達の姿が映っていた。
賑わいを見せるアルカザムの街。商業区を初めとして、街中を多くの人達が行き交い、日々の生活を営んで命を育んでいる。
そんな中、アルカザムの憲兵達は交代で一日中休みなく、見回りを行い、街の保安に努めていた。
憲兵は基本的に不測の事態を想定して、二人一組で行動している。
そして今も天に昇った太陽が照らす石畳の道を歩いている一組の憲兵達がいた。
「おい、本当に大丈夫なのか? 怪我も治ったばかりなんだしよ……」
「ありがうございます、先輩。でも問題ないですよ。すぐに傷は塞がりましたし、医者からも普段通りの生活にもどっていいって言われています」
そう言いながら自分の肩に手をあえる青年の憲兵。彼はこの前、グローアウルム機関で行われたアビスグリーフの実験に動員され、そして肩を負傷した憲兵だった。
髭を生やした先輩の憲兵が後輩を心配そうな目で見つめている。
負った傷もそうだが、相手が普通の魔獣ではなかったのだ。医者からは問題ないと言われていたとはいえ、不安が消える訳ではなかった。
「本当に大丈夫ですよ」
念を押すように笑みを浮かべて見せる青年。まだ眉を顰めていた先輩の憲兵だが、その笑顔を見てようやく引き下がった。
「ならいいけど……、無理すんなよ。結婚前に倒れましたなんて言ったらシャレにならないからな」
「ええ。変に怪我して心配させちゃうと、怒ってしばらく口を利いてくれなくなっちゃうんです。一度怒るとなかなか機嫌直してくれないんで……」
実はこの青年、少し前に恋人に結婚を申し込んでいた。
一方、先輩の憲兵には妻がいたが夫婦仲は冷え込んでいる……いわゆる倦怠期だった。
青年は自分の肩を今一度撫でてみる。
黒い魔獣に噛みつかれた箇所に痛みはないが、傷の痕はまた少し熱をもっているが、それでも日常生活には問題ないし、すぐに収まるだろうと考えていた。
「あ~、はいはい。ご馳走様。かあ~! やってらんねえぜ! こっちの母ちゃんはワイン樽みたいで可愛げなんて微塵もないってのに……」
軽い口調で肩をすくめている先輩を眺めながら、青年は苦笑を浮かべている。
心配してくれる先輩に感謝の言葉を述べながらも、2人は夜のアルカザムの見回りを続けていった。
しかし、青年は気付かなかった。
未だに熱を帯びている傷口。その奥で何かがトクンという小さな鼓動を打ち始めたことに。
とりあえず、今回は一言だけ。リア充爆発しろ!!