第6章第11節
6月1日に修正と加筆を行いました。
「くそ、ノゾムのやつ!!」
ノゾムに対する悪態をつきながら、ケンは必死にリサの後を追いかけていた。
こんなはずじゃなかった。
あの時、自分を問い詰めてきたノゾムに真実を告げ、動揺しているうちに叩き潰せば二度と彼は立ち上がれないと思っていた。
ところが彼は再びリサに詰め寄ってきた。後ろにはこの学年でリサと双璧を成している才媛、アイリスディーナ・フランシルトの姿があった
彼女がノゾムを気に掛けているという噂は聞いていたが……。
そういえば、最近リサの様子が少しずつ変化していたような気がする。それをはっきりと感じたのは特総演習の後だっただろうか?その時も、リサの近くにノゾムがいた事を思い出す。
どこまでも邪魔をする奴……。
胸の奥から沸き立つ焦燥感とノゾムに対する憎悪に、醜く顔が歪む。
とにかく、今は何とかしてリサを落ち着けないと。
そんな焦りに突き動かされるまま足を進めていたケンだが、一瞬視界がボヤけ、周りの景色が歪んだように見えた。
「なんだ!?」
目を擦るケン。だが周りの景色に変わった様子はない。
気のせいだろうか?
突然襲ってきた不可解な感覚に足を止めていたケンだが、走り去っていくリサの背中に気づき、慌てて追跡を再開する。
「っ! 急がないと……!」
息を切らせ、必死に後を追いかけ続けるケン。その胸の奥には2年前と似た恐れが湧き上がっていた。リサがいなくなってしまうかもしれないという恐怖感が。
だがこの日、彼はリサに追いつくことができなかった。追いかけた先で忽然と彼女の姿が消えてしまったのだから。
街に立ち並ぶ家々の屋根の上で、紅髪の少女を追いかける金髪の青年の姿を眺めている老人がいた。
「なるほどのう。あの小僧の悩みの根源はあの嬢ちゃん達か……。じゃが、まずいのう。まだ準備ができておらぬのに奴を刺激されるのは……」
ゾンネの声が夜の闇に消えていく。
白い顎ひげをなでていたゾンネだが、ふと悔いるように顔を歪めた。
「いや、ワシにも責任があるかのう……」
ゾンネが思い出したのは、先程ノゾムに行った占った時の事。
あの時、ゾンネはノゾムに対してある干渉を行っていた。
その目的は今のノゾム・バウンティスの状態を正確に把握すること。
龍の力と魂を宿した彼自身が今現在どんな状態にあるのか。それを探るためにノゾム・バウンティスの本質である彼の魂を調べようとしたのだ。
これは普通に考えれば荒唐無稽な話だ。
魂の構造は複雑極まりなく、かつ繊細なものだ。ましてノゾムのような異物を内包した魂などは特に。
その構造を完全に把握できた者など存在せず、下手に手を出せばどんな結果を引き起こすかわからない。
たとえ一国の王に仕える魔法使いとて、魂に関する術はどれも極めて難度の高いものなのだ。
「しかし、よく分らんのう。何でワシの術が弾かれたのか……」
しかし、ゾンネの顔に浮かんでいるのはなぜ自分の術が効かなかったのかということであり、失敗した可能性はないと確信している。
「それでも、あの小僧の魂が変質し始めているのは確かじゃな。問題はそれがどのように変化するかなのじゃが……」
以前森で機殻竜をけしかけた時に感じた彼の変質。それが関係しているのではと思い、占いと称して探ろうとしたが、なぜか彼の魂を読み取ることができなかった。
干渉する魔力を強めて探ることで僅かだが今の彼の状態について知ることができたが、逆にノゾムの内にいるかの龍を刺激してしまうことになってしまう。
幸いなことに暴走はしなかったが、彼の気配が一気に変質したときは、正直冷や汗が流れた。
「……とにかく、あの金髪小僧にはちょっと大人しくしていて貰おうかの……」
とにかく、今のノゾムの状態を考えれば、あの金髪小僧に間に入られるのは不味い。
そう考え、ゾンネはピッと指で宙をきる。同時にゾンネの眼前に魔法陣が出現した。
光で作られた陣が弾けるように空中に四散すると、リサを追っていたケンの周囲が歪む。
すると、リサを追っていたはずのケンがあさっての方向に走り始めた。どうやらこの爺さんがケンの周りに幻覚を施したようだ。
そのままリサから離れていくケンを見届けると、今度は昼間出かけていた森に視線を向けた。
「取りあえずこれで良い。後は小僧達次第かのう……。さて、わしは本当の用事を終らせんといかんか。やれやれ、小僧に見つからなかったら今頃終っていたのじゃが……」
大きく息を吐きながらつぶやくゾンネ。
だがすぐさま表情を改め、厳しい視線を森に向ける。その目は普段のエロ爺とは思えないほど緊張感に満ちていた。
「やはり鍵はあの小僧か……」
先程確かめたノゾムの変質。分かったのは彼自身が今だに変質の途上であるという事だけだった。どのような形で彼が変わっていくのかは未だに分からないが……。
ゾンネは空を見上げる。
空に浮かぶ月や星は相変わらずそのままの姿で輝いている。その変わらぬ姿に、ゾンネはどうしようもなく胸を打たれていた。
だがその胸中は誰にも分からない。大きく吐き出される息が風に呑まれて消えていく。
「それにしても……うう、リグリーナリア。何で居なくなってしまったんじゃ……」
だが、次の瞬間には失われた春画を思い出してボロボロと涙を流し始めた。その姿は彼女に振られた後のようだ。完全に気力やら精神力が底をついている。
ガクッと肩を落とし、先程の緊張感を台無しにしながら老人はトボトボと森に向かって歩き始める。
奇妙な老人の後ろ姿を、屋根の隙間で眠っていた鳥達が首を傾げていた。
ノゾムとカミラ達はリサを追い掛けて、ひたすらに夜の街を走り続けていた。心臓が早鐘を打ち、息が詰まりそうになる。
それでもノゾム達は必死に足を動かしていた。
ノゾムの脳裏には、先程大声を上げて走り去ったときのリサの様子が過ぎっている。
声を掛けた自分を拒絶した彼女。しかしノゾムには、先程の彼女の姿がどことなく師と出会う前の自分に重なって見えた。
ただひたすらに目の前の事実に背中を向けていた自分。そして目を背けている事すら気付こうとしなかった頃とそっくりだ。
その事実にハッキリと気付いた時、ノゾムは自分が今のリサをまるで知らないことを思い出した。
ノゾムは足を動かし続けながらも、隣を走るカミラに声を掛ける。
「ハア、ハア……。カミラ、教えてくれ。リサはこの2年間、どんなだったんだ!?」
「っ! アンタ、今更! リサを裏切ったくせに今更何を……!」
「俺は浮気なんてやっていない!!」
カミラの声に重なるように、ノゾムの叫びが木霊した。
体を散々動かしているせいで興奮しているのか、ノゾムは今まで自分の内にずっと飲み込み続けていた言葉が自然と口から出ていた。
だが、その言葉が逆にカミラの逆鱗に触れてしまう。ずっとノゾムに裏切られた傷を引きずっていたリサの姿を、彼女はずっと目の当たりにしてきたのだ。
そんなカミラにとって、今のノゾムの言葉は到底許容できるものではなかった。
「ふざけないで! だったら何でリサがあんなに傷付いていたのよ! 禄に食事も出来なくなって、ずっと部屋で俯きっぱなしで! 今でもそれを引きずっているのに!」
怒りの炎を瞳に点し、先程よりも強い口調でカミラが声を荒げる。まるで今のノゾムの言葉を塗りつぶすように。
だが、ノゾムは彼女の怒気に怯むことなく言葉を続けた。
「……俺に責任がないなんて言えない。ずっと目を背け続けたことは事実だよ。ずっとリサを傷つけ続けたことも。
でも俺はリサと一緒にいた時、彼女以外の女性と一緒にいる事なんて、考えたこともなかった!」
自分の怒声を浴びても主張を変えないノゾムに、カミラの頭の中で何かが切れるような音がした。
隣にいるノゾムに掴み掛かり、そのまま力任せに石畳の上に押し倒す。
「っう!」
背中に走る衝撃と痛みにノゾムが顔をしかめるが、怒り心頭のカミラはそんなノゾムの事など知ったことではない。
手を振り上げたカミラ。そのままノゾム目掛けてその手を振り抜こうとするが……。
「カミラ君、やめるんだ」
カミラが振り上げた手を、後ろにいたアイリスディーナがしっかりと掴んでいた。
しばしの間、静寂が3人の間に流れる。
まるでカミラを落ち着かせるように間を取った上で、アイリスディーナはゆっくりと口を開いた。
「カミラ君、彼は君が考えているようなことはやっていない。少なくとも私はそう思う」
「何それ! そんな理由……」
カミラの怒りは、今度はノゾムを弁護するアイリスディーナに向けられた。
アイリスディーナの言葉を一蹴しようとするカミラ。しかし、アイリスディーナは彼女の言葉を待たずにこの問題の核心に切り込んできた。
「では聞くが、君がノゾムの浮気を断定した理由は?」
「リサが見ていたからよ! 目の前で、自分が好きだった人が自分を裏切っている姿! そしてその後の憔悴しきったリサの顔を! その時のリサの気持ちが分かる!?」
「ではリサ君が見たのは本当にノゾムだったのか? 人の顔を偽装する技術の可能性は? 似た顔を持つ別人だったということも考えられる」
「それは……!」
怒りの感情に流されるままに声を上げるカミラだが、そんな彼女の姿を見てもアイリスディーナも目は至極冷ややかなままだ。
「何が言いたいのよ!?」
冷静なアイリスディーナの態度が激高していたカミラの心に水を差す。
「つまり、リサ君が嵌められたとは考えなかったのか? ここにいるノゾムも。そしてもしその過程が成立するとなると、一番得をする人間は誰だ?」
「まさか! そんな事……」
ありえない。そう言おうとしたカミラの言葉は、なぜか彼女の喉元で留まった。
そういえば最近、“彼”の様子がおかしくなかったか?
いつもと変わらないように見えるが、何処か違和感を覚えていた笑み。ノゾムの事を庇う事が多かったが、一転して拒絶に走り始めた言動。
そんなケンの態度に、カミラはなんとなく自制を失っているような雰囲気を感じていた。
アイリスディーナに続くように、3人の後ろにいたフェオも口を開く。
「せやな、ワイもアイリスディーナの意見に賛成や。この2年間で当たり前なんて思っとったけど、今考えればあの噂が流れてからノゾムが扱き下ろされるまでがあまりに不自然や。大体、ノゾムはそんな器用な事が出来る人間やあらへん。そもそも浮気が出来るようなら本人もこんなに悩んだりせんやろ?」
ちょっと酷いことを言いながら、フェオが肩をすくめている。
確かに、ノゾムが器用で、女に緩い人間なら、ここまでノゾムはリサに執着しないだろう。この学園に残る理由もなく、アルカザムを去っていたはずだ。
「……じゃあ、もしそれが真実だったとして! 何でこいつは今まで何も言わなかったのよ。リサが大事だって言うなら! 無実だって言うなら自分から言うべきじゃない!」
「それは君たちだって同じだ。ノゾムが友達だというなら、少しでも信じてあげるべきだったんじゃないのか?」
アイリスディーナの言葉を聴いたカミラの瞳が揺れる。彼女は明らかに動揺していた。
だが、それでもカミラの表情は硬いままだ。動揺はしているが、まだアイリスディーナたちの言葉を信じ切れていないのだろう。
それも無理ないのかもしれない。
“親友が傷ついたのはノゾムの所為である”
この2年間、それが彼女にとっては当然の事実だったのだから。
押し黙るカミラとアイリスディーナ。まるで討論をしているように、互いの視線が空中でぶつかり合っている。
だがその時、カミラに馬乗りにされていたノゾムが体を起こした。
自分の下で突然動き始めた彼に驚き、カミラが驚いてその場から離れる。
ノゾムは立ち上がると、再びカミラと向き合った。
彼女は相変わらずノゾムを睨みつけているが、彼はその視線を正面から受け止めている。
「あの時の事は走りながらきちんと話すから、とにかくリサを追い掛けよう。少なくとも、今は」
ノゾムが再びリサを追って走り始める。
アイリスディーナ、フェオもまた彼の後に続き、目を細めながらカミラも再び走り始めた。
「それで、言ってみなさいよ」
「さっきも言ったけど、俺は浮気なんてしていない。俺の姿をしてあの噂を流したのはケンだ」
「証拠は……?」
「無い。でもしばらく前に本人から直接聞きだした。その時、ケンは“水鏡の心仮面”という、自分の姿を変えることができるアビリティを持っていることも知ったんだ」
「…………」
「ケンは言っていたよ。“リサの隣にお前みたいな足手まといはいらない。リサの隣に誰がふさわしいか見せつける”って……」
ノゾムの告白を、カミラは黙って聞いていた。無言で走り続ける4人。
自分たちの足音だけが通りに響く中、ノゾムが再び口を開く。
「カミラ……」
「何よ……」
「もう一度頼む。リサのこの2年間のことを教えてくれ……」
再度、カミラにリサの事を尋ねるノゾム。カミラの目線は相変わらず厳しく、表情は硬い。
ノゾムの話が信じ切れないのか、それとも動揺を必死に隠そうとしているのか。
「…………」
返答はなく、カミラは無言のまま足を前に進めている。
だがノゾムはあきらめずに言葉を重ねる。
目を背け続けた2年間。その間、リサがどんな気持ちでいたのかノゾムはまったく分からない。
でも、ここで知らないと一生後悔するような気がした。
「俺を恨むならいくらだって恨んでいい。どんなひどい言葉で罵ったってかまわない。だけど今リサのことを知らないと何も出来ないんだ!」
ノゾムの真っ直ぐな声と視線がカミラの胸に突き刺さる。
彼女は唇を噛みながら下を向くと、ゆっくりと口を開いた。
「……リサはあの時からずっと前に進めなくなっちゃったのよ」
ノゾムの瞳に促されるように、カミラはこの2年間のことをゆっくりと語り始めた。
カミラからこの2年間の事を聞き出したノゾムは全力で夜の街を駆け抜けていた。胸の奥から湧き出す後悔が、ジュクジュクと彼の心を蝕んでいく。
「くそ……」
怒りで顔が真っ赤になっているのを感じる。
この2年間、リサがある種の恋愛恐怖症ともいえるような状態になり、ずっと思い悩んでいた事。
何とか克服しようとして勇気を振り絞るが、どうしてもケンを拒絶してしまう自分の体。
カミラが何度もリサから相談され、その度に涙を流してきた事を聞いた時、ノゾムは自分自身に対してどうしようもないほどの怒りを覚えていた。
自分は一体何をしていたのだろうか。
「ノゾム……」
後ろからアイリスディーナが心配そうな声を漏らしているが、今のノゾムの耳にはその声は届いていなかった。
自分自身への憤りのままがむしゃらに走り続けるノゾム。
やがて暗がりの先に、彼女の紅い髪が見えた。
「っ! 見つけた」
リサの姿を認めた瞬間、ノゾムの足が刹那でも速く前に進もうと、限界以上の速度で体を前に押し出す。
先に追いかけたはずのケンの姿がないことに首を傾げるが、今はそれよりも彼女の方が優先だ。
暗がりの先に手を伸ばすノゾム。次の瞬間、ノゾムの右手がリサの手首を掴んだ。
ハッとした表情でリサが振り向く。
「リサ!」
「っ!! 嫌! 離して!!」
突然掛けられた声と手を掴まれた感触にリサが暴れ始める。しかし、ノゾムの手はしっかりとリサの手首を押さえ、彼女を放すまいとしていた。
小さく震える、冷え切った手の平。
普段の彼女ならノゾムの手を振り解くなど容易い事だろう。それに手首を掴まれる前に、ノゾムが駆け寄ってきた時点でリサは気付いていたはずだ。
にもかかわらず、簡単に捉まえることができた。その事実が、彼女が今どれほど動揺しているかを物語っている。
「リサ、聞いてくれ。俺は……」
「嫌! 聞きたくない!」
ノゾムの姿、ノゾムの声、ノゾムの眼差し、その全てがリサの2年間を否定しようと彼女に襲い掛かっていた。
彼女が思い込み、いつの間にか必死に覆い隠して見ないようにしていた事。その全てを引き剥がすようにノゾムは言葉を続けようとする。
「何でここにいるのよ! 何でこの街に残っているのよ! あんたの顔なんて見たくない! お願いだから消えてよ! 私をこれ以上苦しめないで!!」
「っ!」
その時、ノゾムの頬に衝撃が走る。リサの振り抜いた手がノゾムの頬を打っていた。
頬に伝わる熱が頭を突き抜け、同時にこの2年間の出来事がノゾムの脳裏に甦る。
向けられる侮蔑の視線。叩きつけられる苦言と嘲り。
蘇える負の記憶と感情。それは明確な拒絶と言う形を取られたせいだろうか?
“苦しめたのはどっちだよ! 信じてくれなかったのはどっちだ!? そっちだって俺をずっと苦しめてきたじゃないか!?”
一瞬、そんな気持ちをぶつけたくなるノゾム。今まで溜まりに溜まった負の感情を、思う存分ぶちまけたくなる。まるであの時、キクロプス達を虐殺したときのように。
“なぜ躊躇う! お前にはその資格があるだろう。その愚かな娘を思う存分痛めつける資格が! 今こそ裏切りの報いを受けさせるべき時だ!”
頭の中でティアマットの声が響き渡る。確かに今でも裏切られたときのことを思い出すと、どうしようもない憤りに襲われる。
リサ達を滅茶苦茶にしてやりたいという暗い衝動。胸の奥で渦巻くそれを、ノゾムはハッキリと感じていた。
“お前の後ろにいる娘や狐達とは違う。壊して何の支障があるのだ? 目の前にいる娘はもはやお前には必要ない存在だろう?”
耳元で甘く、囁くようなティアマットの声。
その声はノゾムの心を誘惑するように、じんわりと染み込んでくる。まるで甘美な毒のように。
“壊せばいい。そうすればお前はこの娘の呪縛から逃れられる。さあ……”
リサを徹底的に壊せと囁きかけてくるティアマット。かの龍が囁くたびにノゾムの視界は徐々に黒く染まっていく。
だけど……。
「リサ……」
「嫌、嫌……」
リサの声は唯々弱々しい。その姿はまるで紙細工のようで、少しでも触れたら崩れてしまいそうだった。
その姿にノゾムの胸がチクリと痛む。
彼女自身を苛んでいる事、それは以前、ノゾムが経験したものだ。
それはケンから、ノゾムを嵌めたのは自分だと、真実を告げられた時の事。
あの時、ノゾムは動揺し、怒りに苛まれ、魔獣相手とはいえその力を無差別に使い、相手を虐殺してしまった。そうしなければ耐えられなかった。
逃げていた事実、目を背けていた事実に直面した時、人は自分を守ろうと様々な防衛手段を取ろうとする。
今まさに、リサは逃げる事で必死に自分を保とうとしているのだ。いや、2年間ずっとそうだったのかもしれない。ノゾムと同じように。
「…………」
“どうした、なぜ手を下さない?”
ティアマットは自分の声にまったく反応しなくなったノゾムをいぶかしみ始める。
“もういい……”
“……何?”
“もういいって言ったんだ。いい加減、終わりにする”
その一言を聞いた瞬間、ティアマットの口元がにやりとつり上がった。
まるでこれから起こることに期待感を募らせたようなその表情。その瞬間を今か今かと待ち焦がれるようだった。
そしてノゾムがゆっくりと口を開く。その口から発せられたのは……。
「リサ、ごめんな……」
鈴のように響く、落ち着いた声だった。
「あっ……」
“なっ!?”
ティアマットの顔が驚愕に歪む。
ノゾムはゆっくりと、優しく手を握り返し、もう片方の手をリサの手に添えた。彼女の手は氷のように冷え切っている。まるで今の彼女自身を現すように。
ノゾムの両手がリサの冷え切った手を優しく包み込んでいる。壊れそうな大切なものを扱う様にノゾムはゆっくりと謝罪の言葉を口にし始めた。
「逃げてごめん。気付いてあげられなくてごめん……」
逃げてきたのは自分もリサも変わらない。だからノゾムが初めにした事は、まず自分の罪を告白して、自分から彼女に謝ることだった。
「俺、ずっと逃げてた。本当にリサの事を考えれば、あの時俺はどんなに罵倒されても、殴られても、リサに声を掛け続けるべきだった」
誤解を解こうとしなかった事。目を背けて彼女を放置していた事。彼女の夢を自分が逃げる言い訳にした事。
「俺は君のためになるのではなんていいながら、鍛錬に逃げて君に向き合おうとしなかった。まじめに鍛錬を続けていれば、君はいつかあの噂は違うんだって思ってくれるなんて考えていた。
馬鹿な話だよな。逃げてリサと向き合おうとしなかった俺が、リサに見てもらえるはずなんてないのに……」
自分が彼女にしてしまった罪。それをノゾムは赤裸々に語り、謝罪の言葉を重ねていく。
“貴様! どういうつもりだ”
ティアマットの怒声が雷鳴のようにノゾムの脳裏に木霊する。
心臓が弱い者ならそのまま倒れこみそうなほどの怒りがノゾムに叩きつけられる。
だが、ノゾムもまた負けじと言い返してきた。
“俺は別にリサを壊すとは一言も言っていないぞ! 俺はそんなことをするためにこの学園に来ることを決めたわけじゃない!”
“いまさら元に戻れると本気で思っているのか!? 無駄だ! 愚かだ! 貴様達の関係はすでに壊れたものだ! そんなものになぜ固執する!”
すでに壊れた物というティアマットの言葉をノゾムは否定することはできない。
確かに、彼ら幼馴染の関係は誰がどう見ても破綻している。
“……そうだな。確かに俺とリサ達の関係は壊れた。お前の言うとおりだよ”
“なら断ち切ればいいだろう! 完全に壊せばいいだろう! そんなもの、打ち捨てておけばいい!”
捨て置けというティアマット。だがノゾムはその言葉に首を振った。
“捨てる? それは無理だ。だってそれじゃこの2年間と変わらない。結局はそれも逃避だ。リサ達が俺に怒りをぶつけてきたことと何が違うって言うんだ!?”
怒りをぶつけ、罵り、踏み潰せば、確かに一時の満足は得られるだろう。だが、その先に何があるのだろうか?
それで満足してアイリス達と共に笑って過ごせるのだろうか? 師に胸を晴れるのだろうか?
答えは否だろう。姉に裏切られ、身内に捨てられて逃げたシノも、家族のことを話すときはとても楽しそうだった。
怒りはあっただろう、憎みもしただろう。でも、彼女にも相手を好きだという気持ちはきっと胸に残っていたのだ。
長い年月と葛藤の果て。その先に彼女は笑みを浮かべて家族のことを話せるようになった。その笑顔に僅かな寂しさを漂わせてはいても。
“だから乗り越える。元の関係には戻るわけじゃない。お前の言うとおり過去には戻れないんだから”
過去に戻ることなど、神ならぬ人間には出来ない。ティアマットですら不可能だろう。
だが、その傷を乗り越えることは出来るかもしれない。否、乗り越えないといけない。そうしなければ、本当の意味でこの傷を癒すことは出来ないだろう。
“でも、それぞれ別の道を、前を向いて歩いていくことはできるかもしれない。その方が、少なくとも今よりはずっといい!”
怒りに押し流されるのではなく、捨て去るのでもなく、負の感情も含めて全てを受け入れて、乗り越える。どんなに時間がかかっても、自分自身と自分を支えてくれた人達の為に。
それがノゾムの出した結論だった。
“っ! 貴様!!”
「ぐっ!」
鋭い奇声を発して、ティアマットがノゾムに圧力をかけ始める。
膨大な力がノゾムの精神を締め上げ、その魂を押しつぶしにかかった。
まるで万力で締め付けられるような痛みが頭に走るが、ノゾムは歯を食いしばってその痛みに耐える。
「っ~~!!」
奥歯が砕けるほどかみ締めながらも、ノゾムはリサの手をそっと握り返す。ノゾムの手は彼自身が驚くほど震えていた。
ガクガクと震えながらも、冷え切った手に伝わってくるノゾムの温もり。その熱がリサの胸に突き刺さった氷の矢を徐々に溶かし始める。
ポウッっと暖かくなっていく自分の心に、リサの表情が一瞬緩んだ。まるで無くした宝物を見つけた時のように。
だが、足元が崩れ落ちそうな感覚はリサの頭から離れてくれなかった。拒絶の言葉は治まったものの、彼女の身体も未だに震えが止まっていない。
「リサ……」
リサはノゾムを拒絶し続ける。彼女は俯き、決してノゾムと目を合わせようとしない。
「そっか……分かった」
だが、そんなリサをノゾムは怒らない。怒ることなどできない。
逃げ続けるその姿は、かつての自分そのもの。だから、ただ彼女の手を握りながら逃げ続ける彼女の姿を受け入れる。
弱々しくもノゾムから逃れようとするリサ。その姿をしっかりと自分の目に焼き付けながらノゾムは優しくリサの手を引く。
ノゾムはそのまま、まるでヒビが入ったガラス細工を扱うように、丁寧にリサの体をカミラに預けた。
「えっ?」
呆けた様な声を上げているカミラ。だが、彼女は動揺しながらもしっかりとリサの体を支える。
「カミラ、女子寮までリサを連れて行く。悪いけど彼女の体、道中支えてあげて」
「…………」
目を見開いてノゾムを見つめるカミラとリサ。ノゾムがチラリと彼女達に目を向けると、リサの肩は未だに小刻みに震えている。
「大丈夫、これ以上近づかないよ」
頭に走る痛みに油汗をかきながらも、ノゾムは努めて笑みを浮かべる。だがその顔は旗から見ても引きつっており、無理をしているのが丸分かりだった。
「行こう」
ノゾムが帰ろうと促しながら、女子寮の方に視線を向けて歩き始める。
やがて、カミラと彼女に肩を支えられたリサ、そしてアイリスディーナとフェオが後に続く。
肩を支えられているリサに歩調を合わせるようにゆっくりと足を進めるノゾム。彼はリサとの距離を身体3つ分空け、さらに彼女を支えているカミラを間に入れて自分の姿がリサの目に極力入らないようにしている。
やがて、女子寮の正門前にたどり着く。
寮の門をくぐろうとするリサ達にノゾムが声をかけた。
「リサ、そのままでいいから聞いてくれ。俺はあの日、ずっと外縁部で鍛錬していた」
リサは相変わらずノゾムに振り向こうとしない。だが、足を進めることもしないまま、その場に立ち止まっている。
ノゾムもまたリサの小さな後姿を見つめながらも、言葉を放ち続ける。
「リサは俺が裏切ったと言っていたけど、俺はそんなことはしていない。それだけはハッキリと言っておくよ。」
しばしの静寂が流れる。結局リサは一言も言葉を返さないまま、寮の中に消えていった。
そのとき、ノゾムの体がふらりと傾いた。
「っ! ノゾム!」
「はあ、はあ、はあ……」
ふらつき、崩れ落ちそうになったノゾムの体を受け止めたアイリスディーナ。彼女の目に飛び込んできたノゾムの顔は真っ青で、荒い息を吐きながら苦悶の表情を浮かべている。
アイリスはとっさに彼の顔をキュッと胸に掻き抱くと、ノゾムの頬に手を当てた。
「ノゾム……」
「ふう、ふう……」
アイリスディーナは優しく彼の頬をなでる。
まるで死人のように冷え切ったノゾムの顔。苦しそうに息を荒げるノゾムの姿に、アイリスディーナは辛そうに顔をゆがめた。
やがてノゾムの息が落ち着きを取り戻したころ、彼の顔もようやく赤みを取り戻し始めた。
「ありがとう、アイリス。また助けられちゃったな……」
「い、いや、その……もう、大丈夫なのか?」
ノゾムの声を聞いて、ようやく安堵の顔を浮かべたアイリスディーナ。だが、あの安堵も一時のもので、すぐに彼女の目は心配そうに曇ってしまう。
ノゾムは“本当に大丈夫だよ”笑みを浮かべ、ゆっくりと立ち上がる。だが、アイリスディーナはまだ憂いを帯びた表情は変わらない。
その時、ノゾムの後ろにいたフェオが彼に声をかけてくる。
「ノゾム、よかったんか? 全部話さなくて」
「ああ、アイリス達の時とは違う。今全部を話してもリサは受け止めようとしないよ。それを無理にこじ開けようとしたら、リサが壊れるかもしれない……」
アイリス達と分かり合えたのは、彼女達もまた、相手と分かり合いたいと思ったからだ。きっかけはノゾムとマルスの衝突だが、彼らが再び分かり合えたのは、双方の内なる思いは同じだったからに他ならない。
だが、リサはノゾムが無理に歩み寄ろうとしても引いてしまう。そして、彼女に向き合おうとする意思はまだ見受けられない。
「だから、今はこれでいい。今はね……」
ノゾムは今一度、リサが消えていった扉に目を向けると、踵を返して立ち去っていく。
少しでではあるが、自分のことを伝えることができた。その僅かな充実感と、これから先の事に気持ちを据えながら。
「…………」
そんなノゾムの背中をアイリスディーナはじっと目詰めていた。
「ノゾム……」
彼の名を呟く彼女の手は、いつの間にか胸元で硬く握りしめられていた。
既に時間は真夜中を過ぎ、街の誰もが眠りについている頃。ソルミナティ学園に隣接しているグローアウルム機関。その一角である実験が開始されようとしていた。
部屋の床に描かれた巨大、かつ複雑な魔法陣とその演習場に配置された6つの魔石。実験室の中を忙しそうに行き交っている白衣を着た研究者達。
そんな白衣の研究者達から離れた場所で、これまたこの場には不似合いな恰好をしている一団がいた。
人族や獣人など、種族はバラバラだが、見るからに上質の衣に身を包みこんだ者達だった。
彼らは主にアルカザムの北区画で生活しているこの街の有力者であり、各国からこの街に派遣されてきた使節としての役割も持っている。
多種多様な種族、さらに元々この街に住んでおらず、わざわざ自国から駆け付けた者もいる。それこそが、この実験がいかに重要なものであるかを十分に物語っていた。
彼らの視線は自分達の目の前で忙しそうに動いている研究者達と眼前に描かれた巨大な魔法陣に釘付けになっている。
彼らとしてもここまで大がかりな魔法は観たことがほとんどないのだろう。物珍しそうに無遠慮な視線を向けている者もいる。だが大半の者達はその瞳に言いようのない緊張感を滲ませていた。
彼らの前には1人の巨漢が立ち、じっと研究者達と街の有力者達の動きを鋭い眼差しで観察している。
身の丈を上回るほどの巨剣を背負った男性。銀色に輝く鎧を身に纏った戦士。その身から滲み出る緊張感に触発されたのか、先程研究員達に無遠慮な視線を向けていた一部の有力者達が気まずそうに他の有力者たちの陰に隠れた。
そんな彼に、白衣を着た一人の青年が声を掛けてくる。この実験を指揮するトルグレインだ。
「ジハード殿、準備は終わりした。何時でも実験を開始できます」
「分かりました。皆さんこれから実験を開始します。実験の目的はあらかじめお伝えした通り、この町の郊外の森に現れたアビスグリーフの遺骸への干渉実験です」
その時、実験室の中に巨大な鉄の箱が運び込まれてきた。その場にいたすべての人間の視線が、巨大な箱に集まる。
鋼鉄の鎖をこれでもかと巻きつけ、箱の一面に封印の為の魔法陣が描かれている。
描かれた陣は未だにほのかな魔力光を放っており、施された封印がいまだ健在であることを示していた。
この実験の目的は、先ほどジハードが言っていた通り、ノゾム達が倒したアビスグリーフ。その正体を探ることだった。
「皆様、実験の用意は整いました。これから実験を行いますが……」
ジハードの堅い声が実験室に響く。
既に崩壊した肉体や魔石等からある程度の資料は集まっている。その資料によれば、この魔獣が極端に凝縮された複数の魔獣達の肉体で構築されているということが分かった。
崩壊した肉体からはワイルドドックのような四足の魔獣の骨だけでなく、ゴブリンなどの2足歩行をする魔獣の骨も数多見つかっていたからだ。
滅茶苦茶に重なった筋肉は生物としてはあまりに異質であり、未だに汚染されたように黒い瘴気を放っていた。
ジハードの言葉に返答したのは、集まった有力者の中で一際落ち着いた雰囲気を持つ老人だった。
白の混じった金色の髪と髭。頬には今まで刻んできた時が深々と刻まれているが、目には深い理性と強い意志を宿している。
身に纏った他の有力者と比べても高価な衣装には、羽ペン、剣、杖を交差させたこのアルカザムの紋章が刻まれている。
彼の名前はハイバオ・フォーカ。このアルカザムの統治を行っている議会の議長であり、各国から一目置かれている人物だ。
「分かりました。ジハード殿、トルグレイン殿、それに皆さん、よろしくお願いします」
実験室に響く凛とした言葉。議長の一言で緊張感が一気に高まる。
ジハードが頷き、トルグレインが集まっている研究者達に指示を出す。周囲に配置された魔石に前に一人ずつ、計6人の研究者が立ったのを確認すると、トルグレインはゆっくりと空中に陣を描いた。
次の瞬間、鉄の箱に描かれていた封印の魔法陣が消滅し、続いて箱に巻きついていた鎖が砕け散る。
床に鎖の破片が落ちる音が響き渡り、鉄の箱がゆっくりと開かれていく。
同時にねっとりとした空気が実験室中に充満した。まるで氷で首筋を撫でられたような不快な感覚に、研究員の誰もが息を飲む。
ジハード達が見守る中、ついにかの魔獣の遺骸が魔力灯の下に晒される。
黒い、漆黒の魔獣。頭部が完全に吹き飛ばされ、崩壊してしまっている遺骸は、元の原形を推察することができないほど崩れてしまっている。
もうとっくに死してしまっているはずの魔獣。しかし、その遺骸からは背筋が凍るような瘴気を放っていた。
10年前、3つの国を瞬く間に滅ぼした魔獣の大侵攻。その時に目撃されていた正体不明の魔獣。この実験は、もしかしたらあの悲劇の原因を究明する切っ掛けになるかもしれない。
そんな思いを胸に、実験を統括しているトルグレインがゆっくりと口を開く。
「実験を始めます……」
彼の言葉に我を取り戻した研究員達が、各々の目の前にある魔石に手をかざす。
魔法陣の円周に6つの魔法陣が構築され、配置された魔石から赤、青、緑、黄、白、黒の6色の光が漏れ始めた。
魔石から光があふれた時点でトルグレインは床一面に描かれた魔法陣を発動。周囲を漂っていた6色の魔力が渦を描くようにアビスグリーフの遺骸の周囲に集まり始める。
魔力の渦は徐々に加速していく。やがてキィーン、キィーン……という耳鳴りのような音が響き始めた。
この実験の目的は6属性の魔力を同時に照射し、相手がどんな源素で構成されているかを分析するためのものだ。
同時に、共鳴に使用した魔力の変化も分析し、あの魔獣が周囲にどんな影響を与えるかを調べるためのものである。
強くなっていく魔力の渦は既に騒音とも呼べるだけの共鳴を周囲に響かせていた。
観測に使う計器も正確に機能している。トルグレインは計器にくぎ付けになりながらも、慎重に中央の魔法陣を使って魔力の渦を操っていく。
そしてついに、魔力の共鳴が頂点に達する。
だが次の瞬間、6色に輝いていた魔力の中心から、漆黒の光が爆発した。
「うわ!」
突然のことに驚く研究員達。動揺から実験に使われていた魔法の制御が甘くなる。
瞬く間に真っ黒に染まっていく魔力の渦。その時、渦の奥から6本の腕が飛び出してきた。
「きゃああ!」
「がはっ!」
飛び出してきた触手が周りにいた研究員達を弾き飛ばし、配置されていた6つの魔石を掴むと、瞬く間に魔力の渦の中に持ち去ってしまう。
「ハイバオ殿 トルグレイン殿! 他の方々と一緒に避難を!」
ジハードの声と共に兵士達が動く。素早く、黒く染まってしまった魔力の渦を取り囲む兵士達。
無事だった研究員達が有力者達と共に実験室から脱出し、倒れている研究員達を残った兵士達が抱えて運び出していく。
避難していく彼らの姿を横目で確認しながら、ジハードはゆっくりと背中に背負った自分の相棒を構えた。
目の前で渦巻く魔力が弾け飛び、かの魔獣の姿が現れる。
「グルルル……」
腹に響く唸り声を上げる黒き魔獣。漆黒の瘴気が漂い、憎悪に染まり切った無数の紅い瞳が体中から覗いてくる。
「ガギャアアア!!」
4本の脚で力強く立ち上がるアビスグリーフ。狼を思わせる顔が縦に裂け、ナイフのように鋭い無数の歯列が咆哮とともに剥き出しになる。幾重にも重なった刃のような二股の尾が高々と持ち上げられ、眼前にいる獲物を睥睨していた。
「う、ううあ……」
「あ、ああう……」
その威容は正しく魔の獣。叩きつけられる殺意と捕食欲を前にして、兵士たちは完全に尻込みしてしまっていた。
そんな怯えて動けなくなった餌をこの獣が見逃すはずがない。
手近にいた兵士に向かって黒い魔獣が飛び掛かる。
石床を粉砕する音が響き、次の瞬間には兵士の視界には魔獣の口内が目一杯に広がっていた。
あと数瞬で魔獣の顎は閉じられ、兵士の首は食いちぎられて魔獣の臓腑に落ちるだろう。
だが魔獣の歯が兵士の首に食い込もうとした瞬間、魔獣の身体が回転しながら横方向にふっとばされていた。
「あ……」
呆けた声を漏らした兵士の目に映ったのは自分の胴体ほどもある巨剣を振り抜いたまま佇んでいるジハードの姿だった。吹き飛ばされた魔獣はそのまま壁に叩きつけられ、ギャン! と苦悶の声を上げる。
「みんな下がれ。この魔獣の相手は私がする」
戦場と化した実験室に響くジハードの声が固まっていた兵士たちの硬直を解きほぐす。
この魔獣を外に出すわけにはいかない。実験室の出入口はひとつだけだ。
兵士達は出入口の前に隊列を組み、自分達の身体を魔獣の脱出を阻むための最後の壁とする。
ジハードは前に出て、直接魔獣と相対する。腰だめに巨剣を構えるジハードと身を低くして威嚇してくるアビスグリーフ。
互いに睨み合う両者。一瞬の静寂が2人の間を流れる。
先に動いたのはアビスグリーフだった。強力を誇る4本の脚が疾風のような速度を叩き出し、ジハードに肉薄する。
開いた顎がジハードの身体を引き裂こうと迫りくるが、その顎が自分の身体を捉えるよりも早く、ジハードが構えていた巨剣を横薙ぎに振り抜いていた。
ガキン! と言う音を響かせて、両者ががっちりと組み合う。
ジハードを押し潰そうと足に力を入れる黒い魔獣だが、全身の気を高めたジハードは真正面からその膂力を受け止めている。
ジハードの巨剣もまた、鉄の鎧を容易く噛み千切る黒い魔獣の牙をしっかりと防いでいた。
巨剣“顎落し”
ジハードの異名ともなった身の丈を超える巨大な長剣。
極めて硬質な“タングラード”という希少金属を大量に使用して作られた剣であり、10年前の大侵攻以前からジハードと共に厳しい戦いを潜り抜けてきた相棒。
剣というのは硬いだけならば簡単に折れしまうのだが、東方の技術も流用し、性質の違う金属を折り込みその問題を解消した逸品。
だがこの金属は極めて重く、ゆえにその巨剣はジハード以外には全く使えないものと成り果ててしまっていた。
何せこの金属で普通の剣を作っても、重さは鋼鉄製のものと比べても倍以上になってしまうのだ。こんな身の丈を超えるような巨剣など、とても常人が使える代物ではない。
だが、大陸の中でも傑出した使い手であり、並外れた肉体と気量を持つジハードはこの巨剣を十二分に使いこなすことができる。
「ふっ……」
短く息を吐いたジハードが全身に力を入れた。丸太のような腕の筋肉が盛り上がり、血管が浮き出る。
拮抗していた力のバランスが崩れ、僅かにジハードが黒い魔獣を押し返す。
「グギャアウ!?」
自分がたった一人の人間に押し返されていることに驚いたのか、アビスグリーフが慌てて力を篭めようとする。
「ふっ!」
その瞬間、ジハードが半歩後ろに下がり、両腕に込めていた力を抜いて半身を逸らした。
突然相手が力を抜いたことで、力をぶつける対象がいなくなったアビスグリーフ。
四足の獣であるため、たたらを踏んでよろめくことはないが、予想以上に傾いた体を保とうと前足に力が入り、結果的に動きを止めてしまう。
「ふん!」
その隙をジハードが逃すはずがなかった。後ろに退いた足を起点に身体を一回転させ、振り抜いた巨剣を相手の側面に叩き込む。
巨大な刃がアビスグリーフの肉体に食い込み、一時的に再生した筋肉を断ち切り、骨を砕く。
そのままの姿勢で、再び吹き飛ばされる魔獣。何度も床に叩きつけられながらも何とか立ち上がるが、その隙にジハードが間合いを詰めて来ていた。
「ガアアアア!!」
2本の尾がジハードに振り下ろされる。
先のジハードの一撃は黒い魔獣の前足の片方を破壊していた。この魔獣の事だからすぐに再生するのだろうが、それでも再生しきるまで彼に接近されることを嫌がったのかもしれない。
故に、ジハードに叩きつけられる尾による攻撃は1度や2度では終わらない。3度、4度。何度も何度も振り下す。
「ぜい! むん!」
だが、ジハードは大木も断ち切るその尾撃をしっかりと弾いていた。
繊細に、時に大胆に。巨剣を停滞なく動かして尾の軌道を逸らす様は、彼が決して力だけの戦士ではない事を物語っている。
しばし打ち合っていた両者だが、時間をかけることは得策ではないと判断したジハードが動いた。
「ふっ!!」
気合を込めて巨剣を振り上げ、横薙ぎに振るわれた尾を大きく上方に跳ね飛ばす。
だが、すぐさまもう一つの尾が逆方向から迫ってきた。
ジハードはすぐさま全身の気を高めると全身の筋肉を一気に強化する。
「はあああっ!!」
巨剣を上方に振り上げたまま、身体を捻り、その回転運動は腕を通じて巨剣へと伝えられる。
次の瞬間、真っ直ぐに振り上げられた巨剣がその刃を返しながら、捻り込むように一気に振り下ろされた。
轟音が轟き、粉砕された石床の破片が両断された魔獣の尾と共に宙を舞う。
舞い散る黒い血と共に魔獣の苦悶の声が実験室に響いた。
「ギッ……グアアアア!!」
だが、尾を落とされた痛みを噛み殺し、魔獣は残っていたもう一本の尾をジハードに振り下ろそうとする。
しかし、その尾撃も返す刀で振り上げられたジハードの巨剣に両断された。
床に落ちる自分の尾を眺めながら、魔獣は怨嗟の咆哮を上げ続けている。
明らかな実力差。逃亡しようにも唯一の出入口は目の前に立ち塞がる難敵の真後ろ。
切り落とされた尾はすぐさま再生を始めているが、目の前の敵がそれを許すとは思えない。
もはやこの相手に勝つことは不可能だろうと悟ったのか、せめて一矢報いようとヤケになったのか。黒い魔獣はその顎をこれでもかと開き、そのままジハード目掛けて一直線に突っ込んできた。
「ガアアアアアアアア!!」
自分の命すべてを搾り出すような咆哮。全身を震わせるほどの叫びを受けながらも、ジハードは冷静な瞳で目の前の魔獣を見つめている。
気を一気に高め、全身に送り込む。
ジハードの体から湧き上がった膨大な気は、体中だけでなく、巨大な“顎落とし”の切っ先にまで満遍なく行き渡っていた。
アビスグリーフが跳躍し、その巨体でジハードを押しつぶそうとする。
だが、かの魔獣の牙がジハードの体を捉えるよりも速く、ズドンという音と共に彼の巨剣が袈裟懸けに振り抜かれていた。
アビスグリーフの体に食い込んだ巨剣は左右に広がった顎の片方を切り下ろし、そのまま黒い魔獣を両断する。
分断され、泣き別れになる魔獣の体。どうみても即死だ。
ジハードは巨剣を振りぬいたまま残心。ふうっと小さく息を吐く。
だがその瞬間、魔獣の真紅の瞳がギラリと輝いた。
「ガアウウウ!」
「なっ!」
次の瞬間、分断された魔獣の半身が実験室の出口を目指して跳躍していた。ジハードがすぐさま阻止しようと巨剣を切り返すが、もう片方の半身がジハードにのしかかるように飛び付いてきた。
「ちい!」
出鼻をくじかれたことに舌打ちをするジハード。顎落しを盾のよう構えて魔獣の半身を受け止めるが、足を止められてしまう。
その間にもアイビスグリーフの半身は出口へと突き進んでいく。
突出してきた黒い魔獣に驚く兵士達。しかしそのとき、一人の兵士が魔獣の前に飛び出して来た。
「止めろ! 絶対にここを通すな!!」
出口に控えていた同僚達に向かって、彼の掛け声が木霊する。
その声に兵士達が弾かれたように動き出す。
彼らは持っていた盾を一斉に構え、巨大な壁を作り上げて魔獣の進路を塞いだ。
「ガアアアアア!!」
邪魔をするなといわんばかりの咆哮が轟き、突っ込んできた魔獣が兵士達の壁に激突した。
突進の勢いに押される兵士達。魔獣の牙が盾を貫き、先程魔獣の前に飛び出してきた兵士の体を貫く。
「ぎっ!!」
腕や胴体に食い込み、メリメリと音を立てて自分の体を侵食してくる異物に呻き声を上げる兵士。
だが、叫びそうになる悲鳴を必死に押し殺し、同僚達と共に魔獣を押し返そうとする。
「ギ、ギギギャウ……!」
半身とはいえ、自分の体を受け止められたことに驚く魔獣。すぐさま跳ね飛ばそうとするが、半身を失っている状態では満足に力を篭められない。
さらに回り込んできた兵士達が魔獣の体に剣を突き立てていく。
ジハードとの戦いで開いた傷口目掛けて打ち込まれた剣が、魔獣の内側を切り刻んでいく。
「ギッ、ギャアウ!!」
「今だ! 押し返せ!」
一瞬、盾にかかる圧力が弱まった。
魔獣の体を押さえ込んでいた兵士達が一斉に足に力を篭め、脱出しようとしていた魔獣を弾き返す。
よろめきながら後ろに下がるアビスグリーフ。それでも諦めずに再び突進しようとしたとき、かの魔獣を巨大な影が覆った。
魔獣の血の様に紅い瞳が捉えたのは背後で振り上げられた巨剣。断頭台の刃よりも遥かに凶悪な破壊の権化だった。
その巨剣を扱う人間の足元には叩き潰された己の半身が見える。ジハードの瞳を見た瞬間、魔獣の体が金縛りにあったように固まった。
ジハードの瞳に光るのは殺意を伴った怒気。傷つけられた部下の姿が彼に10年前の惨劇を思い出させていた。
「潰れろ……」
それは明確な死刑宣告。魔獣がその場を動く隙を与えぬまま、顎落しがアビスグリーフの半身を、文字通り石床ごと叩き潰した。
「大丈夫か!?」
ジハードは己が叩き潰した黒い魔獣が動かなくなったのを確認すると、すぐさま部下の下に駆け寄った。
魔獣に噛み付かれた兵士は床の上に座り込んでしまっており、同僚達が必死に止血を行っている。
「は、はい……何とか」
傷口からはジクジクと血が流れ、兵士の鎧を真っ赤に染めているものの、怪我をした兵士の意識ははっきりしていた。
兵士のしっかりとした受け答えを聞いて、ジハートは胸をなでおろした。
森の中ならともかく、ここは大陸でも有数の研究機関なだけに医療設備も充実している。
事実、実験室の入り口から医療道具を入れたバックを持った医者が入ってきた。すぐさま優秀な医者の治療を受ければ命に別状はないだろう。
ジハードは負傷した部下の治療を医者に任せ、残った部下にトルグレイン達に事の次第を報告するよう命令し、自分は先ほど倒したアビスグリーフに目を向けた。
黒い魔獣の体は崩壊を始め、この場に来たときと同じように崩れた体を晒している。
だが、この場に運び込まれてきたときのような悪寒を感じなくなっていた。
「ジハード殿!」
部下の報告を聞きつけたトルグレインが駆け寄ってくる。
終った……のだろうか?
すでに唯の肉塊と成り果てた魔獣はピクリとも動かず、その遺骸からは命の気配を感じ取れない。だが、今日ここで起こった事を見れば、これで終ったと断言しきれない出来事だったのは事実だ。
アビスグリーフの亡骸を見下ろしながら、ジハードの胸中は答えの出ない問いかけを延々と繰り返していた。
予定より、ノゾム達を突っ込ませてみました。
リサの現状を受け入れたノゾムと楔を打ち込まれたリサ達。
う~ん。こんなものでよかったのでしょうか……。