第6章第10節
はい、本編の続きの投稿です。
エルドル達を街まで送り届けたノゾム達は依頼達成の報告を終え、ギルドの門を出て行った。
既に太陽は地平線に沈み、薄紅色に染め上げられた薄明の空がアルカザムの天を覆っている。
「んんっ! これで依頼は終わりやな。さて、これからどうするんや?」
「え?」
唐突なフェオの言葉にノゾムが思わず聞き返す。
「ワイ、腹減ったし、依頼達成の報酬も出たんや。せっかくやから牛頭亭に行ってパアーッと騒がんか?」
「また賭け事か? 貧乏生活に逆戻りするぞ?」
「何、大丈夫や。勝てばええんや勝てば!」
「その言葉には不安しか感じないんだが……」
どうやらこの間の騒動のせいで金欠状態に陥ったことはすっかり頭から抜け落ちているようだ。
どこまでも快楽第一主義なその姿はいっそ清々しいが、ノゾムには将来的にこの狐尾族の青年がどんな騒動を引き起こしていくのか、不安で仕方なかった。
「…………」
押し黙るノゾム。隣にいる老人もまた似た気配を放っていた。
この老人は一体何を想像しているのだろう。乙女のように頬を染めて宙に視線を漂わせるその姿に嫌な予感しかしない。
「何言ってるんや。人生はパーティーや! たとえ一時勝とうが負けようが、楽しんだ人間が最後は勝者になるんや!」
「そうじゃ小僧! 麗しき乙女達の心を手にするには困難は付き物! その困難の前に多くの挑戦者たちが敗れ去っていく! その困難に立ち向かうためにも、ワシらは“こうなりたい! こうでありたい!”という願いを胸に抱き続けることが必要なのじゃ!」
案の定、フェオに触発される形でゾンネはイケイケモードになっていた。
拳を天に突き上げながら、高々と宣言する2人。月の光を浴びながら、一人は目を黄金色に輝かせ、もう一人は鼻からピンク色の息を荒々しく吐き出している。
「で、その胸に抱く願いとは?」
「もちろん! 見目麗しい女子との逢瀬じゃ! デートじゃ! スキンシップじゃ!! 2人っきりでのキャッキャウフフじゃ!」
その願いというのはずいぶん金欲と色欲に濁っているようだ。ノゾムはもうため息しか出ない。
目の前で独自の世界を作り上げ、衆人から視線を一身に集めている2人から目を逸らし、ノゾムはゆっくりと空を見上げる。
「…………」
ふうっ……と、大きき息を吐き出したノゾム。そんな彼の姿にアイリスディーナは胸の奥に妙な引っかかりを感じた。
アルカザムに戻ってきてから、ノゾムは幾度となく何かを考え込むようなしぐさをしている。
一体どうしたのだろうか……。アイリスディーナがノゾムに話しかける。
「ノゾム、どうかしたのか? 街に戻ってきてから様子が変だけど……」
「あ、ああ。やっぱり分かっちゃうかな……」
ノゾムが苦笑を浮かべながら頭を掻いた。彼は元来た道に振り返り、ゆっくりと口を開く。
「考えていたのはエルドル君達のことだよ」
「エルドル君達?」
ノゾムはアルカザムに戻ってきた時、彼らにかかっていた精神的、肉体的な負担を考え、彼らを先に寮に帰した。
自分達もギルドに依頼について報告をしなければならなかったのでついでに彼らの報告も同時に行う事ができたからだ。
ノゾムはじっと元来た道を見つめている。その目にはまるでエルドル達の姿が見えているようだった。
ノゾムの顔に苦笑が浮かぶ。
「凄いなあ、って思ってさ……」
まるで独白するように、頬を緩ませながらノゾムは呟いた。その目に映るのは羨望……だろうか?
「俺、まだ答え出せていない。正直、自分がリサ達にどう向き合いたいのかわからない。でも、エルドル君達はすぐに自分の答えを決めて、前に向かって駆け出していけるからさ」
街の入口で別れる直前、エルドルはギルドでの態度を謝罪してきた。
叶う事ならこれからよろしくお願いします!と、地面に頭がつきそうなほど、深々と頭を下げていたエルドル。
腰を曲げたまま頭だけを上げて、まっすぐ、純粋な瞳でノゾム達を見つめてきた彼。
その眼を見た時、正直ノゾムは戸惑った。
しかし、深々と腰を折るその姿にノゾムはすぐに彼の謝罪は受け入れた。受け入れることが出来た。
その姿はほんの数時間前とはまるで別人のようだった。
いや、もしかしたらこれが本来の彼の姿なのかもしれない。
ソルミナティ学園は入学してからすぐに持ちえる才や実力による“選別”が始まる。その結果、人は目の前にどうしても変わっていってしまうのかもしれない。ノゾムのかつての友人達もそうだったのだから。
同時に、ノゾムはそんなエルドル自身の変わり様に驚いていた。
自分の間違いや恥、醜態を突きつけられ、それでもそれをすぐに糧として前を向く。それは、未だにリサとの関係で答えを出せていない自分にはないものだと感じ取じたからだ。
もちろん、ノゾム自身も全く変わっていないわけではない。事実、多少詰まりながらも自分の気持ちをはっきりと口にできるようなっていた。以前の“彼なら何でもない”と言って自分の内に溜め込んでしまっていたのだろう。
「…………」
ノゾムは未だに過去を完全に乗り越えたというわけではない。
胸に走る痛みと共に、ノゾムの脳裏にはリサ達の姿が確かに映っている。
痛ましい記憶は未だにノゾムの心を激しく揺さぶり、言いようのない感情が口元までこみあげてくる。
甘く、幸せな記憶がある分、それ以上に辛く、苦しい思いを抱かずにはいられない過去の記憶。
「……小僧、ちょっとそこに座るんじゃ」
唐突にそう言ったゾンネが道の端に座り込んだ。
「え? 何しているんだ爺さん?」
「そういえば助けてもらった恩を返しておらなかったからの。お礼にちょっとした助言を授けてやるわい」
地面に座り込んだゾンネが懐から透明の水晶球を取り出した。多分、以前ソミアの悩み相談で使っていたものだろう。どうやらあの時と同じように、今度はノゾムの悩みにアドバイスをくれるらしい。
一体どこにその水晶球を持っていたんだろうというノゾムの疑問を余所に、ゾンネはノゾムに手招きしている。
「ホレ、偉大なワシがせっかく観てやると言っておるんじゃ。早くせんか」
「だが……いや、分かったよ」
戸惑いはしたが、特に断る理由もない。
ノゾムは苦笑を漏らしながら、ゾンネの前に座って水晶球に手を触れた。さらにノゾムの手の上からゾンネが手をかざす。
ソミアの時のことを考えれば、触れた人間の悩みや心理状態で水晶球の色が変わるはずだ。
だが、ノゾムの予想に反して水晶球の色は透明なまま全く変わらなかった。
「爺さん、何も起こらないぞ?」
「あれ? おかしいのう……」
ゾンネが顎に手を当て、眉をひそめながら水晶球を覗き込む。ノゾムには、ゾンネの表情が、何故かいつもよりもずっと真剣味を帯びている様に見えた。
普段とは違うゾンネの表情。森の中で魔獣に襲われたときも見ることがなかったその顔に、ノゾムは妙な違和感を覚えた。再びゾンネが手をかざす。
次の瞬間、ノゾムの指に突然痺れが走った。
「っ!」
思わず水晶球に触れた手を引っ込めてしまうノゾム。目の前で手をかざしていたゾンネの表情はいつの間にか普段通りの間の抜けた顔に戻っている。
「ん? どうしたんじゃ?」
「い、いや、何でもない。ちょっと痺れが……」
「ちょっと魔力が漏れたかの? まあ大丈夫じゃろう。ホレ、ちゃんと水晶に触れとるんじゃ」
「あ、ああ……」
唐突に変わったゾンネの雰囲気に首を傾げながらも、再びノゾムが水晶に手を触れると、やがて透明だった水晶が淡く色付き始める。
始めは青く光る水晶球。やがて薄い灰色に変わり、徐々にその色が濃くなっていく。
やがて、濃灰色に染まりきった水晶球を眺めながら、ゾンネがゆっくりと口を開いた。
「あの時のソミア嬢ちゃんと同じ灰色。迷いを抱えている所は、同じじゃな。しかし、お主の悩みは随分と長い間にわたってお主を苦しめているようじゃ。この水晶球がこれだけ濃い色に染まってしまったからの」
そう言いながら、ゾンネは灰色に染まりきってしまった水晶球をコンコンと小突く。
「じゃが、それでもお主はこの問題に対して冷静さは保っておる。最初に見えた青色は知性や落ち着きを意味するからの」
そこまで話して、ゾンネは大きく息を吐いて一端話を切った。
「しかし、この悩みの深さゆえにお主は考えすぎている所もあるかもしれんのう……」
「え?」
ゾンネの言葉にノゾムは息を詰まらせた。
目の前の老人はやや呆れた様な。それでいて少し親近感を覚えるような眼差しでノゾムを見つめている。
その目の奥にある見覚えのある色。どこかで見たようなその眼差しは、郊外の森での師の想いを受け止めたときを連想させる。どこか憂いを帯び、そして後悔に彩られた眼差しだった。
だがゾンネはそんなノゾムの心中を知ってか知らずか、口元に笑みを浮かべて話を続けた。
「元々人の関係など、根本的に一つしかあるまい。相手の事が好きか嫌いか。それだけじゃ。もちろん相手に対してどのような好意や嫌悪を抱いているかはあるがの……。傍から見ているとお主は考えすぎて自縄自縛に陥っているように見えるわい」
再びノゾムの心が鋭く貫かれる。
前に進まなければと思いつつ、何処か前に進み切れない。
それは間違いなく、この2年間で開いたリサ達との距離にノゾムが躊躇していたからに他ならない。
もちろん、彼は一度その距離を縮めようとした。しかし、それは彼を陥れた親友によって瓦解している。
その事実がノゾムが再び彼らに踏み込むことを躊躇わせる。いや、そもそも彼自身はかつての仲間の事をどう思っているのだろうか。
「俺は……」
かつて傍にいたいと思った相手。そして、その背中を守りたいと思った人。
その背中はあまりに遠く、そして今では自分の願いすら霞んでしまっている。
「離れている時間が長ければ長いほど、想う時を重ねれば重ねるだけ、人の心は自分の想いに絡め取られてしまう時がある。輝くような時間を過ごしながらも、身を引き裂くような思いを併せ持つ記憶は特にそうじゃ」
思い起こされるのは、あの約束を交わした瞬間。故郷の村で想いを伝えた時の記憶。
“好きな子が夢を叶えたいって言ってるならその力になりたい!”
その言葉がノゾムの脳裏に甦る。自分の原点。そして、自分が逃避の理由に変えてしまった己の記憶。
それはまるで星々の光のように瞬きながらも、毒のように彼の心を蝕む。
アイリスディーナもフェオも、少年と老人のやり取りに聞き入っている。
フェオはどこか楽しそうに目の前の2人のやりとりを眺めている。
そしてアイリスディーナは胸に手を当て、固く握りしめていた。己の心臓が締め付けられるような感覚と共に。
やがてノゾムは大きく息を吐きながら、ゆっくりと口を開いた。
「そう、かな。……いや、そうかもしれない」
彼の口から出た肯定の言葉。彼自身、今ゾンネに指摘されたことを否定する理由も根拠もなかった。ただ、喉の奥の言いようのない苦みが残る。
「俺、今でもリサに夢を追ってほしいのかもしれない」
まるで独白のような言葉。誰に向ける訳でもなく、まるで自分自身が確かめるように、ノゾムの口は言葉を発している。
“好きだった”と言う感情は確かにあった。未だその感情があるのかは彼自身にも分からないが、それでも事実と記憶は確かに彼の中にあるのだ。
そして、その理由故に彼がソルミナティに残ることが出来た。その事実が、彼の独白を裏付ける。たとえ逃避の理由になろうが、その原点が今まで彼を支えてきたことは事実なのだ。
彼の師も言っている。
“逃げることは構わないでも、自分が逃げていることは自覚してほしい”
シノは決して答えを強制していない。あくまでも決めるのはノゾム自身。ノゾムは師とゾンネの言葉を心の中で反芻する。
頭の中によぎるのは自分の夢を誇らしげに語っていた幼いときのリサの姿。
ふと彼は自分に向けられる視線に気付いた。その視線を追うと、そこにいたのは黒髪の少女。
何処か戸惑うような、そして不安に色を瞳に滲ませながら、彼女は決して視線を逸らしたりはせずにノゾムを見つめている。
その瞳を見た時、ノゾムの心に自分でもいいようのない何かが湧き上がってくる。口の中に広がる苦味。それを飲み込むようにノゾムはグッと喉を鳴らした。
「俺は……」
未だに揺れ動く自分自身の心。それを自覚しながらもノゾムの口が自然と開く。だが、次の瞬間、己の目に跳び込んできた光景に、彼は思わず押し黙ってしまう。
彼の瞳に映るのは紅髪の少女の姿。未だに言葉では表せない鼓動を与えてくる人。それが憎悪なのか、好意なのか。
「リサ……」
「ノ、ゾム……」
ただ自然と口から漏れる囁きだけが、夜のアルカザムの闇に消えていった。
日が落ち、魔力灯の明かりが照らす石畳を3人の少年少女が歩いていた。
腰に一本の剣を差した金髪の少年と魔法使いが持つ杖を持った少女。そして紅髪の長髪を後で纏め、サーベルと短刀を腰に差した少女。
少年の手には一抱えするほどの麻袋を持っており、
彼女達の向かう先はアルカザムのギルド本部。最新の魔法技術である魔力を用いた灯を惜しげもなく使用し、昼間とは変わらない威容を見せつけている。
既に暗くなり、依頼を終えた冒険者達は各々のねぐらや行きつけの酒場、そして色を求めて夜の街に消えていく。
しかし、このギルドにはそれでもかなりの冒険者達が出入りし、依頼の確認や情報交換に勤しんでいた。
未だそれなりの喧噪に包まれるギルド本部の前に立った3人。その中で杖を持つ少女が前に出る。
「じゃあ、報告と報酬を貰ってくるから、2人は先にお店の席、確保して置いて」
「うん。カミラ、お願いね」
カミラは小さく頷くとケンの手から麻袋を受け取り、ギルド本部の中へと消えていく。
「じゃあ、いこうかリサ」
「うん……」
ケンの声に小さく頷いたリサは、カミラの背中を見送ると近場にある行き付けの食事処へと足を向ける。
辺りに響く喧噪を聞き流しながら、2人は夜の商業区を歩く。
肩が触れそうなほど近くに寄り添う2人。だが、リサの表情はどこか心ここに有らずだった。
そんな彼女の顔を横目でみていたケンがリサに声を掛ける。
「ねえリサ、どうかしたの? なんだか今日はボーッとしているみたいだけど……」
「え!? そ、そう?」
「うん。なんだか依頼品を集めているときもそうだし、その後魔獣と戦ったときもそうだったよ?」
今日彼らが受けた依頼は別に特別な事ではない。薬品の調合に使う香草を森から取ってきて欲しいというものだった。
他の街から運ばれた物でも良いのだが、それらの品は多少割高になってしまう。
それにいくら各国が融資しているアルカザムとはいえ、ある程度の自給能力を有している必要がある。
そうでなければ、何らかの理由で物資の輸送路が寸断された時、街の機能そのものが停止してしまう危険性を孕んでいるからだ。
「そんなことないよ……」
「…………」
努めて平静を装いながらケンの言葉を否定するリサだが、ケンは僅かに眉をひそめた。
リサの頭には、同級生に手を惹かれていくノゾムの姿がチラついている。今日あのギルド本部の前で見た光景が、どうしても彼女の脳裏から離れてくれなかったのだ。
同じクラスの黒髪の少女に手を引かれていく彼の姿。
リサ・ハウンズにとって、ノゾム・バウンティスという人間は絶対に許せない人間だ。正直その姿を思い浮かべるだけで、今までは全身に火がついたような怒りに襲われていた。
だが、この時彼女の胸を貫いたのは身を焼く炎の槍ではなく、凍える様な氷の矢だった。
身体の芯から全身に伝わる冷たい感覚。リサは一瞬、まるで世界に独りぼっちになったかのような錯覚を彼女は覚えた。
それはあの時と同じ感触。父親を亡くした時、そして、この学園で大好きだった彼に裏切られた時に感じたものだ。
なんでこんな風に感じるんだろう。そんな思考がリサの頭を過る。
彼に対して、自分はもう怒りしかないはずだ。
両腕を抱きしめ、まるで冬の吹雪に耐えるように身を縮める。
だが、そんな彼女の懇願にも似た思いとは裏腹に、胸を穿つ冷たさは徐々に全身を凍らせようとしてくる。
「リサ、大丈夫?」
その時、隣にいる彼がリサの肩をやさしく抱きしめた。彼の手から伝わる熱が徐々にリサの身体に染み込んできた。
伝わる熱がリサの頬を緩ませる。まるで吹雪の中で凍える人が僅かな焚火に縋る様に、リサはその熱を逃がすまいと身をよじらせた。
だが、ノゾムの姿はリサの脳裏に過り続ける。
特総演習の時、屍竜の前に立ち塞がったノゾムの背中。そして、アイリスディーナに連れられていく彼。
胸を穿つ氷の矢は溶けることはなく、その僅かな熱さえ奪い取ろうとする。
そしてリサは、まるで闇夜に怯える子供のように、さらなる温もりを求めてケンに身を寄せる。その時、ケンがリサの顎にそっと触れて自分の方に顔を向けさせた。
自然と縮まる2人の距離。
リサの目に映っていたケンの顔が徐々に近づいてくる。
互いの吐息が相手の顔を撫で、近づいた唇が今にも触れ合いそうになる。
だが次の瞬間、リサの体がビクリと震えた。
「っ!! だめ!」
「うっ!」
瞬間的にリサの腕に力が篭もる。気がつけば彼女はケンの体を引き離していた。
「あっ……ご、ごめん、ケン!」
「い、いいよリサ、気にしなくて」
慌てた様子で取り繕うリサ。ケンはリサに気を使わせないように笑みを浮かべながら手を振っている。
「ごめんね、ごめん。ごめんなさい……」
それでもリサは取り乱したように謝罪をし続けている。目に一杯の涙を浮かべ、今にも泣き崩れそうなほど狼狽えているその姿は、端から見ても胸を抉るほど痛ましかった。
そんなリサを慰めながら、ケンは言いようのない苦みを感じていた。
ノゾムに裏切られたと思いこんだ彼女。それ以降、リサは異性と深い関係を築くことが出来なくなっていた。
手を握ったり、身を寄り添わせることは出来るが、キス以上の行為となると突然拒絶するようになってしまったのだ。
一種の恋愛恐怖症とでも言うのだろうか。たとえ異性でも普通の会話は出来るのだが、恋愛関係に発展しようとすると途端に恐怖に駆られ、相手を拒絶してしまう。
幼馴染みで誰よりもリサの近くにいられたケンですら、リサとの関係を進展させることがほとんど出来なかったのだ。
ケンは当初、ノゾムさえ排除すれば問題ないと思っていた。怒りの矛先をノゾムに向けて、全ての負の感情を彼に叩きつけさえすれば、いつかリサは立ち直って側に残った自分を見てくれる。そう考えていた。
だが現実は彼の予想とは裏腹に、リサの状態は一向に改善しなかった。
それでも今彼女の近くにいられるのは自分だけ。その事実はずっと彼女の隣をノゾムに取られていたケンの心をある程度満足させてくれた。
「ごめんね、ケン。私が臆病でごめんね……」
だが、泣き崩れているリサの姿を見ると、どうしようもない憤りだけがケンの心に湧き上がってくる。
その憤りを必死にノゾムに対する憎しみに変換させながら、ケンは自分の顔に笑顔を貼り付けてリサを慰めるしか出来なかった。
静寂だけが2人を包み込む。しばらくそのまま寄り添っていたリサとケンだが、落ち着いてきたリサがゆっくりと身を離したので、再び2人は歩き始める。
ケンの想いを受け止めてあげられない自分に憤りを感じながら、それでもどうにかして笑おうとするリサ。
だがその時、彼女の瞳があり得ないものを捉えた。
「えっ……」
誰かが自分達の正面にいる。
かつて隣にいて温もりをくれた人。そして自分の心をメチャクチャにしていった相手。
「リサ……」
「ノ、ゾム……」
自然とその名前が口から出てくる。突然の出来事で、リサもノゾム達も固まってしまっていた。
「…………」
静寂が互いの間に流れる。
直接彼らと向き合ったノゾムは、心の奥に燻っていた憎悪が再び鎌首をもたげてきたのを感じていた。
まるで枯れ草の上に落ちた火種のように、ブスブスと黒い煙がノゾムの心に広がっていく。
ノゾムは自分を落ち着ける様にフウッと一息入れた。そのおかげか、心に広がりそうな闇が一時的に治まる。
ノゾムは足を前に踏み出した。
「リサ、ちょっといいか?」
一歩だけ前に踏み出したノゾムは真っ直ぐにリサを見つめたまま、紅髪の少女に声を掛ける。
後ろにいるアイリスディーナ達も何も話さず、事の次第を見守っていた。
彼の視線を受けてリサが僅かに後ずさる。今まで罵声を浴びせてノゾムを拒絶していた時とは明らかに違う彼女の態度。
そんなリサの姿にノゾムは疑問を感じるが、それでも彼は彼女に言葉を掛けようと口を開く。どうしても確かめたい事があったから。
幼いときと同じように、彼女は自分の夢に向かって誇らしげに歩んでいけているのだろうか?
色々すれ違って来た自分達。ノゾム自身の夢は砕けてしまったが、彼女はせめてそうであって欲しいとノゾムは思う。
しかし、そんな彼の前にケンが立ち塞がった。
「ケン、退け……」
目の前に現れた自分を陥れた親友の姿を認めた瞬間、抑えていた憎悪が再び煙を上げ始める。
「君がリサに何をするか分からないのに退くと思うかい?」
「よくそんな事が言えるな……」
まるでリサを守るのは自分だと誇示するようなケンの態度がさらにノゾムの怒りを助長していく。
互いに一歩も引かずに睨み合う両者。ケンは得意げな顔でノゾムを見下ろし、ノゾムは殺気すら籠りそうな目をケンに向けている。
一触即発の空気が辺りに満ちていた。
ちょっとでもきっかけがあれば、2人とも腰の得物を抜いてもおかしくないような剣呑な雰囲気だ。
先に動いたのはケンの方だった。
しかし彼は腰に下げた剣を抜いたりはせず、胸を張ったままノゾムの目の前まで歩いてきた。
至近距離で2人の視線が交差する。
「大体、元はと言えば君が原因だろう? それなのに今更彼女と話なんてさせると思うのかい?」
「俺が原因だと?」
「そう、君が原因さ」
後ろにいるリサやアイリスディーナ達には聞こえないような小さな声。ケンはノゾムにしか見えないように顔を近づけ、口元を吊り上げながら歪んだ笑みを浮かべている。
彼が“ノゾムが原因”と言うのはノゾム自身がリサの足を引っ張ることしか出来ないほど弱かったからなのか、それとも以外の理由からか。
ケンの言葉自体はノゾムをこき落とすような口調だが、その言葉を言い放ったときの彼の目には今のノゾムと同じように、ハッキリとした憎悪の火が見て取れた。
「っ!!」
ノゾムの目に一瞬あの巨龍の姿が映る。5色6翼の翼を広げ、天に向かって怨嗟の咆吼を上げ続けるその姿は、まるで自分以外の全てを滅ぼそうとするほどの激情を感じた。
次の瞬間、まるでティアマットの憎悪に呼応するように、ノゾムの胸の奥からどす黒い怒りの炎が一気に吹き上がった。ズキンと言う痛みが彼の胸に走る。
“解放しろ! 我を解放しろ! 殺させろ! 私に奴らを殺させろ!!”
ティアマットの憎しみの声がノゾムの心に響き渡る。
どのような理由か分からないが、ノゾムがティアマットを取り込んでから今までにないほど巨龍の憎悪は猛っていた。
溢れ出す憎悪と殺気。ケンに対する怒りがノゾムの心を塗りつぶし、ノゾムの心を真っ黒に染め上げていく。
怒りに囚われ始めたノゾムの心もまた、怨嗟の声を上げ始める。
“殺してやる 殺してやる! 俺を、見向きもしなかったものこいつらを殺してやる!”
それは今までにないほど激しい憎しみの奔流だった。
激情に駆られる自分に、彼の理性が警鐘を鳴らす。
“マ、マズイ……”
心の中でティアマット共に怨嗟の声を上げるノゾムと、それを必死に止めようとしているもう1人のノゾム。
僅かに残った彼の理性が必死に激情に駆られ始めている自分を抑えようとしているが、まるで堰を切った様に溢れだした怒りは彼の僅かに残った理性を瞬く間に削り取っていく。
「こ、これ、な、なんかヤバいんじゃ……」
ノゾムの変化を敏感に感じ取ったフェオの顔に動揺が浮かんでいる。隣にいるゾンネもノゾムの異様な雰囲気を察したのか、額に汗を浮かべていた。
アイリスディーナもノゾムを見守りながら、まるで背筋が凍りつくような悪寒を感じていた。
あの時、ティアマットに惑わせされていた時を彷彿とさせるノゾムの雰囲気。いや、あの時よりもさらにイヤな予感がする。
「っ! ケン、お前!!」
声を荒げるノゾム。今まで抑圧されていた彼の感情が怒りに変換され、周囲に一気に放たれた。
リサがビクリと肩をすくませ、ケンが驚きに目を見開く。
今のノゾムは今すぐにでも爆発しかねない。アイリスディーナは胸に湧き上がる焦燥感に駆られるまま、ノゾムを引き戻すように必死で彼の手を掴んだ。
「ノゾム!」
“ダメ! 戻って!!”
怒りに我を忘れかけていたノゾム。その彼の手に温かい感触が広がり、頭の中に凛とした声が響く。
同時にノゾムの頭にリン……という鈴に似た音が響いた。
「……あっ」
ノゾムがゆっくりと後ろを振り向くと、目に涙を溜めたアイリスディーナが彼を見つめていた。
「ノゾム、落ち着いて。お願い、お願いだから……」
まるで縋り付くようなアイリスディーナの弱々しい声。だがその声は、この場にいる誰よりもノゾムの身を案じていた。
ノゾムの頭に上っていた血が一気に下がる。だが、彼の中にいるティアマットはそれでも外に出ようと暴れまわっていた。
かつて無いほどに荒れ狂う巨龍。ノゾムは歯を食いしばってその怒りに流されないように耐える。
額に流れる脂汗。しかし、一度暴れ始めた奴の怒りは中々収まらない。
フウフウと浅い呼吸を繰り返し、目を瞑ってノゾムは自分の内側に意識を飛ばす。
心の中の湖畔で暴れまわる巨龍の姿がノゾムの瞼の裏に映し出される。
浅くなっている呼吸を徐々に落ち着けながら、ノゾムは手に伝わってくる彼女の手の温もりに意識を集中させる。
徐々に薄れていくティアマットの姿。やがてその姿が消えた時、ノゾムは大きく息を吐いて瞼を開いた。
「はあ、はあ……。ごめん、アイリス……」
尋常ではない様子で荒い息を吐くノゾム。その様子を見ていたリサ達も突然変化したノゾムの様子に言葉を失っていた。
ノゾムの謝罪に対して瞳を涙で潤ませながらも、アイリスディーナは良かったと言う様に笑みを浮かべてノゾムの手を握り返す。
ホッと安堵の吐くフェオとゾンネ。ノゾムは力一杯自分の手を握りしめているアイリスディーナの手に自分の手を沿えると、ゆっくりと彼女の手を離す。
「あっ……」
アイリスディーナが漏らした声を聞き流しながら、ノゾムは今一度ケン達に向き合う。
その眼には先程までの怒りに満ちた炎は見受けられなかった。
ノゾムは脳裏に、幼い時にリサが語ってくれた自分の夢の姿を思い浮かべる。
どこまでも続く平原で、地面に座り込んでいるリサの仲間となった冒険者達がいた。
全身に泥が付き、皆の顔には濃い疲労の色が見えている。
よほどの困難を乗り越えた後なのだろう。仲間達の表情は皆一様に硬い。
そんな仲間達に満面の笑みを浮かべて笑いかける彼女の姿があった。彼女の鎧や武器にも泥が付き、顔には隠しきれないだけの疲れが出ている。
だが、それでもリサの目はまるで命を育む太陽の様に輝いていた。彼女の微笑みに力が湧いてきたのか、仲間の顔にも再び笑顔が戻ってくる。
仲間の1人が「行くか!」と声を上げて立ち上がる。1人、また1人と立ち上がり、やがて全員が真っ直ぐ自分の足で立ち上がった。
そして彼らはリサを先頭にしてどこまでも続く平原の先を目指して歩き始めた。先の分からない荒野へと足を踏み出していく彼らの背中はとても大きく見える。
だが、そこにノゾムの姿はない。仲間の顔はどれもノゾムが知らない人のもの。
それでもノゾムはどこか満ち足りた気持ちだった。
ケン達を前にしても穏やかな自分の心に内心驚きながらも、ノゾムは淡々とした口調で、しかし、何処か耳に響く声でリサに声を掛ける。
「リサ、聞きたい事がある」
「おいノゾム。僕の話を……」
ケンが眉をひそめ、荒い口調でノゾムに詰め寄ってくる。先程感じたノゾムの怒気に一瞬でも意識を奪われたことが気にくわなかったのだろうか。
だがノゾムはケンを一別すると少し悲しそうな眼差しを彼に向けた。それが尚のことケンの自尊心に触る。
「ッ……。何だその眼……」
もはや、ケンは完全に敵意のみの目線をノゾムに向けていた。
殺意すら感じるほどのケンの敵意。それを受けとめていたノゾムの顔がさらに悲しそうに歪む。
それでもノゾムは今一度リサに目を向けた。ノゾムに見つめられて、リサはビクリと怯えるように肩をすくませた。
自分の罪の象徴。今まで逃げ回ってきた結果。それを今度こそ受け止めよう。
手に残るアイリスディーナの手の温もりを感じながら、ノゾムはゆっくりと口を開いた。
「リサ、君は以前言っていたよな。父さんと同じ様な冒険者になりたいって。覚えているか?」
「っ!!」
ノゾムの言葉を聞いたリサの顔が一気に歪む。まるで病人のように真っ青になった彼女の顔色、そして胸に突き刺さった氷矢の冷気が、再びリサの全身を襲う。
ぶり返してきた全身の冷たさに、リサの唇が小刻みに震え始めた。
「リサ、答えてくれないか? 君は今でもその夢をちゃんと追えているのか?」
リサの胸中にノゾムと離れてからのここ2年近くの記憶がまるで濁流のように流れていく。
裏切られ、絶望に落ちた時、まるで氷の檻の中に閉じこめられたような冷たさを感じた。
全身を突き刺す寒さが心も体も凍らせていき、最後にはずっと呼びかけてくれていた親友の声すらも感じることが出来なくなっていた。
ケンやカミラに支えられ、なんとか立ち直ったものの、それでも心の奥に突き刺さった氷の矢は溶けることはなく、時折衝動のように全身を凍てつかせる。
そしてノゾムの言葉を聞いた瞬間、氷の矢が一気にリサの胸を抉った。
「うるさい! どうでもいいでしょそんな事! あんたはもう関係ないんだから!」
思わず彼女の口から出た拒絶の言葉。下を向いて言い放った言葉が辺りに響き渡る。
言い放った次の瞬間、なぜか言いようのない後悔がリサの胸を襲ってきた。
あっ……。と思わずリサは声を上げて顔を上げる。
顔を上げた彼女の目に映ったのは、まるで罪を懺悔するような、悲しそうな顔を浮かべるノゾムの姿。
「そう、だよな。目を背けたのは俺だからな。ただ、これだけは信じてくれないか? 俺は……」
「いい加減に!!」
リサに拒絶されても言葉を続けようとするノゾムに顔を真っ赤にしたケンが掴み掛かろうとする。
だが、その間にアイリスディーナが割って入ってきた。伸ばされたケンの手を掴み、そのままのノゾムから引き離す。
即時展開で身体強化の魔法すら使い、ケンを押さえ込みにかかった彼女。ケンもすぐに身体強化魔法を使うが、発動までの間にノゾムと距離を開けられてしまう。
「邪魔は……しないことだ!」
「クッ!!」
だがケンも大したもので、すぐさまアイリスディーナの腕を外して彼女の脇を駆け抜けようとする。
「スマンけど、今はアンタを通すわけにはいかんのや」
しかし、今度はフェオがケンの前に立ちふさがった。2対1ではさすがのケンも突破できない。
ケンに言葉を遮られたノゾムが再び口を開く。リサの顔色は蒼白になり、足下すら覚束なくなっている。
そんなリサの様子に、ノゾムは胸を突き刺すような痛みを感じた。だがノゾムはそれでもリサから目を背けない。もう一度と一歩、彼女に歩み寄る。
だがその時、ノゾムとリサの間に彼女の名を呼ぶ声が響いた。
「リサ!」
自分の名前を呼ばれ、硬直が解けたリサは踵を返し、一目散に駆け出した。
一刻でも速くこの場から逃げ出そうとするリサ。彼女の姿は瞬く間に夜の闇の中に消えていく。
ケンもまたアイリスディーナ達が目の前の光景に気を取られている隙に、リサの後を追っていく。
ノゾムも慌てて走り出そうとするが、その前に先程の声の主、カミラが立ち塞がった。
「ノゾム、あんた一体何をしたのよ!!」
「カミラ……」
カミラは声を荒げてノゾムに食って掛かる。
彼女もまた、リサが恋愛を出来なくなったことを知っている。
自分の心の奥にある恐怖心から、ケンとの仲を深められないことについても相談されていたし、その時の申し訳なさそうなリサの顔も覚えている。
だからこそ、彼女は今までノゾムを敵視し続けた。
「あんた、一体いつまでリサを傷付け続ければ気が済むの! あれからどれだけリサが苦しんできたと思っているのよ!?」
荒々しい声がノゾムの耳に響く。
だがノゾムはリサが走っていった方に目を向けると、真剣な眼差しを彼女に向けてきた。
「カミラ、リサを追うぞ……」
「……え?」
激高していた自分とは違い、落ち着いているノゾムの声。その瞳の奥からはリサを心配する想いが見て取れた。
昔、一緒だった頃のノゾムと同じ眼差し。そして、どこか胸の奥に何かを訴えるような言葉を聞いて、カミラは一瞬言葉に詰まってしまう。その間にノゾムは駆け出し始めた。
「何している、早く!!」
ノゾムの声が辺りに響く。
その声に弾かれるように、カミラ、そしてアイリスディーナ達もまたリサを追って駆け出していく。
後には1人の老人だけが残されていた。