第6章第9節
お待たせしました。第6章第9節です。
大陸中の書物を集めたアルカザムの図書館。
この本の館の一画で1人の少女が淡々と読書に精を出していた。
大空を思わせる蒼の髪が僅かに空いた窓の隙間風に揺れ、整った容貌はまるで人形の様にピクリとも動かないまま、瞳だけが手に持った本の文字の羅列を追い続けている。
蒼い長髪の隙間からピンと飛び出した尖った耳が、彼女が精霊の祝福を最も受けたエルフであることを表していた。
「…………はあ」
淡々とその手に持った書物を読み耽っていた少女、シーナ・ユリエルだが、突然ため息をつくと、大きく肩を落とした。
彼女は何か気になることがあるのか、眉を顰めて視線を宙に漂わせる。
再び手に持った本に目を向けるが、今度は妙にしかめっ面で開いたページを睨みつけていた。
「ああ、もう。全然集中できない。」
読んでいた本を机の上に置き、シーナは再び大きなため息をつきながら図書館の天井を見上げる。
胸の奥に渦巻くよく分からない感覚。まるで今にも駆け出したくなるような衝動に彼女は戸惑っていた。
「いったい何なのよ、もう」
辺りに響かないように小さな声で呟くシーナ。
何でもいいから声を出せば少しは胸の奥の衝動も治まるかなと思ったが、彼女の予想とは裏腹に衝動はより大きくなっていく。
思い出すのは今日の昼時の出来事。
昼食を皆と取っていた時にノゾムがアイリスディーナの頼みごとを受けた時の光景だった。
やや緊張した面持ちでノゾムに頼みごとをするアイリスディーナと、言葉に詰まりながらも了承の意思を伝えたノゾム。
アイリスディーナはいつもの彼女らしくなく緊張した面持ちだったが、彼が了承した時に漏れた笑みは同じ女性であるシーナですら見惚れるほど綺麗だった。そして、そんな彼女にノゾムもまた目を奪われていた。
「大体何よ。いくらアイリスディーナさんに誘われたからってあんなに……」
アイリスディーナに見惚れていたノゾムを思い出して、憤りが一気に湧き上がる。しかし、間欠泉のように一気に立ち上った胸のムカつきはすぐさま治まり、代わりに言いようのない後悔が襲ってきた。それは、自分もまたその依頼に誘われたのに断ってしまった事実があるからだ。
あの時、ノゾムとアイリスディーナにペアに割り込んだフェオ。何やらニヤけた顔から、彼がまた碌でもない事を考えている事は、彼女には手に取るように分かった。面白いからと言う理由だけで色々なことに首を突っ込む狐尾族の青年の事だから、今回の彼女の依頼に飛びつくことは不思議ではない。
だが、彼はすぐにシーナにも一緒にどうだと誘いを掛けてきた。ニヤついた顔から考えるにろくでもない事を考えていたのだろうが、シーナはその誘いを断ってしまった。
「はあ、なんで断ったりしたのかしら……」
つまる所、彼女がここにいるのは彼女の選択故なのだが、それでもシーナは胸の奥にモヤモヤと広がっていく嫌な感覚に、どうしようもなく顔を顰めるしか出来なかった。
そんな時、シーナの耳に最近よく聞くようになった女性の声が響いてきた。
「シーナさん?」
「ティマさん? 貴方どうしてここに?」
シーナに声を掛けてきたのは、同級生のティマ・ライムだった。彼女は両手に数冊の本を抱えている。
「ええっと、その……」
少し押し黙るようにしている彼女の手にあった書物は、主に風系統の呪文や魔力制御術式について書かれた書籍。
風、そして魔力制御を必要とする人間。シーナにはそれを必要とする人間は一人しか思い浮かばなかった。
「ああ、マルス君の……」
「うぇ!?」
おそらく彼女はマルスが身に付けようとしている技術の手助けをしようと思っていたのだろう。魔力制御だけでなく、風系統の呪文についても調べていたことが証拠だ。
自分の一言にあからさまな動揺を見せるティマを見て、シーナの頬が自然と弛む。
「別に言いふらすつもりはないわ。それより、彼の調子はどうなの? ノゾム君の“あの力”程ではないにしても、彼が身に付けようとしている技術も御すには一朝一夕とはいかないと思うけど……」
「うん、近頃は成功率の伸びも頭打ちになっているみたい。だからかどうか分からないけど、マルス君は最近あの併用術の実践とかはあまりしなくなったわ」
「まあ、あんなことがあったから、彼も思う所があるのでしょうね」
シーナの言葉にティマは小さく頷いた。
マルスがノゾムの持つ力に対して感じていた複雑な感情。ノゾムの研ぎ澄まされた気刃を賞賛しながらも、強くなりたいという思いから生じた焦り。
その焦燥感に煽られて暴走し、命の危機に陥った事件は今でも鮮明に思い出すことが出来る。
「だからかもしれないけど、マルス君、最近は気術よりも魔法の制御とかを集中的にやっているみたい……」
「そうなの? 彼が使う術は主に気術だから、まずそっちの方に集中するかと思ったのに……」
「マルス君の話だと、魔法の方はあまりやってこなかったから、そっちの方の下地をきちんと作ることにしたみたい。もちろん気術の訓練もしているんだけど……」
「まあ、どちらにしろ。彼の併用術は気術だけじゃなくて、魔法の術式や魔力の制御も必須だから、魔法と気術、どちらの練度も磨かないといけないのだけれど……」
マルスがノゾムの気刃を目の当たりにした結果、欲した力。魔法と気術の併用術は、元々異なる力を同時に使うが故に、気だけではなく魔力に対しても極めて高度な制御力を要求する。
今までのマルスは気術ばかりを使ってきたために魔法に関してはおざなりだった部分がある。それをなんとか修正しようとしているのだろう。
「それにしても、貴方もよくやるわね」
「べ、別にイヤじゃないよ……。ただ、その……」
マルスは風属性の魔法だけならかなりの適正を持つ。おそらく彼女は、マルスがそこから魔法制御の足がかりを掴めたらと思っているのだろう。事実、マルスが併用術を成功させた時、使っていた魔法は例外なく風属性だった。
頬を赤らめながら下を向くティマ。モジモジと手に持った本の表紙の端を指先でいじりながら、彼女はまるで呟く様に小さな声でそう言った。
そんなティマの様子を眺めながら、シーナはふと思った疑問について彼女に尋ねてみた。
「ねえ、どうしてそんなに彼のことが気になるの?」
「え?」
「私が言うのも何だけど、マルス君は悪い人じゃないけど、少し粗暴なところがあるわ。どちらかというと貴方は敬遠しそうなタイプの男性だったから、貴方が彼に好意を抱くのがちょっと不思議に思ったのよ」
好意と言う言葉に反応して、ティマのほんのり火照っていた頬が一気に熱を帯びる。
「こ、こここ、好意だなんて!」
「……まさか、気付かれていないと思っていたの?」
「あ、ああう……」
顔全面を真っ赤に染め上げながら、呂律の回らない口調で捲し立てるティマにシーナは呆れた様な顔を見せる。
しばらく目線を宙に彷徨わせていたティマだが、やがて大きく息を吐くとゆっくりと口を開き始めた。
「最初は……凄く怖かったよ? いきなり睨まれたりしたし……」
懐かしい思い出を語るように、図書館の天井を見上げながらティマがそう独白する。
シーナとしてもフランシルト家とウアジャルト家との確執については大まかに聞いていたものの、詳しい内容までは聞いていなかったため、ティマとマルスが互いを意識するきっかけに耳をそばだてた。
「彼も私に良い感情を持っていなかったと思うの。私、根暗だから……」
指を組み、ちょっと暗い顔を浮かべるティマ。彼女自身、自嘲的な自分の性格があまり好きではない。
でもだからこそ彼女は自分とは違い、自信に溢れたアイリスディーナのような人間に憧れにも似た感情を抱く。
「でもルガトさんが来てソミアちゃんが危なくなった時、私を助けてくれたのがマルス君だった」
大事な親友のかけがえのない家族。ティマにとっても妹のような存在であった少女。
ソミリを守るためにルガトの使い魔を封じ込めていたティマに襲いかかってきた魔力弾を横から弾き飛ばしたのが、自分の事を嫌っていると思っていたマルスだった。
その時感じた一体感。それから彼のことを考える度にじんわりと体の奥に染みこんでくる感情がある。
その思いは時に激しく胸をかき乱し、時に手足の先まで真綿で包み込まれるような暖かさをくれる。
「上手く言えないけど、凄く気になるの……」
その思いをティマは面と向かって他人に伝えることは出来ない。人に対して一歩引いてしまう彼女は、人に対してどうしても尻込みしてしまう。
でも口では言えない代わりに、ティマの表情は言葉以上に彼女の秘めた思いを表していた。
だってそうだろう。マルスの事を話している時、彼女は一度たりとも下を向かなかった。人見知りの彼女は、他人と話す時はどうしても俯きがちになるのに。
おまけに頬まで真っ赤に染めている。これで分からない人間はコミュニケーション能力に重大な欠陥を抱えた、俗に言う“空気読めない”奴ぐらいだろう。
「そう……」
シーナもまたティマの持つ秘めた感情を察することは出来ていた。それが彼女の胸の奥をかき乱していく。
脳裏に思い浮かぶのはやはり、黒髪の女性の頼みを恥ずかしがりながらも引き受けた彼の姿。先程まで感じていた言いようのない衝動が再びシーナの胸の奥から湧き上がってくる。
沈黙が2人の間に流れる。聞こえるのは窓の外から聞こえてくる街の喧騒だけ。
だが、そんな2人の静寂の中に良く聞き知った声が響いた。
「やっほー! シーナ、ティマさん。珍しい組み合わせだね?」
「ミムルさん?」
シーナとティマの2人の会話に割って入ってきたのは、同級生のミムルだった。彼女が普段訪れない図書館に顔を出したことにシーナがやや驚いたような顔を見せる。
「貴方、どうしてこんな所にいるの? ここは図書館よ」
シーナとティマという組み合わせは確かに珍しいが、図書館という空間にミムルがいるのも、見る人が見れば同じように珍妙な光景だろう。
何しろ彼女は座学が壊滅的に苦手で、いつも担任であるインダに説教されているのだから。
「ひ、ひっどいなー、シーナは! 私だって本くらい読むよ!?」
言葉の裏にちょっとした皮肉を加えてきたシーナに、ミムルが頬を膨らませて反論してくる。
ミムルは“これを見てよ”といわんばかりに手に持っていた本を掲げるが、その本のタイトルは属性干渉学やら魔力質による反応率の変動やら、小難しそうなタイトルが並んでいた。どう見ても授業の反省文で頭を痛めている彼女が見る内容の本ではない。
「そういえば、貴方の恋人のトムはどこ?」
「トムならあっちで調べ物を……」
シーナの一言でミムルが指さした先では、小さな腕にこれでもかと資料を抱えたトムがいた。彼はシーナ達に気づくと、資料を一旦近くの机の上に置いて彼女達の所にやって来る
「こんにちは、シーナ、ティマさん。あ、ミムル、探していた資料を持ってきてくれたんだね。ありがとう」
「…………」
トムの一言に固まるミムル。シーナの“やっぱりか”という視線が彼女に向けられた。
「……やっぱり、この図書館に用があったのはトムなのね?」
「ん? 何?」
シーナの瞳が嘘をついたミムルをジロリと睨みつける。ちょっとした見栄からの嘘があっという間にばれたミムルは、羞恥心からか顔を真っ赤にして下を向き、肩を震わせている。
一方、状況が把握できないトムはただ首を傾げるばかりだった。
「ト、トムの馬鹿――――!」
「え、ええ!? なんで~~!?」
持て余した羞恥心。耐えられなくなったミムルがトムに詰め寄って掴みかかる。トムは狼狽えることしか出来ない。
ミムルは“なんで話を合わせてくれないのよ!”とか“トムは私に味方のはずでしょう!”などと捲し立てているが、正直話の流れを理解していないトムには全く事情が飲み込めない。
とりあえず、トムが本人も訳が分からないままミムルが落ち着くまで彼女を宥め続ける。
そんな2人の様子を眺めながら、普段と全く変わらない友人の姿にシーナはため息を漏らすことしかできなかった。
ついでに言えば、そんな大声で喚けば当然周囲の目線を集めることになる。
周りで読書をしている人達の“静かにしろ”という視線を受けても、興奮したミムルはその無言の抗議に全く気付かない。
「ミ、ミムルさん……」
「ティマさん何!? 今大事な所……あっ」
ティマがミムルの名を呼びながら彼女の肩を叩く。トムに掴みかかりながら顔だけをティマに向けたミムルは、その時ようやく周囲の視線に気付いた。
「あ、あははは……す、すみません」
引きつった笑みを顔に浮かべながらトムに掴みかかっていた手を離し、周囲の視線から逃れるように、そそくさと恋人の陰に隠れる。
しかし、隠れる場所がさっき掴みかかっていた相手の後ろというのはどうなのだろうか。
トムよりもミムルの方が背は高いので、彼女の体は隠れ切れていない。耳をペタンと畳んで身を縮こませている姿は、見る者によっては猛烈な庇護欲をかき立てられるだろう。
しかし、トムとティマは乾いた笑みを浮かべるだけだし、シーナに至っては頭痛をこらえるように額に手を当てて項垂れていた。
「トム、貴方も大変ね」
「いいんだよ。慣れてるし」
自分の後に隠れている恋人の頭を後ろ手で撫でながら、トムが独白するように言った。その顔に嫌悪のような負の感情はない。
彼にとってもミムルが持つ自分に正直な姿に惹かれているのかもしれない。いつの間にか彼の顔には呆れではない自然な笑みが浮かんでいたのだから。
恋人に頭を撫でられ、ミムルが気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らす。
“ふみゃ~”と猫なで声すら聞こえてきそうな光景に強ばっていたシーナの頬も自然と緩んでいた。
日だまりで昼寝をしているときのような、温かい空気が彼女達を包み込む。そんな時、幼い声が彼女達の耳に届いてきた。
「あ、あの~。皆さん何しているんですか?」
その場にいた全員が声のするように目を向けると、そこにいたのは、艶のある黒髪を肩で切りそろえた小柄な少女だった。
彼女は先程のミムルのように、数冊の本を手に抱えている。
「ソミアちゃん……どうしてここに?」
「あ、ティマちゃん。やっほ~~」
周囲に迷惑にならない程度で元気よく答えるソミア。大きく手を振れない代わりに元気一杯の笑顔を彼女に向ける。相変わらず太陽のような女の子だ。
「ソミアちゃんは調べ物に来たのかしら?」
「はい! ちょっと学校の授業で分からないことがあって。皆さんはこんな所で何をしていたんですか? なんだか随分騒がしかったみたいですけど……」
「ああ、またミムルが自分で自分の尾を踏んで大騒ぎを……」
「はい、その話終了! そんなことより珍しいよね、シーナとティマさんが2人きりって。何話していたの!?」
つい先程まで恋人の影で小さくなっていたミムルが身を乗り出し、話を無理矢理変えようとして2人の間に割り込んできた。
そんなミムルの再び強くなった周囲からの抗議の視線にシーナは大きくため息を吐く。聡いソミアもこれだけで何があったのかを察したのか、引きつった笑みを浮かべながら頬をポリポリと指で掻いていた。
「一緒にいたのは偶然よ。それより何でそんなに興味津々なのよ」
「いや、何となく私のひげが甘酸っぱい匂いを感じたから……」
「なによそれ。大体、山猫族のひげにそんな能力あったかしら?」
「ええっと、私は聞いたことありませんけど……。あ、ミムルさんちょっと可愛い」
自慢するようにひげをピクピク動かしながら胸を張るミムルにシーナが疑わしい視線を向ける。
ソミアもしきりに首を傾げているが、彼女はどちらかというとミムルのひげの動きが気になるようだ。
元々猫好きの彼女。可愛いものが大好きなだけに、そんなちょっとした仕草に心惹かれるのかもしれない。
「ふふん! 恋する乙女は敏感なんだよ? ティマさんだって恋する乙女なんだからそうでしょう!?」
「ええっ!?」
3人のやり取りを傍から眺めていたティマがいきなり話を振られて驚きの声を上げる。
先程まで自分が話をしていた事を思い出し、ティマは一気に頬が熱くなっていくのを感じた。
「あれ? 違った? マルス君の名前が聞こえたと思っていたんだけど?」
「……盗み聞きしていたのね?」
シーナの疑わしい視線が責めるようなものに変わる。ミムルはしまったとでも言うように苦笑いを浮かべ、“あははは……”とその口から乾いた笑いを漏らす。
だが切り替えの早い彼女。シーナが説教をしようと口を開く前に傍にいたティマに詰め寄る。
「で、話していたのはマルス君の事!? そりゃ好きな人のことなんだから気になるのは当たり前だよね!」
「…………」
シーナの目尻がつり上がるのを無視し、ミムルの悪戯っぽい笑みがティマの視界一杯に広がる。
ティマは“うう、あう……”と声にならないうめき声を上げるだけ。
彼女は助けを求めるように辺りに目を向ける。偶然彼女の目が捉えたのは、親友の妹であるソミアの姿。
11歳児に頼るのもどうかと思うが、親友と同じように芯の強いところのある彼女なら助けてくれるかもしれない。
そんな期待がティマの胸に湧き上がるが……。
「あ、私も興味あります。どんな話だったんですか?」
「ええ!?」
彼女の願いはソミア本人によっていきなり断ち切られた。
ティマの想いとは裏腹にミムルと同じように目を輝かせてズイッと身を乗り出してくるソミア。
「あっ、やっぱりソミアちゃんも気になる?」
「はい。将来の為にも聞かせてもらおうかと……」
「し、将来って……ソミアちゃんにはちょっと早いんじゃ……」
「えっと、そうかな? 同級生でチューした友達もいますし……」
「え!?」
ソミアと同級生という事はそのキスした子も11歳くらいという事だろう。ちなみにティマは、今まで男の人とは父親以外では手も握ったことがない。当然だがキスなど経験があるはずもなかった。
キス、キス……。11歳でチュー。
ティマの脳裏で向き合う2人の男女の姿が過る。
見つめ合う2人。交わる視線。互いの呼吸すら感じるほどに近づいていく2人の距離。
やがて相手の顔が視界いっぱいに広がり、やがて……。
「あぅ……」
そこまで考えたところで、ティマは顔を真っ赤にしたまま目を回してしまった。頭の中がピンク色の光景で一杯になったせいで脳がオーバーヒートしたらしい。
「ありゃ? 弄り過ぎた?」
ミムルが放心してしまっているティマを覗き込み、ツンツンと彼女の頬をつつくが、全く反応がない。
シーナはこめかみを押さえながら“またかこの問題児!”と怒り心頭。とにかくこの歩くトラブルメーカーをどうにかしようとミムルの頭を引っ掴もうとする。
だがしかし、手を伸ばしたところでソミアの視線に気付いた。何故か自分に向けられた純粋でまっすぐな瞳に、彼女はつい伸ばした手を引っ込めてしまう。
「え、ええっと、ソミアさん? それって本当の話なの?」
「はい。でもランサちゃんの話だと、けっこうしている友達もいるみたいなんです。メリーちゃんに、キネアちゃんに……」
「そ、そう……」
聞いた人の1人2人と名前を呼びながら、ソミアが指を折っていく。
片手では足りずに両手と使い、更に両手でも足りずに折り返して数えていく。
「も、もういいわ、ソミアさん……」
「え? そうですか?」
引き吊った笑いを浮かべるシーナ。止めなかったら一体何人の名前が出てくるのだろうか?
意外と進んでいる年下の恋愛事情を聴いて動揺した彼女の脳裏に妙な考えがよぎる。
「もしかして、ソミアさんも……」
「え、私ですか!? いいえ、私はしたことありませんよ。父様や姉様からも慎みを持ちなさいって言われていますから!」
「そ、そう。それもそうね……」
慎みという言葉からはちょっと想像できないような元気な声で答えるソミア。どうやら彼女はそのような経験がないらしい。
「姉様も私も、簡単に相手を決められない立場ってことは分かります。こういう所が少し残念だなって思いますけど……」
口元に笑みを浮かべながら少し寂しそうに微笑むソミア。その姿はとても11歳の女の子とは思えないほど大人びて見えた。
よく考えれば彼女もまたアイリスディーナと同じフランシルト家のご令嬢。そのあたりの分別はきちんと弁えているのだろう。
当たり前かと思いつつ、シーナは内心そんな彼女たちの家事情に少し共感を抱いた。
エルフは10年前の大侵攻で故郷を失い、多くの犠牲を出した。
彼らは元々この大陸の中でも長い寿命を持つ種族であり、それゆえに子孫を残しにくい。
安住の地を失い、大きく数を減らしたエルフは、常に種族そのものの絶滅という危険に晒されることになる。
その対策として、エルフの長老達は子供を残せる適齢期の男女の婚姻を勧めていった。
当然シーナにも縁談の話は舞い込んでくることになる。当時の彼女は精霊魔法が使えなくなってしまっていたが、子供を残すことにはあまり大事ではなかった。
だが、彼女はそれを断わり、このアルカザムにやって来る。その目蓋の裏に燃え盛る森と地に伏した家族。そしてあの黒い魔獣の姿を焼き付けて。
自分の意志で将来の相手を決めることが難しい者同士。そういう意味では、シーナとソミアの2人は共通していた。
「まあ、難しいわよね。色々と……」
ポンポンとソミアの頭を撫でながら、シーナが独白する。
ちっぽけな個人で変えられる環境は限られている。幼い時、それを実際に体感している故の言葉かもしれない。
確かに独りでは大したことは出来ない。死に物狂いで鍛錬し、磨き上げてきた技もあの黒い魔獣相手では簡単には通用しなかった。
だが、それでも彼女は穏やかに微笑んでいた。
「やっぱり、最近変わったよね、シーナ」
ミムルの傍でずっと話に入ってこなかったトムが、にこにこしながらシーナに話しかけてきた。
友人を傷付けた責任感から暴走してシーナ1人で黒い魔獣と相対した時、昔のままなら憎むべき魔獣に殺されていただろう。
だが2年間、この学園で触れ合った人たちの力でその危機を乗り越えることができた。
結ぶ事ができた絆。その力を実感したからこそ、彼女は今を笑うことができているのだろう。未熟な自分を理解し、飲み込み、そして変わっていけることを知ったから。
「そう……かもね。もっとも、今でも恋とかはよく分らないけど……」
敵討ちと故郷奪還を目標に今まで生きてきた彼女。種族の事を考えれば何れ誰かと結婚しなければならない事は理性で分かってはいるが、どうにも恋愛というものがよく分らない。
でも力になりたいと思える人はいる。目の前でニヤけている親友とその恋人。可愛く微笑んでいる小さな女の子とその家族や仲間達。
「そして……」
一振りの刀を携えた、どこにでもいるような普通の少年。
抱えてしまった力や幼馴染の事など困難が尽きないし、悩みすぎてしまって落ち込んだりするところもあるが、それでも悪態をついていた自分を迷いなく助けようとしてくれた人。
ミムルの言う恋というのは、シーナはまだよく分からない。だけど……。
シーナの手が自然と自らの唇に伸びる。
「そういえば、シーナはノゾム君とキスしたんだよね。せっかくだからその時の感想をソミアちゃんに教えてあげれば?」
「……はあ!?」
「そ、そういえばそうでした! シーナさん、ノゾムさんとキスしていたんでした!」
キス、キス、キス……。その言葉がシーナの脳裏をぐるぐると回り続ける。
思い出すのは森の中でかの龍に取り込まれかけたノゾムを助けたときのこと。
彼の意識を引き戻すために使った契約魔法。その時の契約方法は……。
絹のように白いシーナの肌が一気に紅潮する。ぐるぐると回る頭は熱暴走を起こし、体裁とか知性とか、日常で色々と大事なものを問答無用で一気に彼女の頭から放り出してしまう。
「お願いします! 教えてください! どんな感触でしたか!? 味はやっぱりレモン味!?」
「な、なんでそんなに興味津々なのよ! ランサって子の話をしていた時とは全然違うじゃない!」
「別にいいじゃないですか!? 私は頬にしかキスしていないんですから、唇にキスした時はどんな感触なのかな~って……」
「え!? それってどういうこと!? キスしたって何時!?」
「デートしたときです!」
ソミアのデートを尾行していたミムル達をシーナが発見した時、既にソミアは彼の傍から離れていた。だからこそシーナはソミアがキスしていた事を知らなかったのだ。
ちなみに、ソミアの話がいつの間にかキスした友達の話からどこかの誰かの話になっていたことにソミア自身もシーナも気付かない。
シーナ本人にとっては色々と発覚した新事実。いつの間にシーナ自身もその話に乗っていた
だが、何やら話がヒートアップしていく2人を、ニヤニヤと意味ありげな顔でミムルが見つめていた。
「でも今ノゾム君、アイリスディーナさんと一緒に! 依頼を受けたんだよね~。誰の邪魔が入らない場所で2人っきり! 今頃ノゾム君とアイリスディーナさんは一体何をしているかな~」
先程感じていた胸のムカつきが再び湧き上がり、シーナの額に青筋が立つ。
いつの間にかフェオがいないことになっているようだが、そんな事は今の彼女にはどうでもいいようだ。
「……ミムル、ちょっとその本棚の裏に来なさい」
「……え?」
来なさいとかいいつつ、悪友の襟首を掴んで本棚の後ろに連れ去ろうとするシーナ。心なしかシーナの傍にいるソミアもちょっと複雑そうな顔をしている。
「シ、シーナ。そんな顔しちゃダメだよ。せっかくの綺麗な顔が台無しじゃ……。ソ、ソミアちゃんも、笑って笑って……ダメ?」
「……ダメ」
笑みを浮かべてお茶を濁そうとするミムルの言葉をシーナが一刀両断する。
どうやら色々と溜まっていたものが噴出したのだろう。彼女の性格的に普段から色々なことを自制しているだけに、反動がすさまじい。
「シーナさん、これ使いますか?」
そう言ってソミアが取り出したのは、千ページはあろうかと言うほど分厚い書物。ミムルがトムの為に探していた書物だ。
さり気なくお仕置きを厳しくするようなものを手渡すあたり、ソミアも容赦がない。
「そうね、借りるわ」
「ちょ、そんなもので何する気!? 下手したら私の頭が凹んじゃう!」
ミムルの必死の叫びを右から左に聞き流し、シーナはソミアが差し出した書物の縁を片手で吊り下げるようにして持っていく。
ほっそりとしているシーナの手がぶ厚い本を掴み上げる様は、言いようのない威圧感を感じさせるものだった。
「だ、誰か助けて!!」
命の危険を感じ、必死に抵抗するミムル。だがそれは徒労に終わった。
先の辞書を掴み上げたシーナを見ればわかるが、弓使いというのは狙いをつけるまで引き絞った弦と矢をその姿勢のまま保持しなければならないので、実はかなり握力が強い。
山猫族の女の子が必死に暴れるが、彼女の襟首を掴むシーナの手はやはりビクともしなかった。
薄笑いを浮かべながらミムルを連行していくシーナ。そして図書館中に響くミムルの絶叫。
ちなみに窓ガラスがビリビリと震えるほどの叫びが図書館中に響いたため、シーナ達は司書達から盛大なお叱りを受け、全員図書館から叩き出される羽目になるのだが、それは誰から見ても自業自得だろう。
司書たちから盛大なお叱りを受け、女子寮にある自分の部屋に帰った後、シーナはそのまま自分のベッドに倒れこんだ。ボフンという音を立てて、ベッドが彼女の体を受け止める。
制服に皺がついてしまうかもしれないが、そんなことが気にならないほど彼女の心は揺れ動いていた。
この寮に戻るまで、ミムルの図書館で言っていた言葉がずっと頭の中をよぎっている。
“誰の邪魔も入らない場所で2人っきり! 今頃ノゾム君とアイリスディーナさんは一体何をしているかな~”
ザワザワとざわつく胸の奥。彼女は明かりもつけずに見慣れた天井を見上げている。
「別に、あの人と一緒でなくても……」
シーナは真珠のような艶やかな頬を不機嫌そうに膨らませながら横を向くと、膝を抱えるように小さく身を縮込ませる。
まるで幼子のような仕草。
しばらくそのままじっとしていたシーナだが、やがて彼女は胸に手を当てて大きく息を吐くと、再び仰向けになる。そしてぼんやりと天井を見つめながら、身体の力を抜いてゆっくりと瞳を閉じた。
やがて、彼女の身体が徐々に淡く光りはじめる。魔力の光だ。
こんな女子寮の一角で魔力を使うことはあまり褒められた事ではない。
普段の気真面目なシーナならこんなことはしないであろうが、彼女は森にいるあの2人がどうにも気になって仕方がなくなっていた。
幸い、ここは彼女の部屋。隣の部屋からも人の気配はない。シーナは辺りの気配に気を配りながらも、徐々に魔力を高めていく。
彼女の体から漏れる、契約魔法にも似た彼女の魔力光。
魔力を一時的に高めた彼女は、精霊契約の時のように周囲に魔力を撒き散らすのではなく、そのまま自分の内のある一点へと魔力を集中させる。
シーナが魔力を集中させたのは、以前契約魔法で開いた魔力路だった。
本来なら自然に消滅していた魔力路。普段ならそのまま何もせずに消すだけの魔力路だが、彼女はその魔力路に自分の魔力を定期的に注ぎ込み、ずっと維持していた。
なぜそのような事をしていたのかは彼女自身にも分からない。ただ、その繋がりが消えてしまう事を考えると、胸の奥にぽっかりと穴があいたような喪失感を覚えたのだ。
壊れかけの魔力路はふとした拍子にあっけなく四散してしまう。
彼女は不安定な魔力路を、大切な宝物を扱うように優しく、丁寧に広げていく。
「ん……」
瞼を閉じ、真っ暗な世界を感じていると、シーナはどことなく寂しい気持ちになってくる。以前の、たった一人でも故郷を取り戻そうとしてきた自分の事を思い出し、シーナの口元に苦笑が浮かんだ。
正直、相手に内緒でパスを繋ぐことは褒められたことではない。異なる2つの存在を結びつける契約魔法は、使いようによっては非常に危険なものとなる。
森での屍竜との戦いの後、再びこの魔力路を繋ごうとしながらも彼女もダメだダメだと自重しようとした。
しかし、彼が目覚め、その口から昔話を聞いたらもう自分を止められなくなっていた。
どこか悲しそうに微笑む彼の顔、そして学園で見る彼の幼馴染達の顔が脳裏にチラつき、どうしようもなく胸が締め付けられる。
それは何処となく、今日図書館で感じていた衝動に似ていた。
「私、すごく気にしてる。彼の事……」
思い出されるのは今日、図書館でティマと2人で話をしていた時の光景。彼女はマルスに対しでどう思っていただろうか……。
徐々に開いていく魔力路の向こうに感じるのは、気になる彼の気配。
真っ暗な彼女の視界が徐々に明るくなっていく。とは言っても彼女は未だに瞳を閉じたまま、その瞼を開いてはいない。闇に包まれていた世界の奥から、白く光る小さな光が近づいてきたからだ。
その光を見た時、シーナの顔の口元が緩んだ。その光を見ると、今まで感じていた罪悪感とか焦燥感とかが嘘のように晴れていく。
今彼女が見ているのは彼の心。かつて命を助けられ、親友との仲を取り持ってくれた恩人の姿だった。
高まる魔力は彼女の体を通して、彼との繋がりをさらに強めていく。
すると目の前の小さな光が閃光と共に暗い闇の中に爆発的に広がった。
突風がシーナの体を襲う。だが彼女は笑みを浮かべたままその風を全身で感じていた。
同時に広がった淡い光がシーナの体を包み込む。彼女はまるで自分の全てが彼に包み込まれたように感じていた。
「ふふ……!」
自然と高鳴る高揚。
やがて雲を突き抜けるような感覚とともに、シーナはまるで全身で風を受け止める様な心地よさを感じていた。
開ける視界。だが突然その先に見えたのはまるで失われた故郷を思い出させるような真っ赤な炎。
「……えっ? ど、どういう事!?」
まるで地獄の業火の様な光景を前に、シーナは驚きの声を上げる。
その炎の照らしだされたのは背中を向けているノゾムの姿。彼と鏡合わせのように向き合っているリサ・ハウンズとケン・ノーティス。
そして、ノゾムと重なるように空中に映し出された、荒れ狂う巨龍の姿だった。
「ダメ! 戻って!!」
一気に高鳴る緊張感。胸を押し潰すような不安と恐怖が湧き上がり、シーナはいつの間にか大声を張り上げていた。