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ハッカの香る朝に

 桃色の月が西の地平線へと静かに沈み、ハッカ蒸しの原には、青白く澄んだ夜明けの光が足元から差し込み始めました。

 昨夜の狂騒が嘘のように、森は深い静寂に包まれています。

 しかし、その静寂は以前のものとは決定的に異なっていました。

 月光によって浄化された空気はどこまでも軽く、地表から立ち上るハッカの蒸気は、まるで新しい世界の産声のように瑞々しく、甘やかな香りを四方に放っています。

 風車小屋の最上階で、ネルは夜通しの調律による心地よい疲労感に包まれながら、天窓の外を見つめていました。

 遠くの丘では、音の種がパチパチと小さな音を立てて芽吹き、空には魚の骨の形をした雲が、朝焼けの淡いオレンジ色に染まりながら悠々と流れていきます。

 ネルは自分の首元に手をやり、真鍮の鈴にそっと触れました。

 昨夜、巨大な月の光を指先で解きほぐした時のあの痺れるような感覚、そして世界そのものと一体になったような不思議な全能感が、今も鮮やかな熱を持って手のひらに残っています。

 階下からは、不機嫌そうな、けれどどこか心地よい規則正しい金属音が聞こえてきました。

 モンジロウが古い真鍮の鍋を火にかけ、朝食の準備を始めた合図です。

 ネルは大きく伸びをして、一年間使い込んできた調律棒を鞄に丁寧に詰めると、木の階段を一歩ずつ踏みしめて降りました。

 小屋の一階には、香ばしいパンの匂いと、モンジロウが偏愛するハチミツ煮の甘い香りが、朝の光に溶け合うように充満していました。

 モンジロウは使い古して煤けたエプロンを首にかけ、大きな背中を丸めて鍋をゆっくりとかき混ぜています。

 その姿は、昨日までも、そしておそらく明日からも変わることのない、この小屋のあまりにも当たり前で愛おしい日常の風景でした。

「……起きたか。月をいじくり回したせいで、耳がバカになってなきゃいいがな」

 モンジロウは振り返りもせずに、ぶっきらぼうな声で言いました。

 その荒い言葉の裏にある、師匠なりの繊細な気遣いを、今のネルは敏感に感じ取ることができます。

「おはようございます、モンジロウさん。耳ならバッチリです。今、東の湿原で一匹の蛙が喉を鳴らした音まで、はっきりと聞こえますよ」

「ふん、ならいい。さっさと座れ。冷めたハチミツ煮ほど、人生を台無しにするもんを俺は知らねえからな」

 二匹は向かい合って座り、温かな朝食を囲みました。窓から斜めに差し込む朝日が、琥珀色のスープをキラキラと宝石のように輝かせます。

 ネルはハチミツに深く浸った果実を口に運び、その圧倒的な甘さに目を細めました。

 美味しいものを美味しいと感じ、静かな朝を静かだと感じること。

 昨夜知ったあの月の正体を思えば、この何気ない食事の時間さえも、いつかは空へ昇り、世界を形作る大切な光の一部になるのだと、今のネルには痛いほどよく分かります。

 食後の茶を飲み終え、湯気が静かに消えていく頃、ネルは意を決して、昨夜から心に決めていたことを切り出しました。

「モンジロウさん。僕、今日からは一人で旅に出ようと思います。まずは南の『水琴窟の森』まで行ってみます。あそこの老猫さんが、雨の音の整理が追いつかなくて困っているって、西風の郵便屋さんが言っていましたから」

 モンジロウはパイプをくわえようとした手を止め、一瞬だけ深い沈黙が二匹の間に流れました。

 暖炉の中で薪がはぜる音や、煙草の葉を詰める細かな音が、やけに大きく耳に響きます。

「……南の森か。あそこのジジイは気難しいぞ。お前のヘボい鈴の音じゃ、一蹴されて追い返されるのが関の山だ」

「それでも、行ってみたいんです。モンジロウさんの大きな背中を見てるだけじゃ、絶対に聞こえない音があるって気づいたから」

 モンジロウはふいと顔を背け、窓の外に広がるハッカの原をじっと見つめました。

 そして、短く鼻を鳴らして、誰にも気づかれないほど不器用に笑ったような気がしました。

「好きにしろ。ただし、その調律棒を折るんじゃねえぞ。あれは俺が若い頃に、トトのジジイから無理やり分捕った業物なんだからな」

「はい! 大事にします!」

 ネルは勢いよく立ち上がり、師匠に対して深く頭を下げました。

 そして、昨夜までの甘えていた自分をここに置いていくように、力強い足取りで風車小屋の重い扉を開けました。

 外に出ると、春の気配をたっぷりと含んだハッカの香りが、全身を祝福するように包み込みました。

 どこか遠くでトトが銀色の缶詰を高く積み上げる音が響き、ジャム職人が雲を煮詰めるための笛を鋭く鳴らしています。

 世界は音に満ち、すべてが正しく、あるべき場所で響き合っていました。

 ネルが歩き出した背中に、小屋のテラスからモンジロウの野太い声が届きました。

「おい、ネル! 腹が減ったら、いつでも戻ってこい。ハチミツ煮の作り方、まだお前に教えてねえからな!」

 ネルは振り返らずに、ただ右手を高く突き上げました。

 こらえきれずに涙が出そうになるのを、ハッカの爽やかな風が優しく拭い去ってくれます。

 モンジロウはテラスの手すりに寄りかかり、小さくなっていく弟子の後ろ姿を、パイプを燻らせながらいつまでも見守っていました。

 弟子がいなくなった小屋は少しだけ静かになるでしょうが、風車は止まることなく回り続け、世界の気配は常に移ろい、調律師の仕事が尽きることは決してありません。

 ハッカの香る朝、新しい物語の旋律が、この琥珀色の原に静かに、けれど力強く響き渡り始めました。

 ネルが進む未知の道の先には、まだ見ぬ音と、まだ見ぬ猫たちが待っています。

 そしてモンジロウは、今日もまた、風のわずかな気配を読み、この世界の微かなズレを直すために、ゆっくりと真鍮の道具を手に取るのでした。

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