僕と隼人
探偵事務所『ハヤブサの目』は八王子駅南口から北斜面を少し上ったところにある。一階が事務所、二階は三LDKの住居、僕と隼人が住んでいる。
一階はドアを開けると広がる事務所、入るとすぐ右側に階段があって二階に通じる。事務所にはソファーセットがあるだけだが、カウンター代わりのローチェストに仕切られて、奥には書架が並んでいる。ローチェストを回り込んで書架の並ぶエリアに行くと端のほうに簡易キッチンもある。だが、ま、事務所が使われることは滅多にない。僕たちはさっさと、居心地のいい二階へと足を運んだ。
二階のリビングで、ソファーを隼人が占領する。
「奥羽ちゃんが来るまで各自待機」
言うなりゴロンと横になり、ソファーの座面と背もたれの継ぎ目に顔を突っ込む。隼人、やっぱり眠かったんだね……
転寝モードの隼人を起こすと凄い剣幕で怒られる。仕方なく僕はみんなに謝り、コーヒーを淹れる。満が気を利かせ、コーヒーカップを用意してくれた。朔は苦笑いするだけだ。
「奥羽のヤツ、どこまで行ったんだろう?」
奏さんが窓を開けて外を覗き込む。十一月の夜風はかなり冷たい。慌てて僕はクローゼットから毛布を出してきて隼人に被せて、ちょっとだけの隙間に座った。起きたら隼人が、狭いよっ! と、怒るかもしれない。
「我儘隼人に、バンは健気だなぁ」
呆れているのか感心しているのか、奏さんがタバコに火をつけながら呟く。
(バンちゃん! 鳥ってね、割と虚弱体質なんだよっ!)
いつだったか隼人が僕に言った。
『鳥類ってさ、少なくとも空を飛べるヤツは消化時間が短くて、常に下痢気味。しかも、骨粗しょう症――さっさと消化して排泄する、わざわざ大と小を分けたりしないんだ。体重を軽くするため骨はスッカスカ、空を飛ぶためさ。そんな感じで実は結構ひ弱だから、ハヤブサ状態でのダメージは人形の時の何倍にもなる。そんなワケで移動にどうしても必要な時しかハヤブサになりたくないんだ』
ハヤブサで急降下したうえ、カノプス壺を出現させたり消失したり、そうだ、見えない壁も出していた。ウジャドの目も何回か使ったはずだ。普段、何にもしないでピヨピヨ文句ばっかり言っている隼人にしてはよく働いた。きっとクタクタだ。それにしたって隼人、おまえ神だろ? もう少しなんとかならないのか?
そうは思うものの、奏さんがタバコを吸い始めれば必ず貰いタバコの隼人が起きもせず、コーヒーの匂いが立ち込めても反応しないとなると、そっとしておこうと思ってしまう。バンちゃんは隼人に甘すぎるって、朔にいつも叱られるけど、そうしてしまう。いつもそう、いつも僕はいつも……
息苦しさを覚えて藻掻いたら、どうやら頭にすっぽりと毛布が被せられている。いつの間にやら僕は眠ってしまったらしい。隼人のヤツ、自分に掛けてあった毛布を僕の頭だけに被せたようだ。
ちなみに人形の時、僕と隼人が窒息死することはない。僕なら小動物、隼人ならハヤブサに化身していれば窒息も溺死もするが、そうなる前に人形――つまり標準形態に戻るから、やっぱり死なない。人形が標準形態の僕と隼人は、そもそも生きていない。僕は吸血鬼で隼人に至ってはエジプトの太陽神、呼吸も鼓動も装備しているだけだ。
「バンちゃんが起きた!」
ダイニングで隼人の声が響き、コーヒーを催促される。たまには自分でやりなよと思うけれど、やっぱり言えない。傅かれる存在の神に言えるはずもない。
寝ている間に奥羽さんも来ていたようで、打ち合わせはすっかり終わっていた。
「で、僕は何をすればいいの?」
僕の質問に、隼人が不思議そうな顔をする。
「バンちゃんに任せる仕事なんてあるの?」
コーヒーカップに顔を隠して満がクスッと笑った。
「バンちゃんはバンちゃん! ボクのご飯作ってコーヒー淹れて一緒に寝てりゃあいいんだよっ!」
「まるで嫁だな」
奥羽さんがぼそっと言って、満が今度は面白くなさそうな顔をする。
「読め? ル・ヌ・ペレト・エム・ヘルでも持ってくりゃあ、読んであげなくもないよ」
ル・ヌ・ペレト・エム・ヘル――『死者の書』だ。
「読むんだな? 本当に読むんだな? ここの一階の本棚にあるのは判っているんだぞ?」
「フン! どうせ出鱈目言ったって、あってるかどうかなんて奥羽ちゃんに判るモンか!」
「聞いてみなくちゃ判らんだろうがっ!」
奥羽さんが立ち上がり、ピョンピョン左右に飛び始める。
「うっさいっ!」
朔が一声吠えて、奥羽さんが縮こまった。
隼人が奥羽さんと遊んでいる間に、奏さんが僕に簡単な説明をしてくれた。
雨を降らせる怪異の正体は判らない。が、朔たちの屋敷と美都麵の前面道路にぶち撒かれたものは同じ。古戦場に染み込んだ武士たちの血を集めたものだという。モアモアちゃんは水分を完全消滅させたもの、ヌメヌメちゃんはモアモアちゃんに水分を補給したもの、隼人はそう考えている。
どちらにしても判断材料が少なすぎる。隼人は朔と満、奥羽さん、奏さんにそれぞれ調査を命じ、具体的な指示を出した。
「奏ちゃん!」
素っ頓狂に隼人が叫ぶ。
「バンちゃんに余計なこと言うな!」
奥羽さんと遊んでいると思ったら隼人のヤツ、ちゃっかり僕と奏さんの話を聞いていたらしい。
「もう帰って! コーヒー飲み終わったらさっさと帰って! ボク、もう眠たいんだよっ!」
隼人が言い終わる前に奥羽さんは階段を降り始めている。朔に促され満が何か言いたげに帰っていく。『それじゃ、隼人を頼んだよ』と奏さんも帰っていった。
「ボク、シャワー。バンちゃん、ちゃんと片付けて」
戸締りをして台所を片付け終わるころ、シャワーを終えた隼人が戻り、交代で僕もシャワーを使う。髪を拭きながらシャワーから出てくると、リビングのソファーで隼人が僕を待っていた。とっくに自分の部屋で寝ていると思ったのに。
上半身は裸のままだ。まぁ、寝るときはいつもそうだ。僕を見るとスックと立ち上がりムッとした顔で僕に近づいてくる。
「バンちゃん……」
「はいっ?」
コイツ、怒ってる、マジで怒ってる。いつもの冗談と違う……
「本当に、モアモアちゃんたちの正体が判らなかった?」
僕を睨みつけたまま、僕の頭にかぶせたタオルに隼人が手を伸ばす。そしてゴシゴシと乱暴に擦り始める。あの、ちょっとぉ。痛いんですけど?
「うん……ぜんぜん判らなかった」
「本当に? 血に敏感な吸血鬼じゃなかったっけ?」
「あ……でも、判らなかった」
隼人の髪が腕の動きで揺れる。ほんの少し赤み掛かった黒髪、真直ぐでサラサラで肩に届く長さで切り揃えられている。
小柄で細身だけれど均整の取れた身体、無駄な脂肪も余計な筋肉もない、だからこそ空を飛べる美しい身体――隼人、おまえ、なんて綺麗なんだ? 僕はつい、見惚れてしまう。
髪を拭いていたタオルを放り投げ、隼人がニヤリと笑う。僕の首に腕を回し、首を少し傾ける。露になった首筋に、僕は吸い寄せられるように口づけた。
熟れたプラムに食いついた時のように、プチっと何かが裂ける感覚、瞬時に甘い香りと味が口の中に広がっていく。隼人の血で胃が熱に冒され、それが全身に行き渡れば至福が僕を包み込む。心が溢れ、体中が満たされて、僕がはち切れそうになる。
「隼人……」
堪らず僕は隼人の名を呼ぶ。隼人の首筋に僕が付けた傷がみるみる塞がっていく。別のものを欲しがる僕の瞳を隼人が覗き込んで笑った。
「お腹いっぱいになった?……なら、もう寝よう。明日は忙しい」




