めおと龍
食卓を囲んで奏さんが、雲大寺の住職から聞いてきた話を披露した。
「あのあたりの地名の多くは夫婦龍の伝説に因るものなんだそうだ」
穴山と呼ばれる地区にはその昔、夫婦龍が住んでいた。穴山とは夫婦の住む穴があったことに由来する。
夫の龍は久喜里川と呼ばれた苦霧川、妻の龍は小母妻川、今の大松川の、それぞれ化身だった。夫婦は仲が良く、二つの川は穏やかで、水が枯れることも氾濫を起こすこともなかった。
そこへ西の国から一体の雄龍がこの地にきた。そして小母妻に恋心を抱き、誘惑した。もちろん久喜里が黙っているはずもない。二体の雄龍の壮絶な戦いが始まった。暗雲が立ち込めて大風が吹き始め、稲光が空を裂いては大雨を降らせた。
「雨が滝のように降った『滝降』、雨がやむように祈りを捧げたのが『雨乞』、広い畑が湖のようになっちまったのが『広水田』、暴風が山を吹き飛ばし風穴を開けたのが『穴吹』と、あちこちにその大喧嘩に由来する地名が残っているんだと」
西から来た龍は若く美しく、そして久喜里よりずっと大きかった。戦う前から勝敗はついていた。それでも久喜里は小母妻を諦められない。妻を深く愛していた。
何日も続く暴風雨に人々が祈りを捧げる。人々は続く嵐の原因なんか知るはずもない。水神、つまり穴山に住まう龍神様の怒りを買ったとしか思えない。なにとぞお怒りを鎮めたまえ……人身御供を差し出した。
「嫁入り前の美しい娘、きっといつか結ばれるはずの伴侶を夢に見ていただろう。久喜里は娘を、そして人々を哀れんだ。人々は我らに祈るしか手立てがない」
勝てる見込みのない争いに、人々を巻き込み苦しめている、その事実に久喜里は己を恥じる。そして争う相手の龍を見る。身体が大きく若くそして美しい。小母妻を幸せにできるのは自分ではなくこの雄龍か? 久喜里が迷う。
「ええぃ! 判った。おまえたちの願い、叶えてやろう」
久喜里は人身御供の娘を抱いて山の中に立て籠もる。人間の娘など欲しくもなかったが退く口実は必要だった。供物を差し出され受け取ったからには、人々の願いを叶えるしかない。
それを見ていた小母妻は見捨てられたと世を倦んで、やはり山に籠ってしまう。小母妻もまた、久喜里を深く愛していたのだ。若く美しく大きな雄龍よりも久喜里を選んでいた――久喜里が籠ったのが夫龍籠山、小母妻が籠ったのが妻龍籠山と言われている。
さて、横恋慕の若い龍は小母妻を思いきれない。かと言って一人で暴れても仕方がない。争う相手は山に籠ってしまって、もう居ない。恋しい相手も山に籠り、引っ張り出すこともできない。温和しく、小母妻が山から出てくるのを近くで待つことにした。この若い龍が相撲川だと言われている。
「ま、住職の話はこんな感じだ。かなり参考になっただろう?」
奏さんの話を、それで? それから? と聞いていた隼人が急につまらなそうな顔をする。そして言った。
「面白いお話、もう終わりなの? もっと聞きたい」
って、隼人、おまえ、おとぎ話を聞く幼児かよっ? 目的忘れてないか?
面白い話ねぇ、と奏さんが苦笑する。
とっくにカレーを食べ終わり、隼人は福神漬けの小鉢に挿したスプーンを弄んでいる。ペロリとやられ、小鉢に戻されたらたまらない。僕は慌ててスプーンを取り上げ、空いた皿を片付けた。
「バンちゃん、コーヒーね。それにプリンも持ってきて」
隼人の声がキッチンに向かう僕を追いかけてくる。
きっと今日から、隼人は奏さんにコーヒーを頼まない。砂糖は三杯までと昨日言われたからだ。僕なら黙って砂糖を五杯入れると判っている。奏さんや朔に、隼人に甘すぎると言われても僕はそうしてしまう。隼人の嬉しそうな顔が見たい。それに、甘すぎるのは僕じゃなく砂糖だ、なんて屁理屈を心の中で考える。
コーヒーとプリンを運ぶころにはみんなリビングに移動していた。隼人はあれきり何も言わないようだ。誰も声を発していない。ただ隼人はそわそわと、どうやら僕を待っていたようだ。
「バンちゃん、早く! 早く座って」
と、自分の隣に座らせようとする。満が僕からトレイを受け取り配ってくれた。カップはそれぞれ決まっている。隼人の隣に座ると、隼人が安心した笑顔を見せた。
そうか、隼人、おまえ、龍神が怖いんだな。そもそもおまえ、水が苦手だよな。いつだったかトリトーンを相手にしたときも物凄く怖がって、あの時は確か逃げたんだった。巨大ナマズに沼に引き込まれそうになった時は、河童の九里さんが助けてくれた。うん、おまえ、泳げないんだよな。空にいる限り無敵でも、地上や水中じゃ滅法弱い。おまえってそんなヤツだよな。
満がみんなにプリンを配った。スプーンを貰った隼人が僕を見る。僕は頷いて、プリンの蓋を外して隼人に渡す。嬉しそうに隼人はプリンを食べ始める。今度のプリンは何も乗っていないプレーンなプリンだった。
プリンを食べながら、ポツリと隼人が言った。
「日本って龍の国だよね――日本自体が龍の形をしてる」
日本列島のことを言っているのだろう。そう言われればそう見えなくもない。
「ねぇ、龍って何を食べてるの?」
隼人の質問に奏さんは唸り、朔と満は首を傾げて見かわしている。つまり、誰も答えられない。知らないのだ。
沈黙の中、五人でプリンを食べ続ける。いつもならさっさと食べてしまう奏さんも朔も、今日ばかりは少しずつ、ゆっくりとスプーンを口に運んでいる。まるでお通夜のような空気の中で、それでもいつかは食べ終わる。
スプーンを僕に渡しながら隼人がまた、ポツリと言った。
「龍ってさ、地面の中に住んでるって言うよね。地震を起こすのも龍でしょ?」
やはり誰も答えない。そうだ、と知っているのに答えない。
「まぁ、いいや」
隼人がそう言って立ち上がった。
「奏ちゃん、大松湖に行って。あそこの駐車場の山の上に祠がある。門の外に階段があったから、そこから行けるはずだ。行けなきゃなんとかして。奏ちゃんならできるでしょ」
「ほいほい、隼人の無茶は今に始まったこっちゃねぇ。なんとかするよ――で、行ってどうすればいい?」
奏さんが苦笑する。でも、どことなく嬉しそうだ。隼人が迷いを吹っ切ったからかもしれない。
「出来るだけ立派な果物を買って、祠にお供えして欲しいの。娘を返してくれって願掛けしてね――それでダメならまた考える」
果物と娘を交換したいってことか。隼人め、随分と娘を安く見積もったもんだ。でも久喜里だって、端から娘が欲しかったわけじゃない。
「九時まで転寝して、十時半に出かける。夜のだよ、間違えないでね。行き先は滝降青少年センター駐車場」
滝降青少年センターは研修施設で、駐車場で車を降りてから少し歩かなければ行けない。駐車場の五百メートルほど手前に数軒の人家はあるが、そこから曲がりくねった一本道を上り駐車場で行き止まりになる。つまり、深夜の時間帯に通る人も車もない。相手の本拠に近いのが気になるが、隼人がそこにすると決めた。誰も異を唱えたりしない。
行ってくるよ、と奏さんが出かけ、朔と満が自分たちの部屋に戻る。夜に備えて休むのだろう。それは隼人も同じだ。
「バンちゃん、ボクの部屋に来てね。背中、貸して欲しいの」
隼人が心細げに僕を見て言った。




