桜の杜
大松城址を右手に見て本松ダムに向かう。
昼間であれば施設内の駐車場を利用できる大松湖は山に囲まれていて、その山にはハイキングコースがあり、苦霧川の源泉などもある。
この川は武蔵国と相模国の境とされた川で、区切川だったのもがいつの間にか苦霧川に変じたらしい。周辺の山も含めこの地域には桜が多く、季節になるとあの有名な芳野山にも似た風景が広がる。地域の住民にもあまり知られていない隠れた名所だ。あまり知られていないのは本松ダム以外に何もないうえ、交通の便が悪く、訪れる人も疎らなことが理由だろう。
本松ダムの門を入り駐車場に車を止めて隼人が大松湖を眺めた。湖は徒歩でなら周遊できるが隼人にその気はないようだ。湖を眺めて首を左右に振ってから、しばらく背後の山を見上げていた。
「揚水式発電で、大松湖は上部調整池……下部調整池も見に行こう」
かくして、大松湖から枯葉平を抜けて下部調整池、多々井湖に向かう。
途中、もう少し先で右に曲がれば枯葉平に繋がる道になるというあたりで、
「そこの谷戸、大松城主たちが自刃した場所だ。地図にある地名は霧原谷戸ってなってる――きっと、腹切りが転じたんだ」
と、右を向いて隼人がぽつりと言った。左を向けば、まさしく大松城址のある場所だった。
多々井湖を堰き止めるのは大松ダム、大松湖は本松ダム、ダムと湖の名前に統一感がなく不思議さを感じる。建設当時、何か事情があったのかもしれない。間違える人が多発するのも無理はない。
で、この大松ダム、国道になっていて渋滞が頻発する。多々井大橋とも呼ばれ、ダムの背を通行する。建設時の予測通行量を大きく上回ってしまったのだろうが、増幅工事なんか出来っこない。いくら渋滞しようと改善方法がない。湖を跨ぐのだからバイパスも難しい。
多々井湖は大松湖と違い、相撲川を堰き止めたものだ。さらに上流には相撲湖もある。多々井湖には芝生の広がる公園が整備され、レジャー施設としては数段、大松湖の上だ。湖の大きさとしとしても遥かに大きい。大松湖に多々井湖から夜間電力で汲み上げた水を、昼間、多々井湖に落とし発電する。
だが多々井湖の目的はそれだけではない。上水道、工業用水、そして治水の役目も果たす。上流には相撲湖、水系は違うものの宮ヶ津ダムが近くにある事を考えれば、雨――水害に悩まされた土地柄だと、誰もがきっと気付くだろう。
奏さんは渋滞を避けるため、湖の北岸を周遊する道路を選んだ。そして多々井湖を一目見るなり隼人が言った。
「もういいや、帰ろう――幽霊ちゃんたちが水死したのはこっちの湖だ」
幽霊たちに翳した掌から感じた風景は一様に多々井湖のものだったと、隼人が言った。幽霊ちゃんたちの生前の記憶らしい。大松湖を見て隼人が首を振ったのは、予測に反した景色だったからなのだろう。けれど多々井湖を見て、一目でここだと判った。
「お屋敷モアモアちゃんたちの出どころは、二つの湖かな。水没くらいじゃ、あんなふうにならないんだけど、同時に言い伝えとかも消えたってことだと思う」
「それで隼人、トプトプ本体は判ったのか？」
奏さんの質問に、
「うん、さっき、前を通った。向こうはこっちを見おろしてた」
隼人の言葉に奏さんは顔色を変え、朔と満が頷きかわす。やはり神か……朔も満も隼人同様、神の存在を察知した。神がいる、神域の前を通っている、と。
「でもね、囚われの乙女の正体がまだ判らない――奏ちゃん、ボクたちを『ハヤブサの目』に送ってから、ちょっと雲大寺に行ってくれる？ 和尚にこのあたりの地名にかかわる伝承を聞いてきてよ」
奏さんは雲大寺の住職と懇意にしている。もちろん住職、奏さんが妖怪と百も承知だ。人を脅かさないと誓った奏さんに助言し、何かと手を貸してくれる。
探偵事務所『ハヤブサの目』でも、物の怪が憑りついた屏風や掛け軸を供養して貰ったりしている。もちろん奏さん経由だ。
雲大寺には、僕たちの仲間は奏さんしか入れない。隼人は異国の神だし、朔と満は大口真神の末裔、寺の聖域は遠慮するしかない。そして吸血鬼の僕が足を踏み入れられるはずもない。いくら神仏混淆とはいえ、どんな神でも仏でも、とはいかない。
奏さんより一足先に事務所に帰ると隼人、例によってお腹すいたが始まる。奏さんがいなければ、作るのは僕だ。満や朔が作ると言っても隼人がそれを許さない。
「ボクはね、バンちゃんが作ったご飯が食べたいのっ！」
と、くる。まぁ、時間も時間だし、夕飯を食べず行くわけにもいかない。いつもは隼人と二人なのだから僕が作っているんだし、今更、料理なんかしたくないなんて僕は言わない。冷蔵庫と相談の結果、僕はカレーを作ることにした。
「ジャガイモいっぱい、ニンジン少な目、玉ねぎは磨りおろし、できればコーン入れて。で、お肉はなぁに？」
出来上がるまで、いつもならリビングで転寝するかテレビを見ている隼人が、今日は僕にくっ付いて離れない。ボクのシャツの腰より少し上を掴んだままだ。
「コーンは冷凍があった、お肉は合い挽き、でも、たっぷり入れるね――玉ねぎを磨りおろすから、少し離れて。目に染みるよ」
隼人、僕のシャツを掴んだまま腕を伸ばし、その距離だけ遠ざかる。
ニンニク・ショウガの微塵切りを炒めて香りを出して、合い挽き肉を加える。さらにジャガイモとにんじんを加えて油をまわし、磨りおろし玉ねぎを汁ごと、さらに水を入れ、ブイヨンを放り込み煮始める。
ちなみに僕は吸血鬼だと言われているけど、太陽光にも十字架にも、もちろんニンニクにも影響されない。隼人は西洋の吸血鬼じゃないからだよ、と言うが、奏さんは隼人の血を吸ったからじゃないかと言い、本当のところは判らない。ま、理由はともあれ、そうなのだから仕方ない。あれこれ考えても疲れるだけで無駄というものだ。
ついでだから言っちゃうけれど、人狼たち、人形の時は人なのだから人間が食べる物はなんでも大丈夫、ただしオオカミ姿の時はそうはいかない。人間に混じって生きていくのなら食事は人形で摂った方が便利だと、満がいつか言っていた。オオカミ好みの食材が思うように手に入らないのかもしれない。
別の鍋で卵を茹でて、こちらはキャベツの千切りとキュウリ、トマトと盛り付けてサラダにした。茹で卵を微塵切りにしてミモザサラダ風にすると、綺麗だね、と隼人がニッコリした。
ジャガイモとニンジンが柔らかく煮えたところに冷凍コーンをばらばらと投入する。
「ボクね、甘いカレーがいいの」
不安げに隼人が僕を見る。奏さんだとお構いなしに大人の辛いカレーだ。
「そうだね、甘口のルーがあるよ」
戸棚から市販のルーを取り出して、割り入れる。途端にカレーの匂いが部屋中に広がっていく。
「おっ、今夜はカレーか」
いいタイミングで奏さんが帰ってきた。
