ないものは とり返せない
八王子市に湖はないが、隣接する神奈川県に入れば境界から数キロの近さに人造湖がいくつかある。『ハヤブサの目』からなら一番近いところで車で二十分程度、遠いところでも一時間ほどで行ける。そして微妙なズレを気にしなければ、それらはどれも遣泉から南西の方角にあった。
「隼人、どの湖なんだ?」
探偵事務所『ハヤブサの目』の二階ダイニングで、お茶漬けを食べる隼人に奏さんが尋ねる。
事務所に着くなり『奏ちゃん、ボク、お茶漬け欲しい』と言い出した隼人、おにぎりの残りの白飯で奏さんがササッと作ったお茶漬けをモグモグしている。さっき食べたばかりなのに、ほんと、よく食べる。もっとも一食当たりの量が少ない。まぁ、鳥族だから仕方ない。
「うん、湖にはまだ行かないよ」
やっとのことで梅干をスプーンで掬い、薬味皿に乗せた隼人が答える。僕にスプーンを渡してくるので梅干しの種を取ってあげると、実をお茶漬けに乗せた。潰して混ぜ込むのだろう。
「それより前にやることがあるの」
「やることって?」
訊いたのは朔だ。
「本体をやっちゃえば怪異は消えるんじゃなかった?」
スプーンを咥えたまま隼人が朔を見る。そしていつもの癖で小首を傾げる。
「あのね、朔ちゃん、よく聞いて」
いつになく真面目な顔で隼人が朔に向き合った。でも首は傾いたまま。本当に真剣に話しているのか、疑いたくなる僕だ。
「朔ちゃんたちのお屋敷に出たモアモアちゃんたちの事なんだけどね、あれ、実は武者の亡霊じゃないの」
えっ? 隼人、それじゃあ、あれは何だったの?
「あれね、人間に忘れ去られた妖怪たち――」
隼人の話によると妖怪も神同様、人間がその存在を忘れてしまうと存在できなくなるらしい。そうは言っても妖怪も生きている。そして思考があり感情もある。己に存在意義がなくなったとキチンと悟れない妖怪もいる。そもそも妖怪のほとんどは、己のことしか考えられない。人間の思惑を気になんかしない。
「だけど身体は崩れていく。崩れても血は残り、その血に妖怪の苦しみだけが宿っちゃったんだよ」
血に残った苦しみで痛みは続く。からからに乾燥しても足掻き続ける。長い時間を経て、痛みの中でやっと悟る。自分はもう消滅したのだ、と。消滅したのに残滓にしがみ付いているからこその痛みなのだと。
「それが朔ちゃんのお屋敷に出たモアモアちゃんの正体。地面から出てきたのはトプトプちゃんが武者のモアモアと妖怪のモアモアを一緒にしたくなかったからだとボクは思ってるんだ。妖怪と一緒じゃ、いくら武者さんでも怖がると思ったのかもね」
隼人らしい発想だけど本当かどうかは疑わしい。
「で、まー、朔ちゃんちに出たモアモアちゃんはお墓に入りたがってた。妖怪だって葬って欲しいんだよ。大口真神の末裔の朔ちゃんたちならなんとかしてくれると思って、朔ちゃんとこに来た――いつの間にか、じゃなく、ちゃんと葬られたい。だからカノプス壺に自分で入っていったんだ」
「あれ、隼人が入れって命じたんじゃないんだ?」
朔の疑問に
「ボクは壺を出しただけ。見てたら勝手に入っていったから、ふぅーーーん、って思った。だからファラオの墓に戻した。ファラオはいい迷惑かもしれないね。いきなり余所の国の妖怪と同居だ」
ま、太陽神たるボクの依頼だ、文句は言わせない、と隼人がニンマリした。
お茶漬けの後はコーヒーを貰って、隼人の機嫌はまずまずだ。リビングに場所を移し、さらに話は続く。
「トプトプちゃんや朔ちゃんちのモアモアちゃんがいきなり姿を現したのは、トプトプちゃんが地下水脈を使ったってことだと思う。なにしろトプトプちゃんはめっぽう水に強い」
――まさか水神? 神だと思うと隼人は言った。もし水神が相手だとして、隼人はどう対処するつもりなんだろう?
「朔ちゃんが怪我をしたのはボクの責任――」
「違う、隼人。ドジを踏んだ俺が悪い」
隼人を否定する朔の頭を隼人が撫でる。引くかと思った朔が温和しく隼人に撫でられる。朔にとって隼人は、やっぱり慕わしい親なんだ……
「ううん、朔ちゃん、よく聞いて」
武者のモアモアちゃんたちは、自分が死んだって判っていなかった。まだ戦える、まだ働ける、その思いが残ってしまっていた。
ボクは、死んだという事を実感させてあげたかった、実感できれば自ら行くべき場所へ去ると思った。だから奏ちゃんや朔ちゃんたちに武者の亡霊を潰させた。
「結果としては正解だったかもしれない。でも、もっと安全な方法だってあった。そうしなかったから朔ちゃんは怪我をした。だからボクが悪い」
「安全な方法?」
「ル・ヌ・ペレト・エム・ヘル、死者の書、黄泉の国への道標。ボクがそれを武者モアちゃんたちに示せば、それでよかったんだと今は思ってる」
「隼人はさ」
と言ったのは満だ。
「武者モアちゃんたちに強制したくなかったんでしょ? ちゃんと納得して欲しかったんだよね」
隼人は何も答えなかった。
「ま、朔も隼人も回復した。それでヨシとしようじゃねぇか」
奏さんの声が明るく響いた。
それで、湖に行く前にすることって? と僕が訊くと、そうだね、聞きたいね、と朔と満、奏さんも身を乗り出す。
「まだ生きている人間が取り込まれている。最初に言ったよね、いい加減助けなきゃって思ってるんだ」
隼人の言葉に
「もう四日目だぞ? まだ生きていられてるのか?」
奏さんが心配そうに問う。
「トプトプちゃんの中で眠り続けている。中にいる限り命は消えない。トプトプちゃんが守っている。でも、却ってそれが厄介」
「どういうこと?」
この質問は満だ。
「問題は〝なぜその人がトプトプちゃんの中にいるのか〟なんだよ、ミチル」
少し論点がずれた隼人の答えに、
「なぁ、その人、どれくらい眠り続けているんだ?」
と、朔が新たな疑問を投げる。
「かなり昔から――多分、人身御供にされた若い女の人」
「人身御供……」
「って、事はだ」
奏さんが唸る。
「その娘っ子も、もう生きているはずのない存在、か?」
「うん」
隼人がコーヒーを飲み干した。
「いるべきところに帰してあげたいとボクは思う。でもね――トプトプちゃんの本体はきっと彼女を離さない。失われた何かの代わりに彼女を抱き締めているような気がする」
空いたカップを盆に集めながら奏さんが苦笑する。
「失われた何かを隼人は探すつもりらしい」
奏さんを見て隼人が笑う。
「失われた、つまりもう存在しない、そんなものを取り返せると思う?」
そして大きな瞳をクリッとさせた。
「つまり、今回、一番の難問ってこと――さ、明日に備えて今夜はもう寝るよ。明日もきっと八王子は快晴だ」




