梅香は風に乗り
ファンタジー。
妖怪が出てきます。
「遠国へゆくことになった」
主はある日、唐突に言った。
冬の平安京は冷えこみがきつい。
白い息を吐きながら、直衣の端袖を抱き込むようにして屋敷の奥へと進む主を追いつつ、私は問い返した。
「遠国? どこです」
「筑前」
「またえらい遠いところへ!」
「本当にな……。この齢で堪えることだ」
言いながらもさほど悲壮感はない。諦めているのかもしれない。
「姫さんにはお伝えなさいましたか」
「まだだが、あの姫君はそんなことはどうでも良さそうだ」
乾いた声で主は笑う。
「まあ、拗ねられても困る、挨拶に行こうか」
飄々とした様子で、屋敷の奥へ向かう。
私は、主に付き従いながら、なんでこんなことに……、と思う一方、ついにか、とも思う。
何故か、主が謀を巡らせているという話が朝廷で出ていたのは知っている。帝に讒言が上がり、それを多くが支持したらしい。
こんなにも、味方がいないとは。
やはり、貴族たちの恨みを買ったのが悪かったのではないか。あの娘の件で……。
「何を考えているか分かるが、あの姫君を助けたことは悔いておらんぞ」
「……ほう……、あの匂い立つような美しさは、主も奥に飾っておきたくなりますか」
「そういう話ではない」
からかって言う私に、主は再び笑う。
「あれは神に近いものだろう。居るだけで周囲に影響を及ぼす。良くも悪くもな。奥に囲い込んで静かに暮らさせるほうがあれにも皆にもよかろう」
「そういうモンですかねぇ。まあ、あの姫さんのことです、説明せんでも全てご存知かもしれませんが」
「そうだな、だが、知ってはいても『理解って』はいないだろう?」
言いながら主はいくつかの渡殿を越える。奥の奥のこの先には、姫の身の回りの世話をする女房も居ないので取り次ぎもない。
ずかずかと中に入ると主は御簾越しに直に声を掛ける。
「紅梅の君、あらせられるか」
その呼びかけに答えはなく、ただ衣擦れの音が静かにさわさわと移動する。やがて、御簾の下から単と袿の裾がわずかに覗いて、止まった。
同時に、恐ろしいほどの妖気が御簾のうちから溢れ出してくる。
この妖気は、媚薬だ。
主はけろりと受け流しているが、この娘は、人間の男を狂わせる、妖だ。
災厄のようなこの娘を、主は封じるように屋敷に匿った。
* * *
ある日、ある集落で、住人がほぼ全員惨殺された事件があった。
それは、一人の娘によって行われた、と言う。
たまたま近くに居合わせ、駆け付けた主に、娘は、ただ一言、言った。
「……鬱陶しかったから」
生き残った周囲の者に事情を聞けば、ある日突然ふらりと現れた娘によって、男たちが狂わされたそうだ。
美しいその娘は上質の絹の衣を身に着けており、高貴な身分と思われたため、長が一時的に保護した。
郷長へ使いが走り、郷司に問い合わせが上がる。
……はずだった。
なぜか上への連絡は遅らせられ、保護の期間は延期されていく。
やがて、集落の者たちが、異常な行動を取り始めた。
男たちは長の家に連日連夜通い、娘の姿をひと目でも見ようとあちこちから忍び込む。女たちはそれを妬み、娘に食事を与えなかったり部屋を汚したりなど、様々な嫌がらせをする。
田畑は荒れ、諍いは増える。
ひと月ほど経った夜、娘が不意に
「……煩わしい……」
と呟いたと思ったら、次の瞬間には周囲が血の海と化していたと、生き残りの奴婢の子は身を震わせながら語った。
何が起きたのか、さっぱりわからなかったと。
直後、突然崩れた長の家から命からがら逃げ出して、助けを呼びに走ったそうだ。
知らせを聞いた主が村についたのは悲劇から三日後のことだったが、娘は崩れた長の屋敷の真ん中で、血に汚れた装束のまま、ただぼんやりと空を見ていた。
まさか、三日間、そのままでいたのだろうか。
瓦礫の上に裙裾を流し、大袖小袖の上に領巾をずるりと垂れ下げて、ただ立ち尽くしている。
娘が、ふと、こちらを振り返った。
色白の肌に眉間の花鈿の朱が鮮やかに目を引く。
乱れた髪が、風に踊った。
それだけなのに、主と同伴した者たちが、その妖気に囚われた。
……彼らによる娘の取り合いが殺気立って来た頃、強制的に主が娘を京に連れ帰ったが、その強引なやり口が、彼らの縁者の貴族たちとの間に、僅かな軋轢を生んだ。
その腹いせなのか、主がどこぞの下賤の娘を攫ってきて強引に妻にしたと噂され、それが収まったと思えば今度はどこぞの美しい娘を引き取って奥に隠していると噂になる。
その噂を聞きつけた公達の求婚が引きも切らないようになり、主は片っ端からそれらを跳ね除けた。
多少なりとも娘の妖気に当てられているのだろうその連中は、逆恨みに近い悪意をどんどん溜め込んでいった。
主の左遷の、それは遠因となったのではないか。
娘を見捨てるか、匿うか。
運命の分水嶺と言うにも馬鹿馬鹿しい。
美しい女がいたという、ただそれだけの事だ。
最初から誰かに娘を押し付けて知らん顔をしていればよかったのだ。その後彼らがどうなろうが、主がここまで追い込まれることはなかったに違いない。
だが、その誰かは確実に犠牲になる。京も無事で済むかわからない。だから主が。
なのに。
舞い込む苦情、言いがかり、嫌がらせ。
「どちらかと言うと奴らを助けたんだがなぁ」
主は文の束を投げ出して、うんざりと脇息に身を預けた。
「あの時、姫さんを連れ帰るのではなく、私が封印してしまえば良かったですな」
散らばった文を拾い集めて文机へ除けながら、私は戯言のように主に言った。
「封印? 出来るのか?」
「私も妖ですからな、それも格段に強い古妖です」
自慢げに言ったその言葉に、主が声を上げて笑う。
「紅梅とどちらが強いのかな、やらせてみても面白かったな」
本当に、あの時あの娘を雁字搦めに括って封印して見せてやればよかった。あの時点では、殺気立った若者たちの姿に、こりゃ面白いことになりそうだとしか思わなかった。
まあ、我が身で封印なんぞしたら自分もそこから動けなくなるので……。
そんなつまらないことは多分頼まれてもやらないが。
「お前は頼まれてもそんなことはしないだろうがな」
笑いながら主が続けた言葉に、心が読まれたかと目を見開く。
「図星か、意外とわかりやすいぞお前」
「ぬぅ……」
やはりこの主は面白い。もうしばらくは人に姿を変えたまま、ここで遊んでいこう。
この人間の寿命の尽きるまで。
絢爛と汚濁の坩堝のような、この京の都で。
……あの頃は、そう思っていたのに。
* * *
昔に思いを馳せているうちに、気付けば主は説明を終えたようだ。
「……というわけで、私は左遷……と言うよりは流刑に近いやり方で、太宰府に赴きます。姫は如何なさいますか」
御簾の前で、主は、紅梅と名付けた彼の娘に問う。
「どなたかに頼んで匿ってもらっても宜しいし、ここでこのまま静かに暮らしたいのならば、ここの術を強化しておきます」
ここは、紅梅の妖力が極力漏れないように結界が張ってあり、他者に認識できないように術を掛けてある。財を没収されても手つかずで残されるだろう。
ゆるり、と御簾のうちの気配が動き、少しの沈黙を経て、鈴を転がすような声が聞こえてきた。
「……うう……ん……、移動、は、嫌……」
久しぶりに言葉を紡ぐかのように……、いや、実際久しぶりなのだろう、たどたどしく話す。
「わたくしは……、ここに……」
「ふむ、では……」
顎に手を当て、思案を巡らせようとした主は、次の言葉で動きを止めた。
「……主様とともに、ここに、居とう、御座います」
きょとん、とした主の顔が面白く、自分は笑いが堪えられなかった。
「紅梅の姫さん、どうしたんですか、主をお慕いしている、などと言いませんよな」
「お慕い……? いえ……」
御簾の向こうで首を傾げる気配がする。
「主様は強いので……、妖気を抑えなくて、よくて……、楽……」
「楽」
主がぼんやりと復唱する。
身動ぎをするだけでも妖気が溢れ、姿を見てもいないのに恋い焦がれる者が出る。
人は正気を失い、周囲で殺し合いが起こる。
そのような事態を、紅梅は心底不快に思っていた。
実際、あの事件の時、集落内で紅梅を巡って殺し合いが起こっていたそうである。紅梅はそれを倦み、自分に向けられた周囲全ての悪意や暗い欲を反転して返しただけだと言う。紅梅の妖力の乗ったそれだけで、人々は四散したらしい。
という話を、ここで長く共にいる間にぽつぽつと聞いた。
「あれほど……、大勢が散るとは……」と、さすがに少し落ち込んでいた。
人が煩わしいのならば、人里離れた山奥にでも行けばいいのに。と言えば、どこでも変わらぬ、と答える。
彼女は、周辺の人獣の営みが、『見えて、聞こえて』しまうらしい。また、彼女に狂うものは、どこにいても現れるらしい。
そして、何処かで起こる諍いは、全て自らの目に耳に届く。
「この国は狭くて……何処かに妖気が届く」とぼやいていた。
まったくもって、面白い……、いや、困った性質だ。
本人は自覚していないが、実際、なんだかんだで人が好きな妖なのではないかと思う。なるべく、人の規範に合わせようとする様子が見える。
今は、この国の人の気質が気に入っているようだ。この国には迷惑でしかないだろうが。
「主は、余った妖気の捨て場ですか」
私は笑いが止まらない。紅梅は頷いたようだ。
「妖気が溜まらないから……身体が、楽……。主様は……嫌?」
「……いや、共に居たいとはありがたい申し出だが、私は行かなければならないのです」
主が気を取り直して言うと、紅梅はあっさり身を引く。
「そう……。なら、ここにひとりで居る……。移動は、人が集まる……。煩わしいので、嫌」
「承知しました、ではそのように。庭に花木でも増やしましょうか。四季折々の楽しみに」
「四季折々……。いつ……、京へお戻りに?」
その言葉に、主は唇を引き結んだ。ほんの一瞬、悔しさを滲ませ、……だが、すぐに笑顔を取り繕う。
「さあ、私の一存では如何ともし難いことなので、まあ、早く帰れるよう祈っていてください」
紅梅にはその言葉の機微は理解できなかったようで、御簾に映る影が頷き、
「はい……祈って……待ちます」
と素直に答えた。それがまた主の心を抉ったらしい。主は顔を伏せて座を立ち、では、とだけ告げて奥の間を後にする。
「祈ってくれ……、か……」
自室に帰って、主は小さく自嘲したが、たぶん聞こえている紅梅の君は、この言葉の奥の意味をきっと取れなかったことだろう、と私は思った。
* * *
それからは忙しかった。
主の従者の立場を取っている私は、なんだかんだと出立の準備にこき使われ、あまりの忙しさに妖に戻って飛んで逃げようかと思ったほどである。
肝心の主は、部屋に籠もって嘆き暮している……という体で怠けている。
「陥れた者がご機嫌で暮らしていたら追撃をしようとされるだろう? 腰も立たぬほど泣き暮らすくらいが丁度よい」
と言う無茶な理由で仕事を丸投げしてくる。
祟ってやろうかと思ったほど小憎らしい。妖力の効かないこの主には祟れも呪えもしないんだが。
そうこうするうち、出立の日が訪れ、主とともに京をあとにする。
自分には寂しいという思いは無いが、主はそれなりに感傷的になっていたようだ。
旅路も進んだある日、主は、休憩を取りながら私を相手に京の思い出話を始めた。そしてふと、
「紅梅の君はどうしているだろうな。思えば、待つとは冷たくもつれなくも思える」
とぼやいた。
その時。
突然雷鳴が鳴り響き、近くの松に落雷した。
従者たちは散り散りに逃げ、主も腰を抜かしていたが、主と私は他の者たちと違う意味で驚いていた。
松の根元に、紅梅が立っていた。
濃色の袴の裾を松の根に這わせ、袿を肩から滑り落ちるままに単を晒し、緩やかに佇んでいる。
小さく紅をさした唇が、ふ、と開いた。
「呼ばれた……ので……」
「飛んできたのですか紅梅の姫さん!」
紅梅は、ただこくりと頷いた。
「と言うか、京からこんなところまで聞こえる範囲なのですか?! もうここ須磨ですが?!」
再び、こくりと頷く。
そして、
「疲れた……」
とだけ言って、松の木に寄り掛かる。
「松とは冷たいと、仰られたが……、なんとなく温かい……ような……?」
「姫さん、その『まつ』ではなく……」
「……?……では、どの松……?」
紅梅は首を傾げ、辺りを見回す。
笑い話のようなやりとりに、主が吹き出した。
「すまなかった紅梅の君、いや、松の君に名を変えたほうが良さそうかな」
紅梅は不思議そうに主を見、
「……どちらでも?」
と答える。
主は紅梅に歩み寄り、袿を肩に掛け直して前を合わせる。
「ああ、表着も裳も着けずに……、寒くはないですか?」
と聞く主に、なにを聞かれているかわからないという風に紅梅は首を傾げる。その様子に、主は久しぶりに笑みを見せた。
「御簾越しでなくお顔を拝見するのは如何ほどぶりでしたか……。何十年経ってもまるでお変わりのないご様子で何よりです。私はこんなに年を取りましたよ」
「主様も……お変わりなく」
「そうですか?」
「命の……色が、変わらずずっと、キラキラ透いて綺麗」
「命の色?」
紅梅はこくり、と頷く。
それ以上説明する気はないようで、主は困ったように私を振り向く。私も、軽く首を傾げて説明を放棄する。
「……まあ、よくわかりませんが、綺麗であるなら良かったです、ありがとう」
紅梅は再び、ただこくりと頷いた。
「ひとりで京まで帰れますか?」
「大丈夫……。少し休んで……、雷を貯めてから……」
紅梅は空を見上げる。
「久しぶりに、動いたから……疲れた……、でも、主様に会えて、良かった」
と、いつも無表情な紅梅にしては珍しく、主を見て微かに笑む。主は微笑み返そうとして失敗し、泣きそうな顔になる。
「ああ、妖でもこんなに情が深いものか。つれないとは、失礼だったな。それに比べ……」
何に思いを馳せているのか、遠い目をする。
「……妖によりますな。人も、人によるのではないですか」
「……そうだな」
主は何かを諦めたように、深いため息を吐く。
正直、この姫に情があるかはわからない。溜まった妖気の捨て場として、ただ便利だと認識していそうな気もするが、それをいちいち言うのも無粋だろう。
その時、雷に驚いて散り逃げていた荷運びの男たちが、こわごわと様子を見に戻り、紅梅に目を奪われた。
不快そうに眉を寄せた紅梅は、
「ここでしばらく……休む。ので……、京に戻るときに……拾って帰って」
と、寄りかかっていた松の木に手を添え……、そのまま木に吸い込まれるように消えた。
下男たちが驚き慌てて騒ぎ立てるのを、主は一喝して収め、
「これは京から私を慕って飛んできた松の木だ」
と言い聞かせた。
* * *
「あんな大嘘でよくもまあ場が収まりましたな」
「嘘ではないだろう、実際飛んできてくれたのだ」
主は優しく松の木を撫でる。松には、即席だが、妖気が漏れぬよう封印の術を掛けた。
「松の君だと、ただ待つ寂しさが漂って悲しいな。……大夫の君はどうだ」
「また唐突に……。ええと……、史記ですか?」
「うむ。五大夫では少し重いから、大夫の君くらいが似合うだろう」
主はひとりでうんうんと頷いている。
そして、寂しく笑った。
「彼女が目を覚ましたら、伝えてやってくれ。私は……、戻れないだろうから」
「主……」
「さて! 最後に大夫の君の顔も見れたことだし、元気を出して赴任先に向かうぞ!」
主はなにか吹っ切れたように、明るい顔で前を向く。
それまでぐずぐずと旅程を延ばしていたが、もう何かを待つのはやめたようだった。
* * *
「ところで、古妖よ、お前も飛べるのか?」
「は?」
「大夫の君より強いと豪語していたのだ、太宰府と京の間を行き来出来るだろう?」
「遠い!」
「いやいや、これは重畳。任地にあっても京の様子がうかがえるのか」
「いや主、遠いですって!」
「流石の古妖、力が違うな」
「聞いてくれない!」
太宰府に着くまでも大変だった。
呪いは飛んでくるわ罠はあるわ刺客は来るわ……。
「私は随身ではないのですが!!」
「いやいや助かる助かる。さすが古妖、天下一!」
「おだてれば良いと思って!!」
文句を言いつつ、なんやかや主を守って、なんとか無事旅路を終えた。
太宰府に着いた主は、俸給も支給されず仕事も禁じられ、衣食住にも不自由する侘しい暮らしにただ嘆き暮らしている……。
と言われている。そう言われるように、私が幻術を展開している。
「さて、手元にある書は読み終わってしまった。白絹よ、新しい書を取って参れ」
「またですか!」
私は人の姿から本来の姿……、ひらりと長い一反の布のような姿に身を変えた。
この姿でないと流石にここから京までは飛べない。
この姿を気に入った主は、私を白絹と呼ぶようになっていた。
「時平の書庫からならいくらでも盗ってきていいぞ」
「いいのかなぁ……」
「なにか食べ物も適当に盗ってきてくれ」
「儒家として盗みは容認できるのですか……」
「いい、いい。仕事もするなと言われているのだ、儒家もお休み!」
「そんなことあります?!」
そんな調子で、働かされた。
無聊だからと、かつての屋敷の梅の木を丸ごと一本運ばされたときが一番大変だった。
「花が咲いたらひと枝持ってきてくれと言ったつもりだったが、根鉢ごと丸々持ってきてくれるとはな」
主はそう言ってひとしきり笑うと、私が適当に庭先に植えた梅を、愛しげに撫でていた。
「白絹よ、梅の花のお礼をしよう、じっとしていろ」
主は筆を執り(筆も墨も、時平殿の屋敷から拝借してきた)、妖姿の自分の裾に、小さく梅の花をひと枝、描きつけた。
「くすぐったっ……!」
「うむ、よく描けた」
「落書きされた?!」
「落書きとは失礼な」
主は笑う。
「お前、ここからは白梅と名乗るのはどうだ」
「どこぞの姫さんと相方のようであまり嬉しくありませんな」
「いいだろう紅白で! あと向こうはもう大夫の君だ」
主は筆を置き、少し離れて自分の画を見る。
「……うーむ……、このあたりに名も入れておきたいが、罪人とされる我が名を入れてはお前の後世までの恥となるかもしれぬからな」
「主! かまいません、むしろ望むところです。名を、是非」
懇願したが、とうとう名は入れてもらえなかった。
もっと、強く願えばよかった。
ほんの数年で、主はあっさり儚くなった。
妖が、側にいやすい人だった。
私は須磨へ飛び、大夫の君を起こして主が亡くなったことを伝えた。
「…………そう」
分かっているのかいないのか、そもそも知っていたのか、大夫はぼんやりと空を見ている。大夫という名を賜ったことも、そう、の一言で終わった。
ただ松の木に寄りかかり、ずっと、空を見ていた。
しばらく後、京の都には嫌な噂が広がった。
主が怨霊になって京を飛び回り、災いを起こしているというものだ。
悪いことをしたと自覚しているのだろう。
罪悪感で何もかも主のせいに見えているらしい。
そんなに怯え恐れるくらいなら、冤罪など被せなければよかったのに。
「まあ、私には関係ありませんがね」
大夫の君相手に、独り言のように呟く。
特に行きたいところもなく、太宰府と京と大夫の松をふらふら行き来していた私は、そう大夫に言いながらも、なんとなく不快な思いが渦巻くのを抑えられなかった。
まったく、人に情を移すなど長く生きている妖らしくない。
私も不愉快な思いをしていたが、何もかも聞こえる大夫の君は、さぞ苦痛だったのだろう。
「……祟り」
と呟くと、不意に京の上空に向かって飛び上がり、
「…………そんなに望むのなら」
と、山の方から雷雲を呼んだ。
「大夫さん、なにを……」
自分も飛んで空まで追ったが、止める間もなく、大夫は宮中に雷を叩き込む。
「えええ?!」
雷は、よりによって帝のおわす清涼殿に落ちていた。狙いどころがえぐい。
「御所の結界はー?!」
悲鳴と怒号が交錯する宮中を見下ろせば、結界は紙のように脆く破れ、ぐずぐずと崩れていく。
と見る間に、もう一発、今度は紫宸殿に落とす。
喧騒は、なお一層激しくなる。
「ひえええ、派手にやらかしましたなぁ」
「ふん……」
穢れを避けるべき帝の目の前で、幾人もの死傷者を出した宮中は、上を下への大騒ぎである。
大夫の君は、その混乱を嘲笑うでもなく、そのままふいと何処かに飛んでいってしまった。
結界の破れた隙間から、恨みつらみを纏った妖が、宮中へぞろぞろと入っていく。
「あれまあ、大変なことで」
私は裾の梅の落書きを撫で、主の言葉を思い出す。
『次は責任なく馬を乗り回せる生がいいな……』
色々な術を学んでいた方だ、いずれ、どこかで生まれ変わる。いや、既に生まれ変わっているかもしれない。
きっとそうだ。
あんな下衆な者どもに祟っている暇など無いだろう。
うちの主などいなくても、祟られる要素は山ほどある。あの妖たちのように。
さて、私はどうしようかな。京にも飽きたし、つい先日東へ下ったちょっと面白い武士がいたな。あいつを追いかけてみようか。
どんどんと宮に入り込む妖たちを見ながら、私は甲高く笑い、くるりくるりと宙返りをしてから、京の都をあとにした。
雷雲は去り、人の喧騒などしらぬげに、星が瞬き始めていた。
菅原道真公の最期が惨いなと思い……。
少しでも楽しく過ごしてくれていたら良いなという妄想です。フィクション。ファンタジー。時代考証なんてなかった。(一応頑張った)
しかし、才のある方に何もすんなは酷い。
挙げ句、怨霊だなんだと言われるのはどうなの……の気持ち。まあ幼子亡くしたりしてるし怨んでも仕方ないけど。
あ、話がくどくなるのでご家族のこととかは全部横においてます。
最後の東国の武士はやっぱり怨霊なあの方を想定してますが、あの方はちょっと怖いのでそっとしとこ、の気持ちもあるので書くかわからない。怖い。
うちの一反木綿さんのほぼ最初の頃の話。