言葉と文章、赤ちゃんについて
適当に書きます
自分の意見、主観などなど
意見、感想があった場合には遠慮なく感想で
誹謗中傷は控えてネ♡
敬語にしても良いんですが自分の癖で文章を敬語にするとあんまりうまく書けないんです
なのでちょっと人によっては上から目線という風に感じるような作品になってしまっています。ごめんなさい
あとこのサイトで投稿するのに慣れていないのでちょっと下手くそかもです
文書について考える機会があったので考えてみた。
注意!
(学校のテストの国語が終わりに終わりやがったので「文章」「文書」についてやけくそ気味に考えてみた。
ちなみにこの文章中で語ることは、それぞれ「文章」「音声」オンリーであると仮定する。
文章と音声どっちもそろってる場合だったら大丈夫じゃんとか言われたらこの文章書いた意味が崩壊するからね、仕方ないね)
個人的な感想だが、まだ私が生まれる前、音声録音機能が発明される前は、「文章」が「言葉」より価値が重かったと考えられる。
これからそれが何故か説明する(当たり前なんですがね)
友人同士の噂話など、簡単なものでは後で確認できようと、できなかろうと言葉と文章の間に大した価値の違いは生じないであろうが、
公的な文書、例えば誓約書やお金の借用書などでは、「言葉」で約束したものは、「口約束」となり、確定的な証拠は残らない。
公的な人物の失言や、差別発言においても同様だ。
極論、「そんな約束は知らない」「私はそんなことを言っていない」などと言われれば、本当に約束、失言をしていたとしても問い詰めることは難しくなる。
第三者からしても、本当にその人が約束や失言をしていたのかどうか判断のしようがない。
証拠がないのだから当たり前のことだ。
しかし、それが文書となってくると話は違ってくる。
筆跡、署名(書いていない場合もあろうが)、書き方の癖、日付、ハンコ…
それら詳しい詳細情報が実際に「遺される」
「AのPCに保存されていたエロ小説なんだから、Aがそれで抜いていたはずだ」
「Aさんのツイッターアカウントで『幼女襲いたい』と書かれてあったのだからAさんは幼女大好きの強姦魔だ」
文章などいくらでも偽造、改竄ができるが、上のように「遺されている」という物が重要なのだ。
遺されているものから「事実」が生まれ、「状況」と組み合わせることによって違和感のないアンサーが第三者の頭の中でできあがるるのだから
私がこのPCに書いている文章も、友人や家族に見つかったら、私は「痛いやつ」という目で見られるだろう。
もしかしたら他人が私のPCを開いて書き込んでいるのかも知れない、ネット上の文章をコピペしているだけかもしれない。
流石にこれらはオーバーだが(特に他人云々)、これらにおいて、私が犯人でないという可能性が考えられることはほぼ0と言っていい。
何故かと言えば、「『私の』PCから痛い文章が見つかった」という事実と、「文章中で『幼女襲いたい』とか書く変態は私しかいない」という状況が組み合わさり、
「幼女趣味の変態がPCで痛い文章を書いている」という違和感のないアンサーが友人や先生の頭に浮かぶであろうからだ。
ちなみに私はツイッターで「幼女襲いたい」と発言したことは断じてないが、「赤ちゃんに赤ちゃんプレイ、お漏らしプレイしてほしい」
という欲望を発信したことはある。
これも、私がこんなことをツイッターでつぶやいたとしても、「赤ちゃん趣味である」という証拠はないが、
「『赤ちゃんに赤ちゃんプレイ、お漏らしプレイしてほしい』というようにつぶやいた」という事実と、「変態」という状況が組み合わさり
「私が赤ちゃん趣味の強姦魔」という違和感のないアンサーが出来上がる。
そう考えてみると、文書というものはよくできたもののように思えるが、穴がある。
「偽造できる」という点だ
他のロリコンが私を赤ちゃん趣味扱いするためにツイッターのアカウントを乗っ取り、前述の「赤ちゃんに赤ちゃんプレイ…」という発言をしたとしても、
状況と事実が組み合わさり、私は冤罪、勘違いを受けることになる。
話が赤ちゃんのことにずれたが、私が言いたいのは、文章は事実と状況の組み合わせで現実を求めることもできるが、偽造から冤罪や勘違いを引き起こすこともあるという事だ。
私が子供の頃好きだった(今もクソガキだが)三国志演義、真田太平記(誰の本かは忘れた、多分司馬遼太郎系列)なども忍者や隠密などによって密書の偽造がされまくっていたような気がする。
諸葛亮や関羽の陣営が敵対する陣営の隠密をとらえ、矢文を見つけたとする。
本当は「外に敵あり、絶対に門を開けるな」となるものを、「怪我しちゃった♥今日城に帰るんで門開けてね♥」と書き換えて、矢文で城内に打ち込む
「今日城につくので門開けてください」と矢文に書かれてある事実と、「緊急時には矢文を送るように申し付けている」という状況から
「あぁ、今日城につくんやな、門開けたろ」というアンサーが馬鹿城代の頭から(三国志演義では主人公格など以外の人物の頭をちょっと弱くする特徴がある)生まれ、
門を開けたところで白い羽の団扇を持った諸葛亮孔明と馬鹿でかい薙刀を持った関羽が待ち構えているわけである。
戦時中に1人の隠密のために門開けんだろ普通は
自分はそういうご都合主義がうざかったんで最後まで読んだ後はどこかにほっぽり出してある。
分かる人…いるよな…?(震え
まぁ、私の自分語りなどどうでもいい事
そんな欠陥があったことから、音声を録音できるものが発明されてからは、どんどん文章の価値は下がって来る。
テレビを見ているとわかるが、マスコミがゴミのように総理や要人に群がって取材しているときに、ビデオカメラやボイスレコーダーなどを持っている奴はいても、
まさかメモ帳片手に高速筆記している人物はいないであろう(例外はあるかもしれないが)
何故かと言えば、そちらの方が簡単で手軽であり、正確だからだ。
もし日本のメディア、情報を手に入れる方法が一つしかなかったと仮定して、そこで誰かが発した言葉が「文章」の取材内容として流れるか、「音声」が流れるかで感じる印象はかなり変わって来るはずだ。
ちなみに新聞が文章のメディア、つまり極論を使うと偽造できるメディアが生き残っているかと言われれば、
写真などを併用していること(なお朝日新聞珊瑚事件)や、テレビやラジオなど、音声や映像でそれらの文章の報道を証明してくれるものがあることが理由であると考えている。
今回はここまで書いてモチベがなくなった、しょせんは暇つぶしなので
モンハン新作発表されたんで久しぶりにモンハンします、さいなら




