第4話 異世界の獣
「……本当にありがとう! お嬢さん」
『……お嬢さんって……?』
――夢とも現実ともつかぬ見知らぬ森で、青年と彼の馬を助けた音々子であったが、丁寧にお礼を述べる彼の言葉に戸惑ってしまう。
なにせこんな風にして、異性から真っ直ぐに見つめられ、感謝されたのは初めてのことだったからだ。
いつも男性達から邪険にされ、女性としてさえ扱われていない音々子は、狼狽えしまう。
先程までは、怪我をした彼らを助けようと必至だったため、平気であったが、急に卑屈な……、元の自分へと戻ってしまった。
……それに、よくよく改めて青年を見てみると、奇妙な格好はしているものの、長身で爽やかな超イケメン。
年齢は二十歳前後といった所だろうか? 薄茶色のサラサラな髪と蒼い瞳がとても印象的だった。
フード被っているので顔がよく見えないせいか、助けられた恩義からか、お世辞に『お嬢さん』などと言ってくれているのだろうが、からかった風でもなく、歳下の彼から真顔でそう呼ばれてしまうと、どう反応していいか分からない……。
落ち着かない様子を見て、青年が心配そうに音々子の顔を覗き込んだ。
「……ぅっっ」
余計、音々子は、あたふたしてしまう。
「よかったら、名を教えてくれぬか?」
「……っあ…えっ…えーと、……っね、ネネ……」
『……子』と、言い切ろうとした、その時‼
奥の茂みが、ガサガサと動いた。
刹那、青年は音々子の前に素早く飛び出すと、抜刀して身構え、
「ネネ殿、お下がりください!」
と、彼女を自分の背に庇い、茂みを睨みつけながら叫んだ。
――そこに現れたのは、見たことのない獣。
熊のように黒い毛で覆われた大きな躯体、三つの目があり、頭には鎌のような角が生えている。
白く鋭い爪と牙には赤い血がべっとりと、こびりついていた。
……おそらく彼らを傷つけたのは、この獣だと音々子はすぐに思った。
黒い獣は飛び掛かるチャンスを伺いながら、間合いを測るかのように、低い姿勢でジワジワとにじり寄って来る……。
不気味に光る三つの赤い目が、絶対に獲物は逃がさないということを物語っていた。
青年はゴクリと唾を飲み込み、剣を握り直す。
その横で、エルダという白い馬も、音々子を守るかのように角を突き出しながら威嚇して身構えた。
一瞬、時が止まったような静けさ……生死を賭けた緊張感が漂う……。
沈黙を破り、グゥーオーという唸り声を上げて獣が飛び掛かってきた。
そして、次の瞬間、「ガキーン‼」という物凄い衝撃音が響く。
彼らが、獣の頭角の猛攻を防いだのだ。
音々子は驚いて、その場で尻もちをついてしまった。
獣はすぐさま、その巨体を思わせない俊敏な動きで身を翻すや、真横に十数メート跳び、次の攻撃体制に移った。
青年とエルダは、まだ痺れが残っているのか、体勢を立て直せずにいる。
その隙を獣は見逃すはずもなく、地面を蹴り、再び襲いかかってきた。
――『また彼らが傷つけられてしまう。いや、殺される。私自身も……。
そんなの……そんなの……そんなの……』
「だめーっー‼」
音々子は、無意識に両手を前に突き出しながら、目を瞑り叫んでいた。
――それは、ほんの一瞬の出来事だった……。
飛び掛かろうとする獣の足元の地面に、突如、穴が出現したのだ。
いや、穴の縁がギザギザな歯のようになっていたので、口と呼ぶべきだろうか?
その大地の口が、黒い巨体をあっという間に呑み込んでしまった。
「‼わっ……ワームスポットだと……」
青年は呆然としながら呟いた。
……その声を聞き、音々子は恐る恐る目を開けた。
「あれ?……あの獣は……?」
見渡すが、獣の姿はどこにもない。
――獣を呑み込んだ大地の口も跡形もなく消えてしまい、ただ静かな森が広がるばかり……。
「ワームスポットに呑み込まれたんだ」
青年は、気の抜けた様子で座り込みながら言った。
「ワームスポット…って?」
「ああ、深淵の森などに生息する植物系の魔物で、地面に擬態して、そこを通る獲物を捕食するんだが…私も実際にこの目で見たのは初めてだよ。しかし、まさかA級の魔獣まで呑み込んでしまうとは……」
「・・・・・・」
『魔物?魔獣?って……何なのよ、ここって!』
その後も彼は、ワームスポットが一度獲物を捕らえると消化吸収するために遠くへ移動することなど……、色々と説明してくれたようだが、混乱した音々子の耳には届かない。
ただただ頭の中で、魔物・魔獣という物騒なフレーズだけがぐるぐる回っていた。
そうこうしているうちに、遠くの方から「ピー、ピー」という笛の音が聞こえてきた。
『今度は何なの……?』
不安そうに音々子はそちらを見た。
「安心してくれ仲間だ」
青年はそう言って立ち上がると、胸元から笛を取り出し、同じように鳴らした。
それに呼応してまた笛が鳴り、しばらくすると複数の馬の足音が近づいてきた。
「王子! 王子!」
叫びながら到着したのは、エルダのように角のある馬に乗った十名程の騎士団だった。
やはり彼と同じように皆、甲冑のような物を着ていたが、戦闘直後といった感じで、傷つき薄汚れていた。
「王子、ご無事でしたか」
そう言って馬から降りると、皆、青年の前に片膝をついて頭を下げた。
「王子……さま?」
音々子は不思議そうな顔で彼を見上げた……。
「……んっ? もしやネネ殿は、この国の者ではないのか?」
――『この国というか、そもそもこの世界の者でもないみたい……』
と、思いつつも、音々子は頷いた。
「それは大変な失礼をした。私はこのフェルド王国の第三王子でクロムだ。助けてもらったのに名前も名乗らず済まなかった」
――フェルド王国?…やはり知らぬ名だ。それにどうやら、この国の人であれば皆、彼のことを知っているというような口ぶり、しかも……王子様とは驚きだ。
彼はすまなそうな顔で、音々子に手を差し伸べると自分の横に立たせた。
「こちらはネネ殿だ。傷ついた私をポーションで救ってくれた命の恩人だ」
そう言って、騎士団の前で紹介した。
すると彼らは一斉に立ち上がるや、音々子に頭を下げた。
――本当は、音々子なんだけど……、もう訳が分からないし面倒なので、ネネのままでいいやと思ってしまう。
騎士団の中の髭を生やした中年の騎士が、一歩前へ出てきた。
鍛え上げられたその肉体は、鎧を着ていても見て取れた。
「私は、この部隊の隊長でガルヴァと申します。此度は王子をお助け頂き誠にありがとうございました」
と、深々と頭を下げた。
騎士達からの熱い感謝の眼差しを受け、音々子は恐縮してしまう。
「わ……私は道に迷っていて、たまたま通りかかっただけなので……」
赤くなった顔を隠すためフードを深くしながら言った。
「迷い人……か」王子は少し考え込んだが……、
「何か事情がおありのようだ……しかし、恩人であることに変わりない。ぜひ、城にて御礼をさせてくれぬか?」
そう優しく言った。
魔物や魔獣なんてものが現れるこの物騒な異世界……。
見知らぬ森での迷い人……。
とにかく安全な場所へ行きたい音々子にとっては、正に渡り船だった。
「こっ……こちらこそ、宜しくお願いします!」
勢いよく頭を下げた。