第3話 異世界~森のお嬢さん
――どれくらい時間が経ったのだろう……?
気が付くと音々子は草地で横たわっていた。
「あっ!眼鏡」
いつもの習慣で眼鏡を探すが見当たらない。
「あれ? ……でも……よく見える」
視力だけじゃない。最近ひどくなっていた肩凝りもなくなり、やけに体が軽くなった気がする。
――そう、彼女はまだ気付いていなかったのだ。
まさか、自分が少女の姿に変わってしまっているということに……。
「どこだろう? ……ここ」
首を傾げながら辺りを見回した。
薄っすらと靄がかかってはいるが、目を凝らすと木々が生い茂り、森だということは分かった。
――『たしか資料室を整理していて、地震があって棚が倒れてきて……』
「えーっ!もしかして私……死んじゃったのかな?…ってことは、ここは、あの世?……って感じでも……ないわねぇー。それとも昏睡状態で夢でも見ているのかしら?」
体を調べてみたが特に怪我をした様子も見られない。
しばらく考えていたが、じっとしていても何もわからないし、このまま森の中で夜になるのは避けたい。
手掛かりを探そうと、立ち上がった時に気が付いた……。
「えっ! あれ? 私、裸足だ……それにこの格好って……」
服をよく見ると、フード付きの白い布を腰の所で帯留めした質素なものになっていた。
『こんな軽装のまま森で迷子だなんて……』
泣きたくなるのを堪え、歩き出した。
最初は裸足で歩くのを躊躇っていたのだが、思っていたよりも歩き易い。
「私って意外とワイルドなのね……」
そう自分に感心しつつ、怪我をしないよう、石や枯れ枝を避けながら注意深く進んでいく。
ひんやりとした葉や草の感触が足の裏に心地よく伝わってきた。
――不思議と、まるで自分が大地と一体になっていくような気がした。
歩く度に自然のエネルギーみたいなものが感じられ、何だが勇気が湧いてくる。
『これがマイナスイオン効果ってやつかしら……?』
なんて、呑気に考える余裕すら出てきた。
いつのまにか霧はすっかり晴れ、森の輪郭がはっきりと分かるようになっていたが、相変わらず周りに見えるのは木ばかりで、元居た場所さえもう分からなくなってしまった。
「う~ん、困ったわねぇ、せめて誰かいないのかな~?」
そう呟いた時、頭の中で急に、赤い光が弾けるような感覚に包まれた。
……あんまり心地のよいものではない。
これまで経験したことの無い不思議な体感だった。
そしてその感覚は、目を瞑り両手を広げると一層強く感じられ、とある方角から流れて来るのが分かった。
その感覚に導かれるように、音々子は恐る恐る進んでいった。
『一体この先に何があるんだろう?』
不安で胸がドキドキする。
しばらくすると、大きな木の下に若い男性が横たわっているのが見えた。
『あっ! 人だ』
やっと誰かに出会えたと喜んでいたのだが……、なぜだか彼は中世の騎士のような出で立ちをしていた。
『映画か何かの撮影だろうか?』
辺りを見回すがカメラらしき物は何も見当たらない。
警戒しながらゆっくりと近寄っていく……。
すると突然、彼は右手に持っていた剣を威嚇するようにして突き出した。
……驚いて、一歩退き固まる音々子。
一瞬、怖い顔で睨んだが、音々子の顔を見ると安心した様子で、剣をそっと置いてくれた。
――どうやら、怪しい者ではないと、分かってもらえたらしい。
まぁ、彼の方がよっぽど怪しい恰好なのだが……。
「うっ……っ!」
安堵した彼の顔が急に苦悶の表情へと変わった。
よく見ると左脇腹辺りに傷を負っているではないか。
「大変‼ だっ……大丈夫ですか?」
怖さも忘れ、音々子は咄嗟に彼の元へと駆け寄り、傷の状態を確認した。
……重症だ、かなり出血が酷い。
……唇もチアノーゼ症状で呼吸が荒くなっている。
音々子は素早い動作ですくと立ち上がると、自分の着ていた衣服の肩口を歯で傷つけ、袖を引きちぎった。
そして、その布を丸めると、傷口へと押し当てた。
――そこには、奇妙な世界に投げ出されてしまったという憂いはなく…、ただただ『この人を助けなきゃ』という、純然たる想いだけがあった。
「っ……すまない」
彼は薄らと目を開けながら、かすれた声で言った。
そして、痛みに堪えながら、少し離れた草地の方を指差して……、
「あの辺りにポーションを落としたのが……探してくれぬか?」
と、言った。
『ポーション……って?』
聞いたことのない名前だ。何かは分からないが、示された所へ行ってみると、茂みに光るものが転がっていた。
――それは、筒形をした細長い硝子の容器だった。
落とした際に蓋が外れて零れてしまったのだろうか、薄い緑色の液体が半分程入っていた。
拾い上げ、急いでそれを彼の元へと持っていく。
「蓋が外れていて、これしか残っていなかったのだけど……」
「っ……恩に着る」
その瓶を受け取ると彼は、それを一口ごくりと飲んだ。
痛み止めなのだろうか?と、思いながら見守っていると、なんと今度はそれを傷口へとかけ始めたではないか。
「……っえ⁉」
シューという音がして、傷口から薄らと白い煙が立ち昇った。
すると、あれほど生々しかった傷が少し緩和され、出血が止まっているではないか。
『ポーションって凄い! 魔法の薬みたいだ!』
音々子は目を丸くして驚いた。
――きっと、もう少し使えば、傷口はもっと良くなるのだろう……。
しかし、彼は手を止めた。
半分程残った瓶を見つめながら険しい顔をしてしばらく考え込んでいたのだが……、
「再び済まぬが、先程これが落ちていた所より、もう少し行った先に、私の馬が怪我をして倒れているはずだ。傷口にこれをかけてやって欲しい」
そう言って少し微笑んでから、瓶をそっと音々子の方へ差し出した。
――本当であれば、残り全部を自分の傷に使いたい筈なのに……。
そう音々子は思ったが、彼の真剣な眼差しを受け、無言で頷いた。
きっと大切な馬なのだろう……彼の瞳は、とても優しい光を帯びていた。
音々子は、先程ポーションを拾った場所から奥の方へと歩いていった。
『何処かな……?』
そう思った時、再びあの赤い光の感覚を覚えた。
――今回の光は、赤というよりも黒に近い色をしていた。
『もしかして、この感覚って怪我をした者に反応するかも……?』
なぜか直観的にそう思った。
案の定、その導きどおりに進んで行くと、光が示す高い草の茂みの中に、白い馬が倒れているのを見つけた。
驚かさないようゆっくりと近づいていく。
馬は、微かに耳をこちらに向けただけで、ぐったりとして動かない。
後ろ脚の付け根に獣の爪で抉られたような傷、喉にも噛まれた牙痕があった。
……かなり出血している。
「これは酷い……」あまりの惨状に顔をしかめる。
音々子はすぐさまポーションをかけ始めた。
量が少ないので回復状態を見ながら少しずつ、少しずつ……が、すぐに空になってしまった。
この深い傷に対して、全然量が足りていないのだ。
馬の呼吸は細く、いつ止まってもおかしくない程、弱々しくなっていた。
「―――・・・」
折角、彼が自分の回復を犠牲にしてまで渡してくれた薬なのに……。
音々子は悔しかった。
ついさっき知り合ったばかりだが、人馬の美しい絆を目の当たりにし、『何とかして救ってあげたい!』そう、強く願った。
――たとえこれが夢の中の出来事だったとしても、胸に湧き出したこの感情は、とてもリアルなものに感じられたのだ。
気が付くと無意識に、目を瞑りながら祈るような姿勢で、空になった瓶を強く胸元に握りしめていた。
すると、彼女の身体が薄らと光を放つ……。
「あら……?」
一瞬、身体の中を熱い力のようなものが駆け巡り、手元が温かくなるのを感じた。
そして抱えていた瓶を見てみると、そこには満杯に緑の液体が満たされているではないか!
先程のものより、ずっと濃い緑色でキラキラと輝いていた。
「これって……もしかして、ポーションなのかなぁ?」
よく分からないが、こんな奇妙な世界に来てしまったのだ、これくらいの不思議な事が起こってもおかしくないだろうと思った。
――そう、これにも音々子はまだ気付いてないのだ。
新たなポーションを出現させたのが、自らの所為であるということに…。
『……とにかくやってみよう!』
「どうかよくなりますように……」
小声でそう願ってから音々子は、それを傷口へとかけてみた。
先程と同じように、シューッという音がして、白い煙が立ち昇った。
特に痛がっている様子は見られない……。
そして、煙が収まると、あれほど酷かった傷が跡形もなく完治しているではないか。
「やったー‼ やっぱりポーションって魔法の薬なのね、凄い!」
音々子は嬉しくなり、今度は片手にポーションを少量受けると、それを馬の口元へと持っていった。
馬は静かに目を開けると、それを舐めてくれた。
それから、しばらくすると馬はゆっくりと立ち上がり、彼女をじっと見つめた。
優しい瞳、がっしりとした骨格、堂々とした風格ある佇まい。
倒れていた時には気付かなかったが、音々子が知る普通の馬より、一回りも二回りも大きいものだった。
そして……何より違うのは、鬣にある一本の角‼
――見たことのない馬、ユニコーンであった。
『やっぱり夢の中なのだろうか?』と、思ってしまうが……、
感謝するかのように顔を摺り寄せてくる馬は、とても温かった。
「よかったわね元気になって」
鼻筋を撫でてやると喜んでいるようだった。
その後、馬はお礼を言うような仕草でお辞儀をすると、青年の方へと歩き始めた。
「そうだ! まだポーションが残ってるんだ。彼も助けなきゃ」
馬と共に音々子も彼の元へと向かった。
――「しっ、信じられん……奇跡だ……」
近づいてくる馬と音々子の姿を見て、青年は呟いた。
瀕死の傷を負い、愛馬の死を覚悟していた彼にとって、それは夢のような光景といえた。
彼女に託したポーションはごく少量、いや、例え満杯の物を渡せたとしても、癒しきれない程の深手のはず……。
その馬が、勇壮に元気な姿で歩いてくるではないか!
……涙で視界が歪む。
幼い頃より兄弟のように育ち、厳しい訓練を重ねながら、共に戦ってきた愛馬なのだ。
馬は、主人の傍らにしゃがみ込むと労わるように顔を近づけた。
「ああ、エルダ、よく無事で……」
彼は馬の頭を抱き寄せた。
『この馬、エルダって言うんだ……』
音々子は、二人の愛情ある美しい光景で胸がいっぱいになっていた。
邪魔しちゃ悪いと思ったが……、
「あの~、これを使って下さい」
半分程残っていたポーションを彼に手渡した。
その受け取った瓶を見て、青年は再び驚愕する。
――深い緑色にキラキラと輝く液体……ハイポーション‼
これほどの高純度のポーションを見たのは、初めてのことだった。
一体どれ程の歳月を要すれば、これだけの物が作りだせるのだろうか?
国宝級とも言えるような貴重なポーションを分け与えてくれた謎の少女。
青年は、不思議そうな眼差しでぼんやりと彼女を見ていた……。
「さあ、早く傷を治しちゃいましょう!」
音々子の掛け声で、我に返った。
「すっ、すまない、本当に感謝する……」
彼は、ポーションを傷口へとかけた……やはり信じられない程の回復力で、白い煙と共に、傷は完全に消失してしまった。
そして、残りを飲み干すと、彼はすっかり元気を取り戻したのだった。
ゆっくりと立ち上がり、まだ信じられないといった様子で、自らの回復状態を確かめる。
――この森で、もはや、愛馬と共に死を待つばかりと諦めていた命……。
彼は、再び愛馬と共に、この奇跡のような出来事を喜び合った。
それから音々子の傍までやって来ると、優雅に美しい所作でお辞儀をしながら……、
「君は我々の命の恩人だ……本当にありがとう! お嬢さん」
と、お礼を言った。
『っん⁉……お嬢さんって……もしかして私のこと?』