ジャロの呪い(2)
哀しみは何故、孤独のように涼しくないのだろう。何故僕の体に纏わり、寝苦しい夜に縛り付けるのだろう。暑い。焼かれた砂が、体に纏わる。払っても払っても消えない。洗っても洗っても取れない。吐く息も吸う息も砂の味、哀しみは砂の味。起きても砂、寝ても砂、夢の中まで砂、君との思い出まで、焼けた砂のようだ。
薄い布越しに、雨の匂いを感じた。目を閉じたまま、正はほっとした。雨はしとしとと降り続いている。その音は安らかで、優しかった。
夜更けから明け方にかけて降る雨の気配が、正には何よりも愛しかった。乾いてざらついたこの世界に、心に、雨は余すところ無く降り注ぐ。全てを洗い流し、忘れていいのだと思えた。明日、また真新しい朝から一日を始める事ができるだろう。汚れて傷付いた今日の続きではない、新しい朝から。
正はゆっくりと目を開ける。夜更けだった。雨の所為か、空気が少し冷えている。土の匂いがする。分厚いマットを敷いているのに、土の硬さが背中に伝わって来た。地べたで寝るとは、こういう事なのだ。家族に連れられて山小屋に泊まった事は何度かあったが、テントで寝たのは今回の旅行が初めてだった。
ふと、奇妙な予感がした。寝る前と何かが違うような気がする。妙に空気が冷たい。それに、空気が綺麗だ。息苦しくない。狭苦しいドーム型テントに、四人の男が潜り込んでいる割には。入口のチャックが開いているのだろうか、と体を起こした正は、途端に舌打ちした。もぬけの殻である。
テントの反対の隅に、千二だけが丸くなって熟睡していた。全一と大介はタオルケットを放り出して消えている。トイレに立った、という感じではなかった。いなくなってから、だいぶ経っている。タオルケットが冷え切っている。畜生、と立ち上がろうとして、頭を柔らかい天井にぶつける。足元に転がっていた懐中電灯を取って、スイッチを押した。安っぽく輝く円形の光を千二の顔に向ける。
「起きろ、セン!」正の声は焦りと興奮の為に鋭くなった。「置いていかれたよ! 寝ぼすけ! 起きろ!」
「ネズミの話なんか聞きたくないよ」千二は非常に明瞭な寝言を言った。それが彼の特技なのである。最初は物珍しくて面白いが、慣れると馬鹿馬鹿しくて傍迷惑なだけの、無駄な特技である。
「シャベルの幽霊を見に行くんだよ」正は屈み込んで友人を揺さぶった。「起きて。寝るなよ。寝たら駄目だ、二度と目が覚めないぞ! ……よし、仕方ない」正は取って置きの裏技を使う事にした。大きく息を吸う。耳元で思い切り叫ぶ。
「っゼンが! ゼンが! ゼンが危ないよ! 一人で悪者を退治しに行ったよ! ゼンが、死にそうだよ! ゼンが怪我して、動けないよ!」
「何処だ」千二は跳ね起きた。「すぐ行く!」
「そう、すぐ行こうね、起きてくれれば文句は無いからね」正は子供をあやすような声色で言って、友人の背中を叩いた。
「どうしたんだ、何があった?」千二は一瞬取り乱した様子でテントの中を見回したが、すぐにいつもの冷静さを取り戻し、正の顔を見つめ、ゆっくりと深呼吸した。深く、落ち着く為の溜め息。「……びっくりした。冗談か」
「冗談じゃないかも知れないよ。あの二人、勝手に出掛けちゃったよ」
「まさか死んだりしないだろう。リン、いま起きたのか?」
「うん。目が覚めたら二人がいないんだ」
「しょうが、ないなあ」千二は大きく伸びをして、テントの壁に付いているチャックを開ける。「追い掛けるか。幽霊を見てみたいしな」
二人は外に出た。しとしとと粒の細かい雨が降っている。日付が変わる頃だろうか。真っ暗で寝静まったテントもあったが、明かりを灯してはしゃいでいるテントもあった。外を出歩いている者は少ない。夜はプライベートの時間だ。皆自分たちの縄張りに引っ込んで、内輪の楽しみを共有している。足元の草花の、濡れた匂い。真っ黒な空。千二が懐中電灯で足元を確かめ、正はそれに付いて行った。テントが密集した地帯をすり抜け、草むらを避けながらずんずん歩く。
広場まで、五分以上かかる。
「リン」寝起きの興奮が冷め始めた千二は、暗闇を照らして黙々と歩きながら、ぽつりと言った。「元気、出してな。ゼンもダンも、心配してる」
「元気だよ」正も神妙に答えた。「元気さ」
「おれは、なかなか元気が出なくて」と千二は言った。
正は、意外な気持ちで千二の背中を見つめた。「君がどうして?」
「新しい家族に慣れない。ほら、父が……帰って来たから、再婚して、今はゼンと同じ家で……四人で暮らしてるから」
「知ってるよ」
「なんだか慣れなくて。それに、おれはもともと母親とも仲が良くないから。おれにとっての母親って、やっぱり緋鷓なんだ。ずっと緋鷓に育てられてきた。母親の事は、まあ、四親等くらいの親戚だと思ってた。ずっと」
「元気出してよ」正は静かに言った。「センは元気な方が似合うよ。元気で、くよくよしてない方が。ゼンなんかはね、くよくよしてる感じが、ちょっと似合うけどね」
「ゼンはくよくよしてるのか?」千二は笑った。
「うん。ゼンはね、ちょっと悲しい事があっても、その場では態度に出さない。それで後からくよくよしてるよ。くよくよし過ぎて、グレちゃったんじゃない」
「そうか……。おれとゼンは、やっぱり随分違うかな?」
「随分違うよ」
「リンはいろんな事、よく見てるよな」
「興味があるからね。特にゼンの事は。だって、元不良の友達なんて、なかなかいないもんね」
「自分と同じ顔の人間も、なかなかいない」
二人はしばらく無言で歩いた。傘を持たないので、服がじっとりと濡れた。夏とは言え、夜風はだいぶ冷たい。北の国の夏は短いのだ。もう何処かで秋の香りがしている。
「雨は、いいよね」正は独り言のように言った。「なんだかほっとするよ」
言葉にしてしまうと、それはひどく使い古された、凡庸で冴えない感想に聞こえた。そんな響きになってしまった。その事に少しがっかりする。大人になるにつれて、感じるものは言葉にしづらくなっていくのかも知れない。正の脳裏にきらりとそんな予感が横切った。
「もっと……強くなりたい」千二が暗闇に向かって言った。「いろいろな面で」
「センは強いよ」
「母親を護れなかった。それを後悔してる」
「護れなかった? でも君のお母さんは元気そうだよ」
「元気じゃないよ……」千二の声がちょっと途切れた。「……泣いてたよ。父が戻った時。謝ってた。おれの事で。なんかもう、やるせないっていうか……切ない?」
「まあ、君んちの家庭事情は知らないよ」正は素っ気無く言った。「噂は沢山聞いた。だけど、僕にとってのセンは、『美生さんところの千二くん』ではないんだからね」
「……うん」千二はゆっくりと頷く。「いいこと言うじゃないか」
「僕はいいことしか言わないよ」
草が深くなり、道幅が狭くなる。岩のごつごつした緩い斜面を登る。昼間に辿った平らな獣道から少し逸れているようだ。だが、間もなく広場に出た。懐中電灯の光の輪の中に、金属の遊具が飛び込んだ。
「ここがブランコ……梯子に滑り台に……塔はどっちだ?」
「あっちに明かりが見えない?」正は向こうにちらっと瞬いた黄色い光を指差した。「ゼンたちだよ、きっと」
「やれやれ、夜中の山を歩くのって案外難しいな。広場が五倍くらいに広がった気がする」
「ゼンたち、何か見付けたかな?」
「これ以上何が見付かるんだ、新しい手がかりか?」
「それとも幽霊が出るまで本当に夜通し見張る気かな」
「ダンがそんな事に付き合うとは思えないけどな……」
やがて二人の視界に、黒々とそびえるコンクリートの塔が現われる。黄色い明かりは、もう少し先にあるようだ。正は抜け駆けをした二人に向かって大声を上げようとした。だが、千二がその口を塞いだ。
「しっ」千二は懐中電灯の明かりも素早く消してしまった。「誰かいる」
「誰? 幽霊?」
「静かにしろ。なんか、変だ」
正と千二は息を殺して塔に近付き、その影からそっと黄色い明かりの方を覗く。すぐに大声を出そうという気はしなくなった。