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さまよえる塔(4)

 つまらない事だった。例えば、世の中には茶碗を右に置くの左に置くのと言って大喧嘩をする夫婦がいるが、全一ぜんいちと大介の言い争いもそれに似たようなものだった。正や千二せんじにとっては、二人の間の諍いは意外な出来事だった。全一と大介は今まで何となく、お互いに一歩引いていたような所があったし、二人ともそういう些細な事で人に絡む質ではなかったのだ。


 食事の片付け中、手が触れたと言って大介が全一の手を払ったのが始めだった。大介は触られる事に対して過敏な所があり、ときどき激しい動作で友人の手を払いのける事があった。

 全一は「あ、悪い」と言ったまで良かったが、取り繕うようにもう一度大介の肩に触ろうとした。それを大介がもう一度払った。そのタイミングが良くなかったらしい。とにかく、今まで全一がこういう事で怒った事は一度も無かった。この時に限って、カッとなったのだ。


「謝ったら」全一はやや冷たく言った。

 大介は黙ってちらりと全一を睨み返した。それだけだった。

「いい加減にしろよ」全一はもう一度口を開いた。「甘えてるんじゃないの」

「謝るような事はしてない」大介は低く言った。

「そんなこと誰だってそうだよ。礼儀ってものがあるんじゃないの、例え友達だとしても」

「ゼン」千二が割り込んだ。「いいじゃないか……」

「良くない」全一は厳しい口調で言った。「良くないよ」

「悪かった」と、この時はまだ大介も冷静だった。「今度から気を付ける」

「そうして欲しいよ」全一もいったんは引いた。


 ところが、こうした遣り取りの為に大介がすっかり委縮してしまった事は確かだった。彼は普段にも増して過敏になり、寡黙になった。正はそれを見て取って、不安になった。何も起こらなければいい、と思う時に限って不運が重なる。


「ダン、手伝って」と千二が言ったのは、全一に気兼ねして動けないでいる大介に、気を遣ったつもりだった。千二は折り畳み式のテーブルを畳もうとしていた。金具が少し錆び付いていた。千二の腕力ならばそれでも充分、畳む事はできた訳だが。


 二人で同じ作業をしていれば、うっかり手が触れる事もある。触れた瞬間に、大介は千二の手を払った。さっきの事があって過敏になっていた。パンと乾いた音が響き、それからバチンと嫌な音を立ててテーブルの足が閉じた。千二は顔をしかめた。皿を重ねていた全一が顔色を変えた。


 実の所、痛い目に遭ったのは大介の方だった。手を挟みそうになった千二を庇って、とっさに金具の縁を素手で押さえたのだ。彼は小指の付け根を切った。千二は無傷だった。しかし、そんな事で全一の気は収まらなかった。


「お前、ふざけるなよ!」全一は辺りもはばからず怒鳴った。「やっていい事と悪い事があるだろ! センに何する気なんだよ!」

 大介は自分の指にぱっくりと開いた傷口を見やっただけで、何も言わなかった。

「ゼン、おれはいいんだよ。大丈夫だ」

「良くない!」さっきの繰り返しだった。「謝れよ! 治す気あるのかよ!」

「黙れ」大介も相当頭に来ていた。手や指は、彼が絶対にどんな小さな怪我もしたくない場所だったのだ。彼にしてみれば、自分の信念を曲げてまで千二を守ったつもりだった。傍観者の全一にとやかく言われる事ではなかった。「お前は黙れ」

「センに怪我させたら、俺は許さないからな」

「お前のセンじゃない」

「うるさい」全一は一歩前に出た。

「なんでお前に怒られなきゃいけない」大介も後に引けなくなった。「センは、お前の持ち物じゃないぞ」

「うるさい」

「怪我をしたのは俺だ」

「それがどうした」

「俺が自分で責任取ったんだ。お前が口を出すな」

「ごたくを言うな」

「二人とも、その辺にしろよ」千二がもう一度割り込んだ。「何度も言わないぞ。何の為のキャンプだと思ってるんだ。早く仲直りしないと二人とも放り出すぞ」


 全一は大介に近付き、掴み掛かろうとした。大介は信じがたい速さでそれを払った。これで四度目。全一の我慢の限界だった。攻撃されると感じた大介は、すかさず全一を突き飛ばした。特技は喧嘩、と豪語する全一も千二も、実戦で鍛え抜かれた大介には全く歯が立たない。本能的な恐怖から無意識に行動した大介は、手加減できなかった。全一は地べたに叩き付けられた。それで、怒ったのが千二である。


 大介の認識が甘かったのだ。全一が傷付けば千二が怒り、千二が傷付けば全一が怒る、というこの兄弟の関係を少しでも把握していれば、大介の方にも別な用心の仕方があったかも知れない。しかし大介には全く予測の付かない事だった。一瞬で彼は自分が不利な立場に置かれた事に気付いた。全一も千二も、自分が多少の被害を受けたくらいではそれほど怒ったりしない。だが、相棒が傷付いた時は別なのだ。自分の為ではない、と思う分だけ、歯止めが効かなくなる。元より言い争いでは無口な大介に勝ち目は無い。双子のどちらかと取っ組み合えば、もう片方が激怒する。袋小路だった。


「いい加減にしなよ」今まで黙っていた正が、ひどく哀しげに言った。「センもゼンも、少しおかしいよ。どうしてダンを苛めるのさ。ダン怖がってるじゃない。もう止めなよ。ダンは、手に怪我をした事が無いんだよ。ショックで、怯えてるじゃないか。どうして優しくしてあげないんだよ」


 冷たい沈黙が降りた。誰も正を見なかった。


「いいよ、じゃあ」ここで拗ねる正も正だった。しかしこれは結果的に良かったのかも知れない。「いいよ、いいよ、いいよ、そうやって、クチャクチャやって、怒鳴ってたいんだったら。勝手にすれば! 三人で勝手にすればいい! ダンだって悪いよ君は、ゼンが寂しがりだって知ってるのに、そうやって冷たくして。あんな事したら誰だって怒るよ、それが、謝るような事はしてない! そうかよ! 好きにすれば! 好きにすればいい! 僕は沢山だ!」


 正はすらっと背を向けて歩き出した。テントの間をぬって、遊具と塔のある広場の方に向かってずんずん歩き出した。彼はカッとなると先の事が考えられない質である。これが普通の部屋の中だったら、部屋中の物を壁に投げ付けて暴れたかも知れない。そうして、元は誰と誰の喧嘩だったのか分からないような惨事になっていたかも知れない。しかし、キャンプ場だった。暴れると他人に見られる。さっきから四人で怒鳴り合っている時点で、既に密かな注目の的である。大体、投げるような大層な物もなければ、投げ付ける壁も無い。そういう次第で、ただずんずんと歩き出した。あっという間にテントから遠ざかってしまう。


 さて、残された三人は、仲直りもそこそこに正を追った。いつも問題を起こして三人を困らせている正が、今回は解決の切っ掛けを作ったようだった。全一が真っ先に追い掛けて来た。


「リン、リン!」

「どっち」こういう時、正の底意地の悪さが発揮される。

「え?」

「センかゼンか、どっちかって聞いたの」振り向きもしないで言う。本当は彼は、易々と双子の兄弟を区別できる。間違えた事など一度も無いのだ。

「千二じゃないよ」と全一は答えた。「僕が悪かったと思う。ごめん。機嫌直して。ダンにも謝ったから」

「そう」正は足を緩めなかった。

「ねえ、キャンプに戻ってくれ。本当に僕が悪かったから」

「あっちへ行って」

「戻ってよ」

「君たちの顔は見たくない」そう言ったきり、後は全一が何と言っても正は口を引き結んでいた。同じ速さで歩き続ける。

 全一も仕方なく懸命に追った。正の機嫌はなかなか直らなかった。しかし、ここでまたキャンプ場というロケーションが幸いする。テントから広場までが、結構遠いのだ。


 結局、五分も速足で歩くと、正も疲れてしまった。立ち止まる。全一が追い付く。

「まだ、付いて来るの?」と、正は言った。

「僕、自分が寂しがりだなんて知らなかったけど」全一は微笑んだ。

「じゃ、新しいこと知って、良かったね」

「もう怒らないで」

「怒ってないよ」

「ダンにもセンにも怒らないで」

「怒ってないよ。誰が怒ってたの?」

「誰がって、その、最年少の美少年が」

「僕じゃないよ、それは」

「でも、俺じゃないぜ」全一は面白そうに言った。


 間もなく千二と大介が追い付いた。大介は不安そうに正を見つめていた。

「君、真面目だね」と正は言って、自分で言った言葉がおかしくて笑った。

「友達少ないから」大介はぼそぼそ言った。

「そう、でも、もう少し減らした方がいいよ。特に禁断の愛で結ばれてる双子の兄弟とかとは、もう付き合わない方がいいね」

「こら、何か言ったか」千二が正の頭に手を置いて、少し笑った。それから、先へ歩き出した。四人はテントの方へ引き返す替わりに、広場に向かって歩いた。そちらの方が近かったので、今さら引き返すのも馬鹿みたいだったからだ。


 日はまだ高かった。それでもやや西に傾いている。広場はひとけが無かった。遊具で遊ぶ子供達も、草刈り機を抱えた作業員達もいなくなっていた。辺りはしんとしていて、生ぬるい風に草木が揺れていて、虫が思い思いに飛んでいた。


「ああ」と正は言った。「なんか、変だね」


 彼が見ているのは、時計塔に似ているのに時計の無い、鐘が付いていそうで付いていない、モニュメントのようなしかしそれにしては冴えない、扉はあっても入れない、円筒型の建造物だった。赤っぽい色褪せたタイルが、煉瓦風に貼られている。上にピラミッド型の屋根が被さっている。さっきも見た。昼食前に。買い物袋を抱えて、海岸からこのキャンプ場に戻って来た時、確かに見た。だけどあの時は。


「端っこになかったか?」千二が言った。「薮のすぐ手前に」

「なんでこうなってるんだろう」全一は唖然としていた。


 四人はだんだん歩いて、そこへ近付いて行った。塔は今は、広場の中にあった。中央ではないが、端でもない。先ほどよりも数メートルだけ、遊具側に近付いている。以前、塔が立っていた場所には、塔の形の、円形の跡が残っていた。そこだけ草の生えた形跡が無い。土が乱雑に掘り返されて、錆びた鍬が一つ、そこに投げ捨ててあった。


「誰がやった?」と全一。

「そういう問題か?」と千二。

「鍬でできるの?」正は首を傾げる。


 大介はぼんやりと、物憂げに空を見ている。


 身の細い若木が立っていて、ツタウルシが絡んでいた。それは、無残に掘り返された土の上に、円の中央に向かってぽつりと影を落としている。ざわざわと、妖怪のように、その影が蠢いている。正はぞっとした。


「動いた!」突然嬉しそうに、全一が叫んだ。「動いた!」

「まさかね……」正はすぐには頷けなかった。

「でも、明らかに移動してるぞ」千二が困ったように呟く。

「……え、何処に在るんだ?」と、大介が言った。


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