さまよえる塔(1)
この波は何処から来るのだろう。僕の足元に寄せる、この波は。この風は何処から来るのだろう。僕の頬を打つ、この風は。彼らには還る場所があるのだろうか。何処か行先があるのだろうか。もしあるのなら、僕も連れて行ってほしい。この体も、心も、形なきものとなって流れて行けたらいいのに。僕は流れて行きたい。僕は無になって何処かへ行きたい。何処でもない何処かから、ここではない何処かへ。そしていつか、岸に打ち寄せて誰かの足を濡らすのだ。
「――リン。――リン」
五雁正は誰もが迷わず認める美少年だった。肌の白さが、まず人目を引いた。その白さは、白人の血を引いているはずの双子の友人を凌ぐほどだ。鼻筋が通って目元が涼しく、唇はやや薄い。耳から顎にかけての迷いなく洗練されたライン、しなやかですっきりとした体付き、背もすらりと高い。クラスメートや先輩後輩から告白されるのは日常茶飯事、女の子と間違われて誘惑されること数回、ラブレターの裏紙を使えば一年間メモ帳を買わずに済むような野郎である。そしてまた、手紙が数枚に渡って長々と続いていたりすると、読まずに前の席の男子に回して「ちょっと君、これ読んで要約してくれない?」とやったり、内容は無視して字数だけを数えて「新記録だね」とか、もっと調子に乗れば昼休みに友人達の前で音読したり、彼はそういう男だった。
「――リン。おい、リン?」
それが自分の呼び名だという事を思い出して、正はようやく振り返った。考え事から引き戻された彼の目は物憂げで、真面目だった。「呼んだ?」
「十回くらいな」砂の上に細い杖を突いて、右足を庇いながら阿成大介が近付いて来た。「昼はバーベキューだって。雨が降らないうちに」
こちらは見るからに友達の少なそうな男だった。顔が取り立てて悪いという事ではない。ただ、目付きと表情が陰険だった。この世に俺の友達なんていう人間が存在するはずもないし、存在してほしくもないという顔なのである。学校に居たら確実に迫害されるタイプだが、彼も心得たもので一度も学校に行った事が無い。無学なまま今年二十歳を迎えた。カーキ色の緩いズボンに、真っ黒なTシャツという労働者風の恰好をしていて、それが暑苦しいと感じさせるような逞しい体付きだった。
「――あれ?」と正は言った。「君、背が伸びたんじゃない?」
「え? いつと比べて?」大介の返答はいつも少しトンチンカンだ。
「前と比べてだよ。僕より小さかったじゃない」
「それは、随分前だと思う」
「そんなに前じゃないよ。つい、こないだ……」正はそこで言葉を切り、少し首を傾け、やがてにっこりと微笑んだ。「……無事だったんだね。良かった」
潮風が、二人の頬に吹き付けた。海岸には他に二組ばかり家族連れの姿がある。日差しは強く、風はぬるい。暑さの盛りは過ぎてしまったが、まだ夏は終わっていなかった。
「誰が?」と大介は言った。
「君の乗った飛行船が燃えたって聞いたよ」正は少し可笑しそうに言った。
「それも、随分前のようだが」
「冗談はいいからさ。僕、本当に心配したんだから。もう会えないかと思った」
「俺は乗らなかったんだ」大介はつまらなそうに、分かり切った事のように言った。「今さら寝ぼけた事言わないでくれ」
「寝ぼけてないよ」正は思わず大声で言った。「だって、ずっと……実感が湧かなくて。センとゼンと三人だけで旅するつもりだった。君が一緒に来れるなんて思わなかった、夢みたいだよ。今でも信じられないくらいだ」
「だけど、あの事故は……」大介は言いかけて、それから急に少し目を見開いて正の上気した顔を見つめた。「……リン、……あれなのか?」
「何?」正は少々興奮していた。
「センとゼンと、旅に出る約束をした?」
「したよ。だからここに来たんじゃないか」
「用意して、家で待ってろ、とセンが言った」
「そう、そう言ったよ。歯ブラシと着替えと水着を用意してろって」
「リン、何歳になった?」
「僕は十三だよ。なんでそんなこと聞くの?」
「――背が伸びたはずだ」大介は低く呟いて、後ろを振り返り、砂浜の向こうにいた双子の兄弟に向かって片手を上げた。双子の美生千二と岸全一はすぐに砂を蹴って駆けて来た。オレンジの瞳に、金茶色の髪に、ちょっと白い肌。二人は四分の一だけ白人である。華奢で小柄だが、引き締まった体は実は強靱で敏捷だ。二人揃って特技は喧嘩と自称するくらいだから、並の腕力ではないのだろう。ただ、長いこと別々に育ってきたおかげで、兄弟喧嘩はした事が無かった。
「どうかしたの?」全一が、駆けて来た勢いに任せて叫んだ。「リンがまたぶっ飛んだ?」
「残念ながら」と大介は言った。「そのようだ」
「え、何それ?」正はびっくりして、それから笑い出した。「僕が何処にぶっ飛んだって?」
「そうか、元気そうだけどな」千二が正の頭をくしゃくしゃ撫でた。「リン、何歳になった?」
「歳を聞くの流行ってるの? 十三だよ。君達は何歳なのさ。百五十歳?」
「十六。ゼンもおれも同じ」
「当たり前じゃないか、双子だもの」
「会話は成立するみたいだな」千二は正の快活な受け答えにほっとした様子だった。「バーベキューするぞ、リン」
「僕を宇宙人か何かみたいに言うの止めてくれない?」
「夜から明日にかけて雨だって予報だ。早めに肉を焼こう」
「さっきダンもそう言ったね」正はだんだん早口になった。「なんだって三人で同じ事ばかり繰り返して言うのさ。僕が馬鹿みたいじゃないか、それとも馬鹿にしてるの?」
「いやいや、全くそんな事は無い」全一が正の肩を抱き寄せながら、バンバンと叩いた。「楽しく肉を焼こうじゃないか、ダンも無事に帰って来た事だしね」
「うん、本当だよ」正は相手の意味ありげな言い方には気付かなかった。「君達みんなして当たり前の顔してるんだもの、ダンが帰って来たのを喜んじゃいけないのかと思った。そりゃ、酷い事故だったとは思うけど……辛気臭いのは嫌だよ。僕はダンにまた会えて本当に嬉しいよ。本当に……」
正はそこでちょっと顔を背けて俯いた。彼の綺麗な両目は薄く潤んでいた。
千二と全一と大介は、それぞれの思いで、この小さな友人の涙を見つめていた。