序
空の色など忘れてしまっていた。薄ぼんやりした水色か何かだと思っていた。あんなに高い所に在るのだから、軽薄で頼りなげな、遠い色なのだと思っていた。
空は青い。
都会の空が薄いのは、軽いからでも遠いからでもなく、もやに覆われているからなのだ。そんな当たり前の事を今、思い出した。何にも覆われていない空は青かった。深かった。落ちて来そうなくらい、近かった。彼女がこの色を好きな理由を、大介は漠然と感じた。
深い空に突き刺さるように、棒が立っていた。
「動いた! 動いた!」全一が大層嬉しそうに、空に向かって叫んでいた。
「まさかね……」正はしなやかな腕を組んでいる。
「でも、明らかに移動してるぞ」千二が困ったように、頷いた。
塔と言うのか、何と言うのか、知らなかった。先の尖った石造りの棒だった。空に向かって真っ直ぐに伸びている。青い、空に向かって。
「え、何処に在るんだ?」大介は空を探した。雲しか無い。雲が動いているのは、当たり前だ。騒ぐ事ではないだろう。
「何処を見てるんだよ」全一が棒を指差した。「これだよ」
「何処か動いているのか?」
「さっきと位置が違うじゃないか」
「え?」
大介には何の事だか分からなかった。生えている苔の位置でも違うのだろうか。
「あの塔が、移動したんだよ。僕らの知らない間に、そっちからこっちに」
そっちと差す方には棒を建てた跡があり、こっちと差す方には棒があった。だが、何も動いてなどいない。
「悪いが、よく分からない」
「何が分からないんだよ」
「お前たちの冗談が」ある種の遊びなのだろうと思った。からかわれているのだろう。気の利いた返事の一つもしてやれば楽しめるのだろうが、生憎とルールを知らなかった。
「冗談って、俺がこんな事できると思うのかよ」全一は大介の返事こそを冗談と思ったらしく、半ば笑っていた。あとの半分は呆れた風だ。
「こんな事って?」大介は三人の顔をまじまじと見回した。三人とも、嘘をついている目でもこちらをからかう目でもなかった。さっぱり訳が分からない。「『それ』を『そっち』から『こっち』に動かす事か?」
「ほらね、この人に言葉なんか通じないんだ」正が勝ち誇ったように言った。「今のところ、彼に通じる言語を体得しているのは青さんだけさ」
何故、青が出て来る?
「確かに動いたよな」と千二。「ほら、木はそのままだ。塔だけ動いたんだ」
「うん、ここに立つと遊具が左手に見える」と正。「さっきは右手に見えたのにね」
そんな事、当たり前じゃないか。
「この短時間でこんな工事ができるとは思えないし」全一は妙に嬉しそうだ。「これは、塔がひとりでに歩いたとしか思えないな」
皆で自分をからかっているとしか思えなかった。ふざけている目と真剣な目、嘘をつく目と正直な目、その区別には自信があった。大介は混乱した。三人の友人たちが真剣な目で嘘を言っている。同じ場所に在るものを移動したと言い張り、誰もが知っている事を今初めて知ったように口にしている。このまま行くと青空が赤いと言い張ったり、太陽が西に沈んだと驚いたりしかねない。何なんだろうこれは。三人には、棒が移動したように見えているのだろうか。ならば、何故、俺にはそう見えないのだろう。何故なのだろう。一人だけ取り残されているのは。
同じ場所に立ち、同じ物を見ているはずなのに。
棒が歩いたという認識が一致して、全一と千二と正は意気投合したようだった。大介はその興奮からぽつりと取り残されて、考え込んだ。何故なのだろう。寂しくはなかった。不思議だった。