藤波綾、意識し過ぎる。
漆喰の旧い建物が建ち並ぶ温泉街。バンがぎりぎり通るくらいの車道脇の所々から、蒸気が上がっている。
この土地に降り立った時、鼻をついた硫黄の臭いにもすっかり慣れて気にならなくなっていた。
加藤さんは無言のまま運転し続けていたが、先ほど言葉を交わしたこともあってか、沈黙に緊張することはなかった。
「隣、この辺りで老舗の蒸し風呂屋なんだけど、県外からも客くるんだよ」
「そうなんですか。翡翠にもお客様ながれていらっしゃるんじゃないですか?」
「うちは、ほら、商売っ気薄いから。河原さん、余命三ヶ月って言われてたらしいんだけど、この温泉のおかげでもう二年以上元気なんだって。温泉の良さを心身疲れてる人におすそ分けしてるってくらいの気持ちみたいだ」
「河は……女将さん、いい人ですね」
「あなたが面接に来たとき、河原さんはあなたがとても疲れてるって言ってた」
加藤さんは、小さな専用駐車場に軽トラを停めた。
「おれも、あなたと同じ理由で雇われた」
加藤さんは微かに笑って、身軽に車から降りた。
この人ふとした仕草が、すごく様になる。
空気間というか、雰囲気を持った人だ。或いは、自分の魅せ方を自然にわきまえている。
女受けかなり良さそう。
……もしかして、女将さんの愛人だったりして。そうだったらちょっと面白いかも。なんて密かにほくそ笑んでいたら、ひょいと右腕が軽くなった。
「荷物これだけ? 少ないね。先に部屋に案内するよ」
「あっ。すみません」
加藤さんは、さりげなく親切だ。
引き戸もあけてくれる。なかなか好感の持てる人だわ。
「こっち」
口調は淡々としてるけれど、近寄りがたい気はしない。むしろさっきの無言は初対面で緊張していたのかもしれない。私の緊張感が足りなさすぎかしら。
階段を先に昇る彼の後ろ姿、主に臀部を見てしまう。背があっても、脚、膝から下が長い男性って少ないのよね。骨盤も引き締まってる。
これだけスタイルが良ければ、モデルにでもなれそうなのに。
見とれてるうちに部屋についた。私の部屋は三階の一番端っこ。共同の台所の手前から奥に入った所にある。
六畳に小さな卓袱台と十四型のテレビ。押し入れと、別に衣類用の収納スペース。
簡素だけど日当たりがよくて、小綺麗。
部屋を見渡していたら、加藤さんが荷物を置いて私を見た。
「洗濯機は一階ね。あ、浴場知らないよね」
一瞬、ドキッとした。浴場が『欲情』に脳内変換された。昔のワープロみたいに馬鹿だ。
「は、はい」
「一休みしたら、入ってくれば」
「はい……」
「お茶淹れようか」
「私いれます」
「初回くらいおれが淹れるよ」
加藤さんが部屋を出ていったので、私も後に続いた。
「座ってていいのに」
「いえ。そうもいきません。お茶の葉がどこにあるかも知らないので」
台所は、大人三人も立てば一杯な、狭い空間だ。
「台所、兼、喫煙所。藤波さんは煙草吸う?」
お湯が沸く間の加藤さんからの質問に躊躇した。
吸う。けれど、加藤さんは煙草嫌いなのかしら。或いは、女が煙草吸うのを嫌う人かも。ええい、隠しても仕方ない。
「吸います」
私は頷きながら答えた。
「そうなんだ。よかった。煙草嫌いの人じゃなくて」
加藤さんは、さっそく戸棚から灰皿とピースのスーパーライトを出し、換気扇を回して、窓を開けた。
「喘息のお客さんも来るからね、煙草はここでしか吸えない」
「わかりました」
加藤さんは薬缶の隙間から火を点けた。
「ガスコンロで火を点ける方初めて見ました」
「前付き合ってた彼女によく嫌がられた」
加藤さんは煙を吐く。向けられている真っ直ぐな視線をつい意識してしまう。
「まあ、それは」
答えに困る。私ったら、意識し過ぎ。
加藤さんは沸騰した薬缶をコンロから下ろして、お湯を保温ポットに移す。
「お茶の葉、戸棚の中」
私は急須とお茶の葉を戸棚から出して、茶缶の蓋で適当な量を計っていれた。
「今、二人客が入ってるんだけど、それはほっといていいから」
湯を注ぎながら、加藤がいう。先ほどの会話から常連客なのだろう。
「部屋、戻ってて。お茶持ってくるよ」
「はい」
私は部屋に戻って、窓を開けた。遠くに町が見える。さらに奥には海が見えた。この付近は温泉宿が密集していて、裏には山がある。
「入るよ」
襖越しに加藤さんの声がした。
「はい」
私は襖に駆け寄り、加藤さんを迎え入れた。
「どうぞ」
加藤さんは一つだけ湯呑みを卓袱台に置いた。
「お茶請けもなくて悪いけど。俺の部屋は隣だから、わからないことあったら呼んで」
「あ、あの私、お菓子持ってきたんですよ。ご挨拶の菓子折り、女将さんにと思って」
病院で渡せる雰囲気じゃなかったので、手に持ったまま忘れていた。
「預かっていただけませんか?」
「河原さんはしばらく戻ってこれないから、皆で食っちゃおうかな」
「河原さん、いつ頃お戻りになりますか?」
「三日くらいで退院できるらしいんだけど、そのまましばらくは家に帰るって」
「そうですか……」
この旅館に二人きり……。いやいや、お客さんがいるか。相手が男前だからって、期待している。
自分の浅はかさを恥じながら、私は加藤さんに菓子折りを渡した。
「清ちゃ〜ん。帰ってんの〜?」
まだ幼そうな女の子の声と、ぱたぱたと騒がしく廊下を走る足音が聞こえた。
「来た」
加藤さんが思い切り眉をしかめる。
「え?」
私が聞き返すと、加藤さんは苦々しく答えた。
「変な双子」