人生の逃亡者・藤波綾
これから始まる物語は全体的に甘めです。苦手な方はご遠慮下さい。
今の仕事に疲れ果て、住み込み可、温泉付き、という文字に惹かれて、温泉郷の湯治場で働くことにした。
面接は、気のいいちょっと明るすぎる女将さん。
女手が欲しいのに、なかなか若い女の子がこなくて困ってるのよね。未経験? 大丈夫よ。誰だって最初は未経験だもの。家事はしたことあるでしょ? なら問題ないわ。あなた、今就職してらっしゃる? あら、もう辞めてるの。あらあらまぁまぁ。そうなの。今はご実家? なら、うちはうってつけじゃないの。あなたさえよければ、うちはいつでも歓迎するわ。
と言うので、一週間後には、荷物をまとめて家を出た。
これでもう、見栄とファンデーション厚塗り成金ババアや、鼻の下伸ばした助平ジジイや夜の揚羽蝶共と、おさらばできる。
完璧主義ヒステリックキャリアウーマンな上司も、ドライでクールな先輩にも、小悪魔だかなんだか知らないが、見境なく男をとっかえひっかえする頭空っぽのハリボテ美人な後輩ともお別れ。
この数年のストレスですっかり身も心も冷え性になってしまった。きっと、軽い人間嫌いにもなってしまった。そんな私に必要なのは、大地の恵み、自然の恩恵。暖かい温泉と人情なのだ。
蜘蛛の糸を辿るように、女将さんを頼って、一人新天地にやってきた。
住み込み旅館は人生の墓場なんかじゃない。
希望と幾ばくかの現金と最低限の荷物を持ち、私は再び、駅に舞い戻った。
迎えが来ると言うので、指定された『ようこそ観輪岳へ!』という看板の下で、この町の名物のこけしを持って立っていた。
このこけしっていう有り得ないダサさがいい。都会じゃこんなユーモラスな目印はない。
きっと女将さんは忙しいから、旦那さんか、はたまた馴染みの農家のおばさんかおじさんが来てくれるのだなんて、どうでもいい田舎のふれあい劇場を想像しながら、勝手に希望に胸を膨らませていた。
駅周辺は、地場のタクシーがプールで観光客待ちをしていたり、ツアーの外国人観光客がいたりで、そこそこ賑わっている。
初めての土地。田舎というには、ほんの少し開けていて、都会というにはあまりにも閑散としている。
さて、待ち合わせの時間ももうそろそろ。
腕時計から、視線をあげると目の前に軽トラが停まった。
「藤波さん?」
運転席から顔を出したのは、頭にタオルを巻いた長髪の、想像よりはるかにあか抜けた若い男。彼は、私の顔と履歴書を見比べながら訊いてきた。
「えっ。はい」
思わず、声が上擦ってしまった。
「藤波綾です」
失態を取り消すべく瞬時にアパレル時代の営業スマイルを繰り出した。
「加藤清匡です」
どこかで聞いたことのあるような名前を、素っ気なく告げる。
「とりあえず乗って下さい。先に女将さんに会っときましょう」
「あ。はい」
加藤さんは、私が助手席に乗り込んでシートベルトをしたのと同時に、無言のまま車を発進させた。