07.展開
部屋で、晩ご飯まで一眠りしようと目を閉じたら、起きたのが深夜だった。
毎晩御神体に行く時間だ。習慣になってしまったか。
もう行かなくてもいいかとも思ったが、最後にお別れの挨拶に行くかと考え直して立ち上がり、のたのたと外出の準備をして玄関を開けたら、女将さんが出てきて「ご苦労様です。晩ご飯食べてないでしょ、何か食べていきますか」と聞いてくれた。
あー、こんな時間まで申し訳ない、と頭を下げて、何も食べずそのまま出発した。
月が明るいなーと思いつつ、滞在中一度も雨が降らなかったことを思い返す。いつもなら旅行に出ると、必ず一度は小雨が降るのだが、今回は何もない。
懐中電灯も必要ない明るさの下、誰にも会わずに御神体の前に着く。それでも町の人には広まるんだよね。
手を合わせ頭を下げ目を閉じ、お別れの挨拶をしようとしたとたん、猛烈な眠気に襲われた。
とてもじゃないが立っていられない。
やばい、ここで寝ちゃうのか。
膝をつくがここは石がごろごろして膝が痛い。御神体の直下の方がまだマシっぽい。
這って狭い草地に仰向けになる。
万が一地震が来て、御神体がこちらに倒れたらそのまま圧死だな、と思いながら眠ってしまった。
眠りは猛烈な頭痛で破られた。
目を開けると左の空が明るくなっている。日の出か。
この広場ではこの時期、左の日の出から右の日の入りまでが見渡せるのか、などと思う間もなく猛烈に頭と肩が何か猛烈に押さえつけてくる力に地面に押しつけられ、両の肩から首筋が猛烈に痛く、それが頭の筋肉に直結して酷い頭痛になっていた。
頭痛持ちの間では「眠りから頭痛で目が覚める」症状が昔から話し合われていて、枕が合わない説や、掛け布団の首筋から冷気が入って肩が凝る説が言われていたが、近年になって、気圧の変化説が唱えられるようになっている。
それか?
立ち上がると、まぁまぁマシになる。しかし猛烈な眠気は続いていて、頭から肩痛がマシになったからまた横になると、どんどん痛くなるのだ。
まずい、宿に戻るに待てないほどの眠さは続いている、しかし頭痛も、薬を飲んでも(ないけど)回復不能っぽいほどの激しさだ。
こういうときは自分の心臓の鼓動とかこめかみの脈に意識を集中するといい、という人がいた。
仰向けや横向けに寝ると、地面に接した頭の部分が痛むので、うつぶせになり、鼓動に意識を集中し始めた。なるほど少し楽になったというか、頭痛から意識がずれ始めた。
と思っていたら、頭痛だの肩の筋肉の張りだのとは違う、圧迫感が酷くなってくる。
気圧というか、空気の圧迫感だ。
寝起き頭痛気圧原因説って、ここまで気圧の圧迫が凄いのか?そして今の圧迫は、決して肩や首だけを襲うのではなく、耳の鼓膜への圧迫もしている。鼓膜をググググーという感じに突破しようとしているようで、耳を塞いでも防げないし、そもそも寝起きで手に力を込めるのは非常に困難だ。
それでも頭が痛いなりにウトウトとしたら、いきなり真っ暗になった。
え?さっき日の出っぽかったじゃん、なんだ天変地異か?とうつぶせ状態から顔を上げたら、右も左もどこもかしこも真っ暗になっていた。
気圧の圧迫感はいつの間にか消えて、頭痛も消えているが、それよりもここから逃げた方がいいのかという判断に気を取られて気がつかなかった。
立ち上がり、二、三歩歩いて足元の感触が違うことに気がついて立ち止まる。土と小石だったのが瓦礫というか大きな石の感触だ。
上を見ると、ただの真っ暗な世界というわけではなく、青みがかった黒だと解る。上を見上げると、天頂というより私の視界の縁が濃い、非常に濃い青みになっている。光の届かない深海にいる感じなのだろうか?
頭痛はしなくなっているが、闇が質量を持っているかのように私の体を触っている。
手の感触ではない、蛇のような細長い物が動いているという感じだ。服の上だけでなく私の鼻を、耳を、頬を、目を、調べるかのように触っている。
鼻の穴や耳の中に入ろうとするのだが、その瞬間にその部分の感触はなくなる。体内体温に触れると消えるのか?
しかし、なんというか、この質量がある闇は、とても不快である。気圧も湿度も温度も、何もかもが危険だと私の感触器官が告げていた。
視線を感じて後ろを振り返る。大きな御神体があるはずなのに、私の視線より低い位置に小さな光が二つ、左右に並んでいる。鈍い光だ、オレンジ色とまではいかない、弱い赤が入った白色だ。
「ナニシニキタ」
頭の中に声が響いた。
さっきからパニクっていて考えがまとまっていないのだが、何とか意識を集中して頭の中で挨拶をしても、返事はなかった。ちゃんと口で言わないといけないのか。
「お邪魔します」
深呼吸を二つし、根性を固めてここに来た理由を話した。
「こちらの神様から言っていただければ向こうの神様は聞いてくれると」
のところで二つの光はよそを向いて、またこっちを見た。
ここは神界というわけではないだろう、ひょっとしたら石の中かもしれない、せいぜい神域というところか。しかしこの不快さ、気持ち悪さはどういうことだろう?ただの異界なんだろうか?それとも人の身としては神界も異界に過ぎないのだろうか。
空の光が全くないというわけではないから、目が慣れてきたらこの場所がどんなふうになっているか、見えてきそうな気がした。しかしそれは不敬のような気もする。というかこの闇の圧迫感は二つの光に集中しないと敵意を持たれそうな気がする。あちこち見渡したい欲をねじ伏せて、二つの光から目を離さず集中する。
話し終える頃には私を調べていた蛇状の何かは離れていった。しかし私の体は、あいかわらず怖いと言っている。
「ナニヲヨコス」
ギブアンドテイクか。
夫人とはそこまで話し合っていない。神様に会うことが非常に難しいと思っていたのだ。なので私が日常考えている物を言う。
「今までに一度も口にしたことのない、信じられない美味しい物はどうでしょう」日本の食文化の粋である。
「アル」
そうか、望めばこの町の人が持ってくるか…
「最先端の歌や踊りは…」
「アル」
「絶世の美女は」
「…」興味なしか。
…あれ?詰んでね?なんであれ、この町の人に頼めば持ってきてもらえるじゃん。
返答に詰まった瞬間、明るくなった。
元の広場である。太陽は水平線から出終わったところだ。
肩から頭までの痛みは綺麗に消えている。しかし血圧の高まりは簡単には収まりそうになく、頭に血が上った頭痛が起こっていた。そしてまた非常に強い眠気が襲ってきた。
どちらも歩けないほどではない。なんとか宿に戻ろうと足を引きずる。
太陽の頼もしさ、新鮮な空気の美味しさ、さらには波の音まで心地よく、生きてるっていいなーとうれしくなってしまう。
それも広場の入口までだった。朝の散歩に来た人がへろへろになった私を見て「おい、どうしたんだ!」と驚いた声をかけてくれて、あぁ、人っていいなぁと思ったところで眠気に支配されてしまった。
しかし深い眠りに落ちることはなかった。
崩れ落ちた私をみて驚いた老人が人を呼び、私を駐車場まで運ぶのだが、その揺れ具合が酷い。この町の人は脳梗塞のような、動かしてはいけない症状という可能性は思い浮かばなかったようだ。
車に乗せられてまた少し眠るが、着いたところが病院ではなく宿だ。つまりすぐ眠りから引き戻される。
驚く女将と主人に引き渡され、キレイにされた布団に寝かされるのだが、そのときは必死の覚悟で夫人に送ってもらう物を告げ、「それと」と胸ポケットから写真の裏を出して渡し、そこでようやく深い眠りに落ちた。