お嬢様は夜に跳び出す
「……やられた」
意外と聞き上手なアリィシアにディールに関するアレコレを気持ちよく話し、その後自室に戻ったエリーゼは、反省タイムに入った。
今になって、アリィシアと王子の関係は聞けたものの、その後は自分ばかり喋ってしまい、王子の意図についてまったく聞き出せなかったことに気づいたのであった。
まったくもって迂闊である。
アリィシアの『役割』を朧気ながらにでも知った今となっては、おそらくはそのようにし向けられたのだということくらいわかる。
――おめおめと、一方的に、観察されたのだ。
もしかしたら王子の指示かもしれない。
まったくもって屈辱である。
貴族の子女であれば、社交を通じ、会話を武器として、情報を集めることができる者が強い。アリィシアは平民のようで無邪気を装ってはいるが、おそらく彼女の真の姿ではない。王子の『手の者』である以上、情報収集の『プロ』なのかもしれない。魅了の力を使う使わないにもかかわらず、あれはなかなかの強者であろう。
「いいえ、次こそは。先入観がまだ抜けてなかったのだわ。アレは田舎の芋娘なんかじゃない……」
エリーゼは鏡に向かって金色に波打つ長い髪をとかしながら、左右対称に映る自分にそう言い聞かせた。
はあ、とため息をついた。
――これから大変だぞ。
王子に目をつけられた、とディールは言った。
今回は人のいないところでの接触だったが、王子がエリーゼを自陣営に引き込もうとするならば、下手をすれば人前でアリィシアが接触してきて、既成事実的にあたかもエリーゼが『王子派』であるかのような印象を振りまいてくるかもしれない。
そんなことになれば……。
「実家から、間違いなくクレームがつくわね……」
エリーゼの実家は、中立ということになっているが、王弟派だ。
そもそも、エリーゼ自体、王弟の娘である第一王女の学生生活を守るためにこの学園に入学したのであり、それ以外の役割は……ない。
「こんなときこそ、採るべき選択肢を教えてほしいものだわ」
「呼んだかね、お嬢様」
聞き覚えのある渋い中年男性の声に、エリーゼは半身ごと自室の窓を振り返った。
そこには、暮れゆく窓辺に溶け込むように、黒い子猫の姿があった。
「……ヴァイス」
するり、と開いていた窓辺から部屋に子猫は音もなく降り立った。
声に似合わぬ可愛らしい仕草で首を傾げる。
「聞きたいことがありそうだな」
あまりにタイミングが良すぎて不信感しかない。しかし、このうさんくさい子猫(可愛い)が何か情報を持っているならば、是非とも聞きたい。
「もちろんよ」
「そうか」
子猫は、図々しくもエリーゼのベッドに上ると、ふかふかのシーツに体を埋めて、うっとりとした顔でピンと立てたしっぽを左右に揺らした。
――可愛い。いや、それは今のところどうでもいい。
エリーゼは、左右に揺れるしっぽに視線をとられないように視線を逸らした。
「まずは……王子がこれから、私を使っていったい何をしようとしているのか、それを聞きたいわ」
しかし、ヴァイスの回答は肩すかしもいいところだった。
「申し訳ないが、そういうことまでは知らない」
「な……どういうことよ?!」
「まあ、つまりはだな、俺はお嬢様の採るべき行動はわかる。だが、その裏にある因果関係までは知らない、ということだ」
「それってどういうこと? 何が起こるかわからないのに私の回避すべき事柄だけ知っているなんて、そんなこと……あまりに不自然じゃない」
ぱたり、とヴァイスはしっぽを揺らすのをやめて、シーツにしっぽを落とした。
「今の俺にはまだわからない……それで勘弁してくれないか」
じろり、とエリーゼはヴァイスを睨みつけた。本当にわからないわけがない。いや、彼は自分を使い魔だと言った……そうであれば、彼の主人が知っており、彼はそれに忠実に従っているだけなのか? いや、そう思いこむのは早計だ。
もっと追い込んで、その反応を引き出さなければ。
「それでは、せめて教えて。何が私の『死』につながるの? 理由は何? あの塔では、アリィシアをさらった者に口封じに殺されるという意味だと思ったのだけど、王子の呼び出しに応じるか応じないかなんてことが『死』に繋がるとあなたは示したわね?」
ヴァイスは目を閉じた。しっぽを立てて、もう一度ぱたんと倒す。どういう意味だ。
エリーゼは鏡台の前からベッドへと移り、ヴァイスの横に座った。
「私の死とは何? 何のために、誰に殺されるの? それとも事故死? 病死……はないとしても、いったい何があるの、何を回避すればいいっていうの?」
エリーゼの背筋に震えが走る。
自分でも、恐ろしいので考えないようにしていたのかもしれないが、今後の行動次第で、エリーゼは死ぬのだ。
意味もわからず死にたいわけがない。
「それは言えない」
「何故よ!」
エリーゼは激昂した。むんずとヴァイスの体を両手で掴む。そのまま自分の目の前へとぶら下げた。ヴァイスの金色の目と、エリーゼの青い目がまっすぐに合う。
「あなた、何を言っているのかわかってるの? 何故死ぬのかもわからず、ただ死ぬとだけ告げて、いたずらに恐怖を煽る理由はなに? いったい何を企んでいるの?」
ヴァイスはガラス玉のような、何を考えているかわからない金の瞳でじっとエリーゼを見据え、くぁ、と大きく口を開けた。
その瞬間、両の手から重みがふっと消えた。
「お嬢様、あなたは一つ勘違いをしている」
瞬きの間に、いったいどうやったのかヴァイスはエリーゼの手から抜け出し、窓辺に座っていた。
そう、まるで魔法を使ったかのように。
「あなたは、俺の言うことを信じる必要はない。自分で決めればいい、と最初に言ったはずだ」
「……あなた、私を助けたいと、そう言ったじゃない」
「言った。だから俺はあなたが死なないように助ける。その方法を信じるかどうかは、あなたの自由だ」
「説明する気は……ないということね」
窓辺の黒猫は、金の瞳を閉じた。黒い毛並みが夜闇に溶け込むように消える。
「知りたいとあなたが思うならば、すぐに機会は訪れるさ。ついてくるがいい」
「今?」
「そうだ」
音もなくヴァイスはその場から消える。エリーゼが慌てて窓辺へと駆け寄ると、窓の下でか細い子猫の鳴き声が聞こえた。
降りろ、ということか。
エリーゼは迷った。まだ寮の門限ではない。しかし、ヴァイスにどこに連れて行かれるかわからない現時点で、バカ正直に寮の玄関から出入りしていいものか。この時間からだと手続きが必要だし、門限に間に合わなかったら、罰則がある。
クラスをまとめるべきエリーゼの立場で罰則を喰らうというのは、とてもマズい。
――それに、明らかにヴァイスは、すぐに来いという行動をとっている。
エリーゼの逡巡は一瞬だった。貴族らしい豪華な、しかし寮にあう大きさの小さめのドレッサーを開けると、下の段の引き出しを開け、全面に刺繍がほどこされた黒い布張りの靴を取り出して履く。
そのまま、窓辺へと駆け寄り、勢いよく寮の最上階に当たる3階の窓から虚空へと飛び降りた。
「『風よ、さらに風よ、我が足下を惑わせよ』」
この靴は、ただの布靴ではない。刺繍に見えるものは魔導文字を図象化したものであり、風の魔法をまとわせることで、ある程度重力を誤魔化せる。空を飛べるほどの威力はないが、高い場所から飛び降りた衝撃を和らげたり、他の風魔法と組み合わせれば3階くらいまで飛び上がることのできる補助魔具となる。
エリーゼの体は、重力に逆らい、音もなくゆっくりと寮裏の草むらへと着地した。
視線の先には、ささやかに金色に光る闇に溶ける獣の瞳。
――今度はどこへ、連れて行こうというのか。
ごくりと唾を飲み込み、エリーゼはヴァイスの後を追った。