プロローグ:アリィシアは回想する
母は不幸な人だった。
母は不幸であり、同時に周囲の人間を不幸にした。
すべて、彼女の持つ、魅了の眼のせいだった。
「アリィシア、君も聞いていると思うが、君の叔父である私は、この国の貴族でもある。養女になった以上、貴族としての教育を受けてもらわねばならない」
わたし、アリィシアは、父親の弟であるレリジア伯爵を真っ直ぐ見た。音に聞く派手な美男子だったとかいう父親とは違い、髪も目も暗いブラウンで、いまいち地味な印象をぬぐえない。
しかし、厳しく鋭い印象を与えるその目が、優しく細められることがあるのを私は知っている。
彼の立場から言えば、本来、正統な嫡子として伯爵位にあるべき彼の兄……私の父をたぶらかし破滅させた母親の、娘がわたしだ。
憎いと思うこともあるだろうに、優しく接してくれるのは本当にありがたい。
たとえ、娘のいない叔父にとってわたしに利用価値があるかもしれないからだからとか、自分が兄の代わりに伯爵になれたから恨みが少ないという理由であったとしても、だ。
父母にとっての不幸の象徴であろうわたしが、他人に「利」がある存在でいられるということは、生きる上で重要なことであった。
「わかっています、叔父様」
「庶民として生きてきたお前にとって、貴族の中で暮らすのは辛いことも多いかもしれない。ありがたいことにマナーや知識は、お前の母親が叩き込んでくれていたおかげで、自信を持っていいレベルだ」
「・・・・・・ありがとうございます」
気持ちが昂ぶるのを感じて、わたしはそっと目を伏せて、叔父様に礼を言った。
熱い何かが私の両目に集まり、はじけるのを感じた。
――よっぽど嬉しかったのね、私。あぶない、あぶない。
母と父の人生を狂わせた魅了の魔眼は、娘であるわたしにも受け継がれていた。
母の魅了の力は、よほどの魔法防御でない限り効かないくらい溢れるほどに強いくせに、コントロール不能のぽんこつ仕様だった。
母や周囲のあらゆる男性も女性も魅了して、しかしそれを利用するような頭の良さも胆力も持っていない、歩く災害そのものだった。
ただ、泣いて、嘆いて、でも自分を欲し愛する人々から逃げ切ることもできなくて。最後には逃げるくせに人に中途半端に頼って、その想いを向けられればまた怖くなって逃げて、そんな自分を嘆いて、その繰り返し。
私はそうはならない。かといって、せっかくの力を忌まわしく思って泣いてばかりもいない。
どんな力も、毒であり同時に薬である。加減と使い方だ、とわたしは信じている。
例えば、今、目の前にいる叔父に対しては「印象がよくなる」程度に魅了し、決して「女として魅了」してはならない。
もちろん、力のコントロールは並大抵の頑張りで得られるものではない。感情に連動して迸りそうになる魔力を抑えるのは、例えが汚くてたいへん恐縮だが、走りながらもれそうなおしっこを我慢するようなものだ。辛くないわけがなかった。
――もう少しいい例えができず、たいへん申し訳ないと思う。
教育のためにわたしが入学したのは、聖アロニス記念高等学校。
貴族と一部の裕福かつ優秀な平民(ほとんどは一代爵位持ち)がその子女を通わせる学校。
国を支える人材の育成と、上流階級の子女の人的ネットワーク(要するにコネ)を作るための養成機関。最近のトレンドは富国強兵であり、国のを担うべき子供たちへの教育が必要だという認識が強まっている。
ちなみに、以前は教育の輪から外されていた庶民にも、庶民向けの学校が開校されている。まだ通う人間はわずかという話だが、あまりにも魔力が強くその素養が高ければ、貴族に召抱えられたりして、この学園に来ることもある、のだと言う。
この学校は国を担う高級官僚養成機関でもあるからだった。
そして、この学校で、わたしは王子に出会った。
王家は強い魔力を持つものが多く、王子もまたその中の一人だった。幼い頃から厳しく魔力のコントロールを教育された王子は、ほとんどの魔力を無効化する術に長けていた。
彼の前では、この能力が発動しても、そもそも効かないのと同然であるため、何も気にすることなく、まるで普通の女の子のように振る舞うことができた。……それが、どれほどわたしにとって救いなのか、きっと他の人にはわからないだろう。
それどころか、スパイとして、囮として、この能力を王子の役に立てることができる機会があるのだと、わたしは徐々に理解してきたのだ。
王子はやはり、ためらいがあるらしい。私に危険なことをさせることには基本的には反対で、時々、『お仕事』に参加する前に役目を外してくることすらある。
心配されることは嬉しい。でも、役に立てたら、もっと嬉しいのだ。
わたしはきっと王子が好きだ。人としても役に立ちたいし――きっと恋愛感情もある。でも、それ以上に、執着している。
彼のために身も心も命さえも捧げたい。
この国の要である王子。彼を守れたら――それはきっと、この忌まわしい能力をもって生まれた意味があったと――その時に、生まれてきて良かったと、わたしは初めて、本当に初めて、そう、思えるだろうから。