お嬢様は覚悟を決めた
「言われなくてもっ! そうするに決まってるじゃないっ!」
そう叫ぶと、エリーゼは、良家の子女らしく慎ましく長い制服スカートの裾を自らの手で跳ね上げた。
「エリーゼ様?!」
アリィシアがその腕を離す。
「『我が声に応え、その姿を現せよ、其は我が力である! ヴァイス・リッター』!」
呪文とともに、何もないかのように見えた右足のガーターベルトに、黒い柄が浮かび上がる。それを引き抜いて構える。
そのワンアクションの間に、呪文を受けて柄は紫色に光り、瞬く間に魔法で編まれた戦斧が現れた。
「エリーゼ様!」
「あきらめちゃダメよ! また捕まってどうするの、振り出しじゃない! スケベオヤジなんかに好きにされて人生諦めるなんて、絶対に許さないし、私もこんな目に合わされて、おめおめと言うこと聞いてなんかやらないんだから!」
魔法斧を構えたエリーゼに、傭兵連中もまた、獲物を思い思いに構える。
「おい、お嬢さん! 多勢に無勢って言葉を知ってるだろうが! あんたみたいな細っこい貴族の娘っこが一人で何ができるってんだ?!
こっちもケガさせようとは思ってないんだぜ?!」
傭兵隊長(仮)がそう叫ぶ。
「あなたこそ、私たちのことをよくわかってないんじゃない?」
「なんだと?」
「私たちは魔法学校の生徒よ。そして、貴族。この国において、貴族の役割を知らないわけではないでしょう」
エリーゼの後ろで、アリィシアが息を整える音が聞こえる。特殊な呼吸法だ――魔法を使う際に魔力を整えるための。
「この国において、貴族である条件は、魔力を持つこと、そして、魔法学校の教育目的は、その魔力をこの国と国民を守るために鍛えること!」
エリーゼは自分の慣れた獲物を構えた。
「全員がいずれ兵士となるべく教育を受けるのだから、戦えない魔法学校所属の貴族なんて、この国にはいないのよ!」
言葉とともに、戦斧を横なぎに振るう。魔法による暴風が吹き荒れ、右に位置していた2人の傭兵が吹き飛ばされる。
「『其は土であり、炎である。我が手にて炎の壁をもたらさん』」
アリィシアの魔導言語が紡がれると、ぼおっと青い炎が壁のようにエリーゼとアリィシアの間に立ち上った。イセリア屋敷の中庭の植物をその炎に巻き込んで焼き尽くしながら、傭兵たちと二人の間を隔てる。
勢いよく燃えているようで、この炎は現実の炎よりも儚い存在であり、すぐに消えてしまう。
「エリーゼ様、こっちです!」
目的は逃げることだ。多勢に無勢というのは事実だ。正直、啖呵を切ったはいいが、あれはハッタリに近い。手練れの傭兵複数が相手では絶対に勝てない。
アリィシアとエリーゼは、炎に隔てられ傭兵たちのいない左の回廊へと素早く走る。
「逃がすか」
威圧するような声が低く響く。
炎の壁の向こうから、魔力をまとった長く黒い鎖がまるで生きているかのようにまっすぐ飛び、アリィシアの全身をからめ取る。
「きゃああっ! ううぐっ!」
悲鳴をあげたアリィシアの体がぎりぎりと鎖に締め上げられる。必死に踏ん張る足がずるずると引きずられる。とっさにエリーゼは鎖を掴む。炎の壁を突き抜けているせいか、熱い。
「エリーゼ様! ダメ! エリーゼ様だけでも逃げてください!」
「そんなこと……! 私の、わたしのっ!プライドが許すとでも思うの!」
そのためには、この鎖が切れなければならない。
この鎖が切れれば――。
――方法は、ある。
エリーゼはアリィシアを見た。アリィシアはエリーゼを見ている。
逃げないと死ぬ。けれども、そこに至るまで、どうすれば良いのか教えてほしい。
心で黒猫に呼びかける。この選択肢が正しいのか教えてほしくて呼びかける。
でも、こんな時に限って、頭の中に浮かんでいる選択肢は、さっきと同じだった。
――――――――――――――――――――ー
このまま屋敷の牢についていく → デッドエンド
逃げる → 次へ
――――――――――――――――――――ー
選択肢など、もう、なかった。
エリーゼの右手を覆うレースの手袋が解れ、穴が大きくなっていく。
燃えているわけでもない、破れているわけでもない。
――風化しているのだ。
「エリーゼ様……?」
アリィシアの声が恐怖で震える。彼女も魔法の使い手だ。それも、貴族の庶子、平民として育った身でありながら、大きな魔力とその魔力操作に長けているという事情で叔父である伯爵家の養女となり、学園に入学してきたほどの。
だから、わかるだろう。今、エリーゼがしていることが――何なのか。
鎖がぼろぼろと風化する。右手から魔力が流れ込むのがわかる。
エリーゼの能力。
それは、彼女が触れたものから、魔力や生命力や、それに類する『存在するための力』を一切合切、根こそぎ奪ってしまえる能力。
加減を間違えれば、彼女が触れただけで花は枯れ、物は朽ち、人すら死ぬだろう、そんな忌まわしい能力――。
貴族が魔法により国を守るということを基本としているため、魔法には寛容なこの国であっても、最上級に忌まわしき、死を生む力だった。
ぼろぼろになった鎖だったものが、ぱたぱたと地面に落ちる。傭兵たちには、炎の壁が障害となって見えなかっただろうが、アリィシアには一部始終を見られた。
人に知られれば死に等しい秘密。それを明かしながら、なぜかエリーゼの心は逆に平静だった。
「行くわよ」
まだ、呆然と鎖が落ちた地面を見つめているアリィシアに、エリーゼは声をかけた。びくり、とアリィシアの肩が跳ね、しかし、その足はエリーゼについて逃げようとして……。
ぱんっと何かが爆ぜるような音がして、炎の壁が消えた。
その瞬間、傭兵隊長が、細身の剣を構え、エリーゼに斬りかかる。
あの剣自体が魔法を帯びているのか、それとも傭兵隊長が魔法を仕えるのか。剣をなぐことで、炎を消したのだ。
……思ったより、この男は達人なのかもしれない。
「……っ!」
エリーゼは振り返り、斧頭の広い部分で盾のようにその一撃を防ぐ。
動きに比して軽い一撃。牽制のための一撃だったのだろう。明らかに本気で撃ちかかったわけではない。
「アリィシア!」
傭兵に羽交い締めにされたアリィシアがもがく。
エリーゼに傭兵隊長が再度撃ちかかる。再度、斧頭でその一撃を防ぐも、先ほどよりも重く、エリーゼは小さな悲鳴を上げた。
そして、三撃目。
最初に撃ちかかられたときとは段違いに強く重い一撃に、魔法で編まれた戦斧は、音もなく、もろくも打ち砕かれた。
「くっ!」
魔法の戦斧は、本体である黒い柄さえ無事であれば、エリーゼが再度魔法を編めば再生する。しかし、傭兵隊長はすでに次の横凪ぎの四撃目の動作に移っている。
それまでに間に合わない。
万事休すだ。
かなうわけがなかった。
死ぬ――。
「うおっ!」
しかし、妙な叫び声とともにその場を飛び退いたのは、傭兵隊長の方だった。
エリーゼと傭兵隊長の間を、疾風のように青く光る魔法の矢が通り過ぎる。
針穴に糸を通すような超絶的なコントロールだ。もちろん、常人のなせる技ではない。
思わずエリーゼは左を見た。回廊に一人、人影がいた。
黒髪黒目。よく知るその顔は――
「そこまでだ!」
凛とした声が中庭に響く。はっ、とエリーゼは真正面の回廊を見た。
消えた炎の壁にいぶされた庭。煙が立ち上る向こうに立っていたのは。
「王子……?」
王子と、その後ろに王族を守る近衛が複数人いる。
「王子っ! 助けにきてくれたんですねっ!」
いぶかしげに呟くエリーゼと対照的に、喜色に溢れたキンキン声でアリィシアが快哉をあげた。そのまま弾けるように走り出し、今のシリアスな場面をまったく気にせず、王子に抱きついた。エリーゼを置いたまま。
「うわっ」
威厳もへったくれもない声で王子は声をあげると、アリィシアの勢いを殺しきれなかったのかたたらを踏み、しかししっかりと抱きとめた。
「怖かったです王子! でも、助けに来てくれるって信じてました!」
アリィシアをその腕に抱きながら、しかし、王子の瞳はすぐに冷ややかな色を取り戻した。
先ほどの狼狽などなかったかのように、アリィシアをその片腕に抱え直し、ゆったりと威厳をもってまっすぐと王子は傭兵たちを見た。彼らは全員、武器を足下に置き、やる気なさそうに手を挙げている。さすがは傭兵である。その場の状況をすぐに理解したのだろう。
「センヴァイク伯を拘束した。彼はすべて自白したぞ。本当に、愚かなことだ。そなたらを罪には問わぬ! そのかわりに速やかに投降し、我々の取り調べを受けよ! その際に無体は働かぬと約束しよう!」
王子の言葉に、傭兵たちはやれやれと頭を振って、武器から離れた。忠義のなさも躊躇のなさも、まさしく傭兵らしい。
近衛たちが傭兵たちの武器を回収した後、指示にしたがって傭兵たちを引き連れていく。
もちろん、あの傭兵隊長も例外ではない。
「お嬢ちゃんたち、助かったな」
先ほどまで、殺し合いをしていたとは思えないほどあっさりと、彼はなんでもないことのように言って、軽い足取りで近衛に連れられる傭兵の列に加わった。
あっという間の幕切れに、思わず呆然とエリーゼは立ちすくむ。
頭があまり状況の変化についていけていない。
「エリーゼ嬢」
「はっ、はい」
王子の突然の呼びかけに、呆然としていたエリーゼは自らを取り戻し、思わず姿勢を正した。いや、いつも彼女は優雅に姿勢は良いのだが、必要以上に背筋が延びてしまったのだ。
「アリィシアを助けてくれてありがどう。礼を言う」
「……身に余るお言葉です」
淑女の礼をとりながら、王子がいつまでアリィシアを腕に抱いている気だろうかと、エリーゼは気になってならなかった。どう控えめに評しても、ちょっと間抜けな姿勢だ。
結局、アリィシアは王子の寵愛を受けてるのか、そう言う名目の手先なのか、どっちなのかわからない。頭は混乱したままだ。そもそもこの騒ぎはなんだったのだ。
「あなたも怪我をしているようだ。ディール、エリーゼ嬢の手当てをして差し上げろ」
「承知いたしました」
黒髪黒眼の少年が、うやうやしく、どこか芝居がかった仕草で、王子に頭を垂れた。
「その前に、王子!」
唐突にアリィシアが声を上げた。
「わたし、エリーゼ様にお礼を言いたいんです!」
そう言うと、アリィシアは王子の腕をぞんざいな仕草で押し上げてくるりとかわし、エリーゼの両手をとった。自分から抱きついたくせに、行動が自由きわまりない。
「おい!」
「ちょっとだけです!」
王子の非難の声をものともせず、アリィシアはそのまま、エリーゼを庭の隅へと引きずっていった。エリーゼが助けを求めるようにディールを見ると、ディールはただ、肩をすくめただけだった。何かリアクションする気はないらしい。
「ありがとうございました。エリーゼ様」
「いいのよお礼なんて。どうせあのタイミングで王子が助けにくることになってたんでしょ。むしろ足手まといだったかもね」
「そんなことないです!」
アリィシアの瞳が桃色に不自然に煌めいた。何故か不快な心地がして、エリーゼは視線を外し……その『視線』をまたしても自分の能力が『奪った』ことに気がついた。
エリーゼが『奪える』のは、人の生気、魔力……。
「私、実際あのとき、何があったのかそんなにわかったわけじゃないんです。あれが、時を早めたのか、魔力を奪ったのか、ほかの何かなのか、わかりません。王子やディールくんならわかるかな、でも、それはどっちでもいいと思ってるんです」
やはり、気づかれていた。
この能力を知るものは、両親と幼い頃の魔導の師、そしてその養子であるディールだけだ。決して知られてはならない能力――しかし、何故か、何故だかエリーゼの心は波立たなかった。
しかし、アリィシアは、くすりと笑うと声を潜めた。
「私の能力、何度か見たでしょう。あれね、途中からはわざとお見せしたんですよ。ちょっとだけお教えしますね。この目なんです。お嬢様が今、振り払った力。……どんな力なのか、考えてくださいね。きっとお嬢様ならわかっちゃうかなぁって」
アリィシアはことの重大さに見合わない軽さでそう言い放った。
男たちに追いつめられたとき。殺気を奪い、その悪意を彼女への好意へとすり替えた力――。
おそらくは、魅了。
エリーゼの背筋が寒くなった。
人の心を強引に操る、それこそ忌まわしい精神魔法。
何らの呪文使用もなく、ただ、見るだけで発動する――もしそんなことが他人に知られたら、下手すれば社会的な死を招くほどの、致命的な力だった。
あまりの事実に凍れるエリーゼに対して、ふてぶてしいほどの笑顔でアリィシアは言葉を続けた。
「これでおあいこ、ってどうです? 私、王子にお仕えして、この能力があってよかったなって思えたんです。そして、お嬢様の能力もとっても素敵だと思ったので、できればまたご一緒できたらなあって」
アリィシアは、エリーゼの両手を離して、そのまま頭を下げた。
「楽しみに、待ってますね」
彼女は一方的に告げると、くるりと踵を返し、そのまま堂々と歩き去った。
「なんなの……なんなのいったい……」
捕まってから一晩。まったくもって怒濤のできごとすぎて、頭がうまく動かない。
うめくエリーゼの肩を、ぽん、と叩く者がいた。
「……まったく、なんでこんな無茶をしたんだ、お嬢様」
「……ディール」
少し長めのさらっとした黒髪。すっきりとした面長の目に理知的な光の灯る黒目。すらりとした体型は年齢より少し幼く見えるほど。まだ少年の面もちを残す小さい顔。背丈は少しエリーゼより高い程度。生まれは完全なる平民、むしろ貧民。
幼いころから屋敷に出入りしており、比類なき強い魔力の持ち主であることから、後にエリーゼの魔導の師の養子となった際にも、エリーゼの家が関わっている。
ディール=リント。
二人の身分差を考えるとふさわしくない言葉ではあるが、既に仕える仕えないの関係ではないため、あえて言うならば、『幼なじみ』だろう。
渋面を作る彼のずっと後ろ、視界の端に、黒い影が通り過ぎる。
ヴァイスだろうか。エリーゼはその影に気をとられていると、ディールがいぶかしげな表情になった。
「お嬢様、聞いてるのか」
「聞いてるわ。むしろ、あなたがどうしてここにいるのかということを私としては聞きたいところよね」
「そうだな。説明してもいいが、お嬢様の怪我を治してからだ。伯爵家のご令嬢が、擦り傷切り傷をこんなに作って、いろいろ台無しだろう」
「そうね。ありがたいわ。なんだかそう言われて初めて、なんだか体のあちこちがヒリヒリと痛んできたみたい」
「……ヴァイス・リッターの強度を上げないとな。肝心のところでお嬢様を守れないんじゃ、俺の魔道具作成の腕もまだまだだ」
「いいえ、助かったわ。本当よ」
「でも、あのときに俺が魔法使わなきゃ、怪我してたろお嬢様」
はあ、とディールはため息をついた。
「肝心な時にお嬢様を守れないんじゃ、意味がない。旦那様や奥様にも顔向けができないだろう。師匠にも怒られる」
不満げにぶつぶつと呟くディールに、エリーゼはくすりと笑った。
「まあ、精進なさいな。あなたもたいへんね」
ディールの師匠であり養母でもあるツェツェーリエは、その実力は折り紙付きでありながら自由奔放、傲岸不遜で教育方針も普通とは違う破天荒さなのだ。それももちろんディールの才能を買っているということではあるのだが。まあ、親子という感じではない。
しかし、ディールはこちらをちらりと上目遣いで見ると、思いも寄らないことを言った。
「お嬢様こそ。明日から大変だぞ」
「……え?」
「王子に、目をつけられたからな」
ディールの言葉を聞いて、初めて気がついた。
アリィシアは、王子の寵愛を受けている受けていないにかかわらず、間違いなく密偵ではあろう。その能力もまた、王子の知るところで、魅了なんて能力を密偵に使わせているということは、王子も知られたくないはずだ。
しかし、アリィシアはそれをエリーゼに告げた。
ということは……。
「え? え? どういうこと? ねえどういうこと?」
しかし、ディールは、どこか気の毒な表情のまま、淡々とアリィシアの治療へと入っていて、それ以上、何も言ってはくれなかった。