第四話 妖精との出会い
あれから始業式は二十分ほどで終わり、中途半端な時間だったので部活の前にお弁当を食べることになった。
「やっと終わったー! お弁当タイムだー」
「ひなちゃんお弁当出すの早いね」
私が家庭科室に入ると、ひなちゃんはもう椅子を出してちょこんと座っていた。
「でも、まだ皆来てないから食べられないよ」
「あっ!」
ひなちゃんは机に顔を伏せて唸り始めた。
「お腹減ったー」
「まだ十一時だよ。朝ごはん食べなかったの?」
「ご飯三杯しか食べなかった」
「ひなちゃん、どこにエネルギー使っちゃったの」
「知らなーい」
お腹が空くとひなちゃんはどこか子供っぽい。でも、私たちは子供でもあり大人でもあるから仕方のないことなのかもしれない。
「じゃあ、全員揃ったみたいだし、いただきます」
あれから五分ほどして結月の声に合わせて皆が手を合わせた。小学校の時の給食前の挨拶を思い出す。ほんの少し前まで恥ずかしくもなんともなかったのに、今はちょっと声が小さくなる。大人になるってみんなの中で目立たないように生きることなのかな……。
「難しい顔してどうしたの?」
「あー、なんでもないから大丈夫だよ」
「そう? じゃあ良かった」
「ありがとね結月」
心配そうにこちらを見ていた結月の顔が明るくなった。
「あ、そういえばお昼の時間が十一時四十分までになったんだよ」
余裕、余裕と思って時計を見たが。
「って、あと二十分しかないじゃん! いっつもお昼の時間一時間くれてたのに」
「食べ切れないなら私が食べるよ?」
ひなちゃんが私のお弁当箱を覗きながら、お腹を空かした獣のように迫ってきた。
「食べきるから!」
えー、とひなちゃんが残念そうな顔をしたが、気にしてはいけない。それより、ひなちゃん食べるの早すぎ!
最後のおかずを飲み込んだところで、あと五分。後半はお茶で流し込んだようなものだがなんとか間に合った。そこまでお弁当を完食しなければならないのには理由がある。
吹奏楽部は文化部の仮面を被った運動部だからだ。
体力的に、しっかり食べないと夕方までもたない。それにしてもお昼くらいゆっくり食べさせてほしいものだ。
「そういえば、どうしてお昼の時間がこんなに短かったの?」
家庭科室の鍵を閉める結月にさっきから気になっていたことを聞いてみた。
「今から通学路清掃があるんだよ。知らなかった?」
え?
「それが終わり次第練習だって」
「えー、こんなに暑いのに……」
ほら、やっぱり運動部じゃん。
「それでは今から通学路清掃を行います。基本的には部活ごとで班作るけど、人数合わなくなったらごちゃ混ぜにしまーす」
口調はやる気ないのに、軍手にバケツにゴミ袋という重装備で仁王立ちする先生がどこかおかしい。野球部の顧問とかいないのに、どうして吹奏楽部顧問のあなたが先頭に立っているのですか。
先生はそんなことも気にしていない様子で続けた。
「じゃあ、野球部は郵便局方面、テニス部は駅方面、陸上部は学校周りなー。それで、吹奏楽部と卓球部なんだけど、とりあえず一列になって」
言われたとおり私たちは卓球部員の間に入り込み汚い列を作った。
「大体その辺で分かれて、前側のグループは校庭、後ろは校門付近の草抜きよろしく」
「もう帰りたいよー」
後ろに並んでいる結月に呟いてみた。
「仕方ないよ。おしゃべりしながらだったら時間も早く過ぎると思うから頑張ろ」
「うん」
求めていた答えを返してくれた結月に小さく首を縦に振った。
「ねえねえ、いっちゃんすごい量の草ぬいてるよ」
「どれどれ?」
結月が指差す方向には両手に軍手をはめて一心不乱に草を根こそぎ抜いているいっちゃんの姿があった。その後ろには大きな山ができている。
「行ってみようよ」
「そうだね」
自分たちの持ち場の草はかなり減り、ちょうどよかったので私たちはさっきぬいた草を捨てていっちゃんの元へ歩いていった。
*
「お疲れ、いっちゃん」
「おーす! そっちはどう?」
いっちゃんはどこか草引きを楽しんでいるようだ。
「一段落ついたよ」
「じゃあこっち抜くの手伝ってくれない?」
大きな山を作ってもまだ抜き足らないのか、と思わず苦笑いしてしまう。でも、草抜きをサボるわけにもいかないので琴音と手伝うことにした。
「オッケー」
「樹くん。私も手伝うよ」
周辺の草も大方無くなり、作業が落ち着いてきた頃だった。声の主を確かめるために顔を上げるとそこには辻村ありさが私達を見下ろしていた。
辻村ありさ。卓球部に所属している彼女がいっちゃんの事を好いているというのは、周知の事実である。そして彼女は過度なスキンシップで男を自分のペースにのせて、自分のものにしようとする。まるで毒で相手を弱らせてから絞め殺す蛇のような人。
「おう、ありがとう」
いっちゃんは彼女の本性を知らないようだ。
「ごめーん。ちょっとそこどけてくれない?」
左から琴音、私、そしていっちゃんと一列に並んで身をかがめていたのだが、彼女は私を跳ね飛ばすように強引に列に入り込んできた。
「あーごめんねー。中谷さん」
こちらを見下すような目からは謝罪の意どころか悪意までもが感じられる。ちょっと痛かったので私は彼女を睨み返した。
「何?その目?可愛くないわよ」
悔しかったけど言い返すことはできなかった。
「樹くーん。一緒に頑張ろーね」
「おう。早く終わらせようか」
「ここは草が少ないから頑張ったらすぐ終わりそうだね」
私達がここの草をある程度抜いたからだ、って言いそうになってしまった。流石にちょっとイライラしてきた。
*
「私あの人とは合わない」
「まあまあ、ちょっと落ち着いて」
結月が明らかに苛々しているのがわかったので手を引いて連れてきた。
「もうイライラする」
「辻村さんもいっちゃんが好きなだけなんだし許してあげたら?」
「あれじゃあ、自分の幸せしか考えてないじゃん」
「んー……」
恋をすると周りが見えなくなるとか聞いたことがあるが、辻村さんは文字通りというところだろうか。もっとも、そんなに激しい恋愛感情を抱いたことはないからよくわかならないが。
「やったねー! やっと終わったー! 樹くん、お疲れ様」
まるで私たちに聞かせてるように大きなを声出しながら、辻村さんはいっちゃんにベタベタくっついている。私たちに向けられた冷酷な声とは、うってかわってまるで猫にでもなったつもりなのだろうか、可愛い声を作り上げている。
「ねえ琴音。草捨てに行こ」
「うん、そうだね」
結月の歩幅は大きく、あっという間に草を捨てる学校裏の竹やぶに到着した。
みんなが疲れた様子で、列からは熱気が感じられる。
「はーい。皆さんお疲れ様でしたー。ちゃんと水飲んで、今日はゆっくりしてくださーい」
解散の号令がかかるとすぐに結月は列から抜けて下駄箱に向かって歩き始めた。
「結月がこんなにもイライラしてるのって珍しいね」
「うん」
返事もどこかそっけない。
「もおー。ほらパインアメあげるから」
本当は校則違反だけど結月の機嫌を取り戻す為なら別にいいよね。
「子供じゃないんだから……。ありがと」
パインアメを口に放り込んだ結月の口元が少し緩んだような気がした。
結月も私も、そして辻村さんも皆同じ中学生なんだなと実感した二学期初日だった。
夜中、雨が雨戸に叩きつける音で何度も目が覚めた。天気予報は大当たり。きっと外は荒れ狂う風に乗せられて雨の礫が地面に突き刺さっているのだろう。
枕元の目覚し時計はまだ三時を示している。こんな時間に起きたから頭が痛い。
とりあえず寝よう。
まだ雨が降り続いている。外をぼんやりと眺めいていると、母が急いで階段を登ってくる音が聞こえた。
「琴音。まだ警報出てるから今日は学校お休みだって」
「そうなの?」
だって雨はこんなにも弱いのに。
「うん。これから雨が止んでも学校は休みだから注意するようにって」
「はーい。でも、ちょっと残念だな」
「あら、どうしたの?」
母が、まるで珍しい物を見たような目を私に向ける。
「部活したいな、ってこと」
「琴音は本当に吹奏楽大好きなんだね。そうやって何か打ち込めるものがあると、後で誇りに思えるから」
「うん!」
「それじゃあ、お母さん仕事行ってくるから」
「いってらっしゃい」
母も仕事に出掛けて暇になってしまった。今更ベッドに戻るわけにもいかないので、雨が降るのを退屈に眺めていることしかできない。見慣れない談話形式のテレビばっかりだし学校に行きたい。
どうしようもないことだが、今日一日は我慢できしかなかった。
*
私はこんな日、学校というもののありがたみを考えさせられる。家でいても楽しくない。学校は勉強の場のはずなのに、その存在は私の心の中で大きなウエイトを占めている。今はまだ警報が出ているが、昼からは天気も回復してくるらしいから、本当はダメだけど友達の家に遊びに行ってみようかな。
やっと正午が訪れたような気がした。どうして時間の感じ方ってこうも違うのだろうか。過ぎ去ってほしくない時に限って、悲しいかな目の前をすぐに通り過ぎてしまう。でも、晴れ間が見えてきた。気分転換に散歩でもしてみようかな。
おっと。その前にご飯食べなくちゃ。
*
大きな虹が雲の切れ目に架かる橋のよう。午後になって晴れてきた。私は今度休みがあったら行こうと決めていたあの場所に、恐ろしく強いのに実態はなく姿が見えない何かに引っ張られるように、あの場所へと向かうのだった。
スプーンを忘れないように。
意識しているわけでもないのに、歩みはどこか急いでいる。重力が進行方向に働いているような感覚。それならば、今の私は歩いているのではなく、落ちている。お菓子の世界に落とされて、元の世界に戻れなくなってしまった女の子。
もう今更抜け出せないのは分かりきったことだし、落とされるだけ落ちてみようかな……。
さあ、夢の扉を開けよう。あれだけの雨の後なのに何事もなかったかのようにお菓子の家は変わらない姿で私を待ってくれていた。そこだけ別の世界にあるみたい。まぁ実際別世界なんだどね。
スプーンを手に水飴の湖に向かっていた時だ。今までもあったが、何かに見られている気がする。もしかして、このお菓子の国には私以外の人間がいるのか。風が落雁の花畑をそっと撫でる。なんだか急にこの世界が恐ろしく感じられてきた。風だって分かっていても、花畑の中に潜む誰かに見つめられているのかもしれないと思うと、花畑の方なんて見れなくなってしまった。
花がざわめいているのはきっと、いや絶対風のせいだ。私は花畑から少し離れた、アイスの実がなる木の影から、おそるおそる私以外の誰かの存在を確かめた。
「誰かいるの?」
今度は風なんか吹いていないのに花畑が揺れる。
「だっ、誰なの?」
少し大きな声を出すと同時に花畑からぴょこんとオレンジ色の、帽子みたいな円錐形の物体が顔を出した。
「え?」
何これ……。
そのオレンジは目を凝らしてみると小さく震えているようだ。
「誰よ!」
もう強気になるしかなかった。もし私に危険が迫ったらすぐに逃げられるように扉の付近から叫ぶ。
「あーあ。見つかっちゃたか」
可愛らしい声とともに、花畑からこちらに向かって小人が歩いてくる。
「やめて! 近寄らないで!」
「大丈夫、僕は君に危害を加える気はない。いや、加えられないと言ったほうが適切かな」
「でも、あなたは何なの? 宇宙人なの?」
「僕はそんな物騒な生き物じゃない。この世界の、妖精さ」
私の知ってる妖精は、背中から羽が生えてて、もっと小さくて、飛んだ軌跡には光が漂う、あの妖精。でもこの子は、なんというか……。あんまり可愛くない。
「妖精……?」
もう何が現実か分からない。
「この世界の唯一の生き物であり、この世界の管理者でもある」
「世界を管理?」
「人間の世界とこっちの世界は少し構造が違うからね」
「そうなんだ。よく分からないな。それで君に名前はあるの?」
「僕の名前はモカだ。誰かに名付けられたわけでもないのに、いつの間にか皆からこう呼ばれていた」
「私は琴音っていうんだけど……、本当に君は危なくないの?」
「僕から言わせてみれば危ないのは君の方だよ、琴音」
「別に私何もしないよ」
「そうだとしても、君たちに人間にはいざとなれば僕なんて簡単に殺せるだけの力がある。でも、僕達には抵抗できる力もないんだ」
先程からモカは妖精には危険なことを実行できる力がないと言っている。これは信じていいのかな。
「どうしてそう言い切れるの?」
疑問はその場で解決したほうがいいよね。
「まさか人間にこんなことを話すとは思ってもいなかったけれど、君には教えてあげるよ。さっき妖精はこのお菓子の世界の管理者って言ったよね。僕達には文字通り管理者としての仕事、つまりこの世界のお菓子の維持という使命を背負っているんだ。それだけならまだ良かった……」
急にモカは下を向き、その表情は悲しさを帯びている。
「どういうことなの?」
モカは今まで心の中に封じ込めていたことを一気に解き放つように、一層真剣な口調で続けた。
「僕達、お菓子の妖精はお菓子の維持のためだけに生まれてきた。だからその仕事以外、何もできない……。よく知らないけど、人間の世界にはゲームとかスポーツとか音楽とかっていう労働以外のものがあるんだよね。幸い僕達には会話をする能力だけは備わっているけど、そこから何も生み出していくことができないんだ。仕事をこなすためだけの道具が言葉なんだ」
「でも、モカは今私とこうして仕事と関係ない話ができてるじゃん」
「それは僕達が何十年間と練習してきたからだよ」
「何十年?モカはそんなに生きてきたみたいに見えないけど」
「僕たちは君たちと違って年も取らない。だからどんなに疲れても、生きるのが辛くなっても死ぬことができない。僕の友達に自殺しようとした奴がいたけど、死んだと思った次の日また同じように朝が訪れたんだって。まるで機械か何かのようだよ」
まさかこの世界がこんな想いの上に成立していたなんて……。
涙が出てきそうになる。そんな私も気にせずモカは更に続けた。
「琴音はここにくると時々言葉でもない音を発していることがあるよね」
言葉でもない音、もしかして鼻歌のことかな。
じゃあ、この世界には本当に音楽がないんだ。
「鼻歌のことだよね?」
「鼻歌っていうのか。琴音から初めて聞いた時に僕は今まで感じたことのない気持ちになったんだ」
「それはきっと、楽しいっていう気持ちだよ」
「楽しい?」
「辛いの反対の気持ちだよ」
「琴音!」
急に大声を出されて私は後退りしてしまう。
「急にどうしたの?」
「僕に、いや僕達お菓子の妖精に楽しいって気持ちををいっぱい分けてほしいんだ! お願い!」
毎日無理やり働かされるのに、娯楽が何もなかったこの世界の妖精たち。さっき会ったばかりだけど、こんなにも可哀想な妖精たちを放っていられない。私じゃ何もできないけど、どんなにたくさん小さなことでも力になってあげたいと思う。
「私なりに頑張ってみるよ」
今考えてみるとどうして承諾したのか分からない。ただの同情だ。そもそもモカは本当に私に危害を加えないのだろうか。何も考えずに直感だけで判断することなんて今までなかったのに。
11月の冷たい風が私の後れ毛をそっと揺らした。