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第三話 後ろめたい冒険


「いい感じじゃん!」

部活開始時刻二十分前の音楽室では、部員それぞれが思いのままに過ごしていた。といっても、おしゃべりしている人がほとんどなのだが。

その中でもひなちゃんのテンションは尋常ではない。

「いい感じって何が?」

結月がひなちゃんに尋ねる。私もひなちゃんと同じことを思っているのだが、結月は本当に分かっていないようだった。

「だって、二人きりの勉強会の約束ってカップルみたいだし」

「あ……」

結月の顔がこちらから見てもわかるくらい紅潮していく。もしかして今まで気づかなかったのだろうか。

「結月。今までそのこと考えてなかったの?」

「うん……。あの時は普通にオッケーしたけど、よく考えたら男女で勉強会って……」

「まあ、この機会で仲良くなってもいいんじゃない?」

「もう……琴音、他人事だからって」

今時よくいる作為的な天然とは違い、結月は純天然だと思う。

いつもはしっかりしてるのに、肝心な所で抜けてるっていうのが面白いし、魅力でもある。


顔を真っ赤にしている結月の後ろから先生が興味深そうにこちらを覗き込んできた。

「うわっ! あ、おはようございます」

急に現れた先生に結月の声が裏返る。

「はい、おはよう。でも、朝一番にそんなに驚かなくても」

先生が笑いながら返事をした。しかし、特に気にしていないような様子で結月に部活の開始を促した。


練習内容とかは顧問である先生が決めるが、それを皆に伝えるのは部長の仕事である。また、楽器ごとに別れて練習する際、各教室の使用許可を取り、使用状況を職員室前の紙に書き込むのも部長の役割だ。圧倒的な仕事量にまだ困惑する部分があるようだが、結月はかなり様になってきている。今日も結月の指示で部活が動き始めた。


私を含め四人のクラリネット担当は、今は被服室にいる。

この部屋の蛍光灯は切れかけていて、ずっと点滅してる。目がチカチカするからここは練習場所として好まれることは少ない。

楽譜に反射するその光がどうも気に入らないのだ。

窓の外では野球部がグラウンドへ道具を運んでいる。毎日ユニフォームを泥まみれにして、汗を流している彼らを見ると、小さいながらも扇風機があるこの部屋にいる自分が悪く思えてくる。

私はあえて扇風機の風が当たらない位置に移動して苦手なパートを重点的に練習し始めた。その後すぐに、元の場所に戻るとは知らずに。


練習では、たとえ苦手な部分があっても意識さえすれば上手く演奏できる。しかし、本番になるとその苦手が顕著に表れ、もはや意識で制御できるレベルではなくなってしまう。

手汗で湿り大きく震える手で、流れるようなメロディーを奏でることができるはずがない。

だから、本番で無意識に指が動くように、練習ではただただ繰り返し練習するしかなかった。


練習中、何度お腹が鳴ったことだろうか。皆より朝ごはんが早い私はその分お腹が空くのも早い。だから、食いしん坊のように思われがちである。実際食べることは好きなのだが。私は、

勉強会のことで頭がいっぱいであろう結月と、自然と早足でそれぞれの家に帰った。

コンクリートの上には暑さのせいで水が溜まっているかのように、陽炎が揺らいでいた。


パート社員である母は日中は会社に行っているため、昼前に部活が終わる日はいつも私が冷蔵庫の中にあるものでお昼を作る。いつでも作れる材料が揃っているものと言ったらオムライスしか思い付かないのでレパートリーはほぼ無いに等しいが。

でも、そのおかげで卵の真ん中にナイフを入れると、左右にとろけ落ちるあのオムライスが作れるようになった。私は、今日も慣れた手つきでフライパンに卵を流し込む。


うん、やっぱり美味しい。ほくほくのご飯とふわふわの卵が相性ピッタリで、ケチャップの塩味と卵の甘みが調和している。もっと味わいたいのに口の中でいつの間にか溶けてしまって、次のスプーンを口に運ぶ。ちょっと多すぎたかな、と思ったオムライスは気づくとお米一粒残らず私のお腹の中に消えていた。膨らんだお腹を二回ほど軽く叩くと心も満足感で満たされた。

さて、私の午後のミッションは散らかった部屋を片付けることだ。勉強机の上に教科書ではなく雑誌が散乱しているのは言及しないでほしい。

私の部屋では何年も前の流行を追った雑誌がまだまだ現役で活躍している。それらは従兄弟から貰った。写真を真似しておめかししたのに古臭いとか友達に言われたのはこのせいか。あの時感じた恥ずかしさとともに、その雑誌を捨てることを決意した。




「なぁ、この問題ってどうしたらいいんだ?」

見ると夏休みの宿題用に渡されたテキストの基礎問題だった。この調子で本当に終わるのだろうかと思いつつ、私はシャーペンの先でテキストをなぞりながら丁寧に教えてあげた。

「ここで連立方程式を立てて……」

「おお、なるほど」

やればできるのに、っていうのはこういう事だろう。なんというか、もったないなあ。

問題とにらめっこするいっちゃんを眺めることにするか。


「よし、解けた! え、あ……」

問題が解けて嬉しそうにこっちを見てきたいっちゃんとぴったり目があった。数ミリと狂わず、お互いの視線が一本の線になった。

「いや、その……」

蝉の声以外この空間に音は無かった。まるで時間が止まっているようだった。男の子とこんなにも長い時間目があったのは初めてかもしれない。でも、この間にどんどん変わっていくいっちゃんの表情を見ていると、急におかしくなってきた。

「いっちゃん、始めは驚いた顔してたと思ってたら、急に嬉しそうな顔したり、どうしたの」

なんだかツボにハマったようで、先程まで小さかった笑い声が大きくなっていく。

「え、そんなに顔変わってた?」

当の本人は全く意識していないようだった。

「うん、なんか面白くて」

いつの間にかいっちゃんも笑っている。部屋の真ん中に置いた小さな机の上を笑い声が行き交った。もちろん広げた教材の存在など忘れている。


* 

雑誌を白い紐でまとめ部屋の隅に置くと、思っていたより勉強机は綺麗であったことに気づいた。山場は机と予想していただけに、この事は私のモチベーションを十分上げてくれた。

教科書を元の場所に直し、溜まった埃を拭くとさっきまでとは大違い。これで今日から気分も入れ替えていけそうだ。机が片付いた今、部屋の掃除はほぼ終わりを迎えていた。本棚を整理したり、要らないものを分類したりすると、三十分前の私の部屋とは大違い。


「綺麗になったよ!」

独り言だからもちろん返事はない。そう分かっているのに、やることが無くなると急に孤独感が増してきた。

ベッドの上で寝転がって漫画を読んでも、すぐに飽きてしまう。何かが足りないのだ。刺激的な何かを求めて私は家の中を歩き回る事に決めた。


部屋で携帯を触っても、リビングでテレビを見ても、読みかけの小説を開いても、何か違っていて満たされない。今度は台所を探検した。すると棚の奥にクッキーの袋があるのが見えた。特に何もしていないのだが、休憩がてらその袋を開けることにした。

近所のスーパーで買ってきたそれは、量が多くて安いから吉川家では人気の品だった。私が小さい頃から何も変わっていない。その一つを食べると、口の中で仄かな甘みが優しく広がる。誰にでも好かれる味とはこういうものなのだろうか。


喉が乾いてきたので、冷蔵庫から牛乳を取り出しコップに注ぐ。私は、そこまで牛乳が好きではないが、このクッキーと合わせると甘みが増して味に深みが出る。

ところで、何か思い出しそうだ。私の心を満たしてくれる何か。クッキーでピンときたような、と思い私はここ最近の出来事を振り返る。


あ、分かった! というより、どうしてこんなに大事なことを忘れていたのだろうか。お母さんが帰ってくるまであと三時間、きっとそれまでに戻ってこられるはずだ。急いで家中の鍵を閉め、自転車の鍵を握り、私は家を飛び出した。


いつの間にか私もいっちゃんもペンを机に置いて話に花を咲かせていた。

「最近、部長の仕事どう?」

「結構慣れてきたよ。いっちゃんも新しくドラム任されて頑張ってるよね」

「おう! 一年の時からずっとやりたかったから毎日が楽しいんだ」

いっちゃんの頭の上を音符が跳ねている。

「私も、毎日大変なこともあるけど、楽しいし充実してるって感じがするんだ」

「毎日楽しいもんな」

そうだね、と笑顔で相槌を打つと、机に放ったらかしにしてあった勉強道具が視界に入った。


どうしようか、話を続けるか、それとも勉強を再開するか。元はといえば、いっちゃんの宿題が終わらないから手伝っているんだよね。今話せば、今は楽しい。しかし、夏休みが終わればいっちゃんは宿題を提出できずにもがくことになるだろう。元から答えは決まっていた。


「そろそろ勉強再開しよっか」

「お、そうだな」

別に勉強が嫌いなようでもないようだ。あの性格から考えると、面倒くさいからしなかったというところだろうか。私も気持ちを切り替えてシャーペンを握った。


分からなくなったらすぐ質問するのが彼のやり方のようだ。確かに始めは質問の嵐だったが、今では少しずつ理解してきているのか悩みながらも正解に辿り着いている。それを見て少し微笑みながら、私は自分の勉強を始めた。

ペンを走らせるリズミカルな音が机の上で響き、私達を集中へ沈み込ませる。問題集をめくる時にちらっと見えるいっちゃんの顔は自信で満ち溢れているようだった。

別にそんなにうまく教えたわけではないが、いっちゃんは私の解説を自分のものにしているようだった。夏休みが終わるまであと一週間。この調子で頑張ってくれたら、なんとか終わりそうかな。


部屋に陽の光が差し込んできた。いくらクーラーが効いているとはいえ、直射日光は辛いものだ。その光が机に反射して顔を照らすから、顔の表面だけ暑い。いっちゃんも流石に疲れてきたようで、コップに入れたお茶を飲むことが多くなっていた。時計はもう五時を指している。ここまで勉強してこなかったいっちゃんがよく四時間も頑張れたなあ、と感心する。そろそろ終わっても良いような気がする。

「あ、いっちゃん。疲れてない?」

「ちょっと疲れた」

「今日は頑張ったんだし、もう終わってもいいんじゃない?」 

決して、帰ることを催促しているわけではない。

「そうだな。でも、問題が解けるのって楽しいんだな。今まで、勉強なんか分からないから嫌いだったけど、今日で勉強が好きな奴の気持ちがちょっと分かったような気がした。ありがとな」

ペンを筆箱に直し、テキストを閉じていく。いっちゃんは律儀にコップを流しまで運んでくれた。

たとえ、勉強が苦手でも他人にお礼を言ったり、周りのことを考えて行動できる事はとても大切な事だ。それすらできない人が今の世の中には多いと聞く。

私たちは私たちの為に、私達の周りを見渡す必要があるのだ。


「今日はありがとな」

私が家の前でいっちゃんを見送るとき、もう一度お礼を言ってくれた。

「うん。また分からなくなったら教えてあげるから」

「ありがとう。それじゃあまた明日」

いっちゃんはしっかり話を聞いてくれるし、理解しようとするから、また教えてあげようと思えてくる。

結局、ひなちゃんが言ってたいい感じにはならなかったのかな……? よく分からない。


いっちゃんが真剣だったから四時間勉強しても苦にならなかった。というより潜在下で楽しかったと思う自分がいたのも事実だった。

その後一人になってから、私はなぜかさっきまで二人で向かい合っていた机で一人問題集を広げていた。


セミの旋律を縫うように自転車のスピードを上げていく。私の家からお菓子の家までは裏道を使えば二十分ほどだ。

蒸し暑い風を浴びながらペダルを踏み込む。浮き上がる前髪に、お菓子の家に近づいている実感を得ながら、徐々に細くなっていく道を進む。

こんなに暑くても木の影は不思議と涼しい。建物の影はそんなに涼しくないのに。自然ってなんというか凄い。


考え事をしていると時間がすぎるのが早い。気づけば辺りにあの忘れるはずもない甘い香りが漂っている。スタンドも立てずに、自転車を地面に直接倒し、お菓子の家に駆け寄る。私の目はきっと輝いている。

でも、あの時交わした約束が脳裏に浮かぶ。

周りの空気に流されたものの、確かに了承した。つまり、私は既に約束を破ってしまったことになる。松村くんにもいっちゃんにも、そして何より親友の結月を裏切ってしまった。

今ならまだ間に合う。でも、でも……。


家に帰ろうと思っているのに体はその入り口へ近づいていく。怖い夢も見たのに、絵本の読み聞かせで失敗した私の心を癒やしてくれたお菓子の世界が忘れられない。もう自分を制御することなどできなかった。私は約束を破ってしまった。そんな自分を慰めるためにお菓子の世界に入っていった。


特に目的はないが、いるだけで落ち着く夢の世界。今日は時間がたっぷりあるから、今まで行けなかった場所まで散策できる。まずは目の前に見えるプリンの丘に登ってみようかな。歩く私の横では、水飴の湖がどこまでも透き通っている。そういえば、この世界のお菓子をまだ一口も食べていない。自転車で少し疲れた私の体力を取り戻してくれそうな水飴。そのまま食べるものでもないような気がするが、好奇心で指先がその水面に伸びていく。

とろっとした静寂が僅かに乱れる。その冷たさが私の期待通りだ。この世界は外とは違い全く暑くないけれど、体は冷たいものを欲する。


指先の光をそっと唇に運び、目を閉じながらその味を口の中で転がした。美味しいものを食べると、何故か自然と笑顔になる。もう一度指先を湖面に浸し、それから再び、広がるのにすっと抜けていく甘みを楽しんだ。


風が吹いていないのに揺れている落雁の花畑。疑問に思ったが、ここがお菓子の世界だと思うと不思議と納得できた。私は特に深く考えずその横を通り過ぎた。

地面が黄色くなってきた。おそらくプリンの丘の麓だろう。地面も少しずつ軟らかくなってきたが、足が取られることはなかった。

トランポリンの上を歩いているような感覚だ。上を歩けるほどのプリンなので、流石に食べてみようとは思わなかった。

緩やかな斜面を少しずつ登っていく。私は頂上のカラメルソースを目指す冒険家だ。身一つで人類未踏のこの世界を探検している。

好奇心に負けてしまい、友人との約束を破ってしまった。ここまでくれば今帰っても同じ、などという言い訳を考えてしまう。

だから、私は何も考えなくていいようにまた次の一歩を繰り出す。悲しい冒険家。


光り輝くカラメルソースが私の前に広がる。しっかりと煮詰められたであるう濃厚なキャラメル色の海。

どうやらプリンと違い、こちらは食べられるようだ。今度来るときにはスプーンを持ってこないと、糖分で指先がベタベタする。

まあ、今からカラメルソースに漬けるからいっしょか、と思い気にせず指を深くソースに浸した。



家に帰ってすぐに洗面所へ駆け込み丹念に手を洗った。蛇口を閉め、手を拭こうとするとタオルを入れてあるかごに体重計がもたれかかっているのが見えた。やばい。あんなに甘いものばかり食べてたら太っちゃう。ちょっと食べ過ぎには気をつけないと。帰って早々に、夢ばっかり見ていられないと冷や汗をかいた私であった。


今日の晩ごはんは私の大好きなカレーだったのに、お腹が出た私の姿を想像すると一杯しか食べられなかった。なんというか、ちょっと辛い。

でも、まだ鍋に半分ほどカレーが残っているようなので、明日の朝食べればいいか、と思い今日のところは諦めた。

どうしてテレビに出てる大食いアイドルはあんなにたくさん食べてるのに太らないのだろうか。もし彼女たちのような体質ならば、私も好きなだけお腹いっぱい食べられるのに。

寝るまでは特に予定もないので、検索してみようかと思ったが、そんな履歴友達に見られたらなんて言い訳しようか分からなかったので、直前のところで携帯をスリープモードにした。


本当にやることがない。おそらく宿題が残っている人に今の私の悩みを告げたら恨まれるだろう。予定に追われて、まるでロボットのような生活を送るのは嫌だが、何もすることがないのも別の意味で辛い。

こういう時は、今の私のようにベッドにうつ伏せに寝転がりだらんと手を伸ばす。一言で表すなら、「ぐでー」だろうか。

目を閉じ、何も考えないことで風景と一体化する。そうすれば不思議と時間が過ぎるのが早くなるものだ。扇風機の風に押される髪が、確実に時間が経過していることを教えてくれた。


頭が重い中、目が覚める。今は夜中の二時。どうやら電気を消すのを忘れていたようだ。ぼやける視界と考えがまとまらない状態の頭でなんとか起き上がり、壁のスイッチを押す。朝が早い私にとって夜中に目が覚めることは致命的だ。

といっても、電気を消す前に眠りについていた私が悪いのだが。夜でも暑いが、風を引くといけないのでタオルケットの下に体を潜らせた。


再び、意識が遠のいていく。少しずつ私は眠りへと沈んでいく。もうすぐ寝るんだ、と心の中で思っても、それを思い続けている間は眠ることができない。何度もそんなことを繰り返し、ようやく夢の扉をくぐる時がきた。不思議とその瞬間は分からない。


目覚ましがなっている。どうしてあんなにも時間が短いのだろうか。そして再び、そんなことを考える朝が来た。


「昨日はどうだった?」

おはようの次にいきなり本題に入るひなちゃん。ひなちゃんの良い所は素直なところ。

「別に、ただの勉強会だったよ」

「なーんだ。いちゃいちゃするかなって思ってたのに」

「いっちゃんとは普通のお友達だから!」

結月が必死で抵抗する。質問攻めにして悪いような気もするが私も聞きたいことがある。

「でも、ちょっとは仲良くなったよね?さっきも楽しそうに話してたじゃん」

「まあ、ちょっとね」


どうやら昨日の勉強会で少しはお互いのことを知ったようだ。話を終えたあと微笑む結月の横顔が見えた。

パート別に別れて練習し、下校一時間前からは皆で合わせる。先輩たちが引退してからずっと変わらない。本当に何も変わらない同じ毎日。その当たり前がどれほど幸せなことなのか私はまだ知らなかった。



気づけば夏休みが終わって、最初のホームルーム。夏休みの間、一度も会わなかった人もいるから教室には懐かしい雰囲気が漂っていた。夏休みデビューというのか、髪型が変わっていたり、日焼けした人もいる。私の変化は、と問われると前髪を切ったことくらいだろうか。男子には到底分からないであろうレベルの変化である。それでも、結月はすぐに気づいてくれたのだが。


「それでは、今から始業式が始まるので体育館に移動してください」

始業式といっても校長先生の話で終わる簡素なものだ。それなら放送を使えばいいじゃないかと思うが、校長先生は全校生徒が集まるこういった機会をとても大切にしているそうだ。本当に生徒好きだなあと思う。

一部では、全校五百人の名前を完璧に覚えているとかいう噂も流れているほどだ。


私の出席番号は後ろの方だから、ゆっくりと教室を出た。

「ねえねえ、植田さんと野球部の水谷くんが夏祭りで一緒に手繋いで歩いてたんだって」

クラスの情報屋が私達の会話に飛び込んできたかと思うと、いきなりそんなことを言い出した。あんまり、人の事は言うべきじゃないような気がするが、私の周りの子たちが過度な興味を示したため、私も流れに乗って聞いてみた。どうやら、付き合っていた女の子に振られて悲しんでいた水谷くんを植田さんが励ましたりして、そのまま仲良くなって付き合ったというありきたりな展開。

でも、おとなしそうな植田さんがそんなに積極的になるとは、恋とは恐ろしいものだ。


「でも、付き合ったのは夏祭りの前日なんだって」

「付き合った翌日に手って繋げるものなの?」

私もそう思う。

「まあ、そういうカップルもいるよね。でもそういうのはすぐに別れちゃう」

流石、様々な人の恋を見てきただけはある。急に熱くなれば、急に冷める。私がそんな経験をした訳ではないが、感覚としてはそんなものだ。

「だから水谷くんはいろんな人と付き合ったことがあるのかな?」

完全に私も話に参加していた。

「いろんな人と同じこと繰り返してるんだよ、きっと」

「そっか。あ、もう体育館だし、この話はまた今度ね」

ちょっと話が重たくなりそうだったので、私は体育館に近づいてきたことを言い訳に話を切った。楽しい恋であるが故に気付かないこともあるんだな、と特に予定もないのに自分に言い聞かせた。


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