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琴音の上がり症

食べるのが遅い私は母よりも十分ほど遅く食器を流しに運んだ。母は座椅子に座って市役所からの葉書きに何か書き込んでいた。食事直前に結月からメールが届いていたのを思い出し、ボールペンを握っている母を横目にテーブルに置いてあるスマートフォンを手に取ろうとした時だ。

「お風呂入ってからにすれば? そっちの方がゆっくりできるでしょ」

「はーい。じゃあ、その間に学校からのプリント読んどいてね」

私は数枚のプリントとパジャマを取りに二階に上がった。特にそれらの内容を確認せずにそっと母の隣に置いて、私はお風呂に向かった。

もうすぐ8月だから夜でも扇風機が欲しくなるくらいだ。でも、汗がにじむくらい暑い夜に虫の鳴き声を聞きながら湯船に浸かっているのも悪くない。夏休みに入ってから毎日20分は肩まで体をお湯に沈め、鼻歌をお風呂場の壁に響かせている。八月一日の大会で先輩たちが演奏する『Sing,Sing,Sing』のメロディーで脱衣所までもが躍動感で満たされていく。水面を小太鼓代わりに指先で叩くと、水が浴槽の壁にぶつかる音がこだまして気分が良くなる。やっぱり私はこの曲が好きなようだ。

体が温まって頬が赤くなってるのが自分でも分かった。

私はお腹いっぱいになって、お風呂から上がった。


小さな羊が数匹プリントされたパジャマに袖を通し、鏡に映る満足そうな自分を見る。いつの間にか前髪が目にかかるくらい伸びていた。夏休みに入る前から切りに行きたいと思っていたが、大会前で練習が忙しかったこともありタイミングを失っていたのだ。中学に入ってからずっと前髪パッツン。自分で言うのもあれだが、なかなか似合っているから気に入っている。乱れ始めた直線に近いカーブを櫛で整えていると母の声がした。

「琴音、上がったならちょっと来てー」

珍しく母に呼び出された私は、なんだろうと考えながらリビングへ向かった。

「ねぇ、これやってみたら?」

母は私に何か期待しているような眼差しで私を手招きする。すっかり片付いた様子の葉書きの隣には、私が見せようか迷っていたプリントが置かれていた。しかし、最近お風呂が楽しくて仕方がない私は、八月中旬に行われる幼稚園ボランティアの申し込み用紙など完全に忘れていた。

「絵本の読み聞かせだって。良い経験になると思うし参加すれば?」

どうやら母の中では、私が参加することになっているようだ。その手にはしっかりボールペンが握られている。

「そんなのできないよ」

なんとしてでも参加しない方向に話を運びたい。そもそも私はボランティアに参加するほど積極的な人間ではない。おそらくクラスのみんなや吹奏楽部の部員も、私が前に出ていくような人とは認識していないだろう。実はこのボランティアは毎年担当する部活が変わる。それで今年はたまたま吹奏楽部が任されたのだ。さらに、私には断る理由がもう一つある。

「それに私、みんなの前で絵本なんて読めないよ。多分緊張すると思うし……」


緊張。普通の人にとってそれがどういうものか分からない。でも私のは少なくとも普通ではない。みんなの前、たとえそれがクラスの皆の前であっても発表の時は膝と声が震え、鼓動が早くなり、顔が真っ赤になる。特に知らない人の前では言葉すら出ないこともある。これが克服できたらどんなに幸せだろうか。しかし大量の目を前にして堂々と話し続ける自分が想像できない。

「もしかしたらあがり症克服できるかもよ。こんな体験滅多に出来ないんだから。はんこ押しとくよ。」

「えっ、あっ……」

母にそう言われ半ば強制的に参加することとなった。

不安だけどせっかく参加するんだからあがり症治ったらいいなぁと開き直った私であった。

言い方は少し悪いけどありがた迷惑だった。母の私に対する優しさは分かるしありがたいと思っているけど、やっぱり失敗した自分を想像してしまう。私は複雑な気持ちで吉川琴音と申込書に記入した。


ボランティアの件も一段落ついたところで結月からメールが来ていたのを思い出し、スマートフォンの画面の上に指をさっと滑らせる。待受は結月や他の吹奏楽部の友達と去年お出かけした時に撮った写真。見てるだけで頬が緩んでしまう、そんな楽しい写真だ。早い時の流れの中で気が付けば中学校生活が終わってる、考えるだけで怖くなってしまう。結月は頭良いから一年半後にはお別れすることになるのかな。ダメだ、考えたらダメだ。私は目を瞑り頭を横に振った。

その後結月とのメールは十一時半まで続いた。


二日後、連覇を目指していた先輩たちの最後の大会は銀賞で幕を閉じた。頼りがいがあった山口先輩や、いつも優しくしてくれた森脇先輩とも明日の練習から共に音色を交わすことはない。明日からは私達の吹奏楽部を私達で引っ張っていかなくてはならない。周りを見渡すと結月と目が合った。結月の目は真っ直ぐだ。

一年後、涙で夏を終わらせることのないよう努力することをアイコンタクトで誓いあった。

帰りのバスは誰も一言も話さなかった。バスの前方にあるデジタル時計はなかなか動かない。この重い空気から飛び出したいのに、学校は遠い。こちらが近づけば、学校はどんどん遠ざかっていくような感覚だ。でも、この空気は忘れてはいけない。

横に座っている結月の真っ直ぐな目がそう語っていた。


学校に着くと先生は一年生と二年生だけになった音楽室でこう言った。

「明日からはみんなが主役だからなー。ということで、新しい部長は中谷なー。よろしく。今日はもう遅いから寄り道せずに帰れよー」

皆が一斉に結月の方を見る。結月は驚いた顔で辺りをキョロキョロ見渡していた。先生は、口調が軽いから適当な人に思われやすいが、実際はすごく的確なことを言っている。おそらく、結月のリーダー的な素質や他の部員からの厚い信頼も見抜いていたのだろう。私が先生を感心していると、同じクラスのひなちゃんが結月の手をとって音楽室の中心に引っ張っていった。

「じゃあ、新部長に挨拶してもらいましょー!」

「い……いま部長になリました。来年の夏、大きい大会に進めるように頑張っていきましょう」

「拍手ー!」

ひなちゃんに続いて結月の周りが拍手で包まれる。少しずつ皆の表情が明るくなっていく。ひなちゃんも大会が終わってしまった悲しさや悔しさを心に抱いていたはずだ。それでも元気を出して、皆の心を暖かくする。彼女にはそういう力がある。白い歯を見せて喜色満面の表情をしているひなちゃんの周りには花が咲いているようだった。


気がつけばもう7時を回ってしまっていた。流石に帰らないと家族に心配されるので、皆が帰路に就く。三十八人の部員には三十八通リの晩ごはんが待っている。そう考えると不思議なものだ。すぐに三十八通りも料理を考え出すことは難しい。歩道沿いの瓦屋根の家から漂う肉じゃがの香りをきっかけにそんなことを考えていた。


「本当に私が部長でいいのかな……」

結月の発した一言で私は大切なことを忘れかけていた事を気付かされる。私が呑気なことを考えている間、結月はずっと考え込んでいたのだ。言葉にされるまで気づかなかったかもしれない。親友の私が結月の不安を自信に変えてあげないといけない。

「私は前から結月が部長になるかなって思ってたんだ。だって、みんなを前に引っ張っていけるし、みんなから一番頼りにされてるじゃん。それに何か困ったことがあったら私がいつでも話聞いてあげるよ」

「ありがと、琴音。やっぱり琴音に相談してよかったよ」

私たちは住宅街の中の交差点まで歩いて生きていた。私たちは手を振り合い左右に別れた。振り返るとさっきよりも背筋が伸びている結月が小さくなっていた。


今日はお疲れ様、明日から頑張ろうね。


「よし、今日はこれで終わりなー」

先生の掛け声で片付けが始まる。、みんなのサポートもあり新部長は今日の練習を特に問題なく終えることができた。今日は皆いつもより気合が入っていて、いい雰囲気だった。すると先生がニコニコしながら話を続けた。

「この前のボランティアの件だが、参加する四名が決定しましたー。吉川、中谷、あと男子は山本、松村なー」

まさか結月も参加するとは、と思い結月の方を見ると、どうやら同じことを考えているようで、驚いた顔をしていた。それからなんだか可笑しくなって二人で笑ってしまった。結月が一緒と分かって少し安心した。期待六割、不安四割といったところだろうか。錆びついたメトロノームの針が僅かながら動いたような気がした。


蝉の音楽団の間を、コンクリートによく映える白い夏服が行進していく。向かう先は私も通っていた幼稚園。結月と出会ったのもここだった。それ以来十一年間を共に過ごしてきた。喧嘩したり、走り回って遊んだり、今はもうしなくなってしまったから、懐かしい。暑さのことしか考えていないであろう三人の横で私は頭上に雲を浮かべていた。

私達の園長先生はもういなかったけど、よく給食を一緒に食べてくれた西久保先生がしわの増えた顔で出迎えてくれた。あの時は入れなかった職員室で今日のスケジュールを説明される。思っていた以上に裏方の仕事が多く、幼稚園の先生はただ子どもたちと遊ぶことだけが仕事ではないと知った。また、最後には大きな仕事である絵本の読み聞かせが待っている。少しでもあがり症が治れば私としては嬉しい。

「それじゃあ山本樹君と松村敏男君はめろん組、琴音ちゃんと結月ちゃんはみかん組で一日頑張ってね」

「はい!」

園長先生となった西久保先生は変わらない呼び名と笑顔で私達を教室まで案内してくれた。身長も逆転してしまった今でも変わらないものがあるのは嬉しかった。


この幼稚園では年長さんから順にめろん、みかん、もも、いちご、というように組に名前が付いている。外で遊ぶ時の帽子の色まで果物をモチーフとした色となっているこだわりぶりだ。


教室では小さな椅子にちょこんと座った二十人ほどの園児が興味深そうにこちらを眺めていた。

「それでは、お姉さんたちにご挨拶しましょう」

スローテンポで元気なおはようございますを聞くとなんだか懐かしい。膝立ちの先生は更に続ける。

「お姉さんたちに自己紹介してもらいましょう。中谷さんからどうぞ」

「初めまして。中谷結月です。今日は皆さんに会えるのを楽しみにしていました。元気いっぱい遊びましょう」

「吉川さんどうぞ」

「はっ、はい。よ、吉川こ……琴音です。き、今日はよろしくお願いします。」

「立派なお姉さんたちに拍手しましょう!」

たかが自己紹介、それも小さい子に対してなのに鼓動が早くなって声が震えてしまう。でも、自分の中では上出来だと思う。昨日、自分の部屋で鏡に向かって自己紹介し続けたからであることは秘密にしておこう。それに今日はまだ始まったばかりだ。


先生の指示で私たちは外で遊んでいる子どもたちを教室に戻した。走り回って疲れた子供たちは一生懸命に水筒を傾けている。私たちは、遊び道具を倉庫へ持っていった。倉庫の中はヒンヤリとしていたのでずっと入っていたかったが、この後絵本の読み聞かせが待っている私たちは読んであげる本を選ばなくてはならない。こんなに忙しいのにいつも笑顔の先生方には素直に尊敬した。


「みんなー、お姉さんたちが絵本を読んでくれますよ」

急いで教室に帰って、初めに目に付いたこの本は私の大好きだったお話、ヘンゼルとグレーテル。あの頃はただお菓子の家が好きだっただけだが、今思うとちょっぴり怖い話だ。



「琴音はどれがいいと思う?」

「ヘンゼルとグレーテルとか良いと思うな。私この本大好きだったんだ」

「オッケー、緊張せずに読めそう?」

「どうかな……。」

「じゃあ、私が初めの数ページ読むから、その流れに乗って琴音が読むってことでどう?もしダメだったら、すぐに私がフォローしてあげるから」

「ありがとう、結月」

こんなに優しい子がいるだろうか。ただ、甘えてばかりもいられない。早くあがり症を治さないと。早くなってきた鼓動を抑えるように大きく深呼吸した。



「ヘンゼルとグレーテル。悪い天候で食べ物がほとんど育たない年のこと……」

結月が気持ちを込めながら絵本を進める。聞いていて心地よい声量ではっきりと発音しながら子どもたちをストーリーに引き込んでいく。


ここは森のなか。私たちは森に取り残されたヘンゼルとグレーテル。一回目は小石を目印に家に帰ったけど、また森に置いてけぼりにされました。小石を持っていなかったので、道にパンを落として歩いていきます。夜になって家に帰ろうとすると、暗くてパンが見えません。パンは小鳥に食べられていたのです。


「じゃあ、琴音ここからよろしくね。ファイト」

「う……うん」

絵本が手渡され、同時にキラキラした目もこちらに向けられる。

「し、しかたにゃく、二人はも……森のなかを歩きまわ、回りましたがみ……道は……」

できると思い込んでも体が言うことを聞いてくれない。体が人前を拒絶するから心まで負の感情で押し潰される。もう声が出ない。手の震えは絵本まで伝わり、顔は熱くなっていく。

もう下を向くことしかできなかった。子どもたちが戸惑いを見せ始めた時、私の膝の上に立てた本を見ながら結月が続きを読み始めた。さっきと変わらない表情と口調で。結月に対する感謝とひどい自己嫌悪が混ざり合う。絵本が無かったらこの場から逃げ出していたかもしれない。

絵本をめくるだけとなったからくり人形の手はまだ小さく震えていた。


「今日はお疲れ様でした。この経験はきっとどこかで生かすことができると思います。吹奏楽頑張ってくださいね」

西久保先生に見送ってもらい、再び街路樹の横を歩いていく。

「なぁ、結月。そっちどうだった?」

いっちゃんこと樹が爽やかな笑顔で結月に顔を向ける。

「外で走るのはしんどかったけど、中で遊んだのは楽しかったよ。子どもたち可愛かったしね」

「だよな。でも、俺は外で遊んだほうが楽しかったな」

「まぁ、お前は脳筋だからな」

眼鏡がよく似合う背の高い敏男くんが即座にツッコむ。実はいっちゃんは、小学校の時に少年野球をしていたから運動神経がとても良い。勉強ができないのは部内では周知の事実だけど……。

「吉川はどうだったんだ?」

「えっと、私も楽しかったけど、失敗しちゃった」

「どうしたんだ?」

敏男くんが心配そうに尋ねてくる。

「大したことじゃないんだけど、絵本を読んであげる時に、緊張して読めなかったんだ。結月が助けてくれたからその場はやり過ごせたけど」

いっちゃんと敏男くんは揃って驚いた顔をした。

「結月って緊張しいだったっけ?」

「いっちゃんと松村くんには初めて言うと思うけど、私極度のあがり症なんだ。中学校の自己紹介で失敗しちゃって、それからずっと人前に立つのが怖くて」

「じゃあ吹奏楽に支障は無いのか?」

私達の歩幅は少しずつ小さくなっていく。まるでサヨナラを言うのが名残惜しいかのように。もうお昼の二時を回っている。、垂直に降り注ぐ日光に汗が滲む。家はまだ遠い。ふと顔を上げ周りを見渡すとさくら公園が目に止まった。

春には桃色の空がどこまでも続き、夏になると濃い緑のルーフが風とともに囁いている。当然その下は大きな影ができて、人々の憩いの場となっている。

私たちは誰からということなく、気付くと足がそちらに向けられていた。砂漠でオアシスを見つけたらくだ乗りのように。

「じゃあさっきの続き言うね。やっぱり緊張しちゃって、練習とは違う息遣いしちゃったり運指間違えたり。」

「そうか、何か力になれることがあったらいつでも言ってくれ」

「ありがと、松村くん」

すると、いっちゃんが慌てるように後に続いた。

「俺も力になるから、あと結月も!部長やってて困った事あったらいつでも頼ってくれよ」

「ありがとう、うまくいかなくなった時はよろしくね」

いつの間にか四人での会話に花が咲いていく。やっぱりあがり症のことを話して良かったのかもしれない。隠し事がひとつ減ったことで気も楽になれた。伸び始めた影に視線を向けた時。いっちゃんが何か思い出したように口を開いた。

「ひなたが、明日川行かないかって」

「え?ひなちゃんが?」

「うん。あいつ携帯持ってないから誘っといてって。俺らも誘われたんだけど行く?」

夏休みが始まってすぐ、ひなちゃんと泳ぎに行こうと話したことがあった。プールじゃなくて川っていうのもひなちゃんらしい。高い岩の上から楽しそうに川に飛び込む彼女を想像することは安易にできた。

「私はいいよ、結月も行くよね?」

「うん、でも、お昼どうするの?」

「ああ、それは各自お弁当持参だって。流石に火使う訳にはいかないし」

明日は部活が休みだから部屋の片付けをしようと思っていたが、それは優先することでもなかった。だって、友達と遊ぶ方が楽しいに決まっている。中学生の私たちにとって友達は、一番の遊び相手であり、最高の話し相手であり、日々を彩るものなのだ。


公園を後にして十分ほど経った頃だった。

「あれ、俺達って帰る方向一緒だったっけ?」

はじめに気づいたのはいっちゃんだった。

「俺はこっちに塾あるから」

「今から塾行くの?ほんと頑張るね」

松村くんには素直に感心してしまう。いったい彼はどのくらいの時間を勉強に費やしてきたのか。その細い眼鏡が少し教えてくれたような気がした。

「俺は親がいい高校、いい大学ってうるさいから。だから、川とか行って遊ぶの久し振りで結構楽しみにしてる」

「明日はその分楽しんだらいいと思うよ」

「うん、それじゃ明日は八時三十分さくら公園集合な」

坂道が私達の視界を遮るまで何度も振り返っては大きく手を振った。いっちゃんの方が松村くんより背が低いのに手を振る姿が大きく見えたのはきっと気のせいだよね。


結月とも別れ、家が見えてくると、駐車場には白の軽自動車が停まっていた。もうお母さんが帰っているようだった。庭に植えた朝顔は細く丸まっていて沈みかけの太陽に照らされている。庭と言っても所詮一軒家の庭だから、そんなに広くない。トマトを植えてあるから余計に狭く感じる。それしてもさっきから水のように冷たいものを頬に感じる。それらが飛んでくる方向に足を運び、背伸びをして一段高くなっている柵の向こうの庭を覗くと、ホースで水をやっている母と目があった。

「あら、お帰り。結構遅かったわね。汗もかいてるだろうし先にお風呂入っちゃって。その間にご飯の支度しておくから」

母に促され、家に入るとリビングの扉が閉まっていた。私はそのドアノブに手をかけようとしたが、母の足音が後ろから聞こえたのでためらわれ、扉の奥の避暑地が頭から離れないまま、二階へ続く階段を登った。


先ほどまでクーラーの効いた快適な部屋のことで頭がいっぱいだった私は、今は体にしみるような、クーラーとはまた違った心地よさに身を委ね上を向いて目を閉じていた。まぶたの裏では今日起こった色んなことが早送りで再生されていた。

懐かしい先生との再会、子どもたちの無垢な笑顔、素直にこちらを見つめる輝いていた瞳。普段できない体験が出来て、楽しかったし、この経験が何かの役に立つ時はいつか訪れるだろう。

しかし、こんな特別な機会を母に作ってもらったにも関わらず、結局あがり症が改善されることはなかった。本当に治るのかな。答えはあるのかな。私が、人前に立つことが怖く感じるようになった原因は今でもはっきりと思い出せる。


二〇十四年の四月十日。私は人生初めての制服に身を包み、桜の花びらを帯びた風に背中を押され中学校の門に足を踏み入れた。どこに何があるか分からず、結月と一緒に教室を探している歩き回った。今はクラスが離れてしまったけれど、一年生の時は同じクラスだった。そんな懐かしい、一年半前の私を確実に変えた出来事。


「皆さんご入学おめでとうございます。この三年間で皆さんは心身ともに大きく成長するでしょう。それでは出席番号順に自己紹介しましょうか」

小学校の先生とは違い、少し堅そうな担任の先生が楽しそうにそれぞれの自己紹介を楽しそうに聞いている。終盤を迎え、皆の話の内容が凝り固まってきた頃、私の名前が呼ばれた。

この頃の私はまだ、人に自分の話を聞いてもらうのが好きだった……はずだった。


なぜか心臓の音が音が大きくなる。気のせいだと思い込んでも、鼓動が早くなってしまう。こんな経験今までしたことがない。でも、早く前に行って自己紹介しないと。

「私は……」

自分の名前が喉に突っかかって出てこない。皆が不思議そうにこっちを見ている。先生がこちらに近寄ってきた時だ。

「おい! 何してんだよ!」


クラスの空気が一瞬で固まった。そして、全員の視線が廊下側後方の席に向けられる。机から大きくはみ出した足、金髪混じりの派手な頭は彼の性格を表しているようだ。

先生が注意しても全く聞く様子のない彼の怒鳴り声に怯んだ私は皆の前で教卓に涙をこぼしてしまった。心臓はただでさえ大きな音でいつもの何倍も早く動いていたし、皆の前で、それも入学早々涙を見せてしまって凄く恥ずかしかった。


私はそれ以来、人前に立つとまた同じことが起きてしまいそうで、たくさんの目に見つめられる事が怖くなった。


今思えば小学校の時の私は、他人の前で不安や心配を感じることはなかった。しかし、今はどうしても後ろ向きな気持ちになってしまう。それでも小学校の時から吹奏楽部に憧れていたので、あんな出来事があった後でも迷わず入部した。校内演奏会くらいの小規模な会場でも、私だけパイプ椅子の下に置いてあるタオルを、手汗を吹くために使っている。そうでもしないと指が滑ってしまいそうになる。そのくらい緊張するけれど、私はクラリネットが大好きだ。

ただ、緊張が普通の人と同じくらいになったら、そんなに幸せなことはないんだろうな。今よりも、もっともっと皆と合奏するのが好きになるんだと思う。


「今日はどうだった?」

二人だけの食卓で母が尋ねてきた。

「思ってたよりは良い経験になったよ。でも、絵本の読み聞かせできなかった……。せっかくの機会無駄にしちゃってごめんね」

箸の先でブロッコリーを転がしながら、母に謝った。

「無駄になんかなってないわよ。こういう経験からたくさん積み重なって琴音のあがり症は治っていくんだと思うよ」

母は、私が怒られると気分が沈んでやる気を無くすことを知っているようだった。

「これからも頑張るね」

今夜も父は帰ってくる気配がない。今ちょうど仕事が忙しいみたいで、最近ずっと帰りが遅い。早く帰ってきたと思ったら、たくさんの書類を手に自室に閉じこもる。そんな日々がもう二週間ほど続いている。なにやらプロジェクトが佳境に入っているらしい。働き者で家族想いの父は仕事で手を抜くことはない。でも、一緒に話す時間も少しは欲しい。テレビの横に立ててある家族写真の幸せそうな父に久しぶりに会いたかった。

「あ、そうだお母さん。明日ひなちゃんに川遊び誘われたんだけど行っていい?」

「いいわよ、楽しんでらっしゃい。」

今頃皆も親に許可取ってるところなのかもしれない。私は、ごちそうさまを告げたあと明日のためにいつもより一時間ほど早く床に就いた。



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