8.午後のキリネ街道
『ツチグモ』達が街道の上に構築した巨大魔道具は水晶と鉄鋼から作られていて、抽象芸術のようにも伽藍のようにも見える。
紺色水色藍色の『ツチグモ』達が巨大魔道具の表面や内部を這い回り、稼働準備をしている。
巨大魔道具が振動を止めた。
その時、巨大魔道具が甲高い女性の声で「十」と言った。
黒森に三個の黒球が現れた。
黒球から魔物の群れが絶え間なくこぼれ落ちた。
巨大魔道具を取り囲む六機の多脚蒸気走行機から蒸気が噴き出す。
六機の多脚蒸気走行機が鉄の脚で立ち上がる。鉄の軋む音が巨獣の咆哮のように曇り空に轟いた。
多量の蒸気が不協和音を奏でる汽笛とともに吹き出された。
様々な汽笛の音程が忙しく音あわせされる。
一瞬、全ての汽笛が止まる。
突如雪原に勇壮な旋律が鳴り響いた。
多脚蒸気走行機が蒸気で吹鳴らす管風琴の奏楽だ。
突撃指揮の号音だ。
一級僧兵達が騎乗した二脚走行機が、魔物に向かって弧線を描いて整列し行進する。
二脚走行機の足元一歩後ろで、二級僧兵達が歩みを進める。
(二脚走行機の素材は板屋楓や紫檀や桃花心木等で、魔術で強化されている。
淡い虹色の真珠母で桃や梅や杏等の木の花が象嵌されており、二足歩行の魔術が掛けられていて膝と踵で操縦する。
僧兵達の分厚い鋳鉄製の板金鎧は、金や銀や銅で、菊、水仙、牡丹等の草の花の象嵌が施されている。
甲冑は身体能力拡張と、防護・防暑・防寒の力を持つ魔法道具だ。
手に持つ薙刀は鋼鉄の刀身と鋳鉄の柄で、紅花翁草、麝香撫子、鬱金香等が赤い花弁は紅玉、茎と葉は緑玉で象嵌されていた。
薙刀は防御と切断の力を持った魔法道具だ)
黒森に向かって『カケドリ』達がバラバラと飛び出し散開する。
(『カケドリ』達は鎧を身に纏わず、ただ魔法道具の指輪を趾に嵌める。
歴戦の兵は戦傷を誇りとするため、欠損した部位を殊更に、壮麗な魔法器具に換えていた。
紅榴石の左瞳の『カケドリ』は火炎に包まれて突進する。
金の嘴の『カケドリ』は雷を帯びて疾走する。
銀の右翼の『カケドリ』は旋風を纏って滑走する)
その後ろを傭兵達が三人、四人、二人、三人と数名ずつの組になって魔物の群れをめがけて走りだした。
(ある者は一角虎に乗り、またある者は大跳猿に乗るが、ほとんどの者は自分の足で走る。
皆、装備している防具は魔法の掛かっていない一般的なものだが、携えた武器は、一度に十数本の爆発する矢を放つ連弩、敵を焼灼する片手突剣、意思通りに飛んで相手を貫通して戻って来る投げ槍等々、高価な魔法武器だ)
そして三級僧兵達は黒々と聳える多脚蒸気走行機の脚の間を駆け回る。溶けかけた雪を踏み、蒸気の中を走る。
一機の多脚走行機がもう一機の上に二本の脚を乗せ機体を傾け半ば乗り上げている。
上に乗った多脚走行機は一本の脚を上に向けて伸ばしており、その脚の先からは『ツチグモ』の糸に繋がれた緋色の気球が曇り空に登っていた。
一人の三級僧兵が糸を持つ多脚走行機の脚の梯子を登る。伝令係だ。
脚の先端では一体の紺色の『ツチグモ』が、自分が分泌する酸で銅の薄板に文字を刻んでいた。
三級僧兵は梯子に掴まったまま『ツチグモ』の作業が終わるのを待つ。
パイプオルガンの演奏で梯子が震えている。音楽がやかましい、風が寒い、梯子が冷たい。三級僧兵は懐の温石を原牛の外套の上から握りしめた。
空の上の緋色の気球を見上げた。三級僧兵の中で一番軽く一番計算が早かったせいで一番寒い所にいる友を想った。
三級僧兵は『ツチグモ』に薄板でつつかれた。薄板を受け取り拳を胸に打ち付ける礼をし、あわてて梯子を降りる。
とにかく走りまわっている間は寒くない。
その時、巨大魔道具が甲高い女性の声で「九」と言った。
『カケドリ』のシノは戦場を駆け巡る。
シェラを乗せ、東へ北へ南へ、囲む魔物をすり抜け、狙うべき獲物を求めて。
早駆けの『カケドリ』達が暴れたせいで、足元には死骸、内臓、血で溶けかけた雪。地面の状態が悪すぎる。そして前後左右から襲い掛かる蛇鳥の群れ。
「シェラちゃん。走る事に『没入』するから、他の事はお願い」
「まかせちゃって」シェラの声が微笑んでいた。
シェラはいつもシノを安心させてくれる。
シノは頭脳の処理資源配分を変更する。
呼吸を整え、どう走るかだけに精神を集中する。世界から色彩が失われ、音が無くなる。それを代償に自分も蛇鳥も舞う雪片もゆっくり動いて見える。意識が加速した。
常に次の十歩での踏み場所を見ているが、周りの全てが観えている。顔の両側に目のあるシノが軽く首を振りながら走る時、死角は無い。
後ろから火球。軽く左前に跳躍して躱す。シェラを揺らさないように注意。
右前方の蛇鳥が火を吐こうとしている。シェラが体重を少し右に傾けた。走路変更。足元の氷に注意。
シェラの振るう不可視不可触の自在剣が蛇鳥を袈裟懸けに切り裂いた。
シェラとシノは体重移動で会話する。
蛇鳥の群れは真正面が薄い。前傾姿勢。シェラが体重を前に掛ける。前方三体の蛇鳥の首が刎ね飛ぶ。全速力。シノの心に全能感が膨らんだ。
その時、巨大魔道具が甲高い女性の声で「八」と言った。
棘犬のシロは戦場を駆ける。
ヴァーリが望む場所へ、魔物の群れの中へ、危険の中へ。
魔物が投げつけてくる石や岩は煩わしく、着せられた鎧兜の臭いはひどいが、いまのシロは嬉しくて楽しくて棘の鬣を倒し耳を後ろに倒して走る。
シロは横を走るヴァーリを何度も見上げる。ヴァーリの匂いを何度も嗅ぐ。
シロはヴァーリの匂いが幸せで、ヴァーリが傍にいるのが嬉しくて、ヴァーリとお揃いの鎧兜を着ているのが楽しくて、小さな跳躍を混ぜて疾走する。周りが魔物だらけで味方がいないことなど気にもならない。
ヴァーリが走る。雪原に深い足跡を残して走る。身に纏った銀鼠色の鎧と兜は小さな畝が施された分厚い鉄鈑製だ。
時おりヴァーリは右腕一本で身の丈より長い戦鎚を振う。襲い掛ってきた猿似蜥蜴達の頭蓋骨や胸骨は大型の鎚頭に粉砕される。
敵陣深く入り込んだシロはヴァーリの短い口笛を聞いた。ヴァーリは前方の巨猿を見つめていた。
巨猿の身の丈はヴァーリの四倍、肩幅はヴァーリの五倍。腕の長さもヴァーリの五倍。棍棒のように構えているのは、乱雑に枝を千切っただけの生木の幹だ。
自然に二手に分かれる。ヴァーリが左、シロが右。ヴァーリは巨猿に向かって突進し胴間声で雄叫びを上げた。
巨猿が樹の幹を振りあげヴァーリに襲いかかる。巨猿の注意がヴァーリに注がれたその瞬間、シロは巨猿の背後から左足アキレス腱に跳びつき食い千切り跳び退る。
巨猿は痛みに吠えつつ振り返り敵を捜す。ヴァーリは身を低くして巨猿の足元に飛び込み。両手で持った戦鎚で巨猿の右足の脛骨を打ち砕く。巨猿は喚きながら両膝を着いた。
シロはヴァーリに指笛で呼ばれた。駆け寄ったシロは跳び上がり、ヴァーリはその力を借りて巨猿の頭の上まで跳躍し巨猿の脳天目掛けて戦鎚を叩きつけた。
巨猿の死骸から湯気を出してあふれ出す鮮血をシロは貪るように飲んでいた。シロの落ち着いた様子にヴァーリは目を細め、近づく猿似蜥蜴達を蠅を追い払うように無造作に戦鎚で打ち払う。
シロはヴァーリに話しかけられた。シロには人間の言葉は解らないが褒められていることは理解出来た。
シロは嬉しくて誇らしくて、小さく口を開けてほんの少し舌を出し、ヴァーリを見上げてしっぽを振った。
ヴァーリが厳つい顔をほころばせて屈む。武骨な手を伸ばす。
シロはお腹を撫でて欲しくて仰向けに寝そべったが、跳びあがって振り向いて低い声でゆっくり六回吠えた。
嫌な臭いだ。でかくて長くて火を吐く奴の臭いが近づいてきた。
シロは鼻に皺を寄せて唸り声をあげた。唇がまくれ上がり白い牙と桃色の歯茎が現れた。たてがみの棘が逆立つ。尾が立ちあがる。
ヴァーリに撫でて貰うのはおあずけだ。
その時、巨大魔道具が甲高い女性の声で「七」と言った。
ハルはいつものように小型八脚走行機の機関室にいて、シャベルで火室に木炭をくべていた。
汗だくだ。保護眼鏡を掛け、手拭で鼻から下を覆っているが息苦しい。
団長命令で丸窓には防御魔術のかかった硝子が嵌っており、換気の魔道具を使っていても機関室は空気の悪い蒸し風呂状態なのだが、ハルには文句を言う気は無い。
硝子窓の外が火の海だからだ。
鉄砂団団長が潜望鏡型望遠鏡を覗き込みながら小型八脚走行機の操縦桿を操り、伝声管に向かって指示する。
「まだだ、まだまだ、風向きを間違えると俺たちが火まみれになるんだからな、よし今だ」
「ようし、火を止めろ。次は右隣のでかい奴を燃やしちまえ」
硝子窓の外では魔物達が、粘つく火に纏わりつかれ火達磨になって転げまわっている。
伝声管が喚く「団長、角兎と雪兎の集団暴走が突っ込んできます」
「兎の事まで報告するな」
「団長さん。兎が窓にぎょうさん――」
「お前も兎の事まで報告するなって」
団長の脇、機関室右舷丸窓の硝子に十数匹の火の付いた兎が群がっていた。
硝子が割れる。燃え上がる兎の群れが機関室に溢れた。
「なんであの硝子が」
団長はレンチで兎を殴り付ける。ハルはシャベルで振り払う。
しばらくの後、兎達はハルのいる機関室左舷の硝子窓を砕いて去っていった。
「鎧戸を閉めろ」
ほっと気を抜いたハルが窓の外からの空気が石脳油臭いとぼんやり思い、床に落としたゴーグルを拾うのを止めて屈みかけていた腰を伸ばした時。
ハルの傍らの左舷丸窓に緑色の魔物の手。
右舷丸窓の鎧戸に手をかけた団長の右手と右足に跳びかかる二体の猿似蜥蜴。
ハルは両腕を交差させ右手で左前腰の、左手で右前腰の前装式三連発銃を引き抜き、両腕を左右に広げる。
しっかり狙っている暇はない。
左手。左舷丸窓からハルに跳びかかろうとしている猿似蜥蜴の、頭のあたりに三連発銃の三つの銃口を向けた。
(親指で三連発銃の三つの撃鉄を引き起こす。
銃把に隠れていた三本の引き金が迫り出す。
人差し指の腹で三本の引き金を絞る。
板発条が弾けて三つの撃鉄の先端の三つの燧石がそれぞれの当たり金に打ち付けられ火花が散る。
当たり金を兼用していた火蓋が衝撃で開く。
火蓋の下の火皿が火花を飲みこむ。
仕掛けられていた発条が火蓋を閉る。
爆音)
三角形に並んだ三つの銃口から同時に発射された三発の弾丸は、ハルに跳び掛る寸前の猿似蜥蜴の牙をむいた顔面をうじゃじゃけた肉塊に変えた。
(三発分の爆燃の反動がハルの左手首をねじ曲げる。
緑色の無毛の魔物は黒色火薬の白煙に包まれて、血液と体液を撒き散らしながら丸窓の外に落ちていった)
左手は反動で跳ね上がった銃から指を離して床に落ちるにまかせ、左腰背中側の三連発銃を引き抜いた。
右手。左端の撃鉄を引き起こし、大体の見当で団長の右足に噛みついた猿似蜥蜴を撃つ。
(初弾は猿似蜥蜴の右眼球を潰し眼窩を粉砕し脳髄に突き刺さり後頭骨を砕いて貫き鋳鉄の床に歪んで貼りついた)
真中の撃鉄を引き起こし、大体の見当で団長の右手に噛みついている猿似蜥蜴を撃つ。
(次弾は猿似蜥蜴の右肘を砕き引き千切り、鋲が並ぶ鍛造装甲の壁にぶち当たって兆弾し赤銅の操作盤にめり込んだ)
右腕を撃たれた猿似蜥蜴が叫びながらハルに跳びかかった。
(蜥蜴と猿を混ぜたような顔に縦長の瞳孔。片手両足の鋭い爪と鋭い牙に込められた殺意)
ハルは小さな悲鳴を上げながら左舷側に跳び退き壁に背中をぶつけてしゃがみ込み、両手の銃を猿似蜥蜴に向け引き金をガク引きする。
(右手の銃の弾丸は猿似蜥蜴の左肺を貫き背中に大きな射出孔を開けて抜け鋳鉄の天井に当たって兆弾し右舷の丸窓から外へ。
左手の銃の弾丸は猿似蜥蜴の眉間を撃ち抜き脳髄を掻き回し頭頂骨を砕き天井から吊り下げられていた真鍮製の提灯を壊した)
ハルは右の掌を広げて銃を落とし右腰背中側の三連発銃を抜き、両手の銃で床に転がった猿似蜥蜴を狙う。
猿似蜥蜴の死骸の砕かれた頭頂から薄桃色の脳髄がゆっくりと溢れ出るのを見つめたハルが、立ちあがって団長に一歩近づこうとしたその時、後の丸窓で引っ掻く音。
振り向きざまに右手の銃で窓枠を撃つ、爪の長い二本の指先を残して魔物は逃げた。
左手の銃を左腰の拳銃嚢に突っ込み、左手で丸窓の鎧戸を引き下ろし閂をかけた。
右舷に走り団長をまたぎ右舷丸窓の鎧戸と閂を閉め、薄暗くなった操縦室で団長の足に噛みついたまま死んでいる猿似蜥蜴を蹴り飛ばした。
血まみれの団長はオーバーオールの胸ポケットをまさぐっていた。
「手ぇは自分の薬、使て下さい」ハルは右手の銃を右腰のホルスターに押し込み、首から下げている麻紐から神殿支給品の霊薬の小瓶を引きちぎり、団長の脹ら脛の咬傷にぶちまけた。足の傷の血が止まる。千切れた筋肉の上に皮膚が再生していくさまを確認しながら、捻挫したかもしれない鈍く痛む左手首の上で逆さにした小瓶を振ったが、もう空だった。
「付けた。効かない。血が。止まらない」脂汗まみれの蒼ざめた顔の団長が囁く。団長の震える左手から霊薬の硝子瓶が転げ落ちた。右手は噛み砕かれていて、手首からの出血が止まらない。
「効かんはずない。同じ瓶や。けど言うてる場合やない」
ハルは伝声管の蓋を開けて、叫んだ。「団長重傷。救援乞う。誰ぞ来い」
伝声管に耳を押し当てる。悲鳴と物音は聞こえるが返事は無い。
「あぁくそ」ハルは団長の脇に腕を入れると火室の前に運ぶ。
団長の隠袋をあさり、見付けた小刀をプライヤではさんで火室の焚き口に突っ込んだ。
「軍医とか衛生兵とか、いてません。血ぃ止める物騒なやり方をします。失敗したら死にますけど、何もせんと絶対死にますし、やってみますね?」
既に団長に意識はない。焚き口に置いた団長のナイフの獣骨の柄が煙を上げ出した。
「では同意してもらえたということで、傷口焼いて血ぃ止めます」
その時、巨大魔道具が甲高い女性の声で「六」と言った。
地上は戦場。煌めく雪原に死骸が転がる。『人類』も『カケドリ』も『ツチグモ』も魔物も獣も、殺されて転がる。
空はからっぽ。空一面の雲の下、緋色の紙風船が小さくぽつりと浮かぶ。
一機の多脚蒸気走行機の脚先から延びる『ツチグモ』の糸の先に浮かぶ緋色の紙の正二十面体。
風船花の瓦斯を充填した『ツチグモ』製の観測気球である。
ガス気球には猿梨の蔓で編んだ籠が吊るされている。
一人の小柄な三級僧兵が籠の中から望遠鏡で戦場を観測し、一体の『ツチグモ』が籠の裏底に貼り付いて糸の振動で地上に情報を伝え、もう一体の『ツチグモ』が正三角形の紙の板で構成された気球の表面でガス量調節と高度操作を行い、一体の橙色の小柄な『カケドリ』が三級僧兵の傍で物見遊山をしていた。
橙色の『カケドリ』は、戦場視察の名目で、空からの景色を楽しんでいる。大蛇鳥が飛ばしてきた火球が多脚蒸気走行機の蒸気砲で撃ち落とされる様子には歓声をあげて喜んだ。
「絶景かな、絶景かな。これほどの上空に魔術を使わずに浮かぶとは。『ツチグモ』の趣向は面白い」
「敵地観測再開。最先端、もとい最西端から最東端まで順に報告。角兎の群れ、街道北側、約五百体。雪兎の群れ、街道南側、約三百体」
「太陽に近いと暖かかろうと思っておったが、ここは冷えるな。今宵は陳皮の薬湯に入らねば。ふむ、角兎に普通の黒い角に混じって、見慣れぬ白い角がおるぞ。」
「角兎雪兎に続いて猿似蜥蜴。北端から南端まで、約四百体」「あれはサルでもトカゲでもないぞ。むしろトリに近い。『人類』は解剖学に疎いのか?」
「若様お静かに願います。兎の群れと重なって殴蟷螂。街道上から南端まで。五十三体。」「あれは蝦蛄だな。小さい奴は塩茹にすると美味いぞ。ところで小腹がすいた。先ほど飴を舐めておらなんだか?」
「若様、足元の竹の筒に蒸かした里芋が入っております。大人しくお召し上がりくださいね。街道上。続いて蛇鳥、十六体。大蛇鳥三体、傭兵三十人と交戦中」「これは、まだ熱いな。質素な料理だが、これが『温かいのが御馳走』というやつなのか? これはこれで風情があるな。花茶は無いのか?」
「蛇鳥の南。人似蜥蜴。九十五体」「人似蜥蜴も、言うほど『人類』に似ておらんぞ。こいつらよりずっと奥の奴が『人類』に似ておらんか? あの白いローブを着て手に……」
「若様、揺らしちゃだめですよ」籠が揺れ小柄な三級僧兵は自分に付けられた命綱を握りしめて横を見た。
若い『カケドリ』は気球の籠の縁に乗っていた。柿渋色の合羽が風にはためく。若い『カケドリ』の白い冠羽が開いては閉じるを繰り返す。
「娘子。空の案内、大儀であった。
蒸した赤芽芋、馳走になった。美味かったぞ、礼を言う。
そなたの酒臭い師匠に、昨夜の料理が美味であったと伝えてくれ。
血入り腸詰、ねっとりとしてコクがあって血の風味が美味かった。発酵腸詰、詰めてある猪肉と糯米が辛くて酸っぱくて美味かった。発酵乳をかけた水餃子も美味かった。桜桃の入った甘い水餃子も美味かった。どの料理もみな、美味であったと伝えてくれ。
熟していない果物が苦手で、青檬果と猪肉の炒め物を食べなかった。青万寿果の和え物も食べずにいた、どのような味だったのだろう。そうだ、一度ぐらいは酒というものも飲んでみたかった。
が。是非も無し」
「若様、えっとですね。
晩御飯には原牛の蒸し焼きが出ます。実芭蕉の葉で包んで地面に埋めて、焚火の下で一日かけて蒸し焼きにするんです。いま焼いている最中なんですよ、きっと美味しいんです。他にも、ハルさんはきっと美味しい料理をいっぱい作るんです。えっと、えっと、そうだ一緒にお酒を飲みましょう。ハルさんがいつも飲んでるお酒は喉が痛くなって咳き込んじゃうんですけど、えっと、林檎酒がお薦めです。シュワシュワと泡が出て美味しいんですよ。ね、だからちょっとそこから降りて下さい若様」
若い『カケドリ』は瞬膜を閉じ、瞼を閉じた。白い冠羽が震えながら閉じた。そして目を開く。
「おお、つまらぬことを言って娘子を心配させたか。なに大事無い、ちょっと下に所用ができてな。
『ツチグモ』の衆。空の道行き、眼福であった。すまぬが少し揺れる。許せ」
橙色の『カケドリ』は籠の外へ身を躍らせた。
「さらば」
『カケドリ』の羽織っていた油紙の合羽が大きく広がり柿渋色の滑空翼になった。
気球は大きく揺れながら上昇する。小柄な三級僧兵は籠の底にしゃがみ込む。群青色の大きな『ツチグモ』と水色の小さな『ツチグモ』が緋色の気球の表面を這いまわる。柿渋色の滑空翼は大きな螺旋を描きながら白い戦場へ降下していった。
地上の兵士たちは誰も柿渋色の滑空翼に気付かなかった。
その時、巨大魔道具が甲高い女性の声で「五」と言った。
全力疾走のシノが転倒した。翻筋斗打って転がり、凍った死骸の山にぶち当たった。
シェラは投げ出された。身体を捻り蜻蛉を切って猫のように着地するとシノに駆け寄る。
「シノちゃん大丈夫?」
近くの魔物達は驚き恐慌状態になり遠巻きで喚き合っている。
「足首をやっちゃった。急に義趾が壊れちゃった」
「あたしの魔剣も壊れたみたいね。なに、得物はそこいらじゅうに転がってるわ。この三日月刀みたいな刀とかね」近くの傭兵の死骸の胸を足で押さえて腹に刺さっていた、三日月刀に似て少し柄の長い刀をシェラは引き抜き、死骸の上着の裾で血糊を拭う。峰の中頃が少し錆びているが使えそうだ。
「すぐに怪我を治すから」シノは座り込む。
「大丈夫大丈夫。上等の魔道具に浮かれちゃってちょっとばかし調子に乗ってたのが、普段のあたし達に戻るだけよ」
一番近い魔物は横に広がって吠え合いながら近付いて来る五体の人似蜥蜴。正面の人似蜥蜴は兜を被り湾刀を持つ。その右側は槍持ち一体棍棒持ち一体、左側は片手斧を持った人似蜥蜴が二体。
シェラは三日月刀に似ている刀を両手で持つと、右足を後ろに引き、切っ先を隠すように右脇に構えた。
「あれが頭目かしらねぇ」一体だけ兜をかぶっている人似蜥蜴に向かって走る。
人似蜥蜴達も駆けよって来る。
正面の兜の人似蜥蜴の湾刀が繰り出された時、シェラは刀を右下から左に振り上げ、眼前に迫った錆びた湾刀を人似蜥蜴の手首ごと斬り飛ばし、さらに踏み込んで人似蜥蜴の腹を十字に斬り裂く。胸を蹴り飛ばす。人似蜥蜴は赤黒い内臓を飛び出させながら転倒した。
兜の人似蜥蜴は地面に散らばった自分の内臓を掻き集めながら耳障りな声で叫ぶ、叫び続ける。
右から槍。上体を軽く反らし、目の前を通り過ぎる青銅の穂先を一瞥。軽くかがむと飛び出すように右に踏み込む。左足、腰、胴体、右腕、刀が一直線に伸び、切先は槍を持つ人似蜥蜴の両目をえぐった。槍の人似蜥蜴が 金切り声で悲鳴を上げる。
片手斧を持った二体の人似蜥蜴が振りかぶった。シェラは槍を持つ人似蜥蜴の腕を掴むと入れ替わるように後に回る。
二体の人似蜥蜴が振り下ろした二本の片手斧は勢いが止まらず、槍持ちの人似蜥蜴の胸板に刺さる。
蹴り飛ばす。三体の人似蜥蜴達は絡まり合って転がった。
シェラは振り返ると両腕をだらりと下げて、棍棒を持った人似蜥蜴の正面に立ち、頭を向けて嘲笑って見せる。頭を狙って振るわれた棍棒を小首を前かがみ気味に右に傾げて避け、振りあげる刀で人似蜥蜴の棍棒を持つ腕を肩から切り飛ばし、返す刀で片足を切り落とした。
兜の人似蜥蜴は内臓を自分の腹に戻そうとしながら叫んでいる。
目を潰された槍を持つ人似蜥蜴は胸に二本の片手斧が刺さったまま、二体の魔物と絡み合って悲鳴を上げ続けている。
棍棒を持っていた人似蜥蜴は、雪の上でのたうち回り、肩と腿から噴き出す血を止めようと押さえつけようとしつつ喚いている。
三体の人似蜥蜴の叫び声の三重唱を聞きながら、シェラは歯を見せて獰猛な笑みを浮かべた。あたりを見回す。
「いいねいいね、敵意は全部、あたしに頂戴」
近くの魔物はシノに近付いていた魔物達も全てシェラを睨みつけている。
ようやく立ち上がった片手斧を持つ人似蜥蜴に駆け寄り、すれ違いざまに左脇腹を切り裂き背後に抜ける。
膝をついた人似蜥蜴の肩を踏んで跳び上がり、跳び降りざまに刀を振り下ろす。刃はもう一体の片手斧の人似蜥蜴の右肩口から左腰までの胴体を切断する。
振り返り、回転するように腰を振り、膝をついた人似蜥蜴の首を刎ねる。
鮮血が噴水のように噴き出し、シェラの白い頬が血で汚れた。
シェラは口元に垂れてきた返り血を舐めると、眉をひそめて唾を吐いた。足元は人似蜥蜴の血と臓物に塗れている。
ちらりと刀身を調べる。刀身の半ばあたりで少し刃が欠けている。
「また調子に乗っちゃった、剣呑剣呑」
シェラは集まってきた人似蜥蜴達の間を走りつつ縦横無尽に刀を振るう。人似蜥蜴達の手首足首が飛び、首筋脇腹から血液内臓が溢れ出る。
シェラは振り返り、立ち止まる。
両手で持った三日月刀に似た刀の柄を右頬近くに引き、切っ先を曇空に向ける。左足を踏む出すと、鎖帷子の裾がしゃらりと音を立てた。
ぐるりと見回す。人似蜥蜴達は死んでいるか死にかけているかのどちらかだ。
気配を感じたシェラは突然振り向き、刀を振り上げ、止めた。
そこに蹲る人似蜥蜴の頭蓋骨はシノの鋭く分厚い鉤型に湾曲した嘴に穿たれていた。
「シノちゃんありがと。だめだねえ。あたしの後ろにはいつもあの人がいたから、癖になっているんだ。あてにしてたんだね」シェラはそっと微笑む。
立ち上がったシノはシェラを見つめ。嘴を開いて、閉じた。何も言わず嘴を開き舌を伸ばしてシェラの頬の血を舐め取った。
「頬っぺたが冷たい。寒さよけのお守りが効いていないんじゃないの」
「寒がっている場合じゃないわよ」
「そういう話じゃなくて。あたしの義趾とシェラちゃんの魔剣が壊れて今度はお守りでしょ。待って、耳を澄まして」
パイプオルガンの演奏は止まり、今はけたたましく打ち鳴らされる銅鑼の音が雪原に響き渡っている。
「退却の合図ね。ゴングの拍子が早いわね。とっととずらかりましょ」
「大太鼓の音が聞こえるの。『カケドリの勝手』が始まっちゃった。きっと荒れる」シノの白い冠羽が震えた。
「シノちゃんも何かしなきゃいけないのかい」
「あたしは別。いつだって勝手気儘よ」
大太鼓の音がシェラにも聞こえる。
近くに転がる黒焦げの、死骸に見えた『カケドリ』が「ギ」と言った。白濁した瞳を街道に向け、また動かなくなった。
その時、巨大魔道具が甲高い女性の声で「四」と言った。
「鉄梃は何処だ」
戦場の真ん中で僧兵達のプレートアーマーが動かなくなった。二脚走行機も動かない。
魔術で機動していたプレートアーマーは、自力では動く事も抜け出す事も出来ず、魔物の群れの前で人型の棺桶となった。
近くの魔物は今でこそ雪兎と角兎だけだが、仲間を殺され逆上した猿似蜥蜴がすぐ傍まで来ている。
運よく甲冑が脱げたものもいるが、魔道具はほとんどが壊れており、薙刀は重すぎて誰にも持ち上げられない。
気温が異常に低く、吐く息で甲冑に霜が付く。僧兵達は動きやすい薄い服を着て、甲冑の防寒魔術に頼っていた。
「開けてくれ。俺は戦える。寒い。冷たい。腕が痺れてきた足が痛い」
「開け。開け、開け。開いた。出られた。鍵開けの魔術が使えた。マナがあるぞ」「開かないじゃないか。こんな所にマナがあるかよ。俺はもう死ぬんだ」
「猿似蜥蜴がきたのか? 俺にかまうな。さっさと戦え。逃げろ。死ぬぞ」
「おい。動ける者は何名だ? 猿似蜥蜴は何体だ?」「動ける者は五名です。隊長、猿似蜥蜴は数えきれません」
「動ける者は動けぬ者、私も含めて全員に可及的速やかに『慈悲の一撃』を与えよ。然る後、撤退し護衛隊と合流せよ。これは隊長命令である」
その時、巨大魔道具が甲高い女性の声で「三」と言った。
緋色の衣装を纏った橙色の『カケドリ』の若様が、蒲公英色の街道を走る。白いローブ姿の仇に向かって。
そこから離れて茶色の『カケドリ』達が雪塗れ泥塗れで、橙色の『カケドリ』に並行して走っていた。
茶色の『カケドリ』達から大太鼓の音がした。茶色の『カケドリ』達の胸が膨らんでは萎み、大太鼓のような音を出す。
街道脇の死骸のような『カケドリ』は首を大きく持ち上げ、曇空を仰ぐ。左の眼球が眼窩からあふれこぼれる。
死骸のような『カケドリ』は嘴を大きく開き「ギ」と鳴いて、本当に死んだ。
『カケドリ』と『人類』と魔物の死骸の積みあがった山の中からも「ギ」「ギニ」という声が聞こえる。
幾つもの爆竹の音が鳴った。
街道の上に五色の煙幕が張られた。
煙幕の中から橙色の『カケドリ』が姿を現し、立ち止まる。周囲で爆竹が鳴り響いた。
橙色の『カケドリ』は、羽織っていた陣羽織を振り回して投げ捨てる。
宙を舞う陣羽織は、表地の緋色の羅紗と裏地の黄色の緞子との対比が鮮やかだった。
橙色の『カケドリ』は鉄盾を装備した両の翼を大きく広げ、鉄の小札を赤い皮紐で繋ぎ合わせた大鎧を一揺すりし、口上を述べはじめた。
「やあやあ、遠からん者は音に聞け、近くば寄って目にも見よ。我こそはコウケイ帝の末にしてサギリ庄ツネカゲが九男、テルカゲなり。
其処に見ゆるは紛うことなく我が妹ユキシロが卵殻。
未だこの世に産まれざる雛鳥を、ただ殺すだけでは飽き足らず、その亡骸を弄ぶとは、その所業、テンが許しても我が許さぬ。この蹴爪で千々に引き裂いてくれよう。
我に殺さるるは末代までの誉と心得よ。
関わりなきものは早々に立ち去れ。邪魔する輩は仇敵と見なす。
我が肢は旋風、我が嘴は雷なり。我に触るれば、即ち死ぬるぞ」
橙色の『カケドリ』は白いローブ姿に向かって走りだした。
その肢は遅い。
三体の猿似蜥蜴が跳び付く。橙色の『カケドリ』は街道の上を転がり猿似蜥蜴を押し潰し、盾を構えて突進する。橙色の『カケドリ』の周りに魔物が集まりだした。
橙色の『カケドリ』の前に金砕棒を構えた人似蜥蜴が立ち塞がった。
不意に茶色の『カケドリ』が現れ、人似蜥蜴の足に噛み付いた。人似蜥蜴はいきなり現れた『カケドリ』に驚き怒り、金砕棒で殴り付ける。
その横を橙色の『カケドリ』が駆け抜ける。
茶色の『カケドリ』は噛み付いたまま、無抵抗で殴られて死んだ。
橙色の『カケドリ』の周りに何体もの茶色の『カケドリ』が不意に現れ、大太鼓の音を出し雪の上や地面の上を転がり、姿を消した。
橙色の『カケドリ』の行く手を遮ろうとする魔物達に、雪まみれ土まみれの茶色の『カケドリ』達が立ち向かい、死んでいった。
翼が血塗れの、赤い『カケドリ』がそれに加わった。人似蜥蜴の腹に嘴を打ちこみ、「ギニ」と叫び、死んだ。
戦場に散らばっていた血だらけ傷だらけの赤い『カケドリ』達が集まり、橙色の『カケドリ』達と共に走る。
片目が潰れた大柄な赤い『カケドリ』が叫ぶ。
「ギによって助太刀致す」
白いローブ姿は近付いても『人類』に見えた。
金糸の刺繍で縁取られた白いローブのフードを目深に被り、左手に持っているのは金の脚が付いた薔薇色の杯。
フードから見えるのは、渦を巻く金色の髪、肌理の細かな白い肌、軽く弧を描く整った鼻梁、愁いを帯びた碧い瞳に翳を落とす長い睫毛、物憂げな頬笑みを浮かべた肉感的な唇。
白いローブの美しい男は、右手に持っていた真珠の指輪を気怠げに薔薇色の杯に投げ込んだ。
右手で印を結び何事が呟く。
地面から噴き出した青い炎が『カケドリ』の群れを焼き払った。
男が微笑む。
男は螺鈿の簪を薔薇色の杯に投げ込んだ
炎から橙色の『カケドリ』が跳び出す。大鎧が燻る。勢いよく突進する。
「妹の仇。いざ尋常に、勝負」
ローブの男は印を結んだ右手の指で橙色の『カケドリ』を示す。
「君って誰?」
男の指の前に浮かんだ炎の矢が橙色の『カケドリ』の頭を消滅させた。頭を失った橙色の『カケドリ』の死骸は突進の勢いのまま男の前まで滑り転がった。
「誰か解ってたけどな。卵の殻で作ったこの杯、ちょっと、気に入っているんだ」ローブの男が片頬で笑って薔薇色の杯を掲げた。
ローブの男は橙色の『カケドリ』の死骸を蹴った。
不意に現れた茶色の『カケドリ』がローブの男の頭に鉄槌のように嘴を撃ちつける。
「うざったいな」
ローブの男が印を結んだ右手で茶色の『カケドリ』に触れると、『カケドリ』は灰になって死んだ。
近くの雪の中から現われた茶色の『カケドリ』が薔薇色の杯を噛み砕く。
第三、第四の茶色の『カケドリ』が男に襲いかかる。
両手で印を結ぶ男の周りに炎の壁が現れ、茶色の『カケドリ』達を焼き殺した。
「うざったいんだよ、たかが駝鳥の分際で!」
ローブの男は茶色の『カケドリ』達の死骸を順に蹴った。
その時、巨大魔道具が甲高い女性の声で「二」と言った。
シノは嘴を砕かれ樹の幹に叩きつけられた。血を吐いて倒れた。
シェラは樹の幹にぶつかる際に顎を引き、樹の幹を両手で叩いて衝撃を打ち消そうとしたが、右手首が折れた。三日月刀に似た刀は曲がって折れてどこかに飛んでいった。
シェラは樹に背中を預けたままずるずるとずり落ち、座り込んだ。
倒れたシノを見る。シノの嘴の周りに浮かぶ白い息で呼吸してる事は解る。
シノに目配せをした。シノの白い息が消えた。死んだふりか本当に死んだのかどちらだろうとシェラは思った
シェラの鼻先に錆びた青銅の鈍器が付きつけられた。鈍器は人間等身大の青銅製の裸婦像だった。
「はららごの臭いがする、はららごを食わせる」魔物が肉食動物の口で言いにくそうに喋った。
この魔物の眼球は、虹彩が小さく白目が広かった。猿に似た体型で大男ほどの背丈の魔物が、犬に似た顔の中の『人類』に似た目で、シェラの全身を舐めるように睨つけた。
「おや、しゃべった。こんな所にゃ、ハラコもイクラもありゃしないよ」シェラの息が白く漂う
「おまえのはららごを食う」
「何となくわかったよ」シェラは折れた右手でお腹を隠し、左手であたりをまさぐる。指先に触れるのは冷たい雪、冷たい泥、冷たい死骸、指先が冷たく痛い。得物になるものは無い。武装した傭兵達の死骸は遠い。角兎の死骸を掴んで投げつける。
犬猿は顔に飛んできた角兎の死骸を器用に銜え取り二噛みで呑み込む。青銅像でシェラを突く。「ぐちゃぐちゃに潰して食うとうまい」
シェラは左手で青銅像を払おうとしたが掌が痛いだけで棍棒は揺れもしない。
左手が痛い。見ると左腕が腫れあがって鎖帷子がめり込んでいる。腫れている? 膨れている? 成長している?
ぎしぎしと音を立てて左腕の骨が育ち筋肉が成長する。左腕の鎖帷子がはじけ飛んだ。
シェラは元の大きさになった夫の左腕で青銅像を振り払い、立ちあがった。
シェラは頬笑みをうかべた。「お前さん、お帰り」
犬猿は激怒して牙をむき、何かを喚いたがもう言葉になっていない。犬猿は青銅像を振るがシェラは軽くしゃがんでかわす。
シェラはつぶやいた。「お前さん、いつもぎりぎり」
シェラは左肩と左拳を引く。その勢いで左の爪先、腰を右回りにひねりつつ左腕を振る。黒くて節くれだった左拳が弧を描く。
犬猿の頭は砕かれた。
「ぎりぎり危ない時には、必ず来てくれたね、お前さん」シェラは崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。
シェラは左腕を抱きかかた。「あったかい。お前さんはいつもあったかい男だったね」
そのまま雪の上に横たわったシェラは、黒い左腕をお腹に当て、丸くなる。「この子をあっためておくれ、お前さん。
シノちゃん、生きてる? あたしは今ので腰を痛めたみたい」
「あたしは両足と肋骨の骨折かな」
「さっきが『二』だったから、運が良ければ助けが来るわ」
「じゃあそれまで、二人で死んだふりをしていよっか」
その時、巨大魔道具が甲高い女性の声で「一」と言った。
多脚蒸気走行機達が一斉に巨大魔道具から大きく離れた。巨大魔道具が振動する。
甲高い女性の声が「大地」と言った。街道の煉瓦が黄金色に輝く。
甲高い女性の声が「天空」と言った。曇空に青白い稲妻があやとりのように駆け巡る。曇り空が白銀色に光る。
甲高い女性の声が「連結」と言った。雲と巨大魔道具が眩い稲妻で繋がれた。天と地を繋いだ太い稲妻は、のたうち脈動し続ける。破裂音が鳴り続く。オゾン臭がたちこめる。
甲高い女性の声が「疾走」と言った。天空と大地を繋ぐ稲妻は街道上を西へ突進する。稲妻は行く手の死骸も荷物も木も魔物も、街道にあるもの全てを焼きつくす。稲妻は西の果てまで一直線に街道上の全てを灰にした。
甲高い女性の声が「完了」と言った。巨大魔道具の光が消た。巨大魔道具が倒壊する。空を覆う雲は街道を境に北と南に引いていく。
紅い太陽は黒森の果てに沈みつつある。日没間際の茜空だった。
参考文献
Wikipedia 『フリントロック式』
大藪春彦 『赤い手裏剣』
大藪春彦 『野獣死すべし』