7.昼のキリネ街道
空は灰色。
銀灰色の曇天は低く重くのしかかり、その下を幾つもの鉛色のちぎれ雲が東に向かって回転しながら流れ飛ぶ。
大地は灰色。
地平の彼方まで広がる消炭色の荒蕪地は、汚れた灰白色の雪にまだらに覆われて所々に見える沼の水は黒い。
世界は灰色。
陽光は分厚い雲に遮られてうす暗く、視界は渦巻く粉雪に遮られて紗がかかる。
道は黄色。
仄かに発光し発熱する蒲公英色の煉瓦で舗装された幅広のキリネ街道は、荒涼とした大地を南北に分断し一直線に西の果てから東の果てへと続く。
街道を地響きを立てて巨犀獣の群が東に走る。巨犀獣は犀の仲間で、肩高は大型種の毛象を越え、その体格は馴鹿に近い。
八頭の巨犀獣は木箱を背負い、先頭の特に大柄の巨犀獣の頭の上には赤い法衣の僧兵がまたがっている。
巨犀獣の前を『カケドリ』達の群が走る。六十四羽の戦装束の赤い『カケドリ』が楔形に並んで疾走し、その後ろを八羽の茶色い『カケドリ』が一羽の橙色の『カケドリ』を囲んで走っている。『カケドリ』達は甲高い声で叫び合う。
巨犀獣の後を、騒々しい音を立てて巨大な機械の集団が走る。蒸気がたなびく。
多脚で走る家ほどの大きさの七機の鉄製走行機のうち、前の六機の鋲の打たれた表面には何体もの青い『ツチグモ』が揺れも風圧も無視して這いまわっているが、一番後ろの小型八脚走行機には『ツチグモ』がいなかった。
多脚走行機は蒸気の力で走り、その脚元を取り囲む僧兵達が乗る八十台の二脚走行機を走らせる力は魔術だ。
一人乗り二脚走行機にまたがり、両手にそれぞれ薙刀を持つ僧兵達の姿は、降りしきる雪がお守りによって撥ね返され、白い異形の巨人に見える。
走行機と並行して、煉瓦道の脇の雪の中をヴァーリとシロが走る。
一人と一匹の吐く息は白く、多脚走行機の蒸気と競っているようだ。
生成りの半袖襯衣姿で雪を蹴散らすヴァーリは、最後尾の八脚走行機に大きく手を振った。
赤銅の火室に木炭をくべていたハルは、八脚走行機の丸窓からヴァーリに手を振りかえした。
こいつは身体を動かしてると機嫌が良いなと思う。
頭に巻いていた手拭を解いて首筋の汗を拭うと煤で薄黒く汚れた。口の中が灰の味がする。唾を火室に吐くと音を立てて蒸発した。熱気に満ちた操縦室の中、汗で蒸れた頭に丸窓から吹き込む雪混じりの風が心地よい。
「サボるなよ。タダで乗せてやってるんだから」膝の焦げた皮のオーバーオールを穿いた男が潜望鏡型望遠鏡をのぞき込みながら嗄れた声で怒鳴る。男は操縦桿を操りながら、ハルの事をすぐにサボろうとする扱いにくい小男だなと思った。
「団長さん、そろそろ交代の時刻ちゃいますの?」ハルは微笑みながら、この団長の事をいつも怒鳴る口の悪い小男だなと思った。
「もう少しで到着だ。このまま続けろ」胡散臭い笑い顔だと団長は思う。
「昼前の小昼ですけど、今から仕込み始めたら果物の他に林檎のパイも出せますけど」
「後ろに行って団長命令で交代だと言え。パイには干し葡萄を忘れるな。この邪魔な鉄鍋も持っていけ」団長は爪先の焦げた革の長靴で足元の鍋を蹴るふりをした。
「それは団長さんご注文の白隠元豆の炊いたんです。昼まで火室の前でぬくめといたら美味しゅう出来ますんで、蹴飛ばさんように気ぃ付けて下さい」
「甘くしたか?」
「黒楓の舎利別を多めに使こてますから、きっとお気に召します」
ハルは壁にかけておいた銃帯を腰に巻き、保護眼鏡を外して壁にかけた。
「手は二つなんだから銃を四つもいらないだろ。缶焚きに飽きたんだったら、その火薬式拳銃の一つを乗車賃代にしてやろうか? 俺は機械仕掛けを集めるのが趣味なんだ」
「この世に四丁しかないマリッシェの旦那の三連発銃と乗車賃。それは間尺に合いませんわ。その鍋もマリッシェの旦那の店で買うたもんですけどどうです? 蓋の開け方を間違えると爆発しますけど」
鉄砂団の団長は趣味人である。
八脚走行機を『ツチグモ』から購入した時点で酔狂そのものではあるが、食事にも凝っている。
曰く『肉は身体を作る』『疲れた時には甘いものを食べるべきだ』『食事は楽しくなければならない』『魔術で保存した料理はつまらない』『調理の様子を見ながら食いたい』『寒いから焚火のまわりに団員で集まって食いたい』。
ハルがなるべく団長の好みに合わせたところ、よその傭兵団や僧兵達から食わせて欲しいと相談がきた。団長は大勢で食った方が美味いと受け入れた。
ハルの仕事が増えることになる。基本的に仕事が嫌いなハルは押しつける相手を捜し、神殿の三級僧兵達が甘いものにつられて下働きをすることになった。
雪は止み、走行機は巨大な木箱を掴んで街道脇に並べ、傭兵達は竹の足場を組み、僧兵達は木箱の中から木製の器具や金属製の機械を取出し運び、『ツチグモ』達は器具や機械を組み合わせて巨大な魔道具を構築する。
キリネ街道の彼らがいる場所の少し先は、黒森に閉ざされている。壁のように北のはてから南のはてまで黒い樹の森だ。
街道の側溝を溶けた雪と黒い葉っぱが流れる。
街道近くの雪の無い平地に焚火や石組みの竈が並び、ハルを囲んで赤い帯を襷にかけた三人の三級僧兵達がごねる。
「昼休みはだいぶ先ですよ。こんなに早く呼びつけられて、きっと後で先輩にどやされますよ。ただでさえみんな、作業の手順が複雑すぎるってイラついているんですから」
「ハルさん、人使いが荒くないですか」
「巨犀獣帰っちゃったんですよ。巨犀獣のお世話をする機会なんてめったに無いんですよ」
「巨犀獣はいいとして――」
「よくないですよ」
「――昨日なんか原牛や鱒之介を捌いたりしましたけど、そこまでする約束じゃありませんよね」
「お前らの魚好きの上官殿は納得済みやで。時間を延長しても良いから料理を仕込んでくれ、とも言われたし」
「きっとうちの兵長だ……」
「あのデブ」
「……料理をおぼえたくて僧兵になったんじゃないんですよ」
「ほな、そういうことで、散開。作業をしましょう。全部の竈に木炭入れて火ぃ熾してや。今日は多量に薄焼き麺麭を焼くからな。そうそう、鉄砂団の団長がお前らに服をやるって言うてたで」
「あの団長さん、怖い顔だけどいい人ですね」
「いつも怒ってるよね」
「あたたかい服だったらいいね、こんな寒さの用意をしてないから寒くて。防寒のお守りが買えたら先輩達みたいに薄着でいられるんだけどな」
「そんなお金があったらまず魔剣でしょ、結構安いの見かけたんだ」
「しゃべるなとは言わんけど、手ぇ止まってんで、手ぇが。仕事してや」
「ハル。こっちにアップルパイがあるって聞いたんだけど、残ってる?」昼食の時間が終わる頃、焚火の脇で脚付きフライパンを焚火の灰で洗い終えたハルの前で、躑躅色の羽根の『カケドリ』にもたれかかった左腕の黒い、銀髪の女がだるそうに言った。
「ちょっと遅かったな」
ハルは焚火の燠を積んだブリキの箱の扉を曲がった鉄の棒で開けて覗き込み、鍋掴みで鋳鉄のフライパンを取出した。
「アップルパイは売りきれて、残り物の林檎で作ったこの焼き林檎もこいつらの分だけやねん。白隠元豆の炊いたん食えへんか? 残ってんねんけど」
「走行機が揺れたせいか胃の具合が悪くってね。好物のアップルパイなら食べられるかと思ったんだけど」
「あたしに乗れば良かったんだよ、シェラちゃんは軽いから一日中でも平気だよ」『カケドリ』は若い娘の声でしゃべった。
「シノちゃんはやさしい娘だね」シェラは微笑んで黒い左手で『カケドリ』の躑躅色の肩羽を撫でた。
「左手、なんかシュッとしたな」
「キューク神様の『ご親切』よ。血を流しすぎて良くおぼえてないんだけど、たしかそう」
シェラは右腕と同じ大きさ細さになった黒い左腕を眺めた。
「あたしは足の指を『人類』製の魔術義趾にしたんだ。カッコイイでしょ」『カケドリ』のシノは足をあげて五本の趾のうち前側の三本の銀色の趾を見せびらかした。
錻の食器を洗っていた三級僧兵の一人が緊張した様子でシェラに話しかける。
「黒腕の姐さん、よろしかったら自分の分の焼き林檎をお譲りしますよ」
「こいつ抜け駆けしやがって」
「早い者勝ちだよ」
若者達は子犬の群のようにこづき合いじゃれ合っている。
「いいのかい? 悪いね、ご馳走になろうかね。あんたもやさしい娘だね」
「恐れ入ります。黒腕の姐さんにおごったと、このさき自慢できます」
「あったかそうな外套だこと。みんなでおそろいなんだね」
「昨日の晩御飯の原牛の毛皮です。鉄砂団さんが作って下さったんです。表も裏も毛皮で、もっこもこなんですよ」シェラの前でくるくる回ったり裏地を見せたり忙しい。
「『黒腕の姐さん』って良いな。じゃあ、あたしは『銀の趾の姐さん』かな?」
「おシノちゃんはおシノちゃんやな。黒腕の姐さん、汁椀か何かあったら――」
「あんたに姐さんとよばれる歳じゃないよ」
ハルは受け取った籠目模様の陶器の汁椀に手早く、鋳鉄のフライパンの中の櫛形の焼き林檎、雪の中に埋めてあった白い琺瑯の両手鍋の中の氷菓、手元の木鉢のクッキーを入れてシェラに返す。
「だから食欲が無いって」
「溶けんうちに食うてや。熱うて冷やっこいんが売りやから」
「ハルさんはこの顔ですけど、お菓子作りが上手なんですよ」
「おい、このガキどついた奴には飴ちゃんのおまけが付きます。わしはな、たいていの料理がまあまあの味に作れるんや」
シェラはもみ合ってる若者達の様子に微笑みながら少し離れて自分の鞄の上に腰かけると、欅の匙で焼き林檎をすくって頬張る。
肉桂の効いた甘酸っぱい焼き林檎が思ったより熱くとろっと口の中に広がり、少し涙目になりながら呑み込むと口を冷ますために氷菓をすくって慌てて口に入れる。
甘く冷たい氷菓はシャリっとした舌触りで、濃厚な山羊の乳の味わいだった。
たしかに熱くて冷たくて美味しくて良い香りだけどちょっと甘すぎかなと思いつつシェラが齧ったクッキーは、甘さを控えて香ばしい。
ザクザクした歯触りのクッキーで甘くなっていた口の中がさっぱりすると、シェラはまた焼き林檎をすくった。
とろとろの焼き林檎を今度はそっと食べているうちに、胃のむかつきが収まってお腹がすいてきた。
ベイクドビーンズも食べようとシェラは思う。
やっと飯時が終わったのに自分で仕事を作ってしまったと思いながら、ハルはしまいかけていた小型の金網と片手鍋と楓舎利別の瓶を用意する。鉄の棒で消え残りの熾を集める。金網の脚を広げて熾の上に置き、金網の三本の脚を半長靴で地面に押し込んだ。
金網の前で胡坐をかく。片手鍋にメープルシロップを入れて、網の上に置く。鉄の棒で熾を均して火力を弱める。内懐から白鑞の携帯用酒入れを取出して、蓋を回し開けた。
ひとくち呷る。杜松子の香りが鼻を抜ける。火酒が喉を焼き食道を焼きながら降るのを感じた。
胃袋が熱くなり綻んでいくのを感じる。首を回して関節を鳴らし、溜息をついた。
料理を作るのは面白いが、対応する人数が多すぎると思う。細かい注文も増えてきたと思う。
ロンゴじいさんはこんな面倒な仕事を何十年も……ロンゴじいさんのキリタキ村は……。
自分の足をみつめていた。もうひとくち飲もうと顔を上げると、目の前に『カケドリ』の足がある。上目遣いで見上げると、ハルを見下ろす『カケドリ』の顔があった。
「酒ならやらんぞ」
「お酒なんか飲まなくてもあたしは幸せよ。シロさんを知らない?」『カケドリ』の娘は明るくハルに問いかけた。
「シロとヴァーリは焚火が出来てすぐの頃に、生焼けの肝臓の焼いたんをしこたま食うて、腹ごなしに走ってくるってどっかに行って、それっきりやな」
「ヴァーリもハルも働かないわね。ほかのみんなは仕事してんのよ。それは何してんの?」
「水飴の準備。でな、わしはこうしてちゃあんと働いてるやろ?」鍋が泡立っていたので揺する。
「本気でやったら料理も片付けもすぐに終わって、みんなの仕事に参加できるんでしょ?」
「おーい、食い終わったか? 集合。今から飴ちゃんこさえるからな。スプーンぐらいの長さの木の棒を何本か用意してから、きれいな雪を集めて机を作んで。」
参考文献
ローラ・インガルス・ワイルダー 『大草原の小さな家』