3.黒森黄昏
僕の左手の甲の上を、波打つような足はこびで、真っ赤なヤスデが這っていく。
手の甲には何の感触も感じない。
真っ赤なヤスデは、真っ赤な足跡を残して僕の左腕の上を這い、左手の肘が漬かっている真っ赤な水溜りに潜っていく。
みずたまり?
血溜りだ!
僕の足の出血を止めようとした軍医の首が千切れ、吹き出した鮮血は。
うろたえ、立ち上がろうとすると世界が傾く。
まぶしく輝く黒い雷光をまとった、巨大な漆黒の球体……黒く輝く巨大な球体から、魔物達が転げ落ちるように現れ……
整列した兵卒達が、号令に合わせて放った棒火矢は、網膜に平行な軌跡を残し……
牙のあるもの、翼のあるもの、棘のあるもの、鱗のある者、蠢くもの、羽ばたくもの、のたうつもの、跳ねるもの、這いずるもの、呻くもの、吠えるもの、叫ぶもの、喚くもの……
逆上し冠羽を広げた『カケドリ』の群が叫びたて……
整列して、煌く護符を掲げた僧兵達は、雄叫びをあげて緋色の巨大な大懶獣に獣化し、大懶獣の鎌を並べたような鉤爪は……
紅蓮の炎を吐く浅葱色の大蜥蜴共は、槍で貫かれると強酸の体液と共に破裂し……
軍医達は、小さな魔法陣が光る真鍮の噴霧器で刺激臭のある消毒薬を撒きながら、効果が無いと知りつつも唸るように治癒呪文を唱え……
朱色のとてもとても大きなとても美しい蝶が、人込みの中を舞うように飛ぶと、近くの人々の首や手足がポロポロと外れ落ち……
僕のすぐそばにいきなり現れた若竹色の大山椒魚に食らい付かれた足首のその痛み……
銀蝿。
また気を失っていた。頭の芯が痺れている。
たくさんの銀蝿が僕の右足にたかり飛び交っている。
その感触はなく、その音は聞こえない。
強すぎる痛み止めの薬が、視覚以外の全ての感覚を奪い、僕を現実から遠ざけている。
右足首が千切れかかっている。どうする。
今は何時だ。いや、今日は何日だ。この空は、朝焼けなのか夕焼けなのか。
早く、北キリネ村へ行かねばならないのに。少しでも早く。
小隊と共に鏡窓を運んで。
小隊。
頭を動かすと、また目眩。
そっとあたりを見回す。
潅木が朱色に染まっているのは夕日(朝日?)の所為ではない。
獣とも人間ともつかぬもの達の死体は、まだ原形をとどめたきれいなものだが、人間と『カケドリ』の死体は、ある者は千切れた手足と内臓をぶちまけ、ある者は消炭の様に焦げていて、またある者は凍り付いて砕けている。
驚愕に満ちた死に顔、恐怖に凍った死に顔、悦楽に哄笑する死に顔。あの内臓をむしり出された男など、まっとうな死に方だったのかもしれない。
宵闇があたりを包みだした。
ぼんやりとあたりを照らすのは、炎上した近くの荷車の残り火。
戦闘はどうなった。全滅か?敗走か?
どうすればいい。黒森で独りきりでは、自殺するようなものだ。
魔物達の様子が変だった。秩序立っていたし、いきなり大軍で現れて。
考えが定まらない。
痛み止めの薬の所為か? この効力を消す薬は……
違う違う。痛み止めの効力を消すのは、足をすげ替えて歩けるようにしてからだ。『1.足を繋ぐ』、『2.痛み止めの効力を消す』だ。
使える死体は。
使える人間の死体は無い。使えそうな『カケドリ』の死体も無い。
人に似た蜥蜴の魔物が中空で磔刑になっている。まだ生きてあがいている。
あれならば、継ぎ接ぎに使えるはずだ。
魔物も獣も変わるまい。
這う。
鳶色の土。
狭い視界が下方に流れていく。
目眩がして、気分が悪い。
強壮剤は2番目の引き出しの奥に。
さっき、荷車が燃えているのを見ただろ。薬は燃えたんだ。
黄色い病葉。
灰白色の埃茸。
尖った黒曜石。
掌から血が流れ出した、掌を切ったようだ。
この模様の刻まれた黒曜石の欠片は鏡窓の破片か? 鏡窓が砕かれたのか?
鉛色の泥水。
苦い泥水。
味覚が回復した。急げ。
古い革靴。
足首が入っていた。
黒光りする消炭の欠片。
『カケトリ』の趾。
趾に嵌った指輪の羽根の形の蛋白石。
臙脂色の貝殻のボタン。
息が苦しい。
また、世界が傾く。
栗色の樹の根。
ひねこびた露草。
露草の花弁の淡い薄青色。
露草色。
「マリッシェさんですね、お待ちしておりました」真っ直ぐに僕を見つめる大きな力強い露草色の瞳、黒く太い眉がそれを強調している。
露草色の瞳の娘に手首を掴まれ、急ぎ足で一枚板の大机の前まで導かれた。細い指が冷たい。
女中に村長の屋敷の部屋まで案内されてすぐのことだ。
「この図を見て下さい、直角三角形のそれぞれの辺に――」
「三平方の定理ですね。ここの二乗とここの二乗を足したものは、ここの二乗に――」口を挟むと睨まれた。
「ちぇっ。わたしが発見したと思ったのに」
「まぁ、お姉様。また、はしたないものいい。お母様に言い付けよかしら」窓際に腰掛けて、刺繍枠を手にいやみを言う澄ました娘は村長の次女らしい。
「いつものように、あなたはあなたのお母様に言いつければいいのよ。わたしは平気よ」
長女はお下げ髪を払いのけ、腰に手を当てて妹を睨み付けた。波打つ黒髪を緩く編んだ三つ編みが背中にかかる。
「お嬢様、どのような方法で証明されたのか教えて頂けますか。新しい手法かも知れませんので」僕は慌てて取り繕う。
長女は腰に手を当てたまま、くるりと僕の方を振返ると、詰め寄ってきた。顔が近い。
目の高さが僕と同じだ。僕と背の高さが同じだ。
こぶりな鼻にはそばかすが浮んでいる。
「先生は私の事をマユラと呼んで下さい」そうか、輝く瞳とはこのような瞳なんだ。
「わたし、いろんな事を教えて頂きたいの」マユラが微笑んだ。この人はこんな風に微笑むのか。
「魔術以外の事。これはお父様も同意しはった事やし」刺繍枠に向かって次女。
「それはあなたと、あなたのお母様が――」
「魔術を教えてはならないとは、村長さんから伺っています」僕は慌てて口を挟む。
「では何故、魔術を覚える必要が無いかを理解する為に、『魔術とは何か』から説明致します」
マユラの瞳に、悪戯っぽい表情が浮かぶ。
「わたしが魔術を勉強しようとする事が如何に愚かな事か教えて下さい」紅を引かない赤い唇が微笑む。
窓際の次女が胡散臭げに鼻をならした。
「この村で魔術が使えない事について、どのような事をご存知ですか」僕は手提げ鞄の中をかき回しながら訊ねた。
「子供の頃からその事が不思議でならなかったの。誰に訊ねても、『この村には御加護がないからだ』とかいう返事しか返ってこなくて、何も分からないんです」
僕は手提げ鞄の中から小さな風車の入った小さな硝子瓶を取り出した。
「これは、最近開発された検知機です
「神様達はここのような魔術が使えない地域のことを『風が吹いていないから行けない』と話しています。この風車は神様達が『風が吹いている』と話している場所だと回ります。ミクラ市やご近所のハザカイ村のような魔術が使える場所ではこの風車が回りますが、この村のような魔術が使えない場所では動きません。ちょっと待って下さい」
僕は鞄から折り紙の束を取り出し、検知機の隣に置いた。
三枚の紙を順に小鳥の形に折り、両手で持って口元へ運び小声で「飛べ舞踊れ歌え」と囁く。
三羽の折り紙の小鳥は囀りながら宙を舞った。
「これは、旅の行商人が客を集める時に使うものです」
二人の姉妹が見つめる中、部屋の中を飛び回っていた折り紙達は、やがて床に落ち、静止した。
「しょうむな。子供のおもちゃやん」さっきまで口を開けて宙を舞う折り紙に魅入っていた次女は、馬鹿にしたように刺繍に戻った。
僕は折り紙を拾いながら、説明を続けた。
「折り紙を飛ばせた力は『マナ』と呼ばれています。魔術を使える人がこの折り紙に『マナ』を使用し、魔術を仕込みました。魔術は決まりの言葉で起動されて飛び、定められた回数だけ羽ばたき、折り紙は止まりました」
マユラは床に落ちた小鳥の折り紙を拾い上げ、折り目を広げて見つめていた。
よく人を睨む人だと思っていたが、眼が悪いらしい。折り紙に書かれた印形を、顔のすぐ近くで見ている。
「『風が吹いている』とその風車が回る。『マナ』があると魔術が使える。この折り紙が近くにあっても風車は回らなかった。今のお話では『風』と『マナ』が繋がらない。それと、魔物が使う魔術はどうなっているのかな? この村の近くでも、魔物が現れて魔術を使って暴れることがあるの。隣のハザカイ村までいって『マナ』を使って、ここを荒らしに来るのかしら? そんなことハザカイ村の神様が許さないよねきっと」
賢い人だ。でも、この講義が進むと、きっとこの人にも嫌われるな。
「『マナ』と『風』との関係は、神様達も解らないそうです。それどころか神様は『マナ』が解りません。それと、すいません、ちょっと説明不足でした。『マナ』を手に入れるもう一つ別の手段があります」
鞄から目盛りを打った紐と、釘と、幾つかの小袋を取り出した。小袋には色を付けた石灰の粉が入っている。
「この実験は少々危ないので、中庭で行いましょう」
僕はマユラに訊ねた。
「殺していい、小さな生き物がご用意できますか?」
参考文献
ラリー・ニーヴン 『魔法の国が消えていく』