2.黒森周辺、野営地の夜
深夜の黒森、死体が歩いている。
赤茶色の麻布と茶色の革で作られた制服は臨時徴発兵卒のものだ。
お仕着せはあちこちが破れ、左足に大きな傷口が見えているが、出血はしていない。死体だからだ。
腹当は泥まみれで、冑は目深にかぶっている。泥は血の跡を隠す為で、冑は潰れた右目を隠す為だ。
どこか、ずっと遠い所で、何か獣が遠吠えを上げた。
木々の間から明りが見えた。
(眼ぇが痛い。足が痛い、お腹が痛い。この死体、生きている時は刃向かって邪魔するし、死んでからはあちこちの傷で痛い思いをさせるし最低やわ。せやけど、神経繋いでおかんと歩かれへんし。なんであたしばっかりこんな目に合うんよ)
死体は、先程の明かりが見張りの掲げる龕灯だと判ると、身をかがめて近づいた。
(焚き火のそばで、なんや人相の悪い小男が、龕灯と大砲を抱えてきょろきょろしてるわ)
「出たな、ばけもん」兵卒は振り向きざま龕灯を投げ捨て、抱木砲を腰だめに構えた。
「待てハル。おれだヴァーリだ」大柄な赤毛の兵卒が、連れている棘犬をなだめながら、焚き火の明りの中に入ってきた。
ハルは抱木砲を構えたまま、大きく溜め息をついた。「おまえかいな、びっくりさすなや。交代にはまだ速いんとちゃうんか?」
(なんやの、あたしが見つかったんかと思うたわ。もう少し隠れてましょ)
「いつまで大砲を構えてんだ、あぶねぇだろ。マリッシェさんが治療をはじめたから逃げてきたんだよ。マリッシェさんが二十日鼠を絞殺した途端に足を失くした怪我人に死体の足がくっつくんだぜ。ありゃぁ、きっといかがわしい術にちげぇねぇぜ」
「まぁ、マリッシェの旦那の術は、僧兵様の法術とはいろいろちゃうみたいやからなぁ。せやけど、ひとさんの手足でも無いよりはましやろ。それにや、この大砲マリッシェさんが都合つけてくれたそうやないか。これがなかったら、わし三回は死んでるわ」ハルは心強げに抱木砲を抱え直した。
抱木砲は、単発前装式の、木と竹と紙と幾つかの金属部品で作られた小振りの大砲で、人が抱えて発射する。
「けどよ、マリッシェさんがいなきゃ、とうに撤退していたはずだって噂だぜ。あの人のおかげで、送り返されたはずの怪我人が、継ぎ接ぎされて戦わされてるんだとかよ。それによぅ、そんな見たこともねぇ新兵器とかより、この戦鎚と、シロの方がずっとあてに出来るぜ」そう言いながらヴァーリは素手で棘犬の背を撫ぜた。
水牛ほどの大きさの棘犬は、その名のいわれの棘のたてがみをねかせてハルの手のひらを受け入れ、ヴァーリの髭面を舐めた。
「その犬の名前、なんでシロやね? 鉄色してんのに」「おれが子供の頃、村にな――」
二人が無駄話を続ける間に、頭上の木の葉の隙間から天頂に達した銀河の光が射し込んできた。銀河の光は、抱木砲の砲身に貼り付けられた操作手順書が読めるほど明るい。
「よし。わしの時間は終わりや。見張りに付き合うてもろた礼に、酒でもくすねてきたるわ、ちょっと待っといてんか」
(なんやの、役に立たん話ばっかりして。やっぱりあたしが聞き出さなあかんねんな)
二人の話を盗み聞きしていた死体は、いったん闇の中に遠ざかると立ち上がり、わざと物音を立てて近づいた。
シロが吠える。
「誰だ」
「おぉぃ、おおぃ。俺だ俺だ」
龕灯の光を当てながらヴァーリが訊ねた。
「カンか?」
(カン? この死体の名前やの? まぁえぇわ)
「カンだ、カンだ」
「おめえ生きてたのかよ」
(この男、阿呆)
「怪我をしてさんざ逃げ回ったあげく、樹のうろで気を失ってたんだ。やたらと歩き回っていたら、焚き火の光を見付けて戻って来れたんだよ。隊に戻る前に、ちょっとの間ここで休ませてくれ」
死体は、焚き火に近づいた。
シロはカンの死体)に近寄り、臭いを嗅いでいる。
「大丈夫か、顔色が悪りぃぞ。ほら水だ」ヴァーリは竹の水筒を投げてやる。
「ちょっと休めば大丈夫さ。それよりおまえ、この戦をどう思う。勝てると思うか」カンは受け損ねた水筒を拾うと、焚き火の明りと闇の境界に屈み込んだ。
「隊長殿もおっしゃってたろ、俺たちゃ勝たねぇでいいんだ。北キリネ村が手持ちの魔道具とかで籠城してる間に、どこかの隊が鏡窓を村まで持ってけたら、後はランル神様がなんとかして下さるって」
(そうなん? それってあたしが壊した鏡門が直んの? 鏡窓? 詳しゅう話しいな)
「そこがよく分からないんだ」
「魔物に誑かされた村長の馬鹿娘が鏡門を汚してさ、その祟りでてめぇは蝦蟇になってさ、ランル神様の力があの村に届かなくなったけどさ、鏡窓があれば、鏡門を清められるそうなんだ。それにしても、おめえ、何か変な臭いをさせてるんじゃねえか? シロがえらく気にしてるぜ」
(じゃまな犬。蝦蟇? 何の話? あたしが呪いで魔物されて死ぬ所をティング様が助けてくれはったのに)
シロは不信げに、いつまでも臭いを嗅いでいる。
「蝦蟇だったっけ、死ぬとか魔物になるとか聞いたような」
「ランル神様が魔物を増やすわけねぇだろ。殺さねぇでも、蝦蟇にして甕にでも閉じ込めときゃ悪さはできねぇしな。ここ数年流行って来たやり方なんだとさ。まぁ俺としちゃこんな事をしでかした馬鹿娘は死んで当然だと思うけどよ、ランル神様は殺生を嫌いなさるからなぁ」
(なんやの、悪いんはお父様やお姉様や村の連中やん。ティング様もあたしは悪うないって言うて下さったわ。そうや、きっとこいつ嘘を教えられてるんやわ)
「ヴァーリ、酒もって来たったぞ。酒は米酒で、酒のあては鮭冬葉や。ん? 誰かおんのか? 三人では酒が足らんぞ?」
「おれだ、カンだ。酒を呑みながら話をしようぜ」
「出たな、ばけもん」
ハルはいきなり抱木砲を構え、引き金を握り締めた。抱木砲の薇発条仕掛けが歯輪を回転させ黄鉄鉱を削り火花を散らす。同じ絡繰が火蓋を開き、火花は火皿の点火薬を発火させる。
次の瞬間、轟音と共に吹き出した火柱は、腹当ごとカンを貫いた。
拳ほどの柔鉄の砲弾はカンの腹を突き通り、後ろの朽ち木をへし折る。
ハルは反動を制御できずに尻餅をつき、座り込んだまま慌てる手で次弾の早合を詰めはじめた。
ヴァーリは戦鎚を構え、後退った。シロは伏せている。
カンの死体はハルを指差し、パクパクと口を開いた後、口を閉じ、甲高い声で叫び始めた。
「痛イヤナイノ。ナンデイキナリ撃ツンヨ。アンタ、イカレテルンチャウ」
カンの頭蓋骨が破裂し、冑が吹飛び、緑色の、蜘蛛のような蝦蟇のような魔物が飛び出し走り出した。シロが吠えながら後を追う。
ハルの撃った次弾が無駄に薮を焦がした。
「アタシハ悪ナイノ」
魔物は、ジグザグと木々の間をかいくぐって逃げていった。
カンは指をくわえると、人間には聞こえない音域の指笛を吹いた。
「シロ! 俺が見えねえ所まで追うんじゃねぇ! 深追いは禁物だ。それにしてもハル、魔物だとよく分かったな」
「カンは下戸やったし、わしと同じ方言や」
「それだけの理由でか。俺ぁもうお前ぇには冗談を言わねぇからな」
魔物の声が黒森の闇の奥に遠ざかっていった。
「ワルナイノ。ワルナイノ。ワルゥナイノォ」
参考文献
Wikipedia 『ホイールロック式』