1.ネッサ市の茜市場
バロウズ・タイプのアンチヒロイック・ファンタジーであり、所々ヒロイニック・ファンタジーな小説を目指して書いています。ロジカル・ファンタジー的なものも目指しています。
この作品には残酷なシーンがあります、ご注意ください。
この作品はフィクションであり、作中に登場する人物・団体・施設・事件・動物・植物・鉱物・食物・薬物・武器・防具・法律・物理法則、等々、全て架空のものであり、実在のものとは一切関係ありません。
現実世界と同一名称のものがあった場合は、「似ていたので名称を借りているが別のもの」とお考えください。
子供たちのはしゃぎ声、硝子の割れる音、酔っ払いの喚き声、駱駝は嘶き、犬は吠えたて、猫達は叫びあう。
買物客は喧嘩を売るように値切り、物売りは楽器を手に歌うように呼びかける。奏でる楽器は提琴、口風琴、双面手風琴。
「さぁて、取りぃい出しましたるこの布は、遙か東の遠つ国、遙々渡った隊商から、やっとのことで買い受けた、火ぃにぃもぉ燃えない――」
「冷たい冷たぁーいカラム酒の水割りは、いらんかね。一杯たったの1ソリス。お子さんには椰子の実ジュースも――」
「これは臭い。御店主、どういう訳でこの腐った魚が50ソリスに値するのです?」
「お客さん、あんた、どこから来なすったね。これはね――」
魚醤の匂い、熟れ過ぎた実芭蕉の匂い、熟成した乾酪の匂い、焼きたての麺麭の匂い、焼いた烏賊の匂い。檸檬の匂い、胡椒丁字肉桂の匂い。そこに混ざるのが日差しに蒸れた汗の臭い、魚の臭い、血の臭い。
港からの風が吹くと、茜市場はさわやかな潮の香りに満ちるが、それは一瞬。じきに雑多な市場の匂いの混合酒に包まれる。
空色、水色、珊瑚色、朱鷺色、柿色、菫色。鮮やかな色の日除けを張って市場に立ち並ぶ露店は、砕いた氷の上の色取り取りの魚介類、鉄鉤で吊された鴨雉珠鶏、皮を剥いだ大角鹿の腰肉、筵の上に転がる新鮮な縞綱麻丸葉大黄、金字塔型に積み上げた甘藍蕃茄非時香木実、木皿の上の藻塩、巣蜜等々、日々の食材を商っている。
若草、山吹、萌黄色、薔薇色、群青、卵色。様々な色の、大小様々な天幕の群れが商うのは、綺麗で奇妙で奇天烈で、けれども無くても差し当たり必要の無い贅沢品だ。
頭上に竹や籐の籠を浮かべて足早に歩く買物客の装いも、薄紅、鬱金、薄浅葱、藤色、瑠璃色、桜色と、また鮮やかで。茜市場は目眩を誘う色彩の洪水だ。
子供たちが走る。濡れた赤い敷石を革のサンダルで踏みしめて走る。
大人たちの間をすり抜け、見上げた屋台の先。竹を編んだ壁と大きく開いた窓の上。向かい合わせの店の屋上を繋ぐ竹と蔦の橋の上。橋を渡り氷の入った麦酒のジョッキを運ぶ仕出しの『ツチグモ』の上。
交易商店が竹竿の上に掲げた、はためく幟の上。東に流れる一群れの風船花のその上。
はるか上空、全天を覆う白いレースの天蓋。
反復拡大を繰り返す純白の唐草模様。その隙間は紺に近い青空。いくつもの白い花弁が舞い落ちる。
「うえ。危ない」先頭を走る少女が叫んだ。
頭上に嬰児籠を浮かべた若い娘の上に、掛け布団ほどもある白い花弁が舞い降りてきている。
「お前さん、取って」
赤ん坊に被さる寸前に、すれ違う鎖帷子の女が飛びあがり、左手で花弁を叩く。
隣を歩く小札鎧の大男がすかさず大きな花弁を掴み取った。
「ありがとうございます」娘はぐずつく赤ん坊をあやしながら礼を言った。
「いいんですよ。でも笠ごと叩いちまった。ちょいと待っておくれ」鎖帷子の女は右手の貽貝の串揚げを銜えると乱れた白銀色の髪を後ろに払い、足元に転がる皺の寄ってしまった大きな折り紙に向かって手早く両手で幾つかの印を結んで修理をした。
「はい、終わった。この子はお嬢ちゃんかしら?」白と赤の市松文様の折り紙の日笠を嬰児籠の上に浮かべた女は、串揚げを食べながら白い襁褓の赤ん坊を覗き込んだ。
「お前。口の周り」縹色の瞳にチョコレート色の肌の小札鎧の男が隠袋の手巾で、烏羽色の瞳とミルク色の肌の鎖帷子の女の頬の汚れを拭った。
「よしとくれよ」女は串揚げを持った掌で、男の腕を邪険に振り払う。
「お前さんのシロップ漬けはどうしたんだい?」
「落とした」男は足元に散らばるバナナの葉とそれが包んでいた焼き春雨のシロップ漬けを残念そうに眺めた。
「お前さんときたら、本当にいつもドジなんだから」
「私のせいでごめんなさい。弁償させて下さい」
「いいんですよ。うちのひとのドジはガキの頃からですから」
「お姉さん、そのはなびらを、もしも捨てるのでしたら、頂けませんか?」さっき叫んだ少女が、息を切らせながら鎖帷子の女に尋ねた。
「俺に聞きなよ。いいよ、あげるよ。いいよな?」
少女がお礼を言った。
男の子たちは右足を後ろに引き、右手を胸に当て左手を横へ伸して前かがみになった。
女の子たちは右足を左足の後ろに引き、左足の膝を軽く曲げた。
赤ん坊を抱いた娘は身をかがめて子供たちと目の高さを合わせた。
「お行儀の良い事。でも、ケイキョク神様にもお礼を言いましょうね」
子供たちは天を仰ぐ。
「ケイキョク神様。荒野に咲誇る野薔薇の王。生きとし生けるものをその蔓と棘の元で育まれる方。ありがとうございます」
空一面の巨大な白いレース模様が、午後の大雨を降らせた積乱雲の名残をその身に纏いつかせてゆっくりうねる。遠く赤く群雀に見えるのは二足竜の群れだ。
子供たちが見上げる先で白い花弁に満ちた蔓で編まれたレース模様が解け、文章を紡ぐ。
『健やかであれ』
子供たちが走り去り、娘も去ったその後。
「お前さん、なにぼーっとしてんだい」
「うちのオチビも、いまごろ走り回ってんのかなって思って」
「今度の仕事が終わったらアカムギ村に帰ろ。あたしが魔術を教えて、お前さんが算術を教えるんだ」
子供たちが走る。
「わたしはさぁ、さっきのおじさんが食べてた焼き春雨のシロップ漬けがいいかな」
「むり、一枚じゃ足りない」
「あたしたち。
どうして。
はしってるの?」
「蕃茘枝にしないか。けっこう食えるよね」
「虹葡萄とか水苺とかを凍らせたやつがいいな」
「俺それ、昨日食った」
「ケイキョク神様の花弁は、鮮度で値打ちが決まるの。だから急ぐの」
「やっぱいつもの飴玉かな」
「せんど?」
「ぼくはもう、氷菓子なら何でもいい」
子供たちが走る。
すれ違う老婆の手元の筏葛、茉莉花、仏桑華。
屋台の氷の板の上で並ぶ、切り分けられた鳳梨、果物時計草、西瓜、五歛子。
『ツチグモ』の露店商が紺色の天鵞絨のような和毛に包まれた触肢に挟んで持ち上げた、羽根の形に刻まれた蛋白石を嵌め込んだ鋳鉄の指輪を受け取ろうと、躑躅色の羽毛の『カケドリ』が伸ばした緋色の鱗の趾の先の漆黒の爪の先を、屈んで斜めに駆け抜ける。
「頭に殻を付けた雛鳥。危ないだろう」白い冠羽を広げた『カケドリ』が若い女の声で喚く。
危うく踏まれかけた蓮の葉の上の黒酸塊の実、房酸塊の実、桑の実。
子供たちは赤い服の男の後を、走り過ぎる。
「マリッシェの旦那。お願いした絡繰時計の故障は直りやしたか?」
鮮やかな天幕街の一角、黒と灰の千鳥格子の天幕を、真っ白な絹の襯衣と長袴に猩々緋の皮の短表衣という伊達な身なりの若い男が覗き込んだ。
「留守よ。さっきの号外が来た途端に、飛び出しちゃったから」とは、隣の串焼き屋の女主人。
太りじしの女主人は、亜麻の前掛けで手を拭きながら表に出て対応をした。
「おっかしいな、旦那が、今日のこの時刻って言ったのに」
「マリッシェさんの事だから、よっぽどの事よ。あたしにも『すいません、お願いします』しか言わずに走って行っちゃったんだから。店の中には入れないんでしょ、呪いで。あたしの店で待ってなさいな、冷たい水ぐらい出すから」
「それが、入れた」
「ちょっと、何してんの。駄目よ入っちゃ」そう言いながらも女主人は、つられて天幕に入り込んだ。
薄暗い天幕の中、入口近くには小さな螺鈿の鳩時計や硝子細工の自鳴琴等が並び、奥に向かうほど奇怪な動作をする自動機械が並んでいた。
「おみ足がご不自由な旦那が走りなすったとはね」
「下手なものに触ったら呪われるわよ」
「先日もお邪魔致しやしたから心得ておりやす。するってぇと、この号外を読んで急にお出掛けなすったんですね。あんたこそ、その垂れ幕の向こうを覗き込じゃいけやせんぜ」
若い男は紫檀の腰掛けの上の号外を手に取るとポーズを決めて腰掛けに座り込み、伊達眼鏡の単眼鏡を掛けて号外を読み始めた。
「今日の夜明け前に黒森が広がって三つの村が魔物の群れに襲われたそうです。鏡門が壊されたと。ハザカイ村とキリネ村は全滅で、北キリネ村が助けを求めていると」
「魔物が群れるなんて。それに鏡門があった村で鏡門が壊れちゃったら大変じゃない。それで、北キリネ村って何処?」
「この号外には書いてませんね」
参考文献
現代言語セミナー 『遊字典』
(現代言語セミナー 『辞書にない「あて字」の辞典』)