第二章 ロータリゼーションの光と影
第一節 “全車ロータリー化”の号砲
昭和四十五年の初夏、東洋工業の本社大会議室には、異様な熱気が満ちていた。壁には新型車のスケッチが並び、机の上にはロータリーエンジンの模型が置かれている。重役たちが席に着き、技術者たちが緊張した面持ちで立ち並ぶ中、社長がゆっくりと口を開いた。
「マツダは……全車ロータリー化を目指す」
その言葉が放たれた瞬間、会議室の空気が震えた。技術者たちは息を呑み、営業や企画の面々は顔を見合わせた。まるで戦の号砲のような宣言だった。
「全車……ロータリー化、ですか?」
誰かが思わず声を上げた。
「そうだ。軽から高級車まで、すべてロータリーでいく。世界に先駆けて、ロータリーの時代を切り開くんだ」
その言葉に、技術者たちの胸は高鳴った。コスモスポーツで量産化に成功したとはいえ、ロータリーはまだ“特別なエンジン”だった。それを、全車に——。夢のような話だった。会議が終わると、技術部の廊下はざわめきに包まれた。
「全車ロータリー化……ほんまにやるんかのう」
「やるんじゃろう。社長が言うたんじゃけぇ」
「こりゃあ忙しゅうなるで」
その中で、山本健一は静かに歩いていた。若手が駆け寄る。
「山本さん、聞きました? 全車ロータリー化ですよ!」
「聞いたわい」
「すごいことになりますね!」
山本は少しだけ笑った。
「すごいことになるのは間違いない。ええ意味でも、悪い意味でものう」
若手は首をかしげた。
「悪い意味……ですか?」
「ロータリーは、まだまだ手のかかる子じゃ。全車に載せるとなりゃあ、弱点を全部潰さんといけん。燃費も、耐久性も、排ガスも……全部じゃ」
若手は息を呑んだ。
「……できますかね」
「できるかどうかじゃない。やるんじゃ」
山本の言葉は、いつも静かで、しかし揺るぎなかった。
その頃、開発現場ではすでに新しい動きが始まっていた。ファミリア、カペラ、ルーチェ……次々とロータリー搭載車の企画が立ち上がり、技術者たちは昼夜を問わず設計図と向き合った。
「吸気ポートを広げたら、もっとトルクが出るんじゃないか」
「いや、広げすぎたら燃費が落ちるわ」
「燃費なんぞ、後で考えりゃええ。まずは走らんと話にならん!」
議論は熱を帯び、時に怒号が飛び交った。しかし、その怒号の裏には、ロータリーへの愛情があった。
ある夜、山本は実験棟を歩いていた。深夜にもかかわらず、ロータリーの回転音が響いている。試験室の窓から覗くと、若手が汗だくでデータを取っていた。
「まだ帰っとらんのか」
山本が声をかけると、若手は驚いて振り返った。
「山本さん……すみません、もう少しだけ……」
「謝ることはない。よう頑張っとる」
山本は、回転するロータリーを見つめながら言った。
「この音はのう……わしらの未来の音じゃ」
若手はその言葉を胸に刻んだ。
——こうして、マツダの“ロータリゼーション”は始まった。
——それは栄光と、そして後に訪れる試練の序章でもあった。
第二節 レースでの栄光、GT-R撃破
昭和四十六年の秋、富士スピードウェイのピットロードには、独特の緊張と興奮が漂っていた。空気は冷たく澄み、遠くの山々が青く霞んでいる。だが、その静けさとは裏腹に、ピットの中では熱い戦いが始まろうとしていた。
サバンナRX-3——ロータリーを積んだ小柄な車体が、ピットの中央に鎮座している。白いボディに緑のストライプ。だが、その小さな車体の奥には、技術者たちの執念が詰まっていた。
「寺田さん、準備はええですか」
メカニックが声をかけると、寺田陽次郎はヘルメットを抱えたまま、にやりと笑った。
「ええよ。今日は……勝てる気がするわ」
その言葉に、周囲の技術者たちがざわめいた。相手は“絶対王者”スカイラインGT-R。連勝記録を更新し続け、誰もがその強さを疑わなかった。
「GT-Rに勝つなんて……ほんまにできるんですかね」
若手メカニックが不安げに呟くと、寺田は肩を叩いた。
「勝てるかどうかじゃない。勝つために走るんじゃ」
その言葉は、どこか山本健一の口調に似ていた。
スタートの合図が鳴り響く。エンジンが一斉に咆哮し、車たちが飛び出していく。GT-Rの直列6気筒が重厚な音を響かせる中、RX-3のロータリーは軽やかに回転を上げた。
「ロータリーの音じゃ……!」
観客席から驚きの声が上がる。甲高く、滑らかで、どこか異質な音。だが、その音こそが、ロータリーの武器だった。
レース中盤、GT-Rが先頭を走り、RX-3はその背後にぴたりと張り付いていた。ストレートではGT-Rが伸びる。だが、コーナーではRX-3が鋭く切り込む。
「寺田さん、詰めとる! 詰めとるで!」
ピットの無線が興奮で震える。
「分かっとる。ロータリーは軽いんじゃ。コーナーで勝負する」
寺田は冷静だった。ロータリーの軽さ、前後重量配分の良さ、そして高回転の伸び——それらを最大限に活かして、GT-Rの背後に食らいつく。
そして、運命の瞬間が訪れた。
最終コーナー手前、GT-Rがわずかにラインを外した。
「今じゃ!」
寺田はアクセルを踏み込み、RX-3はまるで弾かれたように加速した。ロータリーが甲高い悲鳴を上げ、車体がGT-Rの内側に滑り込む。
「抜いた! 抜いたぞ!」
観客席が揺れた。ピットの技術者たちは叫び、涙を流す者もいた。
そのままチェッカー。サバンナRX-3が、ついにGT-Rの連勝を止めたのだ。
レース後、寺田がピットに戻ると、技術者たちが駆け寄った。
「寺田さん! やりましたで!」
「ロータリーが……GT-Rを倒したんじゃ!」
寺田はヘルメットを脱ぎ、汗を拭いながら笑った。
「ロータリーは、まだまだ速うなる。わしらの戦いは、これからじゃ」
その言葉に、技術者たちは深く頷いた。
——この勝利は、単なる一勝ではなかった。
——ロータリーが“夢”から“武器”へと変わった瞬間だった。
第三節 オイルショックの悪夢
昭和四十八年の秋、広島の空はどこか重く沈んでいた。新聞の一面には、見慣れぬ言葉が踊っている。
「中東情勢悪化 原油価格高騰」
その記事を見つめながら、技術者たちは顔を曇らせた。ロータリーエンジンは高回転・高出力を誇るが、燃費は決して良くない。そんな中での原油危機——それは、ロータリーにとって致命的な一撃だった。
「……燃費が悪いエンジンなんぞ、誰も買わんようになるで」
食堂で若手が呟くと、隣の者が苦い顔で頷いた。
「ロータリーは夢のエンジンじゃったはずなのにのう……」
その言葉に、誰も反論できなかった。
その頃、本社の会議室では、重い空気が漂っていた。営業部長が資料を叩きつける。
「売れん! 全然売れんのじゃ! こんな燃費の悪い車、誰が買うんか!」
「しかし、ロータリーはマツダの——」
「理想論はええ! 現実を見んかい!」
怒号が飛び交う中、山本健一は静かに座っていた。誰よりもロータリーを愛し、誰よりもその弱点を知っている男。その胸中は、嵐のように揺れていた。
会議が終わると、若手技術者が山本に駆け寄った。
「山本さん……ロータリー、どうなるんですか」
山本はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「どうなるかは、わしらが決めるんじゃ」
「でも……燃費が……」
「燃費が悪いなら、良うすりゃええ」
若手は驚いた。
「そんな簡単に……」
「簡単じゃない。じゃが、やるしかない」
山本は、遠くの空を見つめながら続けた。
「ロータリーはのう……わしらが命を削って育ててきた子じゃ。苦しいから言うて、捨てられるか」
その言葉に、若手は胸が熱くなった。
その夜、技術部の会議室では、燃費改善のための緊急会議が開かれていた。
「吸気ポートを狭めたらどうじゃ」
「狭めすぎたらパワーが落ちる!」
「じゃけぇ、点火タイミングを——」
「点火を遅らせたら燃え残りが増える!」
議論は混乱し、机を叩く音が響いた。ロータリーは高出力を追求してきたエンジンだ。燃費改善は、まるで逆方向に走るようなものだった。
深夜、井上泰夫が冷却図面を見つめながら呟いた。
「熱効率を上げんと、燃費は良うならん……」
隣で村山義夫がシールの断面を見つめていた。
「摩擦を減らせば、少しは……」
佐々木修は燃焼室の模型を握りしめていた。
「燃焼をもっと速う……もっと綺麗に……」
誰も帰らなかった。誰も諦めなかった。
翌朝、山本が研究棟に入ると、徹夜明けの技術者たちが迎えた。
「山本さん……燃費、必ず改善しますけぇ」
山本は、彼らの顔を見渡し、静かに頷いた。
「……頼んだぞ。ロータリーの未来は、お前らの手にかかっとる」
その声は震えていた。だが、その震えは恐れではなく、覚悟だった。
——オイルショックは、ロータリーにとって最大の試練だった。
——しかし、この試練が、後の13B、そしてRX-7の黄金期へとつながっていく。
第四節 13B誕生、逆境の中の進化
オイルショックの嵐が吹き荒れる昭和四十九年、東洋工業の技術部は、まるで冬の海に投げ出された船のようだった。燃費の悪さを理由に、ロータリー車の販売は急落。社内では「ロータリー撤退論」が囁かれ、営業部からは連日のように苦情が飛んできた。
「燃費の悪いエンジンなんぞ、時代遅れじゃ!」
「ロータリーは夢物語じゃったんじゃ!」
そんな声が廊下にまで響く。技術者たちは肩を落とし、机に向かっても手が止まることが増えた。
その空気を切り裂くように、山本健一が技術部の会議室に入ってきた。白衣の袖をまくり、いつものように図面を抱えている。
「みんな、顔が暗いのう」
誰も返事をしなかった。山本は机に図面を広げ、静かに言った。
「燃費が悪いなら、良うすりゃええ。それだけじゃ」
その言葉に、技術者たちは顔を上げた。
「山本さん……そんな簡単に……」
「簡単じゃない。じゃが、やるしかない。ロータリーを捨てるんか? そんなこと、わしにはできん」
その声は震えていたが、揺らぎはなかった。
こうして、燃費改善と耐久性向上を両立させる“新しいロータリー”の開発が始まった。後に13Bと呼ばれるエンジンである。
燃焼班の挑戦:燃え残りを消せ
燃焼班の部屋では、佐々木修が燃焼室の模型を握りしめていた。
「燃え残りが多いけぇ、燃費が悪いんじゃ。もっと速う、綺麗に燃やさんといけん」
「点火を早めたらどうです?」
「早めすぎたらノッキングが出る。ロータリーは気難しいんじゃ」
模型を削り、光に透かし、また削る。燃焼室の形状を変えるたびに、試験機で確かめる。夜遅くまで、燃焼班の部屋には木屑と議論の声が舞っていた。
冷却班の戦い:熱効率を上げろ
井上泰夫は、温度分布図を前に腕を組んでいた。
「熱が逃げすぎとる。もっと燃焼室に熱を残さんと、効率が上がらん」
「水路を変えますか?」
「変える。大胆に変える。熱を“使う”冷却にするんじゃ」
冷却水路の再設計は、まるで迷路を描くような作業だった。だが、井上は諦めなかった。
潤滑班の工夫:摩擦を減らせ
村山義夫は、アペックスシールの断面を見つめていた。
「摩擦が多すぎる。これじゃあ燃費が落ちるわ」
「材質を変えますか?」
「変える。形も変える。油の流れも変える。全部じゃ」
アペックスシールはロータリーの命。村山はその命を守るため、何度も材質を試し、何度も失敗した。
そして、13Bが生まれた
数ヶ月後、試験棟に新しいエンジンが運び込まれた。13B——排気量654cc×2ローター。従来よりもトルクがあり、燃費も改善され、耐久性も大幅に向上していた。
「……回せ」
山本の合図で、スターターが押される。
キュルルル……ブォンッ!
ロータリー特有の滑らかな回転音が響く。だが、その音は以前よりも落ち着いていた。燃焼が安定し、熱が抑えられ、摩擦が減った証拠だった。
「燃費……上がっとる!」
「トルクも増えとる!」
「熱も安定しとるで!」
技術者たちは歓声を上げた。
山本は、静かにエンジンに手を置いた。
「……ようやったのう。逆境の中で、よう育った」
その目には涙が浮かんでいた。
——13Bの誕生は、ロータリーの“第二の夜明け”だった。
——そして、このエンジンが後のRX-7黄金期を支えることになる。




