第一話
——二〇二二年
寒さの残る三月。悩みや不安はごっそり雪に持っていかれ、着古した制服と遠い時間に刻まれた思い出、決まった未来だけが私の手元に残った。
時が経って国花が咲き誇る四月。街を歩けば制服やスーツに身を包んだ人々がチラホラ見えるようになり、本気で死のうと思った。
酷い劣等感に縛られ、家という牢獄で飼われる日々。
一日一日が水のように薄味で、一瞬で流れていく。
そんな日々が今後も続くと気付いた頃にはもう遅かった。
あの時抵抗していればと何度も思ったが、父親の顔を見るたび選択肢は他になかったのだと思わざるを得なかった。
そして、五月十三日——。
昼過ぎに目を覚ました私は、ため息と共に体を起こした。
最近はどれだけ寝ても疲れが取れず、早くに寝ても起きるのは必ず昼を過ぎている。
恐らく、快眠できるようなサプリを飲んだとしても、効果は期待できないであろう。
「おう、起きたか」
階段を降りると食事の準備をしている父が、やっと起きてきた私を見て言った。
まるで普段通りみたいな面をしている父だが、キッチンに立つのはたいてい煙草を吸うときか、飲み過ぎで吐いているときぐらいで、食事の用意をしている様子は生まれてから一度も見たことがなかった。
「飯は作っといた。冷めてるだろうが食っとけよ」
父は投げやりな態度で言うとベランダへと消えていった。
どれどれと視線を食卓の方に向ければ、湯気立っていない鯖の味噌煮と、みそ汁。右側には黄色く変色した白米がちょこんと置いてあった。
私の頭の中では二つの選択肢がポワーンという音を立てながらせり上がってきた。
——食べるか、捨てるか。
まあ選択肢など、あってないようなもの。食べねば殴られるし、捨てるのは勿体ないし、心も痛む。
食べ物に罪はない。いただきます。
手を合わせ、一口二口と鯖を口元へ運ぶが、三口目で唇付近で漂う冷気に身震いした。
魚に限らず、肉や油ものは冷えると油が固まり不味くなる。温めれば問題ないが、あいにく我が家に電子レンジなるものは置いていない。
「ごちそうさまでした」
ごめんなさいの意を込め手を合わせる。
本来なら食べられるはずだった食材たち。不運にも電子レンジを購入しておらず、結果的に廃棄されてしまうなんて。来世はしっかりと温めてもらえる家に買われてほしい。
ゴミ箱に捨てられていく食材を横目に、油汚れですっかり潤びたカレンダーを視界に入れる。
まるで過去を生きているようだ。マメだった母が、毎月書き込んでいたカレンダ―が、そのまま残っている。
二年前に姿を消した母。書き置きも連絡も何もなく、電話も繋がらない。
父は捜索願いを出すことを拒み、理由を聞いても「うるさい」の一言で殴られ、理由を知る事すら叶わなかった……。
父は何を隠しているのか。そして母は何故家を出て行ってしまったのか。
何度も何度も考えたが、答えは分からぬまま。
いつからか、父の凶暴性に耐え切れなくなった母が、その魔の手から逃れるために私を生贄にしたのだろうと思うようになった。
ベランダの戸が開いた音がした。
遠かった足音が徐々に私を追い詰める。
そして、私の愛用していたハンカチが顔に迫ってくる。咄嗟に逃げる姿勢になるが、力強い父に掴まれ、逃げるどころか身動き一つ取れなくなった。
この馬鹿力め……。
「陸……すまない。俺はもう耐えきれない」
父が鼻を啜り、声を震わせながら言う。泣いているのだろうか。
「俺も後を追う。すまなかった」
湿ったハンカチを鼻と口に押し当てられ、満足に息が吸えなくなった。
吸っても吸っても、ちっとも肺に空気が入っている気がしない。
気が遠くなってきた。
視界は既にぼやけて何も見えやしない。
耳鳴りだ——。
キーンと甲高く、ゴォーっと地鳴りのような低音、砂嵐のようなざらついた音が脳内に響き渡る。
脳からの危険信号なのだろう。
だが、それを受け取った本人が行動を起こすことは……もう無い。
***
目を覚ますと、アスファルトが壁になっていた。建造物が真横から生える世界ってこんな景色なんだと思った頃には、既に頭は冴えていた。
不思議なことに、靴も靴下も履いたまま私は路地裏に倒れていた。
もちろん夢遊病の類を患っているわけでもないし、家を土足で歩く趣味もない。
そう考えると、意識を失った後、父はわざわざご丁寧に靴を履かせてここまで運んだということになる。
——だがそうだとするならば、何故こんな場所に置いて行ったのだろうか。
この時、私は知らなければならないと思った。
父が私を置き去りにし、母が私たちの前から姿を消した、その真相を。
***
ビルの隙間を抜けると、目に映るのは極彩色の看板と照明、それに負けない美貌を持つ老若男女だった。
それを見た私の口から声にならない声が漏れたのはもちろんのこと、どこまでこの街が続いているのか気になり、歩き始める。
そうやって興味に突き動かされ、色濃くなる方へ歩いて行けば、景色は様変わりした。
「ちょっとお兄さん、そこで寝てたら危ないよ」
「うっせえんだよ! 税金泥棒! 死ね!」
賑やかな街を見回る警官と、警官に対して暴言を吐く酔っ払い。遠くでは泣いてる女や、泣いてる女を殴る男もいる。それを制止しに来た人間を殴り飛ばす奴もいる。
恐らく、無法地帯とはこのような場所を言うのだろう……。
「ちょっと、お姉さんいいかな?」
私の足を止めたのは一人の男の声だった。よくよく顔を見てみると、先程酔っ払いに暴言を吐かれていた警官に似ている、というより当人だ。
「はい、なんでしょう」
「君未成年だよね?」
私はこの一言で逃げなければならないと判断した。
夜も更け、辺り一帯は大人の楽園が客が来るのを今か今かと待っている状態。
人通りも増え、危険に満ち溢れた不夜城を未成年者が歩くのは大変リスキーである。
お巡りさんも、私のようなバカのせいで事件が増えるのは嫌であろう。
だが、私にだって逃げる権利ぐらいはある。
「こら、待ちなさい! 止まれ!」
背後から青い制服を着た悪魔の足音と声が聞こえる。
その声に反応して私を見る通行人の目が途轍もなく痛かった。
けれど、その痛みを我慢した先に見える景色が、より華やかであることを望んで私は走り続けた。
***
警官の「待ちなさい」という声が聞こえなくなってから、初めて足を止めた。
後ろを見ると、すでに警官の姿はなく、目立った人影も見えない。逃げ切れたんだと安堵したのも束の間、右側から私の方へ向かってくる足音が一つ。
警官と追いかけっこをした後ということもあり、咄嗟に走りだすと、私の足音と重なって背後から走る音が聞こえてきた。
私は背後から迫る何かを撒くため、逃げ込める場所を探した。まず頭に浮かんだのは路地だった。だが、地理に明るくない人間が路地に逃げ込むのは自殺行為になる。
路地は候補から排除し、逃げ込む先を店にした途端、視野がぐっと広がった。
——バー・オリジン。
その洒落たスタンド看板が視界に入った瞬間、何故か分からないがここなら安全そうだと頭が言った。
私はその直感を信じ、扉めがけて手を精一杯伸ばす。
〝CLOSE〟
扉にかかったクローズの看板が目に入った時には既に、ドアノブを捻っていた。




