第39章 ファイヤーウォールの反撃
――ジ、ジジッ。
ノートパソコンの液晶が過酷な速度で明滅を奔らせ、網膜を抉るような血の色の光爆を室内に撒き散らした。黒一色のコマンドプロンプトの領域に、新しい警告の文字列が、目眩がするほどのテンポで垂直にせり上がってくる。
`[SECURITY_ALERT]: ANOMALOUS TRAFFIC DETECTED IN NODE_2026`
`[COUNTERMEASURE]: INITIATING AUTOMATIC PACKET PURGE`
`[THREAD_ID]: ANTI_INTRUSION_BOT_V4.2`
「クソ……早すぎるだろ」
直哉は喉の奥で呪詛を吐き出し、パニックに強張る身体を座席の上で真っ直ぐに起こした。
中央サーバーの自動防衛アルゴリズムが、俺の穿ち開けた仮想のトンネルをアノマリー(違和感)として検知したのだ。その人工知能のプログラムにとって、一年前の過去へパルスを送信しようとする俺の執念など知る由もない。彼らの数式の上では、この不法侵入は、インフラの完全移行を前に基幹データベースを破壊しにやってきた、悪質なサイバー攻撃として処理されていた。
カタ、カタ、カタ、カタ!
指先が狂ったような速度でキーボードの上を 穿ち、メカニカルのスイッチが深夜の暗室に喧騒の旋律を響かせる。
おとり(デコイ)のスクリプトを構築しなければならない。
偽装したIPアドレスを数十個同時に生成し、防衛ボットの視線を死角へと誘導する。彼らの処理能力を分散させ、この『Node 2026』の細い主回線に、ミリ秒単位の猶予を引き延ばして残すための関数。
右側のセカンドモニターの箱庭は、すでにこの電脳の戦闘の爪痕を色濃く反映し始めていた。
デジタルな街並みのテクスチャは解像度を失って灰色のピクセルへと崩れ落ち、チャットログのカラムは解読不能な暗号化記号の死体へと変質していく。
けれど、最上段。特定の四文字だけは、その『タイピング中……』の三点リーダーを激しく拍動させながら、未だにその座標に実体化していた。
――Tachibana Rei
――チリーン。
一年前の過去の地平から送信された波形が、防衛プログラムの防壁を潜り抜け、タイムラインの最下部へと不法投棄された。
『こっちはずっと待ってた』
俺はその五文字の形状を睨みつけた。昨夜、俺が放った最初の符牒に対する、彼女の側からの応答のインク。
二〇二六年の彼女の呼吸の残渣と、二〇二七年の俺のタイムラインを監視する削除アルゴリズムが、光ファイバーの網のなかで過酷なデッドヒートを繰り広げている。二人の対話の順序は、システム内部のエントロピー崩壊によって、さらに歪に噛み合わなくなっていく。
防衛プログラムがこの裂け目を完全にデリート(遮断)する前に、次のデータパッケージをインプットするためのコマンドをタイピングしていく。
『いま』
『五分だけ』
『ダンジョン、行く?』
俺は思考のフィルターを介さないまま、三行の文字列を一度に光回線へと流し込んだ。
パケットの一括注入。巨大なデータ塊として送信することで、ファイヤーウォールの検知網を強引に突破させる確率を跳ね上げるための、歪な理線の数式。その代償として、一年前の彼女の画面には、対話の時制を無視してすべての言葉が 押し潰されて出現し、彼女の内の困惑の関数を深めさせることになると知りながら。
`[SYSTEM: PACKET INJECTION SUCCESSFUL]`
`[WARNING: NODE_2026 LINK STABILITY DROPPED TO 34%]`
ウィンドウの左上隅、ネットワークの安定度を示すシグナルバーが、極限の赤色へと数値を滑り落としていく。
ノートパソコンの排気口から放出される異様な熱気が、筐体を握る俺の指先の皮膚を冷たく焼いた。回路の焼き切れるような焦げ臭い煙の残痕が、澱んだ室内の暗闇にぽつりぽつりと沈殿を始めている。
窓の外のリアルからは、深夜の東京の雨の音が、激しいドラムの波形となって硝子面を叩きつけ続けていた。けれど今の俺の五感は、限界を超えてローリングの絶叫を上げる冷却ファンの不協和音と、己の心臓の不快な重低音だけに完全に吸い寄せられていた。
液晶の底、入力欄の隅で無機質に点滅を繰り返す一本の白いカーソル。
防衛ボットは、すでに俺の展開したおとり経路の四分の三をシャットダウン(デリート)していた。
この仮想のトンネルが木端微塵に崩壊するまでの猶予は、もう時間や分という名の生易しいカレンダーの数字では計れなかった。
残されていたのは、ただ、ミリ秒刻みの秒針のカウントダウンだけだった。




