狐火
「僕」の体験談。
短編ホラーです。
僕には弟がいた。
名前はフユキと言った。
僕はハルキ。
生まれた季節で名付けたらしい。
安直な名前だが、僕は存外気に入っていた。
ハルキとフユキ。
まるで何かよく出来た話の登場人物のようだ。
今では考えられないことなのだが、当時はフユキは体が弱かった。
よく学校を休んで家で寝ていた。
僕はその度に学校から早く帰ってきて、弟の具合を見た。
弟はひどく痩せていて、体も小さかった。
僕とはニ歳違いだったが、知らない人が見れば、もう数歳は離れていると考えただろう。
僕は咳き込む弟の背中をさする。
服越しに伝わる浮き出た背骨に、子供ながら哀愁を感じながら、僕は声をかける。
大丈夫だと。
そうして僕はランドセルからパンを取り出す。
今日の給食の残りの、その小さなパンのかけらを弟に渡すと、弟はありがとうと言って口に運んだ。
僕たちは貧しかった。
家では満足な食事もできなかった。
僕たちの父も必死に働いていた(僕たち兄弟にはそれが伝わってきていた)が、当時の父の給料は、僕たち兄弟を育てるには少し足りない額だった。
父は、僕たちが物心ついた頃には、母とは離婚していた。
だから父が夜帰ってくるまでの間、身を寄せ合うようにして、二人でこの苦難を乗り越えていくしかなかった。
しかしこの境遇を恨んだことはなかった。
僕が頑張らなくてはいけないとさえ考えていた。
この「欠けた」家族という輪がつつがなく廻り続けるためには、僕が手を伸ばさなくてはならない。
母がいなくなって穴の空いた輪を埋めるためには、僕が背伸びして代わりにならなくてはならない。
今思い返せばそれは使命感とも義務感ともつかない、僕の最後の砦だったとも思える。
子供ながらに自らの身を守る術を考えていたのだろう。
そういった「すべきこと」に身を委ねて、日々の辛さに目がいかないようにしていたのだ。
僕は、申し訳なさそうにパンにかじりつく弟をさすりながら、僕の視線は彼の足に移動していく。
一つだけ恨むとするなら、僕はこの動かない弟の右足を恨むだろう。
弟の体の弱さは、おそらくこの不自由な足から来ていた。
記憶は薄れてしまって、確かなことは言えないのだが、僕が気がついた頃には彼の足は動かなくなっていた。
彼は小さい頃から、右足を引きづるように歩いた。
外に出ることの少なくなった弟は次第に体を病んでいった。
僕はこの右足を憎んだ。
弟が健全な体のままだったら、どれだけ今が違っていたか。
今。
今こうして、僕の前で笑っているフユキを見て、僕は感慨に耽っていた。
そんなフユキと僕は、都内の焼肉屋で、数年ぶりの再会を喜んでいた。
飯をたらふく食べるフユキは、あの頃のフユキとはまるで違う。
フユキは大きく成長した。
身長もいつの間にか僕を抜いていた。
力を加えれば折れてしまいそうなほど細かった体も、今では常人よりも大きく感じる。
僕とフユキは高校を卒業した後、それぞれ家を出た。
僕は金を貯めて都内の大学へ、フユキはある地方都市の会社へ就職した。
しばらくの間は連絡をとっていたが、それも少しして途絶えた。
何故だろう。
僕たちは仲が悪かったわけでもないのに、むしろ良かったはずなのに、少しづつ疎遠になっていった。
僕は大学を卒業した後、忙殺されていたのだが、そんなある日、フユキから連絡が入った。
結婚の知らせだった。
僕は素直に嬉しかった。
東京に来ているというフユキとすぐに会う約束をした。
兄さんも肉食べなよ。
そう言って二人分の水を汲みに席を立つ弟にありがとうと言うと、僕は去っていく弟の背中を見送る。
卓には僕ひとりになる。
人の少ない店内。
僕は卓の真ん中に設けられた焼き網を見つめる。
肉から滴り落ちる脂が、火を燃え上がらせる。
不規則に伸びては収束を繰り返すその炎を見て、僕はあの日のことを思い出す。
思い出はいつも静かだ。
まるで写真のように、一瞬の景色だけが鮮明に浮かび上がってくる。
僕は父親が帰るのが遅くなった、あの日のことを思い出すのだった。
フユキの足が治ったのは小学校高学年の頃だったように思う。
いつまでも心に残る確かな出来事以外は、不明瞭な霧の中に紛れるように、何層にも積み重なった記憶の向こうにある。
ただ突然、フユキの動かなかった右足が治った、その出来事が確固としてあった。
まるで別人のように走り回るフユキを見て、僕は二つの思いを抱くことになった。
僕はまるで狐に摘まれたような顔をしていた。
僕は腑に落ちなかった。
突然輪はその姿を変えたのだ。
フユキの足が治る前夜、僕は不思議な火を見た。
父親のいない静かな夜のことだった。
その日は仕事が長引いたらしく、父は夜遅くまで帰ってこなかった。
僕とフユキは、父の帰りを待つのを諦め、二人で寝床に入っていた。
夏の夜の蒸し暑さにじっとりと汗をかきながら、僕とフユキは話していた。
お母さんってどこにいるんだろうね。
フユキは言った。
どこだろうな。
僕は言った。
僕はもう母は父と別れて戻ってこないことは分かっていたが、まだ幼いフユキにしてみればそれは受け入れ難いことだったのかもしれない。
なんで皆のところにはいて、うちにはいないんだろう。
弟は続ける。
仕方ないだろ。
僕は心のうちに何か怒りが湧き上がってくるのを感じた。
僕たちはいつまで経っても三人だ。
父と僕とフユキで生きていかなくちゃいけないんだ。
僕たちを見捨てた母への怒りもあったかもしれないが、叶いもしない世界を夢見る弟に苛立ちを覚えると、僕は弟に背を向けた。
もう寝よう。体に良くない。
……そうだね。
弟の声を聞きながら、僕は目を瞑った。
しばらくして弟の寝息が聞こえてきた。
僕はどうしても腹が減って寝付けなかった。
勢いをつけて起き上がると、薄暗い部屋の中、あぐらをかいて座り込む。
窓からは月明かりが差して、部屋の中に微細な陰影を描いている。
僕は少しの間、窓の外を眺めていたが、水でも飲んで空腹を紛らわそうと台所へ向かった。
父はまだ帰ってきていなかった。
弟の静かな寝息だけが聞こえる部屋を出ると、台所へ通じる廊下を渡る。
冷ややかな感触が足裏をなでる。
やにわに暗くなった。
月に雲がかかったらしい。
僕はひたひたと足音を立てて廊下を歩いていると、ふと廊下の先に何かが見えた。
それは初めは今にも消え入りそうな、小さな光だった。
僕の視線よりもやや下を浮遊するそれは、やがて大きさを増し、そして赤く青い炎になった。
赤いのか青いのかどうも判然としない。
赤と言われれば赤いし、青と言われれば青い、どちらとも取れない、僕の認識できる範囲の外にある色をしていた。
不規則に揺れる炎は、滲むような尾を引きながら、右へ左へと動き続ける。
何かに操られているようだ。
まるで上から何か限りなく細い糸のようなもので釣られているように見える。
僕は動けなくなっていた。
前にも後ろにも進めない。
その炎に魅入られたように、片時も目を離せない。
この間、どれほどの時間が経っただろうか。
外で雨の音が聞こえ始めた頃、その炎は静かに元の小さな光へと戻っていった。
細長い、歪な形をした光だった。
光が完全に消えると、僕の体も硬直から解かれた。
僕は踵を返して駆け出すと、弟のいる部屋へ戻った。
弟は変わらず寝ていた。
僕はひとり、寝床に入ると、頭から布団を被った。
すぐには寝られなかった。
しばらくして、こちらへ向かってくる足音が気がした。
僕は全てから逃げるように硬く目を瞑った。
その日を境に、弟の足は動くようになった。
兄さん、大丈夫?
弟に話しかけられて、僕は物思いに耽っていたことを知る。
それ焦げちゃってるじゃん。
はっとして網を見ると、黒く変色した肉がボロリと、火の中へ落ちていくところだった。
すまん。ちょっと考え事していただけだ。
新しい「材料」を得た炎は、一瞬大きく燃え盛って、再び揺れ動く光に戻った。
僕は何かを言いかけてやめた。
焼き直すよ。
あの日見たものは何だったのか。
あの光が消えゆく間際、姿を現したそれは、僕の心の中で守り通さなければならないものなのかもしれない。
焼き尽くされ、燃やし尽くされ、炭のような黒色に染まったそれは、闇の中で確かに、僕にはあの形に見えた。
ーー人の右足だった。
……ところで足の方は大丈夫か?
僕は不自然な沈黙を紛らわすように弟に尋ねた。
まるで別人のようにたくましくなった弟は怪訝な顔をした。
足?
子供の頃、足悪かっただろう? あれから大丈夫か?
僕が重ねて尋ねると、弟はまるで異世界の人でも見るような表情で答えた。
足、悪かったことなんてあったっけ?
一体いつから化かされていたのか、全くと言っていいほど、僕には分からなかった。




