アルトフェン王国非常勤王女です~勤務先は王都の錬金術アトリエ~
アルトフェン王国という国は、地図の上で見るよりもずっと喉元に近い場所にあった。
北には大陸を横断する天蓋山脈。
雲の天蓋みたいに連なる白い稜線が、季節の境目すら切り分ける。
山脈はただの壁じゃない。帝国と連邦を結ぶ陸路は、山を避ければ遠回りになり、山を越えれば命が軽くなる。
だからこそ、山の切れ目にあるアルトフェンの街道は「道」以上の価値を持った。
関所と宿場と馬車の列。旅人の噂。密輸屋のため息。武器商人の笑い声。
南は海。天然の良港。波は穏やかで、潮の匂いが街の石畳にまで染みる。
港には、海の向こうの島国の船が入る。
白い帆、彩られた舷側、異国の言葉。
彼らが運ぶ香辛料と染料と金貨、そしてアルトフェンから出ていくのは木材と鉱石と、山脈の麓で採れる薬草。
交易は利益を生み、利益は城壁を厚くし、城壁はまた交易路を守る。
西をノルド帝国、東をリュミエール連邦。
どちらも、地図に塗ればアルトフェンの何十倍もある大国で、どちらの舌も鋭い。
片方に笑えばもう片方が眉をひそめる。
片方に頭を下げればもう片方が傲慢と呼ぶ。
アルトフェンはいつだって綱の上にいた。落ちれば潰される。
けれど綱の上にいる限り、下を通る者に通行料を請求できる。
吹けば飛ぶ小国が、生き残ってきた理由は、地理と経済とそれを扱う王家の手つきだった。
だから、王宮に二人の姫が生まれた日、城は静かに浮き足立っていた。
現国王と王妃にとって、初めての子。
しかも双子の姉妹。
産室の隣、暖炉の火が優しく揺れる乳児室には、まだこの世界を知らない二つの命が並んでいた。
第一王女は黄金の髪。
第二王女は銀の髪。
そして、銀の髪の方の意識だけが妙に冴えていた。
目が開いているのに、焦点が合わない。
眼球を動かしているのに、視界は水の中みたいにぼやける。
天井の装飾が、光の染みのように広がって、輪郭を掴ませてくれない。
鼻の奥に甘い匂い。母乳じゃない、薬草と蜜蝋と布の匂い。
耳は利いている。火のぱちぱちという音、遠くで鳴る鈴、足音。人の声。
「こちらが、第二王女さま。銀の髪の方がクロエさま」
クロエ。
言葉が意味として染み込むまで、ほんの一拍遅れる。自分の名前だ。クロエと呼ばれている。
じゃあ、隣は?
「第一王女さま、アリシアさまは、よくお目覚めで。ほら、瞳が」
隣に寝かされた小さな命。
自分と同じ大きさで、自分と同じ匂いで、自分と同じ温度なのに、どこか違う。
金色の産毛が薄い光を受けて輝いている。
アリシア。
姉。
私は…いや、私は転生したのだと、理解が追いつくより先に、思考の癖がそう結論づけた。
令和日本の女子大学生。物理と化学専攻。ちょいオタク気質。
課題とレポートと、夜更かしして見たアニメの最終回。
最後に覚えているのは曖昧だ。
眠りについたのか、気絶したのか、事故だったのか。そこは霧の向こう。
だけど今は確かだった。
体が重い。指が思うように開かない。
首が支えられない。喉が鳴る。
いや、鳴らそうとしているのに、声にならない。
出せるのは赤子の呼気と、唾液混じりの小さな音だけだ。
いきなり難易度ハード?チュートリアルどこ?
お決まりのチートは?ステータス画面は?
スキルツリーは? 転生特典は?
頭の中で叫んだところで、口は「あー」としか言えない。
隣のアリシアが、こちらを見ているのが分かった。
赤子の目の動きはゆっくりで、それでも確かにこちらを見ている。
起きている。起きているのに、何もできない。
お互い、ただ柔らかい布の上で呼吸するだけの存在。
侍女たちは優しかった。手つきは慣れていて、温かいミルクの匂いがする。
けれど、その優しさは守りとは別の話だ。
喉元で生きる国は、喉元を狙われる。
その日の夜、狙われた。
深夜。
灯りは落とされ、室内は月明かりと暖炉の残り火だけになった。
音は静かだった。静かすぎた。
王宮というのは本来、静けさの中にも微細なざわめきがある。
遠くの廊下の見回り。風が窓枠を撫でる音。火が息をする音。
人がいる建物の、気配の音。
なのに、その夜の静けさは切断されていた。
侍女の一人が、ふと顔を上げた。何かを聞いたのではない。
むしろ、何かが聞こえなくなったことに気づいたような表情だった。
彼女が口を開く。
声が出ない。
声帯が震えているのに、音が空気に乗らない。
驚きの叫びは無音のまま唇を滑り、彼女の喉は白くこわばる。
次の瞬間、窓の方が暗く揺れた。
黒装束。
闇を縫って人の形が滑り込む。
足音がない。呼吸の音もない。布が擦れる音もない。
まるで、音という概念を置き忘れてきたみたいに。
侍女たちが動いた。数名が姫たちの寝台の前に出て、数名が扉の方へ。
扉へ向かった侍女は、ノブに手をかけたまま凍りついた。
扉が開かない。
黒装束の手が上がる。指先が描く小さな軌跡。
そこに何かが組み立てられる感覚が、赤子のクロエにも分かった。
魔法。
理屈はまだ何も知らない。
でも、これは、たぶん魔法だ。
物理や化学の授業で培った癖が、目の前の現象を未知の体系として分類する。
音が消える。空気はある。耳はある。けれど振動が伝わらない。
なら、媒質が変質したか、振動の伝搬が遮断されたか、あるいは振動が別の形に変換されたか。
魔法という便利な言葉があるなら、たぶんそれだ。
黒装束は、侍女の一人の腹を蹴り飛ばした。
無音の衝撃。身体が折れ、床に崩れるのに、音がない。
恐怖だけが、視界に現れる。
そして黒装束の視線が寝台の方、姫たちへ向く。
狙いは生まれたばかりの王女姉妹。
クロエの頭の中に、火花みたいな焦りが散った。
無理だ。赤ん坊だ。
手足は短く、爪は柔らかく、歯もない。
逃げられない。戦えない。叫べない。
いや、叫べないのは魔法のせいで、声帯は動くのに音が出ないのだとしたら?
逆に言えば、音を出すという現象を魔法で作り出せばいい?
(何、転生していきなりクライマックス!)
(ないの? お決まりのチートはないの?)
頭の中で叫びながら、目だけで黒装束を追う。
観察する。観察して、分解して、組み立て直す。
理屈で考える。理屈がなければ、仮説を立てる。
魔法があるなら、魔法を現象として扱えばいい。
指の動き。呼吸。視線。言葉は発していない。
呪文がないタイプか、あるいは内部で唱えているのか。
音封じはたぶん結界のようなもの。空間を指定している。
なら、空間に別の条件を上書きできるなら。
クロエは喉を震わせた。赤子の肺が空気を押し出し、舌が震え、唇が開く。
「あー」
可愛らしい、意味のない音。
けれど、そこに意図を載せた。
音は波だ。空気の圧力変化だ。振幅と周波数。
伝わるには媒質が必要で、媒質が固定されているなら、波の形は決まる。
固定されていないなら、条件があれば決まる。
魔法は、条件を決める力だと仮定する。
なら、私は条件を決める。
この空間に、音が存在する、と。
「あー」
次の瞬間、クロエの体が月のように光った。
熱ではない。灼ける感じはない。
ただ、柔らかい銀白色の光が皮膚の内側から滲み出るみたいに広がり、寝台の上に薄い光の膜を作った。
そして戻った。
暖炉の火が鳴った。
侍女の衣擦れが聞こえた。
誰かの息が詰まる音がした。
音が世界に帰ってきた。
「刺客!誰か!衛兵を!」
侍女の叫びが廊下に走る。
魔法の結界が破れたのか、上書きされたのか、とにかく外へ音が届いた。
王宮という箱に、危機が伝染する。
黒装束が一瞬だけ動きを止めた。マズいという判断が、布越しでも分かるほど明確だった。
彼は咄嗟に寝台の上から銀髪の赤子、クロエを抱え込んだ。
抱き上げられる。空気が冷たくなる。重力の方向が変わる。胃がひゅっと浮く。
侍女が手を伸ばす。だが黒装束は速い。速すぎる。
暗闇に溶けるように窓へ滑り、外の闇へ消えた。
残された室内には、泣き声と叫び声が溢れる。
黄金の髪の第一王女アリシアだけが、寝台の上で目を開けたまま、静かにそれを見ていた。
黒装束は必死に離脱した。
王宮の壁を越え、裏路地を抜け、眠る街の端へ走る。夜明け前の石畳は湿って滑る。
息が白い。見回りの灯りが遠くで揺れ、犬が吠える。
吠え声が聞こえるということは、音封じはもう維持できていない。
追手が出る。
王宮が騒げば、門が閉まる。街道が塞がる。港が止まる。
そうなれば逃げ場は森しかない。
森へ。
枝を払い、泥を踏み、暗い木立の間を縫う。
魔法で痕跡を消す余裕はない。焦りと体力と冷たい汗だけが、彼の背中を押す。
空が少しずつ青みを帯びた頃、ようやく森の奥、獣道すら途切れる場所に辿り着いた。
そこで彼は、腕の中の重みを意識した。
赤子。
なぜ連れて来た?
自分の仕事は暗殺だった。生まれたばかりの王女姉妹を殺す。
依頼主の顔は思い出せない。覚えていても意味がない。
使い捨ての仕事。使い捨ての命。
なのに。
なぜ、殺せずに連れてきた?
腕の中の赤子は泣いていない。夜の間に泣き疲れたのか、あるいは恐怖で固まったのか。
銀の髪が月明かりの残滓みたいに淡く光り、赤子の頬は朝の冷気で少しだけ赤い。
黒装束は、その顔を見た。
暗闇の中で見る命は、仕事の対象になれる。
距離がある。影だ。数だ。達成条件だ。
だが、明るい世界で見る命は違う。肌の柔らかさ。まつげの細さ。小さな指が握り込む空気。
それが、誰かの子だと分かってしまう。
彼は喉の奥で短く呻いた。
依頼は、殺せ、だった。
だが殺せなかった。
だから自然に任せることにした。
黒装束は森の大木の前にしゃがみ、赤子をそっと置いた。
苔むした根元。冷たい土。草の匂い。赤子が小さく身じろぎする。
「…俺は卑怯だな」
声は誰に届くでもなく、森に吸い込まれた。
彼は背を向けた。躊躇はあった。
けれど振り返れば、きっと何かが変わってしまう気がした。
変わってはいけない。変わったら戻れない。
黒装束は木々の間へ消えた。
残ったのは、静寂の森とクロエだけ。
クロエの意識は、泣き声より先に焦りで満ちた。
(誘拐だけでもやばいのに、森の中、置き去り!)
(無理無理無理無理カタツムリ)
(絶対死ぬ!)
赤子の身体は、危機を言葉より先に反応させる。
寒い、腹が空く。喉が乾く、呼吸が浅くなる。
泣く。泣くしかない。
泣き声は、本来なら母や群れを呼ぶための信号だ。人間の赤子だって同じ。
でも、ここは森だ。
狼が来るかもしれない。
蛇がいるかもしれない。
雨が降れば体温が奪われる。
風が吹けば声は散ってしまう。
それでも泣くしかない。
自然と鳴き声が出た。喉の奥が痛くなるような、必死の泣き声。
その時、また何かが体の中で組み上がった。
熱でも圧でもない。もっと柔らかい、しかし確かな流れ。
体内に溜まっていた力が、泣き声に合わせて指先へ、皮膚へ、髪へとにじんでいく。
クロエから、柔らかい月の光が放たれた。
夜の月ではない。朝の森に似合わない、銀白の淡い光。
苔の緑が少しだけ鮮やかに見え、木の肌の皺が浮かび上がる。
光は遠くまで届かない。けれど、森の中でそこに何かがいると示すには十分だった。
クロエは泣いて、光って、また泣いた。
どれくらい経ったのか分からない。赤子に時間の尺度はない。
ただ、体が重くなっていく。泣くたびに喉が擦れ、光るたびに内側が空になっていく。魔力という言葉があるなら、それを使い切る感覚だった。
泣きつかれた頃、クロエは眠りに落ちた。
夢のない眠り。
ただ、冷たい土の匂いと、淡い光の残響だけが、意識の端に残った。
その眠りの縁に、足音がした。
枯れ葉を踏む、ゆっくりとした足音。
やがて視界の上に影が落ちる。目が覚めるが、顔を上げられない。
けれど、影の形が人だと分かる。
細い腕。曲がった背。布の擦れる音。微かな薬草の匂い。
「…月が降りてきたと思えば、赤ん坊かい」
声は低く、しかし柔らかかった。
森の静寂を乱すのではなく、森に溶ける声。
彼女は膝を折り、赤子を覗き込む。
皺だらけの顔に、目だけが鋭い。年老いた獣みたいな目。
老婆は、クロエを抱き上げた。
腕の中は暖かかった。骨ばった腕なのに、抱え方が慣れている。
赤子を支える指の角度、首の支え方、体温の分け方。誰かを何度も抱いてきた手つき。
「光る赤子は初めてだねぇ。…なるほど、なるほど」
老婆は、少しだけ笑った。
「わたしはセレネ。月の魔女セレネさ」
月の魔女。
その言葉が、クロエの頭の中で引っかかる。
さっきまで自分が放っていた光。月のような光。
偶然じゃない。体系がある。呼び名がある。
つまりこの世界には、魔法の分類がある。
助かった、と思った。たぶん。
少なくとも今すぐ死ぬ確率は下がった。
でも同時に、別の現実が降ってくる。
王女としての人生は、森の苔の上に置き去りにされた。
名前だけがまだクロエで、でもその名前は、王宮にいるはずの赤子に向けられている。
自分は本物なのに、誰にも証明できない。
セレネの腕の中で、クロエは「あー」と小さく声を出した。
それが返事になるかどうか分からない。けれど、今はそれしかない。
セレネは赤子の額に指を当て、少しだけ目を細めた。
「…ふむ。面倒ごとを拾ったかもしれないねぇ。けど、捨てるよりは、拾う方が性に合う」
老婆は赤子を抱いたまま、森の奥へ歩き出した。
木々が揺れ、光が揺れ、鳥が朝を告げる。
クロエの人生は、王宮の絹布から、森の匂いへ、そして月の魔女の庵へと、静かに移っていった。
セレネの庵は、森のさらに奥。
人が踏み込む理由のない場所にあった。
近づくほどに道は消え、代わりに草花が道のように並び、木々が門のように枝を組む。
偶然の形に見えて、どこか意図的だった。
魔女の結界。迷わせるための仕掛け。
あるいは、見つけたい者だけが見つけるための導線。
庵は小さかった。丸太と石で組まれ、煙突から細い煙が上がる。
周囲には薬草畑、乾燥棚、瓶だらけの棚。
風鈴のように骨や木片が吊るされているのは、護りの印なのか、単なる趣味なのか分からない。
セレネはずぼらだった。
棚の上に積まれた本は乱雑で、床には乾いた薬草が落ち、鍋はいつも何かしら煮ている。
なのに、必要なものは必要な場所にあり、危険なものは危険な場所に隔離されていた。
ずぼらというより、優先順位が極端と言った方が正しい。
クロエは、そこで育った。
最初はミルクを飲むだけ。
次は歩く練習。
言葉を覚え、文字を覚え、火の扱いを覚え、森の毒草と薬草を覚える。
そして魔法を覚えた。
クロエの魔法は、月の光に似ていた。眩しくするのではなく、柔らかく照らす。
熱ではなく、清浄に近い何か。音を戻したあの夜のように、条件を整える力。
光が空間の性質を整え、乱れたものを戻す感覚があった。
セレネは言う。
「月はね、照らすだけじゃない。満ち欠けで潮を動かす。影を作り、隠し、導く。月は境界の力だよ」
境界。
その言葉は、アルトフェン王国の地理とも重なった。帝国と連邦の境界。海と陸の境界。
王宮と森の境界。自分の身分の境界。
クロエは、境界に落ちた子だ。
魔法と並んで、クロエは錬金術も覚えた。
セレネの庵には、金属の匂いがした。
硫黄の匂い。酸の匂い。乾いた石の粉。
それらは、前世の記憶を刺激した。
物理と化学。理屈と再現性。条件設定、失敗の記録、成功の手順。
世界が違っても、現象を扱う癖は同じだった。
セレネは細かいことを気にしないくせに、危険な工程だけはやたらと厳しかった。
「硝石を扱うときは顔を近づけるんじゃない。酸は水に入れる、逆じゃない」
「火は友達だけど、油断すると喰われる」
クロエは頷く。頷いて、ノートを取る。
紙の質は粗いけれど、書けば残る。残れば積み上がる。
積み上がれば、いつか帰る道になるかもしれない。
その一方で、クロエはセレネの世話をした。
ずぼらな魔女は、洗い物を溜め、服を適当に脱ぎ散らかし、薬草を干しっぱなしにし、時々鍋を焦がした。
クロエが片付ける。掃除する。食事を整える。薪を割る。水を汲む。
セレネは「助かるねぇ」と言いながら、ちゃっかり昼寝をする。
二人だけの時間が過ぎていった。
森の四季が巡り、クロエの背が伸び、髪が長くなり、手が器用になり、魔力の流れが分かるようになった。
そして十三年が経った頃。
クロエは、ふと庵の外で月を見上げる癖がついていた。
月はいつも同じ形をしていない。
満ちて、欠けて、また満ちる。
その繰り返しが、なぜだか自分の人生と似ている気がした。
王女として満ちかけた命は、一夜で欠けて、森でゼロになって、それでもセレネの庵でまた満ちていく。
自分は何者なのか。
王女なのか、魔女の弟子なのか。
答えはまだ出ない。
けれど、月だけは変わらずそこにあった。
クロエの魔法の光と同じ、銀白の静かな光で。
セレネが背後から声をかける。
「クロエ。明日、森の外れまで行くよ。薬草の採取だけど…風向きが変わってる」
クロエは月から視線を戻し、師の皺だらけの横顔を見た。
十三年守られてきた森の境界が、少しだけ揺れている。
セレネは森の外れ、木々の密度が薄くなる場所までで来ると立ち止まった。
視線は海の方角へ。
葉の隙間から見える空は青く、光は穏やかだ。けれど、風だけが違った。
森の中にいるときの、木の匂いを運ぶ風ではない。
潮の匂いに、金属と油と、どこか焦げたような人の作為が混じっている。
セレネは鼻で息を吸い、眉を寄せた。
「…嫌な風だねぇ」
ぽつりと呟き、しばらく黙る。
いつもなら「めんどい」「眠い」と言って庵に引き返す口が、今は閉じたまま。
年老いた指が顎を撫で、目が遠くを睨むように細くなる。
そして唐突に、決断が落ちた。
「王都へ行くよ」
クロエは反射的に「え」と言いかけたが、喉の奥で飲み込んだ。
よく分からない。でも、師匠が言うなら、セレネが言うなら、何かがある。
普段のセレネは無気力で、だらしなくて、鍋を焦がしては「気のせい」と笑う、森のニート婆さんだ。
だが、この目をしている時は違う。
月の魔女セレネの目だ。
クロエは頷いた。頷くと同時に、指先が勝手に動いた。
十三年、繰り返してきた詠唱の型が体に染みている。
「…浮上、収束、屈折、同調」
声は小さい。だが、その小ささが逆に正確さになる。
クロエの足元に、薄い月光の輪が広がった。
草の影が淡く伸び、輪の中だけが夜に切り取られたみたいに静かになる。
飛行魔法。
今では失われた魔法。
体系としては崩れ、学術的にも再現不能とされる類。
けれど魔女だけが、古い条件を知っている。
セレネも同時に手を上げた。指先が空をなぞると、二人の周囲の景色が、ふっと歪む。
光を屈折させる魔法。
森の緑と空の青が一瞬揺れ、そこにいないはずの空気が二人を包んだ。
鳥が鳴いても、クロエの耳には遠い。
風に触れているのに、風は二人を避けるように流れる。
次の瞬間、ふわり。
身体が地面から切り離された。
重力が薄くなり、足元の草がすっと遠ざかる。
クロエは息を整え、視線を前に据えた。飛行は楽しいものじゃない。気を抜けば落ちる。
魔力の配分が狂えば、身体の向きが乱れる。
セレネはクロエの肩に軽く手を置いた。
「慌てるんじゃないよ。風を読むんだ。海の風は嘘をつかない」
二人は森を抜け、丘を越え、街道の上を滑るように進んだ。
地上の人々は気づかない。気づいてもそこには何もない。
屈折の膜が視線を逸らし、光が二人を景色に溶かしてしまう。
やがて王都が見えてきた。
城壁。尖塔。白い石の建物群。そして南の港。
港の方が妙にざわついている。
いつもの荷揚げの喧騒ではなく、祭りのような、期待の熱。
人の波が海へ向かって集まっていた。
そして、目に入った。
大きな船。
これまでの帆船とは違う。帆もあるが、船体の造りが新しい。
甲板の広さ、舷側の高さ、煙突のような構造物。
何より、船の周囲に漂う誇らしさが違う。
セレネが低く鼻を鳴らす。
「…ほう。やるじゃないか」
二人は港の倉庫街へ回り込み、荷の影に降り立った。
地面の冷たさが足裏に戻った瞬間、クロエは軽く眩暈を覚えた。
空と地面では、身体の感覚が違う。
「解くよ」
クロエが小声で言うと、屈折の膜がほどける。
空気が正しく耳に当たり、ざわめきが一気に押し寄せた。
歓声。笛の音。太鼓。笑い声。
近くを歩いていた、船員らしき男にクロエは声をかけた。
「すみません。あの船、何ですか?」
「おお、知らねえのかい?あれは王家の新しい船だ」
「南の島国の幕府と技術交流してよ、ようやく完成したって話だ」
「処女航海だよ。近海をぐるりと回って戻ってくるってよ」
船員の顎が、誇らしげに船を指す。
「国王陛下と王妃殿下も乗ってる。見物だろ?」
「国の顔だ。幕府との絆の証だってさ」
クロエの胸が、ひゅっと縮んだ。
国王と王妃が乗船。
それは祝いだ。国の威信だ。
だが同時に、リスクでもある。最も守るべきものが、最も見える場所に出てくる。
「…もし何かあったら、まずいんじゃ」
ぽろりと零れたクロエの言葉に、セレネが肩をすくめる。
「政治さ。幕府との交易はアルトフェンの命綱」
「大国二つに挟まれて生きるには、海の向こうと握るしかない」
「多少の危険があっても、やらなきゃならないことってのはあるんだよ」
その声は淡々としているのに、どこか棘があった。
まるで、それを分かった上で来たみたいに。
そして出航だ。
楽団が祝福の音を鳴らす。
金管の明るい響きが海に跳ね、太鼓が人々の胸を叩く。
港に集まった群衆が一斉に手を振り、歓声が波のように押し寄せた。
船が、ゆっくりと動き出す。
水を割り、港を離れ、白い航跡を引いていく。
クロエはその姿を見つめながら、ふと隣のセレネを見た。
表情が硬い。
いつもの眠たげな、やる気の欠片もない目じゃない。
森で感じたのと同じ、あの月の魔女の目だ。
何かを待っている。いや、待つというより来るべきものを数えている。
その瞬間。
大きな音がした。
地面が、腹の底から叩かれたように震えた。
鼓膜ではなく骨に響く音。クロエの知識では、明らかに水中で爆発した音だった。
水柱が上がる。
港の外れ、船の進路の近く。白い泡と黒い水が噴き上がり、遅れて火薬の匂いが風に乗って届いた。
クロエの思考が勝手に走る。
魚雷?いや、魚雷はこの時代にあるのか?
機雷?機雷なら原理は単純だ。火薬と起爆装置。
導火線じゃなくても、接触で爆ぜる仕組みは作れる。
銃があるなら火薬はある。幕府の技術なら、原始的な機雷くらい。
いや、幕府と共同で作った船の処女航海だ。
このタイミングで爆発?
偶然?事故?
それとも…。
港が混乱する。
人々の歓声が悲鳴に変わり、誰かが転び、誰かが叫ぶ。
子供が泣き、男が怒鳴る。騎士が動く音。鎧が擦れる音。
その混乱を割って、ひときわ通る声が響いた。
「騎士団!人を港から遠ざけろ!二次災害の危険がある!」
凛として、迷いがない声。
「近衛!漁船でも何でもいい、出せ!今すぐだ!」
命令が現実を作っていく声。
「国王陛下と王妃殿下最優先だ!」
クロエは反射的に声の方を見た。
そこにいたのは、黄金の髪の少女だった。
陽光を掬ったみたいな髪が風に揺れ、背筋がまっすぐ伸びている。
年齢は…自分と同じくらい。
その小さな体から放たれる圧が、周囲の大人を動かしていた。
騎士たちが叫ぶ。
「アリシア殿下のご命令だ!下がれ、下がれ!」
「道を開けろ!港から離れろ!」
黄金の髪が指揮を取る。
群衆が押し戻される。
混乱が、秩序に変わっていく。
クロエの中で、十三年前の記憶が刺さる。
王宮の乳児室。
隣で寝ていた、黄金の髪。
目を開けたまま、静かに見ていた姉。
アリシア。
あの子が。
クロエは息を止めた。心臓が赤子の頃とは比べ物にならない速度で脈打つ。
喉の奥が熱くなる。
言葉が震える。現実が追いつかない。
自分は森で育ち、王女の名を捨てたはずだった。
なのに、ここに王女がいる。
黄金の髪の王女が、王都の港で国を動かしている。
セレネが、クロエの横で小さく息を吐いた。
「見つけたよ」
その声は、喜びでも悲しみでもない。
夜空を読んだ者だけが出せる、淡い確信の声だった。
海では、白い航跡の先にいた王家の船が、何かを避けようとするように僅かに進路を変えていた。
人々は叫ぶ。騎士は走る。漁船が慌ただしく綱を解く。
そして港の影で、その全てを見ている二人の魔女だけが、動かずにいた。
クロエは黄金の髪の少女から目を離せなかった。
姉だ。
間違いなく。
世界が「十三年前の夜」と繋がった。
漁船が岸壁に擦れるように戻ってきた瞬間、港の空気が一段冷たくなった。
小さな船体は波に叩かれて軋み、濡れた縄が甲板に打ち付けられる音がやけに大きく聞こえる。
船縁にしがみつく兵士の指は白く、顔は塩と汗と恐怖でぐしゃぐしゃだった。
「陛下と王妃殿下、共に意識がありません!」
叫びは港の喧騒を切り裂いた。
歓声も罵声も一瞬だけ止まり、次の瞬間、別種の悲鳴が沸騰する。
「王妃殿下は腹部より出血!」
それを聞いた瞬間、クロエの視界は現象に切り替わった。
出血。腹部。意識なし。呼吸あり。
頭の中に、前世の教科書の図が勝手に浮かぶ。
動脈、静脈、腹腔、臓器。
ここでの医学がどうであれ、血が体外に出ることの意味は普遍だ。
体温が下がる。循環が破綻する。臓器に酸素が届かない。
「近衛!担架!担架を出せ!医師団はどこだ!」
甲冑の擦れる音、足音、怒鳴り声。波の音までせわしなく聞こえる。
アリシアの声が、さらに高く鋭く跳ねた。
「医師団はまだか!治癒魔法の使えるものは!薬師はいないのか!」
治癒魔法。
その単語だけで、クロエの身体が前に出た。
治癒魔法なら、簡単なものなら使える。
ポーションもある。
セレネの庵には、止血、鎮痛、感染予防、体力回復…最低限のセットがある。
常備だ。森で怪我しないなんてありえないのだから。
クロエが一歩踏み出した瞬間、セレネの手が袖を掴んだ。
骨ばった指。けれど力は強い。
「クロエ」
セレネの声は低く、港の騒乱の中でも不思議と耳に届いた。
「行けば変わる。お前の世界が変わる」
クロエは振り向いた。セレネの目が、森で見た月の魔女の目のまま揺れていない。
「森の魔女クロエでいられなくなる」
その言葉は脅しではなく、警告だった。
こういう時のセレネは、いつだって現実の刃を隠さない。
クロエは一瞬だけ躊躇した。
森は安全だった。苦しくても、二人だけの世界で完結していた。
王都に出れば、政治がある。身分がある。血がある。取り返しのつかない鎖がある。
でも。
目の前で運ばれてくる担架の上の人影が、誰かである前に、命だった。
さらに言えば、その命はもしかしたら。
「…お父さんとお母さんかもしれないの!」
その言葉が、自分の口から出たことにクロエ自身が驚いた。
十三年、心の奥に沈めてきたものが、血の匂いで浮き上がったみたいだった。
クロエはセレネの手を振りほどいた。
そして走った。
群衆をかき分け、怒鳴り声と泣き声を割って、鎧の列の隙間に身体をねじ込む。
誰かに腕を掴まれそうになり、肩がぶつかり、足がもつれる。それでも止まらない。
「治癒魔法使えます!」
声が裏返った。けれど届くように喉を絞る。
「錬金術師です!ポーションもあります!」
次の瞬間、鋭い声が返った。
「通せ!」
アリシアだ。
迷いのない命令が、周囲の兵を動かした。
「その子を通せ!」
騎士団が一斉に群衆を押し分ける。
盾が横に並び、即席の回廊ができる。人の波が左右に割れ、道が生まれた。
クロエは息を切らしながら、その道を走り抜ける。
背後で足音がついてくる。セレネだ。結局、離れなかった。
港の中央、漁船のすぐ脇に人が輪を作っていた。
近衛の甲冑が光を反射し、血の匂いが風に混じる。
担架の上に横たわる男と女。
まず国王。
顔色が青い。唇が紫に近い。目は閉じて、胸が動いていない。喉元も静かだ。
呼吸の気配がない。どれだけ見ても、生命のリズムが感じられない。
クロエは、その瞬間に察した。
…無理、かも。
日本の医療でも、ここから戻すのは難しい。
心肺蘇生、電気ショック、気道確保、輸血。どれもこの場にはない。
治癒魔法が、何でも治す夢の体系なら別だ。
少なくとも自分が使えるのは簡易の治癒で、セレネも万能ではない。
そして王妃。
意識はない。だが呼吸はある。喉が微かに上下し、唇がかすかに震える。
腹部からの出血は、酷かった。
衣服の下、布が赤黒く滲み、担架の板に血が溜まっている。
傷は刃物か、破片か。爆発によるものなら、内部損傷の可能性もある。
腹部は致命的だ。止血しても、内側で出血していたら。
でも、やるしかない。
クロエは膝をついた。手が震えそうになるのを、呼吸で押し込める。
頭の中で手順を組み立てる。現象を一つずつ潰すしかない。
その時、セレネが国王の方へ手を伸ばした。
クロエは一瞬だけそちらを見た。
セレネの指先に月光が集まり、薄い輪が国王の胸元に浮かぶ。
光は眩しくない。むしろ静けさだ。境界をなぞるような光。
セレネは、国王を救うつもりなのか?
それとも。
その問いはすぐに追いやられた。クロエは王妃へ意識を集中する。
アリシアが担架のそばにいた。
黄金の髪が乱れている。顔に潮と煤と、乾きかけた涙の筋。
けれど目はまだ折れていない。
十三歳の少女が、国の最前線で王都の港で、全員を動かしている。
その少女が、今だけは娘の顔になっていた。
「お願い…」
声が震えた。
「お父さま、お母さまをお願い…」
クロエの胸が、ぎゅっと痛む。
アリシアはクロエを知らない。
当然だ。森で育った少女を王宮の姫だと知るはずがない。
けれどその声は、十三年前の夜に取り残された姉と繋がってしまった。
クロエは唇を噛み、頷いた。
「やります。まず王妃殿下の出血を止めます」
言いながら、腰の革袋を引き寄せる。
小さなポーチだ。中には瓶が二つ、粉薬の包みが三つ、そして細い針と糸。
セレネの庵では、裁縫も治療も同じ棚にある。
周囲の近衛が一瞬、クロエを止めようとした。誰だこの子は、と顔に書いてある。
だがアリシアが叫んだ。
「触れるな!今は誰でもいい!助けられるなら助けろ!」
その命令で兵の手が止まる。アリシアの権威が、ここでは刃より強い。
クロエは王妃の腹部の布を慎重にずらした。
傷が見えた。
刃物で裂かれたような直線ではない。
破片が抉ったような、歪な裂傷。周囲が紫色に腫れ、泥と布屑が入り込んでいる。
血は今も溢れている。動脈ほど噴き出してはいないが、それが逆に怖い。
じわじわと失っていく血は、気づいた時にはもう遅い。
クロエは指先に月光を集めた。
傷を塞ぐというより、組織の縁を寄せる。
出血を抑えるだけなら、血管の収縮と凝固を促せばいい。
魔法が条件を書き換える力なら、条件をこうする。
「血は、ここから外へ出ない」
クロエは小さく詠唱した。言葉は、森で使うもののまま。
「月の縁よ、閉じろ」
指先の光が、傷口の縁を撫でた。
血の流れが、目に見えて遅くなる。
完全には止まらない。だが勢いが落ちる。
命の砂時計が、少しだけゆっくりになる。
クロエはすぐに瓶を開けた。
中身は透明に近い淡い青。
セレネが作る止血ポーションは、見た目が綺麗すぎて逆に怖い。
匂いは薬草と鉄。少しの酸味。凝固促進と鎮痛、軽い抗菌、森用の万能薬だ。
布に少量を含ませ、傷口の周囲に押し当てる。
じわっと熱が走り、王妃の指先が微かに反応する。呼吸が一瞬乱れ、また戻る。
「…効いてる」
クロエは自分に言い聞かせるように呟いた。
次は傷の中の異物だ。
破片が残っていれば、治癒で塞ぐだけでは膿む。感染する。
腹部は特に危険だ。だが今、この場で全部を取り除くのは無理。
なら、優先順位を決める。
止血、ショック対策。
呼吸の維持、体温の維持。
クロエは周囲を見回し、叫んだ。
「布!清潔な布を!あと熱い湯か、お酒!消毒できるもの!」
港の兵は一瞬固まったが、アリシアが即座に命令を飛ばす。
「布を持て!酒樽を割れ!急げ!」
人が動く。物が集まる。港の混乱が、治療のための秩序に変わっていく。
その間にも、クロエは魔法を重ねる。
月光を薄く広げ、王妃の腹部周辺の痛覚を鈍らせる。
意識が戻った時の暴れを抑えるためだ。呼吸が浅くなるのを防ぐためでもある。
そして、どうしても気になる内出血の可能性。
クロエは掌を傷の上に置いた。触診。
柔らかさ、硬さ、腹の張り。腹部が妙に冷たい。
血が腹腔内に溜まっているとしたら、皮膚の下が張る。だが今は判断材料が少なすぎる。
「…お願い、持って」
クロエは自分の手を補助してくれる人が必要だった。
だが周囲は鎧の男ばかりで、皆、手の出し方が分からない。
その時、細い手がクロエの横に伸びた。
アリシアが、膝をついていた。
「私が押さえる。どこ?」
声は震えているのに、手は震えていない。
血の匂いの中で、王女は仕事を選んだ。泣くのは後だ、と言わんばかりに。
クロエは一瞬、息を呑んだ。
姉だ。
目の前で、母の腹を押さえる姉。
クロエは感情が喉に上がるのを、歯で噛み砕いた。
「…ここ。傷の上を強く押さえないで。圧迫で出血を抑える」
アリシアが頷き、言われた通りに手を置く。
その指先が、ほんの少しだけ月光に照らされる。
クロエの魔法が漏れているのだ。アリシアはそれに気づいたのか、気づいていないのか。
今はただ、必死だった。
酒が届いた。兵が湯を運んできた。
クロエは布を酒で湿らせ、手袋代わりに巻いた。
粗末な衛生だが、何もしないよりはいい。
傷の周囲を拭い、見える範囲の異物を慎重に取る。
王妃の呼吸が乱れるたび、クロエは月光で痛みを薄める。
時間が、指の隙間からこぼれ落ちていく。
その時、背後で空気の質が変わった。
セレネの魔法が、港の雑音を一瞬だけ遠ざけたような、妙な静けさ。
クロエは振り向く。
セレネは国王の胸元に掌を当てていた。
月光の輪が二重、三重に重なり、まるでここから先へ行く境界を描いているみたいだった。
セレネの顔は、無表情に近い。
救おうとしている、というより確かめている。
そして、セレネが小さく首を振った。
その仕草だけで、クロエの背筋が冷えた。
国王は。
クロエは視線を戻し、王妃に集中し直す。
「止血、もう少し。出血が減ってきた」
確かに血の滲みが薄くなっている。
魔法とポーションが効いている。
だがこれは繋いでいるだけだ。
根本の処置には医師団が要る。縫合が要る。内臓損傷があるなら手当が要る。
クロエは決断した。
「…縫います。浅いところだけでも閉じます。感染のリスクはあるけど、止血を優先します」
アリシアが強く頷いた。
「お願い。お願い…」
声が掠れていく。王女としての命令ではなく、娘としての祈りだった。
クロエは針を取り、糸を指に巻いた。手が少しだけ震えた。
人を縫うのは初めてだ。
これは人で、しかも母かもしれない。
その瞬間、またセレネの手がクロエの肩に触れた。
今度は止めるためではない。
支えるための、軽い圧。
「お願い」
短い一言。
クロエは頷き、針を進めた。
酒で湿らせた布で傷口を拭い、縁を寄せ、浅いところだけを縫う。
魔法で組織が寄っているうちに、物理で固定する。
糸が肌に沈み、結び目が小さく揺れる。
王妃の呼吸が一瞬、深くなった。痛みが反射で通ったのだろう。クロエはすぐに月光で鎮める。
「大丈夫…大丈夫…」
それは王妃に言っているのか、自分に言っているのか分からない。
縫い終わった時、クロエはようやく顔を上げた。
アリシアが、クロエを見ていた。
涙が頬を伝い、でも目はまっすぐで、逃げない。
恐怖の中で、王女の目と、娘の目が混ざっている。
「…あなた、名前は」
掠れた声。
クロエは喉が詰まった。名乗れば変わる。名乗らなければ、それでも変わる。
今この場に立った時点で、もう森だけのクロエではいられない。
クロエは息を吸い、言った。
「…クロエ。錬金術師です」
名を出した瞬間、アリシアの瞳がほんの一瞬だけ揺れた。
引っかかったのか、偶然か、分からない。
ただ、何かが胸の奥を叩いたような揺れだった。
その揺れを切り裂くように、医師団の声が遠くから響いた。
「道を開けろ!医師団だ!」
やっと来た。
クロエは立ち上がりかけて、ふらついた。足が痺れている。呼吸が浅い。魔力も削れている。
その時、セレネが低く言った。
「医師に渡せ。ここから先は、政治になる」
クロエは、王妃の顔を見た。
呼吸はまだある。出血は抑えた。完全ではないが、時間は買った。
クロエはアリシアに向き直る。
「医師団に今したことを伝えて。止血と縫合、ポーションの内容」
アリシアは泣きながらも、強く頷いた。
「…ありがとう。お願い…お願い、まだ…」
クロエはその言葉の続きを聞く前に、医師団へ場所を空けるため一歩下がった。
その背中に、港の風が吹く。
嫌な風だとセレネが言った風。
そしてクロエは気づく。
ここから先は、母を救えるかどうかだけじゃない。
自分が誰かが、もう逃げ場なく問われる。
アリシアの瞳が、クロエの銀の髪を見ている。
医師団の誰かが、クロエの顔を二度見した。
セレネは黙っている。黙ったまま、月の魔女の目で、港の空気、政治の匂いを嗅いでいる。
その時、担架のそばで医師の声が震えた。
「…陛下は」
言葉が続かない。
それだけで、港のざわめきがまた変質した。
クロエの胸の奥が、冷たい音を立てて沈んでいく。
そして、アリシアの小さな「いや」という声が、潮騒に溶けた。
医師団が王妃を担架ごと持ち上げようとした、その瞬間だった。
「動かすな、腹部だ、揺らすな!」
「布を追加、圧迫を維持しろ!」
怒号と足音と、金具の鳴る音が渦を巻く。
担架がわずかに傾き、王妃カタリーナの体が揺れた。
その揺れが、意識の底に沈んでいたものを引き上げたのか。
カタリーナのまぶたが、薄く震えた。
誰も気づかなかった。いや、気づいても信じられなかった。
人は死にかけの者が目を開ける瞬間を、なぜか見落とすものだ。
願いが強すぎると、現実が遅れる。
だがクロエは気づいた。
目が、開いた。
焦点は合っていない。瞳孔が光を拾い損ねて揺れる。
喉がひくつき、息が引っかかる。
それでも確かにこちらを見ようとしている。
アリシアが息を呑んだ。
「母上…?」
カタリーナの視線が、まず黄金の髪へ引き寄せられた。
次に銀の髪へ。
クロエと目が合った。
ほんの一瞬のはずだったのに、その一瞬が、十三年ぶんの時間を一気に巻き戻したみたいだった。
港の臭いも、血の赤も、騎士の甲冑のきらめきも、全部が遠のいて、ただ二人の視線だけが細い糸で繋がる。
カタリーナが、小さく声を上げた。
それは悲鳴じゃない。
驚きでもない。
確信が胸を殴った音みたいな声だった。
「…ク…ロエ、なの?」
掠れている。喉の奥が血と痛みで塞がって、言葉が崩れる。
それでも名前だけは、どうしても形になった。
「クロ…エ、よね」
クロエの背筋が凍り、同時に熱くなる。
心臓が痛い。
呼吸が浅くなる。
目の奥がじわりと熱い。
カタリーナの唇が、わずかに笑おうとして歪んだ。
涙ではない。血でもない。母親が見つけたという顔だ。
「…お母さんよ…クロエ」
その言葉が落ちた瞬間、クロエの中で何かが、音を立てて折れた。
森で育った十三年が、ただの避難だったと知ってしまう。
忘れたふりをしてきた「王女クロエ」が、あまりにも簡単に、母の一言で現実に引きずり出される。
カタリーナの目が、もう一度だけクロエを映した。
そして途切れた。
まぶたが落ち、首がわずかに傾き、呼吸が弱くなる。
意識がまた闇へ沈む。
医師団が慌てて叫ぶ。
港の空気が一瞬だけ凍った。
凍ったのは、恐怖のせいじゃない。
音が消えたのだ。
誰かが魔法を使ったわけではない。結界が張られたわけでもない。
けれど確かに、世界が一拍だけ無音になった。
人の脳が、理解できないものを見た時に、勝手に音を切るみたいに。
その無音の中で、ただ一人、はっきりと動いた影があった。
アリシア。
黄金の髪の少女が、躊躇なくクロエの手を掴んだ。
指が熱い。震えている。けれど握力は強い。逃がすつもりがない握り方。
アリシアはクロエの目を見た。
王女としての命令でも、娘としての懇願でもない。
もっと短く、もっと決定的な言葉。
「来て」
たった二文字の命令。
短い。だが拒否できない言葉だった。
クロエは声が出なかった。
クロエと呼ばれた瞬間から、もう言い訳は消えた。
森の魔女としての生活も、匿名の錬金術師としての立ち位置も、全部今この港で崩れていく。
セレネが少しだけ目を細めた。
何も言わない。
止めない。
それが、最初の夜に手を伸ばしてくれた魔女なりの、黙った承認だった。
アリシアはクロエの手を引いたまま、医師団に鋭く言い放つ。
「母上は任せる!最優先で王宮へ!護衛を倍にしろ!」
そしてクロエにだけ、声を落として言う。
「…逃げないで」
その言葉は命令じゃない。
知っているという響きだった。
クロエは、震える息を吸い込みようやく頷いた。
もう、戻れない。
港の喧騒が再び耳に戻ってきた時、クロエの世界もまた、別の色に塗り替わり始めていた。
王宮の医務室の前は、港とは別の意味で騒がしかった。
叫び声はない。悲鳴もない。
けれど、足音が途切れない。
布が擦れる音、器具がぶつかる音、紙の束がめくれる音。
命を救うための音と、国を保つための音が同じ廊下に折り重なっている。
扉の向こうでは医師たちが動いているはずだ。
湯を沸かし、刃物を煮沸し、布を裂き、薬を測る。
魔術師がいれば治癒の詠唱が聞こえるかもしれない。
だが、この廊下まで届いてくるのは、せいぜい短い命令と、抑えた声だけだった。
「水を追加!」
「灯りを!」
廊下には人が溜まっていた。
侍女や侍従が、伝令のように行き来する。
騎士が鎧のまま壁際に立ち、手は剣から離れているのに目だけが鋭い。
宰相らしき老臣が廊下の端に現れ、内務卿、財務卿。
王国府の上がぞろぞろと集まってくる。
彼らは声を荒げない。ただ、顔色が違う。顔が会議の顔になっている。
王が倒れ、王妃が瀕死。
この瞬間、国の重さが廊下に沈んでいる。
その中心から少し外れた場所に、二人の少女が立っていた。
アリシアとクロエ。
その少し後ろに、セレネ。
セレネは相変わらず、だらしない外套を羽織り、髪は適当に束ねただけで、王宮の光の中では明らかに異質だった。
けれど誰も彼女を咎めない。港で見たものが、誰の口も塞いでいる。
王妃は「クロエ」と呼んだ。
その一言が、王宮の廊下にまで影を落としていた。
アリシアは、何も言わずにクロエを見ていた。
クロエも、何も言えなかった。
そもそも、何を話せばいい?
「姉さん」
「ただいま」
「十三年、森にいました」
「私はクロエです」
どれも言葉としては軽すぎる。どれも刃物みたいに重すぎる。
言った瞬間に、世界が決定してしまう。
森の十三年を、王女の十三年に変換してしまう。
クロエは唇を開きかけて、閉じた。
アリシアはそれを見て、さらにじっと見る。
目線が、顔だけじゃない。髪、肌、手。指先の硬さ。
爪の形。背の伸び方。姿勢。呼吸の癖。
まるで十三年分の生活を読み取ろうとしているみたいに。
クロエはその視線に耐えながら、ふと気づいた。
アリシアの目は、港で指揮を取っていた時の目と同じだ。
泣いていたはずなのに、折れていない。誰かの上に立つ目。国を動かす目。
けれど今、その目は姉の目でもあった。
言葉を探しているのは、クロエだけじゃない。
アリシアもまた、言葉を選べずにいる。
きっと一言で済まないと知っている。だから彼女は、黙って見ることを選んだ。
クロエの十三年を。
自分が失った十三年を。
隣に寝ていたはずの妹が、どこで何をして、どんな目をして、どんな手をして、ここに立っているのかを。
廊下の向こうで、宰相が低い声で誰かに言った。
「刺客の件、港湾警備の再編が急務だ。内務卿、治安改革局を」
「財務卿、必要な予算を。王都の警備を倍にする。連邦と帝国の使者が嗅ぎつける前に手を打て」
「宰相、アリシア殿下への権限移譲を…」
政治の言葉が、確定の刃のように飛び交う。
その中で、アリシアだけはクロエを見続ける。
やがて、アリシアの指が微かに動いた。
クロエの袖口。森の布地の粗さに、そっと触れる。
確かめるみたいに。
そして、ほんの少しだけ声を落とした。
「…痛かった?」
それは、王女の問いではない。
政治の問いでもない。
十三年分の空白に向けた、姉の問いだった。
クロエの喉が詰まった。
痛かった。寒かった。怖かった。寂しかった。
救われた。育った。生きた。
全部が混ざって、言葉にならない。
クロエは、ただ小さく首を振った。
でもそれだけじゃ嘘になる気がして、首を縦にも振った。
肯定と否定が同時に起きる。
アリシアはそれを見て、まぶたを一度だけ強く閉じた。
そして、再び開く。
また王女の目に戻っている。泣く時間を自分に許さない目だ。
「…ここにいて」
命令ではないのに、拒否できない言葉。
クロエは頷いた。
セレネが後ろで、鼻を鳴らすように小さく笑った。
「まったく。面倒が一気に来たねぇ」
その声はいつもの怠け者の婆さんのものに近い。
けれど、声の奥にはまだ月の冷たさが残っている。
ここは森じゃない。王宮だ。魔女が嫌う人の巣だ。
医務室の扉の向こうで、医師の声が一段高くなった。
誰かが息を呑む音が廊下を走る。
アリシアの肩が、ほんのわずかに震えた。
クロエは気づいてしまう。
アリシアは強い。
でも、十三歳だ。
十三歳の女の子が、この廊下の重さを一人で背負っている。
だから、彼女はクロエを見ている。
妹として。
でも同時に、証拠として。
母が呼んだ名前。
銀の髪。
港での治癒魔法。
クロエという存在が、王家の物語を揺り戻す鍵になる。
アリシアはそれを理解している目だった。
そしてその理解の上で、まだ、姉でいようとしている目だった。
言葉はない。
でも、視線だけで十三年分が押し寄せる。
廊下の空気は、医務室の扉一枚隔てて、命と政治の境界になっていた。
その境界の上で、黄金の姉と銀の妹は、ただ見つめ合っていた。
医務室の扉が、内側からわずかに開いた。
隙間から漏れるのは、薬草と血と湯気の匂い。灯りの熱。忙しく動く人間の汗。
呼ばれたのは、名ではなく立場だった。
「…殿下」
医師の声は低い。続くはずの言葉が、喉の奥で折れている。
言えないのではない。言わないのでもない。
言わなくても伝わってしまう類の報告だった。
それだけで、分かった。
廊下の空気が、さらに重くなる。
アリシアは何も言わず、クロエの手を繋いだまま扉の中へ入った。
逃げないように。離れないように。
それは命令でも、優しさでもなく繋いでいないと崩れるという本能みたいな動きだった。
クロエも、引かれるまま足を動かした。
医務室の中は明るかった。明るすぎるほどに。
灯りがいくつも焚かれ、白い布が広げられ、湯気が立ち、器具が並ぶ。
医師団が壁際へ退き、必要な動きだけを残して場を作っていた。
中央に、カタリーナが横たわっている。
出血は抑えられている。クロエの縫い目も、布も、その上からさらに処置が施されている。
だが顔色は薄く、唇の血の気が消え、呼吸は浅い。
胸の上下が、かすかな波のように揺れるだけ。
僅かに、意識がある。
目は完全には開かない。まぶたの下で瞳が動いているのが分かる。
声を出す力はほとんどない。
けれど、いまこの時間が最後だと、部屋の全員が理解していた。
アリシアがベッドの脇に膝をついた。
黄金の髪が肩から落ちる。手は迷わず伸びた。
カタリーナの右手を取る。
細い指。冷たい皮膚。生きているのに、すでに温度が遠い。
アリシアは唇を噛んだ。泣き声を出さないために。王女としてではない。娘として、崩れないために。
そして、アリシアはクロエに視線を投げた。
言葉はない。
けれど、意味は明確だった。
来て、触れて。
この瞬間を、あなたも受け取って。
クロエは足が動かなかった。
怖かった。
手を取ったら、決まってしまう。母と娘だと、世界が決めてしまう。
森で生きてきた自分の居場所が、消えてしまう。
それでも、アリシアの視線が逃がさない。
クロエは恐る恐るベッドの反対側へ回り、カタリーナの左手を取った。
冷たい。
それでも、指先が微かに反応した気がした。握り返すほどの力ではない。
けれど、そこにいると知ったみたいな、微細な動き。
カタリーナの喉が、ひくりと動く。
誰かが息を止める。
そして、最後の言葉が、糸のように紡がれた。
「…アリ…シア…」
声は掠れて、途切れ途切れだ。だが名前は形になった。
アリシアが顔を寄せる。
「ここにいます、母上」
カタリーナのまぶたが少し持ち上がる。焦点は合わないのに、確かに娘を見ようとしている。
「…ありがとう」
短い言葉。それだけで、母がどれほど娘に頼っていたかが分かってしまう言葉。
「…あなたを…一人にして…」
アリシアの手が震えた。指先がカタリーナの手を強く握りしめる。
「…ごめん…ね」
一人にすること。
このあとアリシアを待つ運命。
王を失った国の、最前線。
帝国と連邦。島国との交易。王国府。宰相。大貴族。全てが十三歳の肩に降ってくる。
それを母は知っている。
知っていて、止められない。
だから謝るしかない。
アリシアは声を出そうとして、出せなかった。喉が詰まって、言葉が死ぬ。
カタリーナの視線が、ゆっくりとクロエへ移る。
呼吸が一つ、深くなる。
「…クロ…エ…」
クロエは背筋が強ばった。名を呼ばれるだけで、心臓が痛い。
「…ごめん…ね…」
その言葉が、刃のように優しかった。
「…あなたを…手放して…しまった…」
十三年前の夜のことを、クロエは思い出す。
侍女の叫び。音の戻った瞬間。
黒装束の腕。
森の土、泣き声。
月光、セレネの手。
母は知らない。知らなかった。奪われたのだ。
でも母は、自分を責める。
「…見つけることが…できなかった…」
クロエの目の奥が熱くなった。涙が勝手に溜まり、でも落ちない。落としたら壊れる気がした。
「…こんなお母さんで…ごめん…ね…」
クロエは首を振りたかった。
違う、と言いたかった。
でも声が出ない。
喉の奥が焼けるみたいに痛い。
「…でも…最後に…会えて…よかった…」
その言葉は、許しではなく、祈りだった。
最後に会えたことだけを、救いとして抱くしかない人の言葉だった。
カタリーナの指が、ほんの少しだけ動いた。
右手がアリシアの手を、左手がクロエの手を。
握りしめるほどではない。
ただ、繋いだと証明するくらいの圧で。
そして息が、止まった。
吐く息が細く、細くなって、ふっと消える。
次の吸う息が、来ない。
医師が脈を取り、首の動脈を探り、ほんの一瞬だけ何かを確認してから、目を伏せた。
誰も声を上げなかった。
声は出せるのに、出ない。
それはさっき港で起きた無音とは違う。
魔法でも錯覚でもない。
人が、喪失を前にした時にだけ生まれる沈黙だった。
アリシアの肩が、崩れた。
それでも手は離さない。
カタリーナの右手を握ったまま、そしてクロエの手も繋いだまま。
クロエは、母の左手を握ったまま、動けなかった。
冷たさが増していく。
現象として理解できる。
体温が下がり、循環が止まり、筋肉が緩む。
理解できるのに、理解したくない。
セレネが、部屋の隅で静かに息を吐いた。
「…そうかい」
たったそれだけ。
魔女は涙を流さない。涙がないわけじゃない。ただ、流す場所を間違えないだけだ。
医師が低く告げた。
「…王妃殿下、薨去」
その宣言が、国家の言葉としてカタリーナを死者に変える。
その瞬間、アリシアの手がきつくクロエを握った
逃がさないために。
崩れ落ちないために。
これから先、二人で受ける運命の重さを少しでも分け合うために。
クロエは、初めて声を絞り出した。
「ごめ、ん…」
誰に向けた言葉か分からない。
母に、姉に。
セレネに、十三年前の自分に。
そしてその小さな声は、医務室の灯りの下で、ひどく頼りなく震えた。
医務室の灯りは、妙に白かった。
カタリーナの手から、温度が抜けていく。
アリシアはまだ右手を握っていた。
クロエも左手を握ったままだった。
離したら、すべてが「終わった」ことになってしまう気がして。
だが、扉の向こう、廊下に溜まっていた国が、その猶予を許さなかった。
控えめな足音。
抑えた咳払い。
そして、衣擦れ。
宰相が入ってきた。
老臣は状況を見て、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
哀悼の礼。だが、それは一拍で終わる。
涙を流している暇はない。彼の背中には、帝国と連邦の影が貼り付いている。
港での爆発の噂は、今日中に国境を越える。
宰相はアリシアの前で片膝をついた。
本来、親を失ったばかりの少女に向ける姿勢ではない。
だが、アリシアは普通の少女ではない。
第一王女。
王位継承第一位。
そして今この瞬間から、国の中心は彼女に移っている。
空白を作れば、誰かがそこに手を突っ込む。
ノルド帝国が。
リュミエール連邦が。
あるいは港の裏で笑う依頼主が。
宰相は声を低くし、だが一切揺らさずに問うた。
「殿下。どうなさいますか?」
その一言で、部屋の空気が変わった。
母の死の空気から、国の継承の空気へ。
アリシアの肩が、わずかに震えた。
怒りなのか、悲しみなのか、寒さなのか分からない。
十三歳の身体が受け止めるには重すぎる質問だ。それでもアリシアは顔を上げた。
その目は泣いていなかった。
泣けるはずがない。
泣いた瞬間、国が崩れる。
アリシアはゆっくりと、母の手を布の上に戻した。
指先が離れるとき、ほんの少しだけ躊躇した。
けれど、離した。
そして、クロエの手はまだ掴んだままだった。
逃がさない。
逃げない。
それを互いに確かめ合うみたいに、指が絡む。
アリシアは宰相を見下ろした。
「…空白は作りません」
声は細い。だが、折れていない。
「父上は…陛下は薨去。母上も薨去。なら、私は」
一瞬だけ、喉が詰まった。
即位という言葉は、母の横ではあまりにも冷たすぎる。
でも、言わなければならない。
アリシアは息を吸い、言葉を選んだ。
「私は今日から、王国の意志です」
その言い回しは、宰相が望む宣言に近い。
法と儀礼の観点では、正式な即位には手続きが要る。
戴冠式、諸侯の承認、儀礼、各国への通達。
だが、それらが済むまでに「誰が命令を出すか」を決めなければならない。
アリシアはそこを理解していた。
「宰相。王国府は即刻、非常体制へ」
「港湾警備は倍。王都の門を閉じ、出入りを記録。密偵の洗い出しを。内務卿に今すぐ動かさせて」
宰相の目が僅かに細まる。少女の言葉ではない。
だが彼はそれを否定しない。むしろ安堵に近いものが滲む。
「財務卿には、臨時予算を。騎士団は王都防衛を最優先」
「近衛は私の直轄。関係者の聴取準備を」
アリシアは宰相を見据えたまま、次を告げる。
「これは事故ではない。王家を狙った攻撃です」
「港の爆発の原因を特定し、幕府の船員も含めて事情聴取」
「だが、幕府との関係は切るな。敵が望むのは孤立だ。幕府に共同調査を提案して」
宰相が静かに頷く。
「承知いたしました。殿下」
宰相がもう一度、言葉を選び直すように口を開く。
「では、殿下。暫定的にでも、御名を。国に示す旗が必要です」
その問いは残酷だった。
名前を掲げた瞬間、アリシアは「悲しむ娘」から「国家」になる。
アリシアはほんの少しだけ目を伏せた。
そして、クロエの手を強く握った。
その握りが、答えだった。
一人ではない。
でも、逃げない。
アリシアは顔を上げた。
「私は、第一王女アリシア=フォン=ヴェルディア」
「アルトフェン王国の継承者です」
短く明確に。
そして、最後に付け足す。
「…誰にも、この国を奪わせない」
その瞬間、宰相の背筋がわずかに緩んだ。
国の空白が埋まったからだ。
ここから先は儀礼と手続きで、いくらでも形を整えられる。
宰相は頭を垂れた。
「御意」
そして立ち上がり、控えていた官僚たちへ視線を投げる。
「聞いたな。各々、殿下のご命令を遂行せよ。遅れれば国が死ぬ」
人が動き出す。
医務室の中で、政治の歯車が回り始める音がする。
アリシアは、動かないまま、クロエを見た。
今度は姉の目ではなく、王の目だ。
「…あなたは、ここにいて」
短い言葉。
だが今度は、さっきとは違う意味で拒否できない。
クロエは息を呑み、頷いた。
森の魔女でいられなくなる。
セレネの言葉が、遅れて胸に刺さる。
そしてクロエは理解した。
この部屋で、失ったのはアリシアだけじゃない。
森もまた、静かに死んだのだ。
医務室を出る直前、アリシアは宰相にだけ視線を投げた。
「…少しだけ時間を」
その声は低く、しかし命令だった。
宰相が言い返す余地はない。今のアリシアは悲しむ娘ではなく、国の中心だ。
彼は一礼して頷いたが、すぐに付け加える。
「殿下、状況が」
「分かっています」
遮るようにアリシアが言う。
そして、さらに。
「宰相も同席してください」
宰相の眉がほんの僅かに動いた。政務の最中に、王女の私的な会話へ同席を求められることは稀だ。
だが、今は稀では済まない。港での事件、王妃の最後の言葉、銀髪の少女、月の魔女。
これからの国の運命そのものが、そこに絡んでいる。
宰相はもう一度深く頭を下げた。
「御意」
アリシアの執務室は、王宮の奥まった場所にあった。
豪奢というより、機能が先に立つ部屋だ。
窓は高く、外が見えすぎない角度。
壁には地図が掛けられ、机の上には封書と、開封済みの報告書が積まれている。
蝋の匂い、紙の匂い、インクの匂い。政治の匂い。
ここは子供部屋ではない。
十三歳の第一王女が、すでに政務を行っていた場所だった。
机の端には小さな砂時計。隣には港湾警備配置図、王都の門の巡察表、交易船の入港記録。
侍従が用意したのだろうが、それを読む目がここにはある。
机の引き出しは整っていて、必要な印章が揃っている。
筆跡の癖からして、すでにアリシア自身が何度も署名している。
扉の前には近衛が控えていた。
鎧の隙間から見える目が硬い。中で何が話されるかを知らなくても、命令があれば剣になる目だ。
扉が閉まる。
外の足音が遠のき、部屋の空気が密になる。
そこに入ったのは四人。
アリシア。
クロエ。
セレネ。
宰相。
セレネは部屋に入った瞬間、鼻で笑った。
「紙と蝋と権威の匂いだねぇ。森の空気とは真逆だ」
その言葉は軽口なのに、部屋の重さを少しだけ緩めた。少しだけ、だ。
アリシアは椅子に座らなかった。
机の前に立ったまま、窓の方を背にする位置を選ぶ。
外光が背後にあると、顔の表情が読み取りにくい。
十三歳の少女が、自然にそんな位置取りをしていることが恐ろしい。
宰相も、席を求めない。
少し後ろ、机の斜め前に控え、いつでも助言できる距離に立つ。権威の距離だ。
クロエは、足の置き場が分からなかった。
森では、立つ場所を自分で決められた。
ここでは、立つ場所すら意味を持つ。王女の前。宰相の前。魔女の前。
自分は何者としてここにいるのか、その答えがまだ定まっていない。
だからクロエは、セレネの半歩前に立った。無意識に師匠の影を背負う位置を選んでいた。
アリシアはクロエを見た。
目が、言葉の代わりになる。
「…宰相。あなたは今この場で聞いたことを、私の許可なく外に漏らさないで」
宰相は即座に頷いた。
「御意。殿下」
「セレネ」
アリシアが初めて、月の魔女の名を口にした。敬称はつけない。侮辱ではない。距離の測り方だ。
「あなたは、何者ですか」
直球だった。
クロエの肩がわずかに強張る。
セレネは欠伸を噛み殺すように口元に指を当て、あえて気怠げに言った。
「森の婆さんだよ。たまたま拾った子を育てただけさ」
「…拾った子」
アリシアの視線が、すぐにクロエへ移る。
「あなたは?クロエ」
言い切りだ。疑問ではない。
「母上が、そう呼んだ。私も聞いた。港であなたが治癒をしたのも見た。あなたの髪も…」
言葉が途中で止まる。銀の髪に触れるところで、一瞬だけ姉の顔が覗く。だがすぐに消える
「第二王女クロエは病床にあるとなっている」
「母上がどうしても、諦めることが出来なかった」
クロエの喉が鳴った。
そうして国は回ってきた。
そうして姉は十三年を過ごした。
アリシアは紙束を机に置き、手を離した。
「母上は、最後にあなたを見てクロエと呼んだ」
その事実だけが、紙を無力にする。
アリシアの声が少しだけ低くなる。
「あなたは、誰ですか」
部屋が静かになった。
外の近衛の気配すら遠い。
クロエは言葉を探した。探して、見つけられなかった。
「私は…」
喉が痛い。言えば世界が変わる。
言わなければ、世界が決まらない。だが決まらない世界は、国にとっては空白だ。空白は狙われる。
その時、セレネが口を挟んだ。
「答えなんて一つしかないだろう?クロエはクロエだ」
「それを証明できますか」
アリシアの声が即座に返る。
宰相がわずかに息を吸った。
ここが核心だ。血統は政治だ。証明がなければ旗にならない。
旗にならなければ、敵に利用される。
セレネは肩をすくめた。
「証明、ねぇ。血を見る?祈りを見る?王宮の賢者にでも聞くかい」
「…必要です」
アリシアは一歩も引かない。
「私は今、国を背負っています。帝国と連邦が嗅ぎつける。幕府も動く。貴族も動く」
「クロエが王女だと確定すれば、利用しようとする者が出る」
その利用には、守るための利用も含まれる。宰相はそれを理解している顔をしていた。
アリシアはクロエに視線を戻す。
その目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「私は、母上の言葉を嘘にしたくない」
そして、続けた。
「私はあなたを、放り出したままにしたくない」
王女の言葉ではない。姉の言葉だ。
クロエの胸が、苦しいほど締め付けられる。
セレネが、机の端に肘をつきそうになって宰相に睨まれ、やめた。
「面倒なことになったねぇ」
ぽつり。
その一言が、やけに正確だった。
部屋の中で、四人の立場がぶつかっている。
アリシアは国を守るために、答えを必要としている。
宰相は国を崩さないために、形を必要としている。
セレネはクロエを守るために、森の外の鎖を嫌っている。
クロエは、自分が誰なのかを言葉にした瞬間に、もう戻れないと知っている。
アリシアが、机の上の地図を指で叩いた。
「…今夜中に、方針を決めます」
その宣言は、決裁だ。
「クロエ。あなたが王女であるなら、あなたは私の妹である前に、アルトフェンの札になる」
一瞬だけ目が痛むほど冷たくなる。
「が、あなたを勝手に札にしない」
十三歳の第一王女が言うには、あまりに覚悟が重い。
アリシアは宰相を見る。
「宰相。確認手段を挙げてください。宗教、血統、魔法、何でも。最短で」
宰相は少しだけ顎を引いた。
「御意。王家の血統を確認する儀式は三つございます」
「王家の紋章の反応、聖堂の祝別、そして…王家の宝物庫にある王証の共鳴」
王証。
その単語に、セレネが目を細めた。
「…へぇ。まだ残ってたのかい」
アリシアは逃さない。
「知っているの?」
セレネは肩をすくめ、あくまで面倒そうに言った。
「知ってるさ。嫌いだからね、そういうの」
そしてクロエへ目を向ける。
「クロエ。選びな」
短い言葉。
森の魔女として生きるか。
王女として戻るか。
どちらも簡単じゃない。
アリシアはクロエを見ている。
クロエの十三年を見るように。
そしてその十三年を、これから先も見ていく覚悟がある目で。
セレネが「王証」と口にした瞬間、空気がわずかに変わった。
嫌いだからね、と吐き捨てるように言ったのに、目だけは知っている目だった。
古いものを思い出す目。森の怠け者の目ではなく、月の魔女の目だ。
クロエは言葉にしないまま、セレネを見た。
セレネも、それを見返した。
しばらくの沈黙。アリシアが何か言おうとして息を吸った、その一瞬前に、セレネが先に口を開いた。
「王証にしな」
あまりにもあっさりとした口調だった。
宰相が「…は」と小さく息を漏らす。
アリシアの眉が微かに動く。
クロエは目を瞬いた。止めると思っていた。嫌がると思っていた。
王宮の鎖を嫌うはずの魔女が、真っ先にそれを選ばせる。
セレネは肩をすくめた。
「証明が必要なんだろ?一番早くて、一番面倒が少ないのはそれだ」
「面倒が少ない…?」
アリシアが半歩だけ前に出た。声が抑えられている。王女というより、今は確認する者の声だ。
セレネはその視線を真正面から受け止めて、にやりと笑った。
その笑みは、森で昼寝している婆さんの笑みじゃない。
夜更けに月を背負って、禁じられた薬を煮詰める時の笑み。
境界の向こうを覗く時の笑み。
人が嫌がる真実を、平然と掌に載せる時の笑み。
魔女たる笑みだった。
「久しぶりに見るのも悪くない」
言いながら、セレネはクロエの銀の髪を触れはしない。
触れなくても、そこにあるものを確かめるみたいに目で撫でた。
「あれはね、王家のための道具じゃない。王家が借りてるだけの古い玩具だよ」
宰相の顔色が僅かに変わった。
だが否定できない。否定するには、あまりにセレネの言い方が知っている者のそれだった。
クロエはごくりと唾を飲み込んだ。
王証が気になる。
理屈のためでも、証明のためでもない。
もっと単純な、もっと原始的な衝動。
呼ばれている気がする。
そんな気がした。
クロエが口を開きかけた時、アリシアが先に言った。
「宰相。王証を出す手順を」
宰相は一拍だけ考え、即座に答えた。
「御意」
セレネは頷いた。
「行っておいで。森の外の面倒は嫌いだけど、こういう面倒は…ちょっとだけ面白い」
そして、魔女は笑った。
「だって、久しぶりなんだよ。王証が本気で鳴くところを見るのは」
その言葉に、クロエの背筋がぞくりとした。
鳴く?
共鳴する、反応する、と宰相は言った。
セレネは鳴くと言った。
つまり、王証はただの印章や宝玉じゃない。
もっと生き物みたいな振る舞いをするのかもしれない。
クロエは息を吸った。
もう森には戻れないかもしれない。
でも、戻れないかどうかを決める前に、確かめなければならない。
「…王証を見たい」
声は震えたが、言葉は折れなかった。
アリシアは、ほんの僅かに目を細めた。
それは、安心の表情に近かった。怖いのは、妹が逃げることじゃない。
妹が黙って消えることだ。
だから、言葉にしたクロエを見て、アリシアは小さく頷いた。
「分かった」
そして、宰相へ命じる。
「今すぐ準備を。近衛を呼んで。宝物庫へ向かう」
宰相は深く頭を下げた。
「御意、殿下」
セレネは、もう一度だけ魔女の笑みを浮かべ、クロエの背中を軽く押した。
「ほら。運命ってやつを、叩いて確かめておいで」
その一押しが、森と王宮の境界を越える合図になった。
宝物庫は、王宮の奥というより底にあった。
廊下の灯りが段々と減り、石が冷たくなり、空気に湿り気が混じっていく。
足音が吸われる。声が丸くなる。
ここは人のための場所ではない。物のための場所だ。
国の歴史と、取り返しのつかない決断が眠る場所。
扉は三重。
鉄と石とその間に薄く走る、目に見えない結界の線。
宰相が古い鍵を差し込み、近衛長が別の鍵を回し、最後にアリシアが掌を扉の中央に当てた。
扉の縁が淡く光る。
王家の血筋を確認するための、最初のふるい。
アリシアの掌から伝わる熱が、石に吸われていくのが見えるようだった。
次いで、扉が重く唸り、ゆっくりと開く。
中は暗い。
灯りを持ち込んでも、光が奥まで届かない。
光が吸い込まれるというより、古い空気が光を拒んでいる。
そこに置かれていたのは、剣でも冠でも宝玉でもなかった。
小さな鈴だった。
あまりにも小さく、あまりにも素朴で、拍子抜けするほどに玩具に近い。
掌に乗る程度の大きさ。
金属の色は月光に似た鈍い銀で、装飾は少ない。
けれど、その鈴には触れたくない種類の重さがあった。
何かを告げる鈴。
それだけで十分だ、と言っているような存在感。
宰相が声を抑えて説明する。
「王証は鈴でございます。王家の正統を示す、告知の器…」
器、という言葉が妙に正確だった。
中身が別にある。鈴そのものが価値なのではなく、鳴る音が価値なのだ。
セレネが鼻で笑った。
「相変わらず、嫌な趣味だねぇ。人の命を音で決める」
宰相は反論しなかった。反論できなかった。
王証がある限り、王家の正統は鳴るか鳴らないかに縛られる。
誰もがそれを知っているからこそ、鈴はここに厳重に仕舞われている。
近衛長が鈴を載せた箱を慎重に開ける。
内側は黒い布で敷かれ、鈴はそこに鎮座していた。
鎖も紐もない。持ち手もない。
鈴単体。まるで「余計なものを付けるな」と言っているみたいだった。
宰相がアリシアに目を向ける。
「殿下、まずは」
アリシアは黙って頷き、鈴を手に取った。
指先が触れた瞬間、鈴が僅かに冷たく光ったように見えた。アリシアは息を整え、鈴を軽く振る。
澄んだ音が鳴った。
高くない。派手でもない。だが耳の奥に残る。薄い光が耳の中で震えるような音。
その場にいる全員が、無言で受け止める。
「鳴った」ことそのものより、鳴ることが当然という空気がそこにあった。
アリシアは第一王女だ。王家の血だ。鳴って当然だ。
次に視線がクロエへ集まった。
クロエは喉が乾くのを感じた。
これが証明になる。
鳴れば王女。鳴らなければ何だ?
偽物?森の魔女?
言葉にならない現実が、鈴ひとつに圧縮されている。
セレネが、クロエの背中を軽く叩いた。
「ほら。叩いて確かめな」
クロエは一歩、前に出た。
箱の中の鈴が、小さく見えるのに、近づくほど大きくなる。
存在感が増す。まるで鈴がこちらを見ているような錯覚すらあった。
クロエは両手で鈴を取った。
冷たい。
でも嫌な冷たさじゃない。森の夜明けの冷たさだ。
月の光に触れた石の冷たさ。体温を奪う冷たさではなく、境界を整える冷たさ。
宰相の声が低く響く。
「アルトフェンの王家に連なる者なら、鳴らすことができます」
それは説明ではなく、宣告だった。
鳴らせ。
鳴らせば、国が動く。
鳴らせなければ、別の形で国が動く。
アリシアがクロエを見ている。
姉の目。
王の目。
その両方。
クロエは息を吸った。
音が、鳴るかどうか。
この瞬間、十三年分の空白が、たった一つの音に変換されようとしていた。
クロエが鈴を振った。
ほんの少しだけ手首を動かしただけだった。赤子のときの「あー」みたいに、最小限の力で、条件だけを揺らすつもりだった。
鳴った。
鈴は確かに鳴った。
けれど、それはアリシアが鳴らした音とは違った。
アリシアの音は澄んでいて、光のように耳の奥に残った。
金属の余韻が、空気に溶けていく鈴の音だった。
クロエの音は違う。
「ピッ、ピッ、ピ」
短く区切られた、妙に明瞭な音。
金属の揺れではなく、信号のような音。
耳の奥ではなく、鼓膜の表面を叩く音。
どこか、電子的。
スマホのアラーム。
あるいは家電のタイマー。
通知の音。
え?
鈴が、こんな音をする?
クロエの手が止まったまま固まる。
自分で振って、自分で驚いている。握っている鈴は冷たいのに、手のひらだけが熱い
部屋の空気が、また一拍だけ止まった。
宰相が最初に反応した。
眉間がほんの僅かに動く。
理解しようとして、理解の枠が見つからない顔。
儀式に慣れた老臣の表情が、数十年ぶりに想定外に揺れる。
近衛長が唾を飲む音が聞こえた。
「…鳴った、のか?」
思わず漏れた独り言は、疑問というより確認だった。
鳴った。確かに鳴った。
だが、鳴り方が違う。違うのに、否定できないほど明確に鳴っている。
アリシアの瞳が、ほんの少しだけ大きくなる。
驚き。困惑。
そして鋭い判断の光。
これは利用される。
これは隠さなければならない。
でも、本物だ。
その全部が一瞬で走った目だった。
セレネだけが、黙っていた。
黙ったまま、口の端だけを上げた。
笑っているのに、楽しそうではない。懐かしいのに、優しくはない。
森の婆さんの笑いではなく、月の魔女の笑い。
「やっぱり、そう鳴くかい」
クロエはセレネを見た。助けを求める目で。
「師匠、これなに?鈴だよね?鈴って、こういう音しないよね?」
言葉が早口になる。前世の感覚が勝手に溢れる。
理屈が追いつかない時、人は知っている単語で世界を押さえ込もうとする。
セレネは肩をすくめた。
「鈴の形をした告げ口さ」
告げ口。
その言葉が、妙にしっくりくる。
「王家の血に反応するだけじゃない。何を告げるかも、持ち主によって違う」
宰相が低く問う。
「セレネ殿…それは、どういう」
セレネは宰相を見もしないで、クロエの手元の鈴を見た。
「昔はね、王証はもっと素直だった。鳴れば正統、鳴らなければ否。王たちはそれで満足してた」
そして、クロエへ視線を移す。
「でもクロエ、お前は違うところから来た」
一瞬、クロエの背中に冷たいものが走る。
知ってる。
セレネは、クロエが転生者だと最初から勘づいていたのかもしれない。
十三年、黙っていたのかもしれない。
あるいは、今この瞬間に確信したのかもしれない。
「鈴はね、ただ血を見るだけじゃない。境界を見る」
セレネが言う境界という言葉は、いつも現実を二枚に割る。
森と王宮。
生と死。
王女と魔女。
そして現代と異世界。
鈴が鳴った音は、クロエの記憶に引っかかるように作られていた。
人間が一番強く反射で反応する音。
通知音。
警告音。
アラーム。
まるで王証が、クロエの内側の世界に合わせて告げようとしているみたいに。
アリシアが、静かに言った。
「鳴った。それで十分」
その言葉は宰相へ向けたものでもあり、クロエへ向けたものでもあった。
そう言っている。
宰相はすぐに頷いた。顔色はまだ固いが、政治家の顔に戻っている。
「御意。鳴ったという事実のみを記録し、音色の差異は」
「記録しないで」
アリシアが即座に遮った。
「宰相。あなたの胸にだけ留めて。私も留める。そして、ここにいる者以外には話さない」
宰相は一拍遅れて、深く頭を下げた。
「御意」
クロエは鈴を見た。
小さな鈴が、無言で掌に乗っている。
もう一度振りたくなる衝動があった。音の正体を確かめたい。
機構を調べたい。材質を測りたい。どこがどう鳴っているのか知りたい。理屈で理解したい。
でも、振れば振るほど、世界が決まっていく気がした。
セレネが小声で囁く。
「驚くな。王証は告げるものだ。お前の中の古い世界を、引っ張り出しただけさ」
宰相が、鈴へ視線を落としたまま呟いた。
「王証が異音を鳴らした例は、記録にございません」
「そりゃそうだろうねぇ」
セレネが笑う。
「お前たちは、境界の外を想定してないからさ」
クロエは鈴を箱に戻した。
冷たい布の上で、鈴は何事もなかったように静かになる。
けれど、クロエの耳にはまだ残っていた。
ピッ、ピッ、ピ
あまりにも現代的な、通知の音。
まるで王証が言っているみたいだった。
帰ってきたね
起きな、時間だよ
そしてクロエは理解する。
これは証明じゃない。
開始の合図だ。
宝物庫を出て、執務室に戻った空気は、さらに研ぎ澄まされていた。
王証が鳴った。しかも異音で。
それは証明であり、同時に火種でもある。
アリシア、クロエ、セレネ、宰相。
四人は机を挟んで向き合った。蝋燭の火が揺れ、壁の地図の影が伸びる。
外では近衛が無言で扉を守っている。ここで決めたことが、国の骨格になる。
ここでアリシアが口を開いた。
声は落ち着いていた。泣いた痕が残っているのに、すでに政務の声だった。
十三歳の第一王女の声。
「クロエが、十三年前に行方不明になった第二王女であることは、王証が認めた」
それは結論だ。
議論の余地を消すための言い方。
「でも、それをそのまま世に出すのは危険。だから…」
アリシアは一拍置き、机の上の書類の束を指で揃えた。考えが整理されている動き。
「カバーストーリーを作ります。クロエは十三年間、病で伏せていた」
「これをそのまま」
宰相の眉がわずかに動く。
病弱は政治の言い訳として、古くから使われる。
誰も追及しにくい。本人が表に出ない理由にもなる。王家の体面も保てる。
アリシアは続ける。
「幸い、あの事件は大きく漏れていない。最初から王女は私一人と思っている諸侯さえいるくらい」
その言葉は事実であり、同時に脅しでもあった。
知られていない今が最後のチャンスだ、という。
「病弱で政治に絡まないと分かれば、誰も文句は言わないはず」
セレネが鼻で笑った。
「文句は言わない。代わりに、勝手に想像する。病弱なら操れるってね」
宰相が頷く。
「だからこそ、“政治に絡まない”と見せつつ、守れる形が必要です」
アリシアはそこで、クロエを見た。
政治の目ではない。
港で手を取った時の、短い強さの目。
「かと言って、クロエを王宮のベッドに押し込むわけにはいかない」
クロエの喉が小さく鳴った。
それは救いだった。王宮に閉じ込められるのは、森と同じ檻になる。
しかも檻の鍵を持つのは自分ではない。
アリシアは決断を口にした。
「クロエ。王都に住みなさい」
言い切り。
「錬金術が使えるのよね?王都に錬金術のアトリエを用意するわ。そこで錬金術師として暮らしなさい」
宰相が補足するように言う。
「表向きは、王家の庇護を受けた有能な錬金術師」
「病弱ゆえ王宮勤めは難しいが、王都で静養しながら研究という形が自然でしょう」
セレネが片眉を上げた。
「王都で暮らすってのは、森の結界よりよっぽど見張りが多いよ」
アリシアは即答した。
「護衛は付ける。騎士団から一人。目立たないように。それでも危険なら、宰相、別口も」
宰相が短く頷いた。
「影の者を動かしましょう。護衛に見えない護衛です」
クロエが思わず息を飲む。
影の者。王宮の闇が、身近に来る。
アリシアはさらに言った。
「ついでに街の声を、こちらに流してくれればいいわ」
クロエの胸が、別の意味で跳ねた。
それは監視の役割でもある。だが、同時に仕事でもある。
居場所を与えるやり方だ。王女としてではなく、錬金術師として。
「必要な時だけ王宮に上がって」
アリシアは少しだけ口元を緩めた。
冗談みたいに聞こえるが、完全に本気の声。
「そうね…臨時のアルバイト王女として契約しましょう」
その言い方は、妙にクロエに優しかった。
王女に戻れではない。
王女という役割を、必要な時だけ貸してほしいという形だ。
セレネが、ふっと笑った。
「いいねぇ。王女を雇うとは」
クロエが思わず小さく言う。
「…アルバイトって」
アリシアが即座に返す。
「そう。あなたが選べるようにするため。王宮に居続けたら、あなたは道具になる」
言い切った後、少しだけ声を落とす。
「私は…それは嫌」
宰相が咳払いをひとつ。
「殿下。この方針で進めるなら、詰めるべき点が三つあります」
机の上に指を三本立てる。
「第一に、公式な身分の扱い。公表するなら病弱な第二王女として登録し直す必要がある。公表しないなら、王家の内輪のみに留めるか」
「第二に、居所と資金。アトリエは表の顔になります。場所選びは慎重に。貴族街に置けば目立つ。下町に置けば危険が増える。港湾寄りは情報が入るが、諜報も入る」
「第三に、対外。帝国と連邦、幕府。それぞれに何をいつ知らせるか。知られれば利用される。だが、隠し続ければ別の形で疑われる」
アリシアは頷いた。
「まず公表は最小。国内諸侯には、病弱の第二王女が存在する程度まで」
「対外は、状況を見て」
アリシアがクロエに視線を戻す。
「クロエ。あなたはどうしたい?」
問われた瞬間、部屋が少しだけ静かになる。
クロエは、自分の呼吸の音が聞こえるほどだった。
森の庵。薬草の棚。焦げた鍋。セレネの怠けた寝顔。
そして港。母の声。姉の手。王妃の冷たさ。
全部が胸の中で衝突して、言葉にならない。
それでも、クロエは答えを絞った。
「…森には戻れない、と思う」
セレネが目を細める。
肯定でも否定でもない表情。
クロエは続けた。
「でも…王宮に閉じ込められるのも嫌」
「錬金術師として暮らせるなら、それがいい」
「私、作れるから。薬も、道具も。役に立つ」
アリシアは頷いた。
「決まりね」
宰相が即座に動き出す顔になる。
「では、アトリエの候補地を三つ、今夜中に選定します。表向きの資金ルートも整えましょう」
「王家の支援が露骨すぎると諸侯が嗅ぎます。慈善基金の形が無難です」
セレネが、面倒そうに言った。
「クロエの寝床はちゃんと用意しな。王都は寒いし汚い。あと、変なのが寄ってくる」
アリシアが冷たく返す。
「寄ってきたら潰す」
即答だった。十三歳の声なのに、王の声だった。
そして、少しだけ柔らかくなる。
「…あなたを失うのは、もう嫌だから」
クロエは息を止めて、ゆっくり吐いた。
森の魔女クロエは終わった。
でも、王女クロエに戻る必要はない。
錬金術師クロエとして、王都で生きる。
そして必要な時だけ、臨時のアルバイト王女になる。
それは、鎖ではなく、契約。
奪われるのではなく、選ぶ形。
セレネが最後に、魔女の笑みで言った。
「いいじゃないか。王都の鍋は焦げやすいけどねぇ」
アリシアが小さく、ほんの一瞬だけ笑った。
その笑いは、今日初めて見せた十三歳の笑いだった。
王宮で数日、クロエは部屋を借りているという感覚に慣れようとしていた。
豪奢な天蓋も、磨かれた床も、扉の外に立つ近衛の気配も、どこか他人事だった
眠って起きて、窓の外の王都の空を見て。
そのたびに、森の匂いが恋しくなる。けれど同時に、森へ戻る自分も想像できない。
戻ったら、全部が嘘になる気がした。
そして数日後。
「アトリエが決まりました」
宰相経由で届いた短い報告に、クロエの胸は不思議と軽くなった。
部屋ではなく、居場所。
王宮の中で息を潜めるのではなく、王都の中で呼吸できる場所。
セレネと、護衛の騎士と、財務官僚。
必要最低限の一団で、王都の下町へ向かった。
王都の下町は、思ったよりも生活の匂いがした。
市場へ向かう荷車の軋む音。
魚と香辛料とパンの匂い。
叫ぶ店主、笑う子供、値切る女将。
王宮の廊下の静けさとは違って、人間が生きている音がする。
治安も悪くない。
路地の影に不穏な気配はあるが、目を合わせれば引く程度の悪さだ。
剣を抜くような空気ではない。ここは王都で、王国府の目が届く距離にある。
市場の少し外れ。
人の流れがぶつからず、けれど消えもしない位置。
そこに、その建物はあった。
小さなアトリエ。
壁は明るい色で、窓枠には小さな花の鉢。
看板はまだ白木のまま。扉の取っ手が星の形をしていて、どこか可愛らしい。
ちゃんと錬金術師の店に見えるのに、威圧感がない。
クロエは一目見て気に入った。
胸の奥に、久しぶりに素直な好きが湧く。
政治でも血でもなく、ただの好みで選べる感覚が嬉しかった。
「ここ、いいね」
ぽつりと漏れた声に、財務官僚がほっとした顔をした。
彼にとっても正解を引いた瞬間だったのだろう。
その時、護衛の騎士が半歩前に出た。
背は高すぎない。姿勢がいい。鎧は着ていないが、動きに無駄がない。まだ若いのに、目の焦点が定まっている。剣を持つ人間の目だ。
「アーク=フォン=レムリア」と申します。
名乗りは静かだった。
十六歳くらいか。若い。若いのに、顔が整っている。
王都の光の中でも映える顔。鼻筋、目元、髪の流れ。
王宮の騎士らしい品の良さと、現場の泥臭さが同居している。
アークはクロエの前で胸に手を当て、きちんと礼をした。
「本日より、クロエ嬢の護衛としてお側に侍ります」
クロエは一瞬、言葉を忘れた。
何やこのイケメン。
この世界、顔面偏差値高いなと改めて思った。
しかも礼儀もある。声も落ち着いてる。なんだそれ、完璧か。
アークは続けて、少しだけ声を落とした。
「身分的には、冒険者としてお仕えします。目立たぬために」
冒険者。
その響きが、クロエにとって少しだけ現実を和らげた。
王女の護衛ではなく、錬金術師の護衛。表向きはそれでいい。いや、それがいい。
「よろしく、アーク」
クロエがそう言うと、アークの表情がほんの僅かに緩んだ。
笑顔というほどではない。でも、安心の色が出る。
その横で、セレネが面倒そうに腕を組んだ。
「じゃ、私は森のアトリエに戻るよ。王都は騒がしすぎる」
言い方はいつも通りのニートだ。
けれど、目だけはちゃんとクロエを見ていた。置いていくのではなく、送り出す目。
セレネはさらに、指を一本立てる。
「で、クロエ」
嫌な予感がする、とクロエが思った瞬間に来た。
「週に一回くらいは掃除に来ておくれ」
やっぱりか。
「あとクッキーの差し入れも」
それもか。
クロエは思わず笑ってしまった。
相変わらずニートだな、この婆さん。
でも、そのいつも通りが救いだった。
世界がひっくり返ったのに、セレネはセレネのままだ。
「…はいはい。分かったよ、師匠」
クロエは頷いた。
セレネは満足げに鼻を鳴らし、踵を返す。森へ帰る背中は小さくて、でも不思議と頼もしい。
財務官僚が咳払いをひとつし、鍵束を差し出した。
「では、こちらが鍵でございます。内装の調整と備品は」
クロエは鍵を受け取った。
金属の冷たさが掌に馴染む。
王証の冷たさとは違う。
これは、生活の冷たさ。
自分の場所の重さ。
扉を開けると、内側はまだ空っぽに近かった。
棚も作業台も最低限。だけど、日差しが入る。空気が流れる。
薬草を干す場所がある。蒸留器を置ける窓際がある。
クロエは部屋の真ん中に立って、深く息を吸った。
今日から、ここが自分の居場所だ。
錬金術師として暮らす場所。
そして必要な時だけ、王宮へ上がる場所。
臨時のアルバイト王女としての出勤先に繋がる場所。
二足の草鞋生活。
面倒だ。危険だ。たぶん、楽じゃない。
でも、自分で選べる生活だ。
クロエは振り返り、アークを見た。
「じゃあ、最初の仕事。掃除と片付けね」
アークが、きっちりと頷く。
「承知しました、クロエ嬢」
クロエは小さく笑った。
外では市場の喧騒が続いている。
王都は今日も生きている。
その音の中で、クロエは鍵を握り直した。
こから先は、自分の人生だ。
見習い錬金術師として、非常勤王女として。
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