第17話:意図の読めない善意たち
鐘の音の残響が消えた夜道を歩く一行。鐘が鳴ってからというもの、街は静まり返り、人が外にいる様子もない。
眼鏡の男性が案内した先は『病院』らしいが、現物を見てみるとせいぜい日本の町医者程度の規模だった。しかし建物自体は堅牢な石造りで、多少の衝撃ではビクともしなそうである。
「この時間は正面玄関は閉まっているから、急患窓口から入ろう」
眼鏡の男性が先行して歩き、建物の裏手へ回り込む。周りには草が生えているが、背丈は整っていて人為的に管理されているのが伺える。
トカゲは興味本位で窓を覗いたが、既に消灯しており、人気はない。
やがて一つの扉へ辿り着くと、男は今までの口調とは打って変わって軽い話し方になった。
「ごめん、急患入るよ」
中はひんやりとした空気が漂っており、仄かに消毒液特有のツンとくる匂いがする。男性は手慣れた手つきで照明を灯し、待合室の長椅子へ二人を促す。
「今から準備するから、しばらく待つように」
そう言った彼は奥の明かりの点いている部屋に向かって行った。
数分後、トカゲを呼ぶ足がやって来る。男性は白衣に着替えており、本場の医療従事者であることは一目瞭然だった。
「準備が出来た。こちらへ」
男性に言われるがまま診察室へと入る。
白衣を着た女性が椅子に座って室内で待機していた。部屋の中には注射器やメスなどが置かれ、医療現場の見た目だけは日本と大差がないように見える。
「来たね、はや――」
女性が言いかけた時だった。女性の声が止まり、疑念の目を向ける。女性は急患と聞いていた患者の様子が予想と大きくかけ離れていたことを信じられなかったのだ。
「え? 急患って、この方?」
「そうだが。容態はさっき話した通りで堕魂に襲われて肩から出血、足首も捻ったと」
「……ぱっと見元気そうだけど? まあいいわ。取り敢えずお座りになって」
女性に促され、トカゲは腰を下ろす。
「何もなさそうですけど、一応触診から始めますね。痛むようでしたら教えてください」
女性は服の上からトカゲの肩を圧迫、足首もグルグルと回した。しかしトカゲは一切痛みの反応を示さず、触られた場所をくすぐったがるのみ。
瀕死になれば痛みを感じなくなることはあるのだが、目の前の少年はとても瀕死には見えない。女性は傷が本当にあるのか疑い、直接見て確認することにした。
「一度、脱いでいただいていいですか?」
トカゲは指示通り上着を脱ぐ。その瞬間に、医者の夫婦はハッと息を飲んだ。
彼の肩には黒いモヤのようなものが纏わりついていたのである。まるで墨を溶かした液が、薄く彼の皮膚に張り付いているようだった。
「霊力?」
「堕魂のものかもしれない。早期に除去した方がいい」
女性は机の上に転がっていたペンチのようなものを手に取ると、トカゲの肩に付着した黒い塊を取ろうとした。
ところが黒い塊は器具の先が触れた瞬間、静かにシャボン玉のように弾け、宙に溶け込むように散った。
代わりに露わになったトカゲの皮膚には傷跡一つ残っておらず、ケガなど最初から負っていなかったように滑らか。
白衣の女性は目の前の光景に戸惑い、状況を整理するために一度トカゲの退出を促す。
「……問題なさそうですね。一度待合室でお待ちください」
トカゲは服を着直すと部屋を出た。数秒の後には、扉の奥で言い合いが聞こえてくる。
『何の冗談?』
『冗談なんかではない』
『じゃああれは何なの? あんなに禍々しい霊力が一瞬で消えるわけないでしょ』
トカゲは扉越しの会話を無視し、その場で壁に寄りかかった。
黒いモヤに見覚えがあったトカゲは、確認のために目を閉じた。勿論思い浮かべるのはトランプの間である。
瞼を上げると、やはり見えるのはカードで仕切りがされた部屋。床は赤と黒の市松模様。そう、ここは《精神の淀み》。ヤツが棲み付いている場所。
トカゲは辺りを見渡すが、肝心の主は見えない。深呼吸を挟んで、呼び掛ける。
「……ソロモ。ちょっと話があるんだけど」
刹那、背後に感じる強い霊力。体温が伝わってこないことが、背に立つ相手が人間ではないことを教えてくれる。
振り返ると毎度お馴染みの下皿天秤頭が立っていた。頭部以外の全身が黒く、濃い霧のようなものに覆われている。
「今度は何の用だ? 言っておくが、あの少女のことなど知らんぞ」
「違う違う。今回はそれじゃなくて、ボクの傷の話。何かしたでしょ?」
「傷だと? 何のことだかサッパリだ」
気の抜けた声で明らかに白を切る声がした。
「とぼけるのは無理でしょ。あの黒いヤツ、アンタの霊力じゃないの? 思い返せば女に襲われて死にかけた時もだったけど、いつの間にかケガが治ってた。裏で何してるのさ?」
「知らんな。オレは一切関与しておらん」
前回ここを訪れた時もそうだったが、ソロモは頑なに情報を渡そうとしない。これ以上聞いても無駄だと見切りをつけると、トカゲは吐き捨てるように言った。
「あっそ。ま、いいや。助けてくれたんでしょ? 礼は言っておくよ。じゃね」
ソロモは何も答えなかった。代わりに頭部の天秤を上下に揺するだけで、何を考えているのか読めない。
トカゲはその笑いを見て胸の奥に違和感を抱えたまま、《精神の淀み》から姿を消した。
♢ ♢ ♢
アヤメは診察に行ったきり中々トカゲが帰ってこないことを不安に思っていた。
もし今の状況でまた変な人が出てきたら、また誰かが追ってきたら、と彼女の脳内は完全に不安に毒されていた。
「ただいま。何してた?」
トカゲは煮え切らない感情を隠しながら、アヤメに近づいた。
アヤメは声のする方向を向くと、心配そうに椅子から立ち上がる。
「……ケガの具合は、どうだったんですか?」
「ぜんっぜん平気。何事もなし。異常なし」
軽く手を振ってみせるトカゲに、アヤメは一拍挟んでから小さく呟く。
「……無事でよかったです」
その言葉はトカゲの耳で何度も反響した。
人から心配されたことなど、いつぶりなのだろう。トカゲが思い出せる限りでは、日本で裏社会の仲間入りを果たしたあの日以降である。
普段のトカゲであれば茶化してしまうところだったが、この時は衝撃故にそうもいかなかった。
互いに言う言葉がなくなり沈黙が場を仕切ると、眼鏡の男がやってきた。
「失礼。ケガの状態は問題ないと判断した。から、診察はこれで終わりだ。会計だけ頼むよ」
「ああ、分かりました」
カウンターに行き、男と対面する。
「今回はまけて五〇〇ルクでいい」
提示された額を払い、残金は一三〇〇〇ルク。今晩を明かしたら空になりそうな手持ちである。
「一応ケガはなかったとしておくけど、安静にするように」
「分かりました」
そう告げた瞬間、トカゲの腹が鳴った。支部への報告、アニム発現の手続き、堕魂との戦闘、その後のケガの診察といった騒動の一日が終わることでトカゲは気を緩めたのだ。
気まずい沈黙の後、カウンター奥の男が口を開く。
「……もしかして、まだ夕食は?」
「そうですね、食べてないです。探す前に襲われちゃったもんで」
「良ければうちで食べていくかい? 夕食の余りがあるんだ」
予期していなかった夕食の誘いにトカゲの瞳がパッと明るくなる。
「いいんですか?」
「余りものでよければ。そこの子も一緒に来るといい」
病院の奥、恐らく先ほどの女性と眼鏡の男性の生活スペースと思われる部屋に案内される。ざっと確認出来るのはソファーと本棚、食料の蓄え。
少し経つと、テーブルの上から腹の虫を叩き起こす香りがした。
「どうぞ、座って」
二人は席に着くと、目の前のトマトスープをあっという間に平らげた。
食べ終えた後、またしても男性が尋ねる。
「この後は家へ帰るのかい?」
男性は夜ももう遅いため、帰ると言われたら送り届ける気で聞いていた。
「いやーそうでもないんですよ。実はボクたち旅の者で、宿はこれから探すんですよ」
男性は少し悩む素振りを見せると、新たな提案を寄こす。
「もう遅いし、ベッドは貸せないがここで休んでいい」
トカゲとアヤメは顔を見合わせると、好意に甘えて今晩は泊まることにした。
今日の一言:《精神の淀み》は綺麗な場所ではありません。『淀み』とあるように、その人物の中の苦い思い出が反映されている場合が多いです。




