第7話 密使の報告、帝国を揺らす
1.帰還
夜明け前の帝都。
厚い城壁の門をくぐり、一台の馬車が石畳をがたがたと走っていた。
馬車の中では密使アルセリオが座り込み、荒い息を繰り返している。
顔色は青白く、目の下には深い隈。
旅の疲れだけではない。喉にはまだ冷たい手で締められるような感覚が残っていた。
(影……まだ息が苦しい。離れているはずなのに……)
馬車が止まり、宮殿の前に立つ。
扉が開き、兵士に支えられてアルセリオは降りた。
足元はふらつき、声を出すたびに喉がひりついた。
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2.広間の重圧
大広間の扉が開かれると、赤い絨毯の先に玉座があった。
玉座には帝。左右には老将や財務卿、学者や僧侶までが並び、密使を見つめていた。
重苦しい沈黙の中、帝が口を開いた。
「アルセリオ、報告せよ」
「はっ……」
アルセリオは膝をつき、背筋を必死に伸ばした。
心臓がうるさく鳴り、影が足元で揺れているのが見えた。
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3.一千億の軍勢
「ハイデニアの兵は、どれほどいた」
帝の問いに、アルセリオは唇を噛み、喉を震わせた。
「……一千億でございます」
広間は一瞬静まり返り、次に怒声が響いた。
「一千億だと!」
「正気か!」
「影響されて帰ってきたのだろう!」
重臣たちは口々に罵ったが、アルセリオは必死に言い返す。
「荒唐無稽なのは承知しております! ですが、私はこの目で見たのです!」
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4.影の恐怖
「王太子は申しました。兵は人だけではないと。
鳥が兵、虫が兵、そして――影も兵だと!」
広間にざわめきが走る。
何人かの重臣は鼻で笑ったが、アルセリオの怯えた顔に言葉を失った。
「私は見ました。影が足を絡め、兵を転ばせるのを。
剣を持つ兵の影が刃を締め付け、折れたのを。
そして私自身、影に顔を覆われ、呼吸を奪われました!」
彼の声は震え、涙混じりだった。
しかし嘘の声ではなかった。
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5.影の声
そのときだった。
床に落ちたアルセリオの影が、ゆっくりと形を変えた。
それは、王太子の輪郭を浮かび上がらせた。
「なっ……!」
重臣たちが一斉に立ち上がる。
影はアルセリオの背に張りつき、王太子の声で言った。
「我らはまだ、全てを数えていない」
広間に絶叫が響いた。
笑っていた重臣も、嘲っていた者も、皆が青ざめた。
「声を……確かに聞いたぞ……」
「幻ではない。全員が同時に聞いた……」
アルセリオは涙を流し、叫んだ。
「陛下! 私は王太子の影に憑かれて帰ってきたのです!」
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6.帝の内心
帝は玉座の上で動かなかった。
だが肘掛けを握る手は震えていた。
(影が……この帝都にまで届いたのか。
小国の王太子の声が……我が宮廷で響いた……)
帝は自分に言い聞かせた。
「これは幻だ、目の錯覚だ」と。
だが耳は確かに聞いた。体は確かに震えている。
(もし影が兵となるのなら……我が国の剣は折られる。
我が兵の息も奪われる。
そして……私自身の影までもが、敵に数えられるのか……?)
帝の胸に、初めて小国に対する恐怖が芽生えた。
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7.重臣たちの分裂
「ば、馬鹿げている! 影はただの黒だ!」財務卿が怒鳴る。
「だが、声を聞いたのだ! 全員が同じ言葉を!」老将が言い返す。
「剣を折り、呼吸を奪ったと言う。兵が信じれば戦えぬ!」
口論は次第に激しくなり、冷静派と恐怖派に分かれた。
殴り合い寸前になり、近衛が慌てて間に入る。
帝は目を閉じた。
理性では笑い飛ばせる。
だが、影の声は耳に残り、広間全体を支配していた。
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8.帝都の噂
昼を待たずに噂は帝都に広まった。
「影が宮殿で喋ったらしい!」
「一千億だと……もう戦は無理だ」
「夜に影を見られるな、息を奪われるぞ」
市場の老婆は松明を持ち歩き、
兵舎の新兵は、夜に影が伸びるのを恐れて眠れなかった。
寺院では祈祷を求める人々が列を作った。
影はただの黒い形であるはずだった。
だが、誰もそう思えなくなっていた。
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9.帝の決断
夜更け。
帝は地図の前に立ち、蝋燭の明かりで伸びる自分の影を見下ろした。
(これは虚勢だ。だが虚勢でも、兵と民が信じれば現実になる)
帝はついに口を開いた。
「……軍議を開け。
刃には刻印を彫り、夜営では灯りを増やせ。
寺院には祈祷を命じ、学院には理屈を求めよ」
言葉は冷静を装っていた。
だが、その瞳には恐怖が宿っていた。
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10.最後の影
アルセリオは宿舎の寝台に横たわっていた。
目を閉じても、影が喉を塞ぐ感覚が残っている。
天井に揺れる燭台の灯り。
そこから伸びる影が、王太子の輪郭を形作った。
「我らはまだ、全てを数えていない」
声が確かに響いた。
アルセリオは毛布を頭からかぶり、震えた。
帝国の夜は長く、影はますます増えていく。




