第6話 ハッタリ王子、密使を踊らせる
1.帝国宮廷に走る不安
ザルツベルグ軍が退けられてから数日。
ハイデニア王太子の名は、海を越えて大国ガルディア帝国にも届いた。
「ハイデニアの王子が、たった二千の兵で、ザルツベルグの兵五千を退けただと?」
「しかも全生物を兵と数えて百二十億と豪語したという」
「馬鹿げている。だが、撤退は事実だ」
人口五千万を誇るこの帝国の宮廷には重臣たちが顔を寄せ、険しい声を交わしていた。
老将が低く言う。
「恐れるべきは数ではない。兵が信じていることだ。虚勢でも、信じれば兵は強くなる。恐怖は伝染する」
若い重臣は鼻で笑う。
「虚言なら笑い飛ばせばよい。しかし周辺国が信じれば、帝国とて無傷では済まん」
帝は短く命じた。
「真偽を確かめよ。虚言なら笑わせ、真なら備えよ」
こうして一人の密使が選ばれ、ハイデニアへ向かった。
⸻
2.謁見の間の緊張
王城の謁見の間。
ガルディア帝国の密使アルセリオは、豪奢な外套を翻して進み出た。
廷臣はざわめき、兵は息を呑む。
宰相は胃を押さえ、スラウザーは腕を組み、王太子は涼しい顔で玉座に腰掛けていた。
「ハイデニアの王太子殿下。私はガルディア帝国の密使アルセリオ。我が国は、貴殿の『百二十億の軍勢』なる話を疑っている」
宰相は心で悲鳴をあげる。(胃が……裂ける……!)
だが王太子は悠然と告げた。
「疑うか。ならば確かめよ。昨日は百二十億。だが今日は――一千億だ」
⸻
3.「影」の理屈と恐怖
広間がざわめいた。
宰相は額を押さえ、(桁を増やすな! 胃薬の効力は百万までだ!)と転げ回る。
スラウザーは感涙し、「殿下……一千億ッ!」と拳を握った。
密使は必死に冷笑を浮かべる。
「人間の総数を超える。荒唐無稽だ!」
王太子は歩み出て、床に伸びる光と影を示した。
「兵は人だけではない。空の鳥、海の魚、地の虫。
そして――影だ」
密使が鼻で笑う。「影が兵だと? 幻惑だ!」
「影は第二の身体、魂の写し。兵が倒れても影は残り、次の兵を導く。
昼は太陽、夜は月と灯火。光源の数だけ影は生まれる。
――我らの『八百万』は、影を合わせて一六百万、三二百万、六四百万と膨れ上がる。
数が見えれば、数は増えるのだ」
その瞬間、密使の足元の影がぐにゃりと揺らぎ、足首を締めつけた。
さらに近衛兵の影が剣に絡みつき、ぎりりと音を立てて刃を折った。
「なっ……!」
次の瞬間、密使の顔にも影がまとわりつき、鼻と口を塞ぎ、息を奪う。
必死にもがくが、黒い布のような影は離れない。
宰相は凍りついた。(影が……呼吸すら奪っている……!)
スラウザーは興奮で叫ぶ。
「殿下! 鳥や虫の影だけじゃねえ、武器まで折れるし、顔まで塞ぐんだな!」
王太子は平然と答えた。
「影は兵の意志を増幅する。折れぬ剣は影が折り、止まぬ息は影が止める。――影こそが兵の倍数だ」
⸻
4.証明の合図
密使は恐怖に震えながらも吠える。
「偶然だ! 証拠を……もっと見せろ!」
「望み通りだ。――兵、剣を振れ!」
号令一下、兵士が一斉に剣を振る。
ごうっ。突風が広間を駆け抜け、幕がはためき、燭台の火が消えかけた。
外套が翻り、密使の帽子が宙を舞った。
「なっ……!」
兵士たちは声を揃える。
「ハイデニアァァ! 一千億!」
その瞬間、窓から鳥の群れが飛び込み、羽ばたきで嵐を巻き起こす。
光が遮られ、鳥の影が天井から床まで幕となり、広間を闇に沈めた。
廷臣が悲鳴をあげる。
さらに床から数十万の虫が溢れ出し、虫の影が床を波のように覆って震わせ、冷気を生み出す。
吐く息が白くなり、兵の鎧がきしむ。
スラウザーは目を剥いた。
「殿下! 鳥や虫の影まで兵に!」
「当然だ。鳥の影は空を覆い、敵を盲目にする。虫の影は地を這い、敵の膝をすくませる。
影は武器を折り、呼吸を奪う。――我らの兵は眠らず、止まらず、折れぬ」
密使の背に冷たい汗が流れ落ちた。
⸻
5.影の数え上げ
王太子は悠然と宣告する。
「昨日が百二十億、今日は一千億。
――影を出せば、一千億だ」
宰相は机に額を押し付けた。(やめてくれ……その“影を出せば”は……! 胃が……!)
スラウザーは歓喜の声をあげる。
「殿下! 俺たち、本当に一千億なんだな!」
密使は蒼白になり、膝を折った。
「……わかった! 本国に報告する! ハイデニアには一千億の兵がいる――鳥も虫も、影までも!」
⸻
6.熱狂と胃痛
兵士たちは「一千億! 一千億!」と叫び、広間は熱狂で揺れた。
スラウザーは影にまで敬礼して叫ぶ。
「お前らも兵だ! 鳥の影も! 虫の影も!」
宰相は机に突っ伏し呻く。(兵が影に敬礼する……世界の理も胃の粘膜も崩壊した……!)
王太子は悠然と密使の去った扉を見据え、告げる。
「帰るといい。報告は正確にな。――我らはまだ、全てを数えていない」
密使は短い悲鳴をあげ、転がるように退出した。
⸻
7.残された三人
静寂が戻る。鳥は去り、虫は散り、影も元の長さに戻った。
スラウザーは自分の影に向かって「今日も頼むぞ!」と満面の笑みで敬礼する。
王太子は肩をすくめる。
「影に兵糧はいらんぞ」
宰相は机に顔を埋め、かすれ声を吐いた。
「殿下……色々とぐちゃぐちゃです……兵の数も、民の数も、影や鳥や虫まで……。なのに、不思議と勝てる気がしてしまう……。胃がもたん……」
その横で、王太子は椅子に座りながら苦笑した。
(……いや、俺もまさか影が本当に動くとは思ってなかったんだが……。言ったら皆が信じて、しかも影まで応えた……。これは一体どういうことだ?)
宰相が顔を上げ、震える声で問う。
「殿下……先ほどの『――我らはまだ、全てを数えていない』というのは、一体どういう意味で……?」
王太子は腕を組み、わざとらしく顎を撫でてから、適当な調子で答えた。
「ふむ……深い意味はない。要は“数えればまだ増える”ということだ。影も、灯りも、全部だ」
宰相は再び机に突っ伏した。
「……やはり意味不明……。だが……なぜか納得してしまうのが……もっと恐ろしい……」
王太子は肩をすくめ、心の中で苦笑した。
(俺も納得したいぐらいだ。まさか本当に影が……動くとは……)




