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第43話 神を捨てた日

◆1 倒れていた男


 戦場になるはずだった丘のふもとに、異様な静けさが漂っていた。

 剣は地に落ち、神聖軍は足を止め、風だけが草を揺らしている。


 その列の端。

 白い法衣を着た一人の男が、地面に横たわっていた。


 痩せ細った身体。

 日に焼けた顔には深い皺が刻まれ、唇は乾ききっている。

 胸は、かすかに上下しているだけだった。


「……あれは、誰だ?」


 勇者が思わず漏らした声は、震えていた。


 近くにいた神官が、感情のこもらない口調で答える。


「巡礼者です。

 神殿の命により、各地を巡り祈りを捧げていましたが……力尽きました」


 それは“報告”だった。

 哀れみも、驚きもない。


 勇者の胸に、嫌な感覚が広がる。


「……神を信じていた者、なんだな」


「ええ。

 神に身を捧げ、神に仕える、正しき民です」


 その言葉を聞いた瞬間、

 アウグスベルグは静かに丘を下り始めた。


 迷いはない。

 足取りは落ち着いていた。


「……だったら、なおさらだ」


 低く、確かな声だった。



◆2 神官がここにいる理由


 アトラシアの神官たちは、敵としてこの地に来たわけではない。


 名目は「宗教使節」。

 神託の共有、信仰の視察、対話のための訪問。


 形式上は、どこまでも穏健だった。


 そしてハイデニアは、それを拒まない国だった。


 異なる考えを即座に排除しない。

 力よりも、話を重ねる国。


 だからこそ、神官たちはこの国に入ることができた。


 だが彼らの視線は、最初から裁く者のそれだった。


(この国は正しいか)

(神の声に従っているか)


 測るために来たのだ。



◆3 神の“奇跡”


 大神官が一歩、前に出た。


「神は、見ておられる」


 その声に、空気がわずかに震える。


「神は、正しき信仰を示す者を、決して見捨てぬ」


 大神官は、倒れている巡礼者に手をかざした。


「見よ。これが神の慈悲だ」


 光が落ちた。


 眩いが、どこか冷たい光。

 暖かさはなく、ただ強制的な力だけがそこにあった。


 巡礼者の身体が、びくりと跳ねる。

 折れていた指が、無理やり元に戻る。

 止まりかけていた心臓が、強引に動き出す。


「……ぁ……あ……」


 男は息を吹き返した。


 神官たちが歓声を上げる。


「神の奇跡だ!」

「見たか! 神は生きておられる!」


 だが――

 アウグスベルグは、巡礼者の“目”を見ていた。


 そこにあったのは、救われた者の光ではない。


 怯えだ。

 命じられることに慣れきった、恐怖の色。


 勇者も、それに気づいた。


「……殿下」


「気づいたか」


 アウグスベルグは静かに言った。


「生かしたんじゃない。

 動かしただけだ」



◆4 理と問い


 アウグスベルグは、大神官に向き直る。


「聞く。

 あの男は、この先どうなる?」


 大神官は即答した。


「神殿に戻り、奉仕を続けます。

 それが信仰の証です」


「拒否したら?」


 一瞬の沈黙。


「……それは、神への背信」


 アウグスベルグは短く息を吐いた。


「つまり――

 壊れるまで使う、ということだな」


「言葉を慎め!」


 大神官の声が荒れる。


「神の御業を侮辱するか!」


「事実を言っただけだ」


 アウグスベルグは巡礼者に目を向けた。


「お前は、どうしたい?」


 男は震え、言葉を探す。


「……し……神の……」


 その瞬間、大神官が遮る。


「迷いを与えるな!

 神の声こそが、彼の救いだ!」


 アウグスベルグは、はっきりと言った。


「違う。

 選ばせないのが、支配だ」


 丘が静まり返った。



◆5 勇者の崩れ


 勇者は、その光景を見ていた。


 命は救われた。

 だが、生き方は奪われたままだ。


(……同じだ)


 自分も。


 神に選ばれ、

 命じられ、

 疑うことを許されなかった。


 神の声が響く。


『勇者よ。迷うな』


 だが――


 届かなかった。


 勇者は膝をついた。


「……俺は……」


 声が震える。


「神に従っているつもりで……

 何も選んでいなかった……」


 神官たちが騒ぐ。


「勇者が堕ちた!」

「神の声を拒むな!」


 だが勇者は顔を上げた。


 アウグスベルグを見る。


「……殿下。

 俺は、神から離れる」


 はっきりとした言葉だった。



◆6 人の理


 アウグスベルグは、ゆっくりとうなずいた。


「それでいい」


「神を捨てれば、世界は壊れる!」


 大神官が叫ぶ。


「壊れない」


 アウグスベルグは言い切った。


「人は、神がいなくても選べる。

 選んで、間違えて、立ち直れる」


 勇者は剣を地面に置いた。


 神に捧げてきた剣を。


「……俺は、人として戦う」


 その瞬間、

 神の声は完全に消えた。



◆7 静かな選択


 巡礼者は、震えながら立ち上がった。


 誰にも命じられず、

 一歩、後ろへ下がる。


 アウグスベルグは言った。


「ここにいていい。

 働きたければ仕事もある。

 信じるかどうかは……自分で決めろ」


 男は涙を流し、深く頭を下げた。


 勇者は、それを見て理解した。


 神ではない。

 奇跡でもない。


 人が人を縛らないこと。


 それが、ハイデニアの理だった。


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