第38話 王子、国を歩く ――静かな強さの国
一 朝の呼び声
朝の光が石壁を照らし、鳥の声が遠くで響いた。
ノックの音がして、扉の向こうから王太子アウグスベルグの声が届く。
「ルシエル。準備はできたか?」
「できている。……少し、この国を見てみたい」
「なら都合がいい。ちょうど視察の予定がある」
彼は笑って頷く。後ろには宰相ユリウスが控えていた。
ユリウスは今日は護衛兼随行官らしい。淡々とした表情だが、目だけが周囲を警戒していた。
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二 市場の朝
城を出ると、朝の市場のざわめきが押し寄せた。
焼き立てのパンの香り、干物の煙、果実を売る声。
人間も魔族も、肩を並べて店を開いている。
黒い角を持つ青年が老人の荷を背負い、翼を持つ女が子どもにパンを渡した。
ルシエルは思わず足を止める。
「……本当に共に暮らしているのか?」
「そう見えるなら、それでいい」アウグスベルグが穏やかに言う。
「共に“いる”ことが、まず最初の強さだからな」
そのとき、荷車の車輪が外れて、果物が地面に散らばった。
店主が困っていると、鬼族の少年が駆け寄る。
「ぼく、やります!」
両手を合わせて息を吐くと、指先が淡く光った。
金具がカチリと音を立て、ぴたりとはまる。
周囲が拍手を送る中、王太子が少年のもとにしゃがみ込んだ。
「よくやったな。困っていた人が、これで笑える」
「うん……!」少年の顔がぱっと明るくなる。
その直後、少年は頭を下げて言った。
「ありがとう、王太子さま!」
修理が終わった荷車を押して去る背中を見ながら、ルシエルは小さく笑う。
(“ありがとう”を言われる理由は、見ていたからか……。誰かが見てくれるだけで、人は力を出せるのか)
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三 影の守り手
市場を抜けた先、灰色の外套をまとった人々が静かに動いていた。
目立たぬ足取りで、人混みの奥へと消えていく。
「……あれは?」
「“影の守り手”だ」アウグスベルグが答える。
「事件が起きる前に、悪意を止める。感情の揺れや魔力の濁りを感じ取って動くんだ」
その言葉の直後、遠くの屋台で怒声が上がった。
酒瓶を振り上げた男の腕を、影の守り手が掴む。
男の表情が一瞬で凍りつき、力が抜けたように座り込んだ。
「……今ので何をした?」
「抑制魔法。心拍を一瞬だけ落とす」
数秒後には男は落ち着きを取り戻し、頭を下げて謝っていた。
ルシエルは息をのむ。
「犯罪発生率は……?」
「ゼロだ」
「ゼロ……?」
その数字に、彼の眉がぴくりと動く。
アウグスベルグは苦笑しながら言った。
「完璧じゃない。だが、誰かが“見ている”だけで多くの罪は生まれない。
俺たちはただ、見続ける国でありたいんだ」
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四 学び舎の午後
白い建物の前で足が止まる。
「ここは?」
「学校だ。新しい教育制度の見直し日でね」
教室では、長い銀髪の魔族の女性教師が立っていた。
知的な眼差し、落ち着いた声。
子どもたちは魔族も人間も関係なく、同じ机に座っている。
「この力は誰にでもあります。けれど、人を傷つけるために使ってはいけません。
“困っている誰かを助ける”時だけ、使いましょう」
彼女の手のひらに小さな光が灯る。
黒板に浮かび上がった文字が、次の瞬間にはノートへ写っていた。
「写す魔法です。指先の震えひとつで、知識は伝えられます」
魔族の子どもが笑いながら手を挙げる。
「先生、魔王さまはなんで人を殺さないの?」
教室が一瞬、静まった。
だが彼女は優しく答えた。
「王太子さまがそう望んだからです。
“恐怖で従わせるより、信じて守らせろ”とおっしゃった」
窓の外でその様子を見ていたルシエルは、無意識に拳を握る。
(……理想論じゃない。実際に成立しているのが恐ろしい)
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五 港の風
港へ出ると、潮の香りが広がった。
魚の箱を積む人、網を直す人、魔族が風を読んで声をかける。
誰もが自然に動いていた。
「殿下、潮が浅くて魚が逃げます!」
「予備の網を回せ。港税は半分。壊れた網は修繕所に運べ」
「助かります!」
隣の魔族の女が掌をかざすと、波がざわめく。
「魚群、北に三里」
「おおっ!」漁師が歓声をあげた。
「……戦の国とは違う」ルシエルが呟く。
「戦もする。でも、腹が減ってちゃ勝てない」
アウグスベルグの声には、軽さと覚悟が同居していた。
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六 訓練場
午後。郊外の訓練場では、兵士と魔族兵が混ざって並び、掌をかざしていた。
スラウザーが笑いながら走り回り、ラウドが短く助言を飛ばす。
「焦るな。呼吸を整えろ」
兵が息を吐くと、指先に火が灯る。
歓声が上がり、次々と小さな魔法が成功していく。
アウグスベルグが隣で呟く。
「大きな魔法はいらない。
この“小さな魔法”が百人、千人と揃えば、
戦場では城壁ごと敵軍を飲み込む力になる」
ルシエルが顔を上げる。
「……日常を積み重ねた力が、戦で爆発するというわけか」
「そうだ。日々の便利さは、同時に“守る力”にもなる」
彼の声は淡々としていたが、重みがあった。
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七 夜の灯り
夕暮れ。広場に灯がともり、屋台の匂いが漂う。
魔族も人も混ざって踊り、笑い、歌う。
戦の国にいたルシエルにとって、その光景は別世界だった。
「どう見える?」アウグスベルグが尋ねる。
「……穏やかで、強い」
「なら十分だ」
少し間を置いて、王太子が問う。
「ルシエル。君は何を守りたい?」
「民と、家族だ」
「なら敵は恐怖だ。恐怖は誇りを壊す。
だから俺は、恐怖より先に手を伸ばす側でいたい」
ルシエルは短く息を呑む。
「……恐怖を超えて国を作るつもりか」
「違う。恐怖を減らす国を作るんだ」
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八 夜の手紙
その夜。部屋に戻ると、机の上に紙と封蝋が置かれていた。
女官が頭を下げる。
「ご家族に宛てて書かれますか?」
「……ああ」
ルシエルは筆を走らせた。
父上。
私は無事です。
この国には戦の香りはなく、恐怖が消えています。
人も魔族も、共に働き、笑っています。
私はもう少し、ここを見てみたいと思います。
封をして、窓の外の月を見上げた。
心のどこかがざわめいていた。
「――恐怖を減らす国、か」
誰に聞かせるでもなくつぶやき、
彼は静かに灯を消した。




