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第36話 王の怒りと祈り

一 帰還者たち


 玉座の間には、鉄と血の匂いが満ちていた。

 報告に並ぶ三万の帰還兵の代表たちは、顔を上げることもできず、ただ膝をついていた。


 高い天井に、王オルフェルドの声が響く。


「……我が王太子ルシエルはどこだ」


 沈黙。誰も口を開かない。

 王の手が、ゆっくりと玉座の肘掛けを握り締める。軋む音が響く。


「答えろ!」


 将官の一人が震えながら前に出る。

 泥に汚れた鎧をつけたまま、血の滲む唇を噛み、言葉を絞り出した。


「陛下……お救い申し上げたいのですが……王太子殿下は……現在、ハイデニアにて拘束されております……」


 玉座の間にどよめきが起きた。

 王の眉間が深く刻まれ、重く息を吐く。


「拘束、だと? 貴様ら三万の兵がいて、我が息子一人を救い出せなんだというのか!」


 怒号が空間を震わせ、兵たちの肩が一斉にすくんだ。

 将官は歯を食いしばり、声を震わせながら続ける。


「陛下……信じがたい報告ですが……捕虜となった我々の幹部たちは、心臓に“何か”を埋め込まれております。悪意を抱いた者、命令に背こうとした者は……その瞬間、胸が爆ぜたのです」


 玉座の間に、誰かの息を呑む音が響いた。

 王の顔が真っ赤に染まり、立ち上がる。


「ふざけるな! そんな戯言があるか! 我らの誇りある兵が、魔法ごときで操られるものか! 宰相レナート、すぐに百万人の兵を召集しろ! ハイデニアを――焼き払え!」


 場が揺れた。

 だが宰相レナートは一歩前に出て、静かに膝をついた。


「陛下、お待ちを」


「止める気か、レナート!」


「陛下の怒りは当然です。しかし、報告は事実です。捕虜になった者たちは、悪意を抱いた瞬間に命を落とす。

 ――ハイデニアは、我らの“意志”そのものを縛っているのです」


 王の瞳が鋭く光る。

 だが、宰相の言葉には迷いがなかった。


「もし百万の兵で攻めれば、王太子殿下をはじめ、捕らえられた者たちは全員……悪意を検知された瞬間に死にます」


 その言葉に、王の呼吸が止まった。

 立っていた身体が、わずかに崩れる。

 玉座に戻り、額を押さえる。沈黙が長く続いた。


「……死ぬ、のか……?」


「はい。おそらく、逃れられません。悪意を抱いた時点で、死を免れぬ魔法的契約。力でどうにもできぬ縛りです」


 王は拳を握りしめた。怒りが喉で凍りつき、声にならなかった。


二 王の沈黙と撤回


 長い沈黙ののち、王は口を開いた。

 その声は、先ほどの怒号とは違い、掠れていた。


「……動員命令を撤回する。ハイデニアへの進軍は一切禁ずる」


 宰相が静かに頷く。


「賢明なご判断です、陛下」


 だが王の瞳には、怒りが消えてはいなかった。

 その奥底に、違う炎――“恐れ”が宿っていた。


「心臓を操るだと……そんな魔法がこの世に存在するとはな。

 まるで神のような所業ではないか……」


「陛下、恐らくそれは、彼らの“脅し”でもあります。だが現実に死者が出ている以上、脅しで済ませることもできません」


 王は目を閉じ、拳を握りしめたまま、深く息を吐いた。


「ルシエル……お前が……なぜあの国に……」


三 記憶の中の王太子


 夜。

 王は誰もいない執務室で、机に置かれた一枚の肖像画を見つめていた。


 描かれたのは、若き日の王太子ルシエル。

 まだ十七の頃。鋭い瞳に聡明さを宿し、微笑には優しさがあった。


 王の胸に、静かな痛みが走る。


(幼い頃から非凡だった。学問に秀で、剣にも長け、誰よりも民を思う心を持っていた)

(家臣は皆、彼を愛した。兵も、民も、息子を讃えた)

(……そして、家族にさえ優しかった。王である私に対しても、常に敬意を忘れなかった)


 思い出の一つひとつが、胸を締めつける。

 王は知らず知らずのうちに、拳を震わせていた。


「……我が息子を奪った国。許すことはできぬ。だが、力で奪い返せば――お前まで死ぬ」

「……王として、父として、私は……どうすればよい」


 その呟きに答える者はいない。

 ただ、蝋燭の灯がわずかに揺れ、静寂が部屋を包む。


四 宰相との密議


 扉がノックされ、宰相レナートが現れた。

 王は背を向けたまま問う。


「……民の動揺はどうだ」


「広がっております。捕虜の件、三万の兵の撤退、そして王太子殿下の消息。すべてが不安を呼んでおります」


「……宰相。もしお前が私なら、どうする」


「国を守るため、怒りを隠し、耐えます」

「王太子殿下は必ずお戻りになります。あの方は、運命に愛された御方だ」


 王は目を閉じた。しばしの沈黙ののち、頷く。


「そうだな。ルシエルが生きている限り、希望は消えぬ……」


 そして王は顔を上げた。

 瞳の奥には、再び鋼の光が宿る。


「……宰相よ、諸国へ通達を出せ。ハイデニアの件に、他国は一切関わるなと。干渉すれば――我が国の剣が滅ぼすと」


「畏まりました」


 レナートは深く一礼し、その場を去る。

 王は再び息子の肖像を見つめ、静かに呟いた。


「ルシエル。お前が帰るその日まで、ポルトスは沈黙を保つ。だが、我らを侮った者には、必ずその報いを受けさせる」


五 王の祈り


 夜風がカーテンを揺らし、月光が差し込む。

 王は立ち上がり、玉座へ向かって歩く。

 歩くたびに、甲冑の装飾がかすかに鳴った。


 広間の中央に立つと、誰もいない玉座を見上げた。

 王は膝をつき、額を床に押し当てた。


「……どうか、息子を……守ってくれ。

 神よ、たとえ我が魂が穢れていようとも……どうか……」


 声が震えた。

 涙が一滴、石の床に落ちた。

 その音は、玉座の間全体に静かに響いた。


 王の祈りは、夜の闇に溶けていく。

 その願いが届く先は、まだ誰にもわからない。

 だが確かに、その夜――ポルトスの王は“怒り”を捨て、“父”へと戻った。


 そして同時に、彼は決意した。

 ハイデニアを力ではなく、理で倒す方法を探ることを。

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