第35話 遠見の光と、もう一人の王太子
1 遠見の魔法
「――リディア、頼む」
王太子アウグスベルグの声に、少女は深く頷いた。
広間の中央に立ち、両手を前に組む。
淡い光が指先に灯り、空気が揺れ始めた。
「“遠見”の魔法、展開します――」
次の瞬間、広間の空間が波紋のように揺らぎ、巨大な水鏡が現れる。
そこに映ったのは、夜明け前の野営地。
無数の天幕、火の消えかけた焚き火、そして三万の兵士たち。
誰もが重い鎧をまとい、剣を磨きながら、緊張と不安に沈んでいた。
その光景を見つめながら、王太子は静かに息を吸う。
「ポルトスの兵たちよ――聞こえるか」
声が、魔力を媒介にして空を越えた。
リディアの魔法によって、遠く離れた野営地にも王太子の声が響く。
兵士たちは驚き、空を見上げ、ざわめく。
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2 帰還命令
「この戦は、終わりだ。お前たちは今すぐ武器を捨て、ポルトスへ帰還せよ」
ざわめきが広がる。
兵の中には叫ぶ者もいた。
「ふざけるな! 俺たちはまだ戦ってもいない!」
「弱小国に屈して帰るなど恥だ!」
次の瞬間、低く響く怒声がそれをかき消した。
「黙れッ!」
声の主は、ポルトスの将軍――捕らえられた幹部の一人であり、今はハイデニアの広間に跪いている男だった。
遠見の魔法によって、その姿は三万人の兵の前にも映し出されていた。
「お前たちが上官命令に背き、ハイデニアに侵攻した場合――
祖国に残してきた家族、親族がどうなるか分かっているのか!」
その言葉に、兵士たちの表情が一斉に凍りつく。
誰もがポルトスという国の冷酷さを知っていた。
命令に背く者は、自身だけでなく家族までも処刑される――それが帝国の掟だ。
やがて一人、また一人と、剣を地に落とす音が響いた。
波のように広がり、ついに三万の兵士すべてが膝をついた。
「……帰るのだ」
将軍の声は震えていた。
「命令だ。ポルトスへ帰還せよ――!」
その光景に、広間の誰もが息を飲んだ。
王太子は静かに目を閉じ、呟く。
「戦わずして勝つ――それが、理だ」
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3 静寂のあとで
“遠見”の映像が消え、広間に静寂が戻る。
ユリウスがゆっくりと王太子に歩み寄った。
「……しかし、運が良かったですな。
捉えた百名の中に、まさかあのような大物が紛れていようとは」
王太子は口元をわずかに歪める。
「そうだな。まさか、ポルトスの王太子が混じっているとは思わなかった」
広間にざわめきが走る。
捕らえられた幹部たちの中の一人――
黄金の髪、冷たい瞳を持つ若い男が、縄で縛られたまま俯いていた。
王太子アウグスベルグが名を呼ぶ。
「……ルシエル・ポルトス。あの帝国の直系、次代の王だな」
ルシエルは顔を上げた。
その瞳には怒りも恐怖もなく、ただ深い諦念が宿っていた。
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4 ポルトス王太子の回想
(――こんなはずでは、なかった)
ルシエルは目を閉じ、心の中で呟く。
脳裏には、ポルトスを出発する前の光景が蘇っていた。
あの国では、王族といえど戦に参加しなければ王位を継げない。
“血と征服の証”を持たぬ者に、王冠は許されぬのだ。
だが、それは形式的なものであるはずだった。
王族が最前線に立つなど、歴史上ありえない。
今回も例外ではなかった。
ただの小国――ハイデニアを見せしめに潰すだけ。
宰相も笑いながら言っていた。
「お飾りの遠征です、殿下。命の危険などありはしませんよ」
それなのに――。
目の前で虫に覆われ、悪夢に喰われ、悲鳴を上げる将軍たちの姿。
胸が爆ぜて死んだ部下。
あの光の壁の中で、すべての“常識”が壊れた。
(こんな国が……存在していいのか)
ハイデニア。
魔族と人間が共に笑い、竜が守護し、王太子が土下座して民を守る国。
それを“愚か”と笑ってきた自分たちは、一体何だったのか。
(俺は、あの王太子を殺せると思っていた。
だが、今なら分かる。
あいつは、王だ。俺たちよりも、はるかに上に立つ――)
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5 国を変える者
広間の光が戻る。
ルシエルの頬を一筋の涙が伝った。
誰もそれを嘲らなかった。
王太子アウグスベルグは、静かにその姿を見下ろし、言う。
「貴様が生きて帰る道は一つだ。
自らの目でこの国を見て、己の国が何を間違えたかを知ることだ」
ルシエルはうつむいたまま、微かに笑った。
「……あの国に帰れば、私もただでは済まんな」
「ならばここで死ぬか?」
「……いや、俺は……見たい。この国がどう変わっていくのかを」
その言葉に、王太子は頷いた。
「いい覚悟だ。ならば見届けろ――“戦わずして勝つ”ということを」
広間に風が流れる。
誰もがその瞬間、ハイデニアという国が“新たな時代”に踏み出したことを悟った。




