第31話 屈辱の一日
1 前夜――王太子の土下座
夜。王都の広場に、松明の灯が星のように揺れていた。
人の輪は幾重にも重なり、城壁近くまで続いている。人間も魔族も、老いも若きも、皆が同じ方向を見ていた。
中央に立つ王太子アウグスベルグは、しばし沈黙した。リディアの魔法を展開しているので、全国民が見ている。喧噪が潮のように引き、誰かの唾を飲む音さえ聞こえる。王太子は一歩前へ進み、膝を折った。衣の膝が石に擦れ、低い音がする。次の瞬間、彼は額を石畳につけた。
「……皆に、頼みがある」
ざわ、と空気が揺れた。王族が民の前で土下座――誰もが目を疑った。
王太子の声は震えていない。低く、まっすぐだった。
「明日、超大国ポルトスの使節団がやってくる。今日でちょうど半年。間違いない。やつらは、我らを侮辱し、脅し、屈辱を与える。――だが、どうか耐えてくれ。命と貞操に危険が迫れば『影の守り手』が必ず動く。だが、それ以外は……頼む。国のために、皆の未来のために、明日の一日だけは耐えてくれ」
「殿下! やめてください!」「頭を上げて!」
叫びが四方から飛ぶ。前列の老婆が杖を落とし、震える手で王太子に手を伸ばす。
王太子は顔を上げ、深く息を吸い、広場全体に響く声で言い切った。
「守るべき民を守れぬ私は、頭を上げる資格はない! だが、誓う。明日の屈辱は、必ず――必ず、私が精算する!」
広場は水を打ったように静まり返った。
幼い男の子が、母親の裾を握りしめながら小さく叫ぶ。「ぼく、がまんする」
隣の少女が泣きながら頷いた。「わたしも」
王太子は再び額を石に付けた。長い一礼。
やがてゆっくりと立ち上がり、民の列をまっすぐ見渡した。
「――明日、頼む」
その二文字が、広場の空気を固めた。誰もが頷いた。泣きながら、歯を食いしばりながら。
その夜、王都の家々では、静かな準備が進んだ。
商人は品を奥へ下げ、札に「本日休業」と書いた。
農民は家の戸を強く結い、家族で祈った。
魔族の家では子が小刀を握ったが、父はそっと取り上げて抱き寄せた。「今日は、がまんの日だ」
『影の守り手』は路地の影に位置を取り、合図の手順を最後まで確認した。「命と貞操、そこだけは即時に守る。他は飲み込め」
その夜。
王太子アウグスベルグが国民の前で土下座した姿は、ユリウスの脳裏に焼き付いて離れなかった。
人払いされた執務室で、ユリウスは堪えきれず口を開いた。
「殿下……どうして、あそこまで頭を下げられたのです。
殿下には《ハッタリ(極)》がある。あれでポルトスを退ければよかったのでは?」
王太子は机に肘をつき、疲れたように顔を覆った。
「……やったさ。何度も試した」
「え……?」
「ポルトスに対して“来るな”と心で叫び、声に出そうとした。だが――」
王太子は手を外し、真っ直ぐにユリウスを見た。
「喉が塞がれたようになり、頭にノイズが走る。目の前が真っ暗になって、一言も発せられなくなるんだ。……どれだけ試しても同じだった」
ユリウスは息を呑んだ。
「まさか……《ハッタリ》が、効かない……?」
王太子は肩を落とし、苦笑した。
「理由はわからん。ただ一つ言えるのは、ポルトスに関しては一切通じないということだ」
重苦しい沈黙が落ちる。
ユリウスは震える手を膝の上で握りしめ、必死に思考を巡らせた。
(……殿下は半年前、“半年が限界だと感じる”と口にしていた。あの時は冗談かと思ったが……)
やがてユリウスは、ゆっくりと口を開く。
「……殿下。《ハッタリ》には“限り”があるのかもしれません」
「限り?」
「はい。無尽蔵に使えるのではなく、使えば使うほど“何か”が削られていく。殿下が無意識に察して、半年前に“半年が限界”と感じたのかもしれません」
王太子は目を伏せ、しばらく沈黙した。
やがて小さく息を吐き、苦笑を浮かべる。
「……俺が最強でも万能でもない、ということか」
「殿下……」
「だが、それでいいのかもしれない」
王太子は顔を上げ、強い光を瞳に宿した。
「俺一人の力で国を守るんじゃない。ユリウス、お前やスラウザー、ゼノヴァン、ラウド……そして民がいる。だからこそ、俺は頭を下げても前に進める」
⸻
2 到着――はじまりの一発
朝。
大通りの先に土煙が上がり、旗が見えた。金糸で鷲を縫い取った、超大国ポルトスの紋。
使節五名、随員十名、護衛百名。角張った甲冑は磨き上げられ、槍は陽を弾く。列はゆっくり王都へ入った。
先頭の男が馬車から降り立つ。最初の一歩で王都の土を踏み、深く吸い込むと、鼻で笑った。「田舎の匂いだな」
その男が最初にしたのは、屋台のパンをわしづかみにすることだった。
パン屋の女将が震える声で「代金を……」と言い終える前に、男の手の甲が女将の頬を打った。乾いた音。女将が倒れ、落ちたパンが土埃にまみれた。
見ていた若い兵が一歩踏み出しかける。背後の隊長が腕を掴んだ。「耐えろ」
兵は歯を食いしばり、血が滲むまで唇を噛んだ。
通りの角で、老人が道を譲ろうとして杖を落とした。護衛の兵がそれを拾い上げ、笑いながら老人のすねを杖で叩く。「しっかり立て、年寄り」
老人は崩れ、杖が転がる。孫娘が駆け寄り、震える手で祖父の背を撫でた。
別の通りでは、行商の荷車に手が伸び、革袋が裂かれ、干し肉が路上に散った。店主が絞り出すように言う。「お、お金を……」
男は肩をすくめ、干し肉を踏みにじった。「お前の国の税は、これから“七割”だ。細けぇ計算は、国がやれ」
若い娘の手首が掴まれた。腰に無遠慮な手が回る。娘は顔を背け、必死に身をすくめる。「やめて……!」
路地の影で『影の守り手』が動意を見せる。指導役が短く首を振った。「まだだ。命と貞操に危険が迫ったら即時に入る」
男の手がさらに下へ滑る――その瞬間、娘の影が濃く膨らみ、するりと男と娘の間に滑り込んだ。男は「うおっ」と一歩よろめき、心底不機嫌そうに舌打ちした。娘は走り去る。
男は空に向けて唾を吐いた。「薄気味悪い街だ」
魔族の青年が市場の荷の見張りをしていた。翼を布で包んでいる。護衛の兵が近づき、青年の布を乱暴にめくる。「畜生の翼だ」
兵は鉄の手枷を取り出し、青年の手首に乱暴に嵌めた。きつく締まり、金属が肉に食い込む。青年が顔を歪める。「痛っ……」
じっと見ていた別の兵が、何の理由もなく剣の刃で青年の肩口を横に払った。浅いが、血がはっきりと走った。
青年が膝をつく。周囲の魔族仲間が一斉に前へ出そうになる。「やめろ!」
――彼らの背で、母親の腕に抱かれた翼の幼子が泣いていた。母親は幼子の頭を抱き、揺らした。涙の跡を親指で拭い、「今日はがまん」と囁く。
通りの外れで、子供たちが丸い木の玩具を転がして遊んでいた。護衛の一人がそれを蹴り飛ばし、木の玩具は石垣で砕けた。
小さな男の子が泣きじゃくり「返して!」と叫ぶ。男は子の胸を指で突き、尻もちをつかせる。
見ていた母親が走りかけ、足を止める。王太子の声が頭に響く。(明日だけ、耐えてくれ)
母親は子を抱きしめ、震える声で言う。「大丈夫、大丈夫」
その一つ一つを、王都の人々は見た。涙を呑み、拳を握り、爪が掌に食い込んで血が滲んでも、離さなかった。
⸻
3 目を見て殴る
使節団は、しつこいほど「目を合わせる」行為を繰り返した。
通りすがりの男の顎を掴み、無理やり顔を上げさせる。「反抗する目だな」
彼はそのまま、頬を平手で叩いた。男は倒れながらも目を逸らさない。男の妻が泣き、子が父の名を叫ぶ。
別の使節は、瞳に涙を溜めた少女の頬を指でなぞり、わざと鼻で笑って背を向けた。少女は拳を握り、「泣かない」と呟いた。唇に血の味が広がった。
魔族の髭の男が、呼吸を整え、両手を開いた。「我々は争いを望まない」
護衛の兵は答える代わりに、男の脇腹を肘でえぐった。男は苦悶に顔を歪めたが、倒れなかった。仲間が支える。
通りでは、老人の背を足で小突き、転ばせる行為が繰り返された。倒れた背に砂がかけられ、浴びせられた言葉は一つ。「見るな。下を向け」
……それでも、人々は耐えた。
王太子が昨夜見せた額の土と声の熱が、体に残っていたからだ。
理由はは分からない。だが、いま飛びかかったら、もっと多くが傷つく。――それが、誰もが共有した理解だった。
⸻
4 広場――理不尽の宣告
やがて彼らは、大広場へ集結した。
数千の目が、壇の上にいる使節団に向けられる。王と王太子もそこへ呼びつけられた。
使節団の長は、群衆を眺め、わざとゆっくりと告げた。
「要求を伝える。女は半分差し出せ。税は七割納めろ。魔族はすべて鎖につなぎ、我らの管理下に置く。――以上だ。従わねば、国を焼く」
その一言ごとに、広場の空気が沈んでいく。
泣き声が上がる。誰かが「嘘だ」と呟き、すぐに口を押さえた。
王太子は、黙って聞いていた。拳は握らず、背筋を伸ばし、ただ民と同じ高さで要求を受け止めた。
使節のひとりが、王の頬を殴った。音が広場に反響した。王はよろめき、片膝をつく。
別の使節は、殴った後、王太子の頭に靴を乗せ、そのまま踏みつけた。靴底の汚れが額に線を引く。
「土の味はどうだ、王子」
広場のあちこちで嗚咽が漏れた。リディアは両手を握りしめ、今にも飛び出しそうな身体を兵に押さえられていた。「殿下……!」
スラウザーは血が出るほど唇を噛み、ゼノヴァンは爪で石畳に深い溝を刻む。ラウドの魔力がわずかに揺れ、ユリウスは記録帳を抱えた手を震わせた。
――その時、王太子が口を開いた。
靴が頭に乗ったまま、顔を上げる。目は笑っていない。声は静かだった。
「……分かった。全て従おう」
広場に悲鳴が走った。「殿下!」「そんなはずが――!」
王太子は続けた。
「だが、契約には王印が必要だ。一緒に王城に来て欲しい」
使節団の長は鼻で笑った。「ようやく分をわきまえたか。城で王印を押させて、三日後には港を明け渡せ。娘は今夜からだ」
王は血の滲む口元を拭い、頭を垂れた。「……城で、話を」
王太子は一度だけ群衆を見た。――目が合った者は、理解した。
(殿下は、まだ“負けていない”)
⸻
5 王城への道――“我慢”の行列
王太子と王、使節団、護衛百名、随員十名。
その列が城へ向かう。大通りの左右には、朝から沈黙を守り続けた国民が立ち尽くしている。
誰も声を出さない。泣き声さえ抑え込まれ、ただ、全員の視線が王太子の背に集まっていた。
路地の影で『影の守り手』が流れるように位置を変える。
女の肩が無遠慮に掴まれた瞬間、影がすっと割って入り、手を滑らせる。
少年の首に向かった平手が、なぜか空を切る。
「……なんだ、この街は」護衛の一人が苛立ちを隠さず吐き捨てる。
スラウザーは列の最後尾で歩を合わせ、いつでも飛び込める体勢を保った。ゼノヴァンは屋根影から全体を見下ろし、ラウドは魔族兵三千の待機位置を脳裏でなぞる。ユリウスは手順の最終確認を頭の中で繰り返し、リディアは震える拳を胸に当て、王太子の背だけを見つめ続けた。
⸻
6 光の檻
王城前の大広場。
王太子は歩を緩めず、使節団の列を先へ誘導した。全員が広場に入りきる。
その刹那――四方の石柱が白く光った。
一本、二本、三本、四本。
光の線が空へ駆け上がり、天で弧を描いて繋がる。
巨大な半球の“光の壁”が現れ、ドームとなって広場を覆った。
外からは民のざわめき、内側には甲冑の擦れる音と慌てふためく怒号。
「閉じ込められた!」「何だこれは!」
護衛が壁へ槍を突き立てる。金属音の代わりに、鈍い振動だけが返る。
王太子は靴跡のついた額を袖で拭い、土を払いながら肩を回した。
長く息を吐き、ほんの少しだけ口元を緩める。
「やれやれ……作戦成功だな」
スラウザーが前へ出た。足元の砂が、分身の気配とともにすっと揺らぐ。
ゼノヴァンの瞳孔が細くなり、牙がゆるりと覗く。
ラウドの周囲に、見えない圧が波のように広がる。
リディアは涙を拭い、王太子の背中にきっぱりと頷いた。
ユリウスは記録帳を閉じ、静かに言う。「証人は充分です。――殿下、いつでも」
王太子はゆっくりと使節団を見渡した。
広場の外、民の目は燃えている。
“明日の一日だけは耐えてくれ”――その約束は、ここで終わる。
「ここからは――我らの番だ」
光の檻の中で、空気が一段重くなった。
半年かけて鍛えた国の、殻がいま破れる。
⸻
7 屈辱の清算(開幕)
使節団の長が叫ぶ。「無礼者どもが!」
王太子は一歩も動かず、静かに告げる。
「まず、三つだけ確認する。
一つ――さきほどの要求、『女は半分』『税は七割』『魔族は鎖で管理』。この場で撤回する意思は、あるか。
二つ――広場で負傷した者への賠償と、王に対する暴行の謝罪。これはできるな。
三つ――今この瞬間から、誰一人、民に触れるな」
使節団の長は鼻で笑った。「小国の王子が条件を出すか」
王太子は肩をすくめる。「条件ではない。“最低限の線”だ」
「従わねば?」
「――従わねば、ここで終いだ」
言い終えると同時に、スラウザーの分身が四方へ散った。
影は薄く、気配はほとんどない。剣が抜かれる音だけが重なり、甲冑の列に緊張が走る。
王太子は振り返らない。広場の外の民に向けてだけ、ひとこと。
「長く待たせたな。こいつらは3万の兵を連れてきてる。こちらが断ればなりふり構わず、ハイデニアを滅ぼすつもりだった。だが、この結界があれば通信の魔道具も使えない。――ここから、精算する」
外の空気が震え、嗚咽と歓声が同時に弾けた。
誰かが泣きながら叫ぶ。「殿下ぁ!」
子どもが拳を突き上げる。「やっつけて!」
老人が杖を支え、うなずく。「やっと、やっとじゃ」
王太子は顎をわずかに引いた。目は鋭いが、声は穏やかだ。
「全員、精算を始めろ!」




