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第26話 勇者、影に怯む

 その夜のハイデニアは、笑い声と歌声に包まれていた。

 人間と魔族が共に暮らすようになり、広場では楽師が弦を鳴らし、酒場では杯が打ち鳴らされていた。

 だが、宰相ユリウスは胸の奥に拭えない不安を抱えていた。


(……順調すぎる。世の中は、こんなに都合よくは回らない)


 屋敷の屋上で月を眺めていたゼノヴァンも、眉をひそめる。

「友よ。妙な悪意を感じる」


「犯罪者か?」と王太子アウグスベルグ。


「違う。もっと……重い。俺も初めてだ」


 王太子は軽く息を吐き、肩をすくめた。

「なら城の守りを強めろ。俺は部屋に戻る。明日に備えねばな」


 王太子が部屋に去り、ゼノヴァンは夜警を続けた。



2 勇者の登場


 一方その頃、ユリウスは城の警備を見回っていた。

 そこに影の守り手が駆け寄る。

「侵入者が……! 影を焼かれました!」


 駆けつけたユリウスの目に映ったのは、一人の男。

 抜き放たれた剣が白く輝き、周囲の闇を焼き払う。

 さらに雷撃が放たれ、影の守り手が吹き飛ぶ。


 勇者が現れたのだ。


 廊下を駆け抜けるその姿は音もなく、ただ剣の光だけが走る。気配を察した影の守り手五十人が即座に影から飛び出し、侵入を阻もうとした。ユリウスも駆けつけ、声を張る。


「止めろ! 勇者だ!」


 だが次の瞬間、勇者の剣が閃き、風を切った。踏み込みの速さと威力は人の目では追えず、ユリウスも守り手たちも一斉に倒れ伏した。呻きもなく、血も流れない。――ただ意識を刈り取られたかのように、静かに床に沈んでいった。


 そして勇者は、迷いなく王太子の私室の扉を蹴り破った。


3 王太子と勇者


  勇者は扉を蹴り破って室内へ踏み込んだ。

 中には王太子アウグスベルグ――そして、その傍らに婚約者リディアの姿もあった。


「っ……!」

 リディアは咄嗟に一歩、王太子の前へ出ようと身を滑らせる。


「動くな」

 低く鋭い声。勇者の剣先が王太子の喉元に突きつけられ、同時に向けられた殺気が空気を縫い止める。

 リディアの足が床に縫い付けられたように止まり、指先が小刻みに震えた。唇を噛み、王太子を見る。王太子は、静かに片手を軽く上げ、目だけで「下がれ」と合図し、勇者の方を向いて笑った。


 ――なぜ、こんな時に笑える。

 勇者は剣を構えたまま一瞬だけ迷う。罠かもしれない。この落ち着きは何だ。


 その刹那、王太子が口を開いた。

「夜に客人とは、珍しいな」


「笑うな。お前を討てば、この国は終わる」


「逆だ。俺を斬れば、この国の“一千億”の兵と竜と魔族すべてがお前の敵になるぞ」


4 勇者の幻影


 その瞬間、勇者の脳裏に異様な映像が流れ込んだ。



草原


 ――草原。

 風が吹き抜けるはずの大地が、ざわざわと蠢いた。

 地面が割れ、無数のムカデが這い出す。長さは人間の胴ほどもある。

 さらに蟻の群れが波のように押し寄せ、足首に噛みつき、腿を登る。


「くそっ……!」


 雷撃を放ち、一掃した。

 だがすぐに、新たな群れが地平線の向こうから黒い塊となって湧き上がる。

 皮膚を噛まれ、肉を裂かれる痛みに、勇者は顔をしかめた。


(何だこれは……)




 ――場面が切り替わった。山。

 獣たちの叫びがこだまする。

 狼、熊、鹿、鷲……本来なら群れをなさないはずの者たちが、血走った目で勇者だけを狙い、突っ込んでくる。


 羽を斬り落とし、牙を砕いても、止まらない。

 血を流しながらも、なお笑みを浮かべて命を投げ出す。


(やめろ……なぜ笑う……!?)


 剣を握る手が重い。呼吸が荒い。背に冷や汗がつたった。




 ――場面が切り替わった。島。

 波が穏やかに寄せていたはずが、沖の方で海が盛り上がる。背鰭のようなものが現れ、巨大な影がこちらに迫る。


 勇者は剣を振り、魔法を放つ。

 だが大地が震え、視界が揺れた。

 次の瞬間、足元の島そのものが持ち上がる。


「……まさか……島じゃない……!」


 下を見れば、巨大魚の背だった。

 全てが鱗でできていた。

 その巨体が口を開ける。海が裂け、勇者は逃げる間もなく飲み込まれた。


(息が……できない……!)



白い世界


 ――場面が切り替わった。白い世界。

 何もない。安堵しかけた時、影が落ちてきた。


 人の形、魔族の形、獣の形。無数の影が取り囲む。

 いくら斬っても崩れない。

 傷が増え、血が滴る。


(……倒せない……終わらない……!)


 額から汗が流れ落ちる。呼吸は乱れ、剣が震える。

 最大魔法を放ち、影を吹き飛ばした。

「はぁ……はぁ……!」


 しかし安堵は一瞬。

 空を見上げた瞬間、さらに巨大な塊が降ってきた。

 その中心には、大口を開けた化け物の影。


 勇者は叫ぶ間もなく、一飲みにされた。



現実へ


「――っ!」


 勇者は現実に引き戻された。

 顔は青ざめ、全身から汗が滝のように流れる。

 手足は震え、剣を握る指に力が入らなかった。


(俺が……俺が……震えている……?)



5 退却


 その時、窓が開き、スラウザーとゼノヴァンが飛び込んできた。


「殿下ァ! 無事かッ!」


スラウザーの声は震え、焦りが滲んでいた。

 王太子が無傷で立っているのを見て、安堵と同時に怒りが爆発する。


「なめやがって……! この俺の目の前で殿下に刃を向けるとは……!」


ゼノヴァンも叫ぶ。

「貴様ァァァァ!友に指一本触れさせぬわっ!」


 勇者は剣を構えたまま、後ずさる。

「……神が、この国を許すことはない」


 そう言い残し、勇者は光の渦に包まれて消えた。


 その瞬間まで息を詰めていたリディアの身体から力が抜けた。足が震え、堪えきれずその場に膝をつく。

 張り詰めていた気持ちが切れたのだ。


 涙が溢れ、頬を伝って落ちる。

 リディアは震える手で王太子の袖を掴み、顔を上げた。


「殿下……ご無事で、本当に……よかった……!」


 声は震えて途切れ途切れだった。恐怖と安堵が一度に押し寄せ、止めどなく涙が溢れる。

 王太子は困ったように、けれど優しく微笑み、彼女の手に自分の手を重ねた。


「……心配をかけたな。俺は大丈夫だ」


 その言葉に、リディアは嗚咽を漏らしながらも必死に頷いた。


 直後、静寂を切り裂くように、荒い息を吐きながらユリウスが部屋へ駆け込んできた。


「殿下ッ……!」


 普段は落ち着いた彼の声が裏返っていた。

 宰相として――いや、一人の幼馴染として。胸を焼くような悔しさに、歯を食いしばりながら王太子に頭を下げる。


「申し訳ございません! 私の采配が至らなかった……殿下を危険に晒してしまった……!」


 声は震え、目尻は赤く濡れていた。

 王太子が確かにそこに立ち、傷一つ負っていないのを見て、抑え込んでいた感情が堰を切ったようにあふれ出す。


 ユリウスは拳を胸に当て、涙をこぼしながら言った。


「ご無事で……本当に、よかった……!」


 その姿は、冷静沈着と称えられる宰相ユリウスのものではなかった。

 一人の幼馴染として、ただ大切な友の安否を心から願い続けていた男の姿だった。


 部屋に沈黙が落ちる。


「神、か……」アウグスベルグは苦笑した。

「また面倒な相手を敵に回したな」


6 帰還


 夜明け前のポルトス王城。

 薄暗い玉座の間に、重い扉が音を立てて開いた。

 現れたのは、勇者レオン。


 衛兵たちが一斉に膝をつく。

「勇者殿、陛下がお待ちです」


 レオンは無言で頷き、玉座の前に進み出た。


「……戻ったか、勇者よ」

 低く響く声が玉座の奥から落ちる。

 黄金の衣をまとった男――ポルトス王、オルフェルド三世。


「聞かせてもらおう。ハイデニアの王太子は?」


 レオンは一度、目を伏せて息を整えた。

「殺すのは、容易でした」


 王の眉がわずかに動いた。

「……だが、戻ったのか」


「はい。神の掲示があったのです」


 その言葉に、謁見の間がざわめいた。



7 虚言


 王は静かに目を細める。

「神の……掲示、だと?」


 勇者は、少しだけためらいを見せた。

 だが、もう後には引けない。

「私は確かに聞きました。

 “勇者よ、その男を討つな。時はまだ至らず”と」


 王の家臣たちが顔を見合わせる。

 だが、オルフェルドだけは、冷静にその言葉を噛みしめていた。


「ふむ……神がそう言うならば、従うしかあるまいな」


 その声音には、わずかな笑みが混じる。


 レオンは黙って頭を下げる。

 その手は汗で湿っていた。


(本当は――斬れなかった)


 あの男、ハイデニアの王太子。

 剣を向けた瞬間、喉が凍りついた。

 あれは人ではない。何か、もっと別の“何か”だ。


(俺が……怖気づいた? 馬鹿な。俺は神に選ばれた勇者だ)


 自分の震える指を見下ろし、歯を食いしばる。



8 王の慢心


 王は豪奢な椅子に深く腰を下ろし、ゆっくりと笑った。

「つまり――お前は神に止められたというわけだ。

 ふむ……しかし、王太子を殺せるほど接近できたのだろう?」


「はい。護衛らしき者もほとんどおらず……国の防衛は驚くほど脆弱でした」


 嘘だった。

 本当は護衛に竜も、魔王も、護衛もいた。

 けれど、そう言えば王がどう出るか、分かっていた。


 案の定、王は喉の奥で笑い声を立てた。


「そうか、やはりな。

 所詮、辺境の寄せ集め国だ。

 魔族と竜を抱えたとて、実際は脅威でも何でもない。

 お前が手を出さずとも、我が国の兵だけで片がつく」


 臣下たちの表情に、安堵と傲慢が入り混じる。


「……あの程度の国が我らに逆らうなど、愚の骨頂よ」



9 使節団派遣


 王は立ち上がり、玉座の前で大声を放った。

「聞け! ポルトスはこの愚かなる小国を制す!

 名目は“外交”――だが、実態は示威だ。

 使節団を送れ!」


王はさらに言葉を重ねた。


「そして、他国へ伝えよ。

 “ハイデニアの件にはポルトスが対応する。他国は干渉するな”と」


 伝令が走り、魔封の鳩が飛び立つ。

 瞬く間に、大陸中へとその命令が広がった。


10 勇者の胸中


 王の声が遠のく中、勇者レオンはただ一人、沈黙していた。


(違う……。脆弱どころか、あの国は何かを抱えている)


 だが、それを口にすれば、自分の怯えを認めることになる。

 それだけはできなかった。


(神の掲示があった、で押し通すしかない……)


 手の甲を見つめる。

 あの夜、王太子の前で震えた指。

 あの屈辱を、もう二度と味わいたくなかった。


 王の命令に頷き、頭を下げる。

「私は再び、神の導きに従います」


 だが心の奥では、冷たい何かが囁いていた。


(今度こそ、殺す。どんな手を使ってでも)



11 ポルトス王の傲慢


 王は一人、窓の外を眺めながら呟いた。


「外交の顔をして進軍せよ。

 ハイデニアを屈服させ、民を奪い、魔族どもを処分しろ。

 それが世界の秩序だ」


 月光が、王の横顔を照らした。

 その瞳に映るのは、確信と傲慢――そして支配の欲。


12 大陸の静寂


 数日後、大陸全土に王の通達が届いた。

 「ハイデニアへの介入はポルトスが行う。他国は一切の干渉を禁ずる」


 この命令に、どの国も逆らわなかった。

 誰もが知っている。

 ポルトス帝国――人口一億五千万、世界唯一の“超大国”。

 その覇権に逆らえば、滅亡は避けられない。


 そして、誰も知らなかった。

 その使節団が、半年後に“戻らない”ことを――。

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