第19話 血と信念の狭間で
1 崩れる戦況
戦場は混乱そのものだった。
城壁の外には煙が立ちこめ、土は踏みしめられ、血で黒ずんでいる。
怒号、悲鳴、鉄と鉄がぶつかる音。兵士の汗と血の匂いが鼻を突く。
魔族の巨体は、兵を吹き飛ばすだけで戦況を動かす。
一撃で三人、五人がまとめて倒れた。
硬い筋肉と分厚い皮膚。人間の槍では突き刺さっても浅くしか入らない。
牙をむいた咆哮は、耳を裂くようだった。
「押されてる! 退くな、退くな!」
隊長が叫んでも、恐怖に足が止まる兵が続出する。
「魔族に勝てるわけが……」
弱音がもれ、列が崩れる。
だが前線では、スラウザーが吠えていた。
「斬れぇぇぇっ!!」
大剣を振るうたびに魔族の肉が裂け、血が飛び散る。
それでも相手は倒れない。倒しても次が来る。
スラウザーの腕は鈍り、呼吸は荒くなる。
ゼノヴァンは背後で唸っていた。
「……手が出せん。兵が巻き込まれる」
本気を出せば敵を粉砕できる。だが守護竜となった今、味方を犠牲にすることはできない。爪も炎も振るえず、歯がみするしかなかった。
「持たないぞ!」
「誰か……助けてくれ!」
兵の顔から希望が消えていった。
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2 王太子の決断
城壁の上。
アウグスベルグ王太子は、剣を腰に下げたまま戦場を見つめていた。
唇は固く結ばれ、額には汗。
ユリウスが横で必死に叫ぶ。
「殿下! ご自分が出てはなりません! ご判断を誤れば国が……!」
「分かっている」
短く答えた王太子の目は真剣だった。
「だが、このままでは兵は潰れる。国は砕ける」
「ならば策を……!」
ユリウスが言いかけた瞬間、王太子は剣を抜いた。
「策などいらん!」
声が響き、兵たちの耳に届く。
「俺が出る! 俺が立たずして、誰が国を守る!」
城壁の兵士たちが息をのむ。
「で、殿下……!」
彼は迷いなく飛び降りた。
土を蹴り、最前線へ駆け込んでいく。
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3 血に染まる
王太子の剣筋は素人のそれだった。
だが兵の影が彼の剣を支え、風が背を押した。
「殿下だ! 殿下が来たぞ!」
兵たちの士気が一気に跳ね上がる。
「殿下を守れ!」
「俺たちが支えるんだ!」
その声に応えるように、旗が翻り、兵が一斉に反撃に出た。
だが、魔族の爪が閃いた。
鋭い刃が王太子の脇腹を裂く。
「ぐあっ……!」
赤い血が噴き出し、地面を染めた。
「殿下ァァァ!」
兵が絶叫し、ユリウスが蒼白な顔で駆け寄ろうとする。
スラウザーは怒号を上げ、敵の首をはね飛ばした。
王太子は崩れ落ちながらも、剣を手放さなかった。
膝をつき、血に濡れた顔を上げる。
「まだだ……俺は死なぬ!」
その目には、不思議な強さが宿っていた。
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4 信じ抜く声
兵士たちの胸に、火が灯る。
「殿下は立っている!」
「殿下を守れ!」
叫びが次々と重なり、戦場全体に広がった。
影が濃くなり、揺らめき、魔族の足元に絡みつく。
風が突風となり兵の背を押し、剣の勢いを増す。
鳥の大量の群れが突撃し、虫の大群が目や口に入り、魔族が咆哮した。
「ぐっ……目が……!」
「なんだ、この動きは!」
一人ひとりの力は弱い。
だが信じ抜く声が重なった瞬間、戦況がひっくり返りかけた。
「信じろ! 殿下がいる!」
兵たちの声が空を震わせる。
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5 魔王の心
混戦の中、小柄な影が立っていた。
黒衣をまとい、紅い瞳を光らせる魔王だった。
その視線は血まみれの王太子に向けられていた。
「……なぜだ」
低い声が響く。
「死ぬと分かっていながら、なぜ立つ」
王太子は血を滴らせながらも、まっすぐ睨み返した。
「分かっている……お前も戦いたくはないのだろう!」
魔王の目が揺れる。
彼の胸の奥に沈んでいた何かが、かすかに軋んだ。
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6 残された余韻
スラウザーは王太子を庇いながら大剣を振るい、ゼノヴァンは体を広げ盾になる。
ユリウスは血まみれの王太子を支え、必死に声をかけた。
「殿下、立たなくては!」
「当たり前だ……まだ終わっていない」
兵の列が再び整い、影と風が渦巻いた。
魔族の側に動揺が走る。
魔王はその光景を静かに見つめ、やがて手を上げた。
「撤退する」
魔族の軍勢がゆっくりと後退を始める。
その場には、疲弊した兵と血の匂いだけが残った。
王太子は剣を地に突き立て、笑った。
「見たか……俺たちは……まだ立っている……」
兵たちの目に涙が浮かび、誰もが拳を握りしめていた。