第17話 影の守り手
1 新しい力
ゼノヴァンは最近、自分の中に新しい感覚が芽生えていることに気づいていた。
「悪意」――それは風でも匂いでもない。人の胸の奥に潜む黒い棘のようなもので、笑顔の裏に隠された敵意や、誰かを傷つけようとする衝動が、まるで熱のように伝わってくる。
(……俺が裏切られてきた記憶が、形になったのだろうな)
彼は幾度も人に利用され、見捨てられてきた。信じたものに牙を向けられた回数は数え切れない。だからこそ、ゼノヴァンは誰よりも「悪意」を敏感に察知できるようになったのだ。
ある日、王都を歩いていると、人混みの中で異様に濃い悪意が混じっていた。
顔は笑みを装っているが、心の底には刺すような敵意を隠している男――。ゼノヴァンの目は鋭く細められた。
ゼノヴァンは王太子、ユリウス、スラウザーに報告した。
「まだ何もしていないのだな?人間の国の法では、行動する前は裁けない」ユリウスが確認する。
「そうだ。だが……必ず動く」ゼノヴァンは影の奥で低く答えた。
王太子は笑った。
「なら、動いたときに止めればいい。それを皆に見せてやるんだ」
スラウザーが拳を握る。
「話を聞いて影に潜れる手練れを五十人揃えた。こいつらを使え」
こうして、ゼノヴァンを中心とする特別部隊――影の守り手が正式に発足した。
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2 犯行の瞬間
数日後。
市場の裏路地で、あの男が一人の女を追い詰めていた。女は声を押し殺し、壁に塞がれて後ずさる。恐怖で震える手が逃げ場を探している。
男の目は獲物を狙う獣のように光り、懐から刃物を抜いた。
「助けて……!」女のか細い声が響いた瞬間――。
ゼノヴァンは影から滑り出た。男が女に刃を向けたその瞬間、彼の肩を軽く押さえる。力強い押さえ込みではなく、ほんの一押し。しかしそれだけで男の体は硬直し、手から刃がこぼれ落ちた。
直後、影の守り手が次々と飛び出し、男を取り押さえる。刃は奪われ、男はあっという間に拘束された。
「今……止めたのか?」
「事前に気づいてたのか……?」
野次馬の声がざわつく。
助けられた女は胸を押さえ、震えながら何度も頭を下げた。子どもたちは目を輝かせてゼノヴァンを見上げ、手を振る。
ゼノヴァンは静かに言った。
「行動したから、止めた。それだけだ」
ただそれだけ。だが、その言葉が不思議な重みを持って路地に残った。
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3 影の守り手の仕事
影の守り手たちは街に散り、ゼノヴァンの感知に従って動いた。
悪意が行動に移されたその瞬間に、影が飛び出し、犯人を拘束する。
泥棒が袋を持ち上げた時。
暴漢が拳を振り上げた時。
扉を壊して侵入しようとした時。
すべて被害が出る前に止められた。事件は未遂のまま終わり、人々は次第に気づき始める。
「この街では悪事ができない」――そう広まった噂は、やがて王都の空気を一変させた。
夜道を歩いても襲われない。商人は安心して取引をし、酒場の喧嘩もすぐに収まる。王都は大陸一安全な街と呼ばれるようになった。
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4 国の変化
ゼノヴァンが狩った伝説級の魔物の素材は、想像を超える価値を生んだ。市場に並んだそれは王都を活気づけ、国庫を大きく潤す。
王太子は即座に笑った。
「税を下げよう。安全で税の安い国にすれば、人は必ず集まる」
その言葉通り、移住希望者が門前に列をなし、商人や職人、家族連れが次々と移ってきた。宿屋は溢れ、街道は活気に包まれ、工事現場は人手が追いつかないほどになった。
数か月のうちに、人口は八百万から一千五百万へと膨らんだ。
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5 ゼノヴァンの心
夜、城の屋上。涼しい風が吹き抜ける中、ゼノヴァンは遠くの街を見下ろしていた。灯りが増え、夜でも活気がある。
その下から、子どもたちが「竜様だ!」と声をあげ、笑顔で手を振っているのが見えた。市場では、救われた女が影の守り手の事を何度も話していた。兵士たちも「竜様がいるから心強い」と口々に言っていた。
ゼノヴァンは胸の奥に初めて覚える感覚を感じていた。
――感謝されることが、これほど心を満たすものなのか。
孤独と裏切りばかりだった過去にはなかった、温かな充実感が広がっていく。
背後から王太子が声をかけた。
「どうだ? みんな、嬉しそうだぞ」
ゼノヴァンは小さく頷いた。
「……悪くない。友よ。俺は、守って良かったと思える」
王太子はにっこり笑い、いつもの調子で言った。
「これからもっと言われるぞ。“竜様のおかげで生きてる”ってな。耳が痛くなるくらい、感謝を浴びろ」
ゼノヴァンは思わず笑った。こんな笑いは、随分と久しぶりだった。
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6 次の夜明けへ
ハイデニアは安全で、税が安く、人が集まる国となった。
影が街を守り、竜が安心の象徴となる時代。だが同時に、灯りが強まれば遠くからも見えるようになる。
ゼノヴァンは夜空を仰ぎ、胸の奥で静かに誓った。
「来るなら来い。この国を、俺は守る」
そして遠くから子どもの声が届いた。
「影の守り手って、やっぱりかっこいい!」
ゼノヴァンは目を細め、静かに笑った。