第16話 人型ゼルヴァン、はじめての「しごと」
1 朝の誓い
ゼルヴァンは人の姿で王都の広場に立っていた。
黒髪の青年、赤い瞳。背は高いが、なるべく人々を怖がらせないように背を丸める。昨晩、王太子アウグスベルグに言った言葉を胸で繰り返す。
「俺は友の国の役に立ちたい。竜である前に、友でありたい」
王太子は笑った。「なら、今日は“普通の一日”を手伝ってみよう」
その“普通”がどれほど難しいかを、ゼルヴァンはまだ知らない。
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2 市場、はじめての荷運び
朝の市場。魚の匂い、焼きたてのパンの匂い、人の声。
ゼルヴァンは店主の婆さんから籠を受け取る。「港から氷箱を三つ。壊すなよ?」
「うむ、任された」
港で氷箱を持ち上げる。……軽い。
ぐしゃ。
指先にほんの少し力が入っただけで、氷箱の板が割れた。氷と魚が足元に散らばる。
「ひゃあああ! 箱がぁ!」
「すまない!」
ゼルヴァンは慌てて拾い集めるが、魚は氷より滑る。彼の足元でぴちぴち跳ねる。見ていた子どもが笑い転げ、漁師が頭を抱え、婆さんは腰に手を当ててため息をついた。
「……次は、力を半分、いや、十分の一にしてみよう」
彼は慎重に、慎重に箱を持ち直す。今度は運べた。だが市場の角を曲がるとき、ちょっと体をひねっただけで、角の屋台の看板がポキッ。
看板屋の男が叫ぶ。「おい! 看板!!」
「すまない!! 後で直す!」
市場の人々は怒るより先に苦笑いを覚えた。竜が汗をかいて謝っているのだ。怒り続ける方が難しい。
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3 台所、はじめての料理
昼前、王城の台所。
料理長が腕を組む。「殿下が“やらせてやってくれ”って言うからよ。軽い煮込みだ。火は弱く」
「任せてくれ。火加減なら、火の海で寝たこともある」
竈に火を入れる。薪に息を吹きかける。
ぼっ。
小さな炎が、ごうっに変わった。
鍋底が赤く光り、鍋の取っ手がべろりと曲がった。中のスープは一瞬で煮詰まり、焦げの匂いが台所に広がる。
「や、やめろぉぉぉ!!」料理長が飛びついた。
「弱火にしたつもりだったのだが……」
ゼルヴァンは肩を落とし、鍋を持ち上げようとして、今度は木の杓文字を粉砕してしまう。
見ていた下働きの娘が、思わず笑ってしまった。
「だ、大丈夫です。ゼルヴァン様、洗い場お願いできます?」
「任せてくれ」
数分後、洗い桶が縦に割れた。力を抜いたつもりが、ほんの少し強かった。
料理長は頭を抱えつつも、最後は笑った。
「……もういい、座ってろ。代わりに食ってけ」
「すまない。美味い。人の作る食べ物は、温かい」
彼が真剣に反省しているのが伝わり、台所の空気は妙にあたたかくなった。
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4 職人街、はじめての奉仕
午後。鍛冶屋の前。
鍛冶屋の親父が槌を振るう。「竜が手伝うって? 面白え。そこの鉄棒、まっすぐ引き延ばしてみな」
「うむ」
ゼルヴァンは鉄棒を両手でつまみ、すっと伸ばした。
ぺらっ。
鉄棒は、紙のような薄さの鉄の帯に変わった。
「いや、すげぇけど違う! 帯じゃなくて棒だ! 棒!!」
「すまない!」
隣の革職人の店では、ゼルヴァンが穴あけを手伝う。
ぶちっ。
革が破れた。
仕立て屋では糸を引っ張っただけで、糸巻きが空になった。
職人たちは最初こそ悲鳴を上げたが、最後は笑って肩を叩いた。
「気にすんな。竜が手伝いに来たって話の方が、良い土産話だ」
「今度は運ぶだけな。持つな。運べ」
「了解した」
ゼルヴァンの顔に少しずつ笑顔が戻る。だが夕方、彼はしょんぼりと城に戻った。
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5 王太子への相談
執務室。王太子アウグスベルグは書類に目を通していた。ユリウスは帳簿、スラウザーは窓辺で腕を組む。
ゼルヴァンが入って来ると、王太子は顔を上げた。
「どうだった、初仕事」
「……壊した。いっぱい」
「だろうな」
「だろうな!?」とゼルヴァンが目を丸くする。
王太子は笑う。「人間の“普通の仕事”は、細かい。力じゃなくて、手加減と段取りだ。竜には難しい」
「俺は、やはり役に立てないのか」
「立てるさ。役立つ場所を間違えただけだ」
王太子は机から一枚の地図を広げる。
「山の稜線。最近、伝説級のモンスターが動き始めている。道を塞ぎ、村を脅かし、畑を荒らす。兵を送っても、被害の方が大きい。
ゼルヴァン。お前の仕事はこっちだ。対峙して、黙らせてこい」
ゼルヴァンの目が光った。「それなら得意だ」
ユリウスが慌てる。「待ってください。単独での討伐は——」
王太子は片手を上げて制す。「任せる。必要なのは“今すぐ止めること”だ」
スラウザーが笑った。「殿下、戻れなかったら?」
「帰ってくるさ。ゼノヴァンは、必ず帰ってくる」
「……行ってくる」
ゼルヴァンは短く言い、窓から空へ跳んだ。人の姿のまま飛べるわけもなく、一瞬落ちかけて——竜に変じた。黒い翼が夕陽を裂いた。
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6 山と谷の「挨拶」
最初に現れたのは、岩背のベヒモスだった。
背に岩盤のような甲羅。体当たりだけで崖を崩す。
ゼルヴァンは空から降り、一言だけ言った。
「ここは道だ。退け」
ベヒモスが牙をむき、突進する。
ゼルヴァンは頭をひと撫でした。
どん。ベヒモスがそのまま地面に沈んだ。
気絶したのか、寝たのか、もう動かない。
次は雷牙の王狼。群れを率いて村を囲み、家畜を狙う。
ゼルヴァンは群れの前に降り立ち、咆哮した。
雷が空で散り、王狼だけが膝をついた。他は逃げた。王狼は首を垂れ、山へ消えた。
沼の主ケルグ。毒霧を吐き、近くの畑を腐らせる。
ゼルヴァンは毒霧を飲み込み、吐息ひとつで雲にした。
主は目を白黒させて沼に潜り、再び出てこなかった。
そして——空の蛇ウロボロ。
細長い体で雲を切り裂き、飛行する鳥や船を襲う厄介者。
ゼルヴァンは追いかけず、空に浮かんで待った。
やがてウロボロが近づくと、ゼルヴァンは短く言う。
「飢えているなら港へ行け。魚は山ほどある。だが人には近づくな」
ウロボロは一瞬迷い、やがて尾を垂れて去った。
**“言葉が通じる”**相手もいる。全てを倒す必要はない。
この一日だけで、幹線の山道は開き、村からの悲鳴は止んだ。
ゼルヴァンは「まだいるな」と空の彼方を見て、もう一日動いた。
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7 帰還、山ほどの「おみやげ」
三日目の朝。
王城の中庭に、ゼルヴァンが人の姿で降り立った。背負子を何本も背負い、さらに両手で大袋を抱えている。あと、なぜか巨大な牙を肩にひっかけている。
最初に歓声を上げたのは子どもだ。「帰ってきたー!」
次に悲鳴を上げたのは門番だ。「な、なんだその山は!」
中庭に並んだのは、伝説級モンスターの素材だった。
岩背のベヒモスの甲羅、雷牙王狼の雷角、沼の主ケルグの毒嚢、ウロボロの古い脱皮皮、そして道すがら倒した岩鱗の大蛇の魔核。
ほかにも、名も知らぬ希少素材が山のように。
ゼルヴァンは少し照れた顔で言う。
「“役に立つものを持ち帰れ”と王太子が言った。役に立ちそうなものを、できるだけ」
ユリウスが走って来る。帳簿と算盤を抱えて、目が血走っている。
「ど、どれから……どれから見れば……!」
彼は一番手前の甲羅を叩き、雷角を持ち上げ、魔核を光にかざす。
そして算盤を弾き、途中で指を止め、額に手を当て、また弾き直し、最後は叫んだ。
「これを売ったら、国の年間予算の半分以上になる! いや、使い方次第では来年分も賄える! 工房を増やせば加工品の輸出もできる、税収が跳ね上がる、インフラが一気に進む、港の拡張も——!」
周りの官吏たちが顔を見合わせ、次々とうなずく。
鍛冶屋たちは甲羅を叩いて目を輝かせ、革職人は皮の弾力に唸る。魔道具師は魔核に指先を震わせる。港の組合長はすでに計算を始めている。
王妃が静かに歩み寄り、深く礼をした。
「ゼルヴァン。あなたのおかげで、冬が越せます」
王も頷く。「国の柱が一本、今ここに立った」
兵士たちが一斉に槍を掲げた。「ゼルヴァン! ゼルヴァン!」
子どもが彼の手を掴んで跳ねる。「ありがとー!」
ゼルヴァンは真っ赤になった。
「……俺は、友の言葉に従っただけだ。友と、その民のためだ」
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8 王太子のひと押し
王太子アウグスベルグが人垣を抜けてきて、ゼルヴァンの肩を軽く叩いた。
「見たか、ゼルヴァン。お前は壊すより、開く方が似合う」
「開く?」
「道を開き、港を開き、人の心を開く。それが竜の力の使い道だ」
ユリウスが息を整えて口を挟む。
「殿下、素材の流通は段階的にやりましょう。市場に一気に出すと値崩れします。国内の工房を増やし、人を雇い、加工で価値を高める。それから少しずつ輸出。……ゼルヴァン様、もしよろしければ定期的に安全確保の巡回をお願いできると、安定供給が見込めます」
ゼルヴァンは胸を叩いた。「任せてくれ」
スラウザーが笑う。「よし、俺が見取り図を作る。護衛は……いや、ゼルヴァンにはいらねえな。道案内だけ付けよう」
王太子が締めた。
「じゃあ決まりだ。山は開く。道は太くする。港は三倍に。工房の見習いは百人増。最初の賃金は国が持つ。
——三日で始めよう」
ユリウスが胃のあたりを押さえた。「殿下……三日は短い……」
王太子は片目をつぶって笑う。「だいたい三日だ」
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9 小さな「ありがとう」
夕暮れ、王都の外れ。
ゼルヴァンは壊してしまった市場の看板を、自分の手で丁寧に直していた。指先は大きいが、今日は力を入れすぎないように何度も息を整える。
看板屋の男が腕を組んで見ている。
「……よし、まっすぐだ。今度は長持ちする」
「おう。ありがとよ、竜の兄ちゃん」
「ゼルヴァンでいい」
「じゃあ、ゼルヴァン。明日、うちの子の誕生日でな。魚、安くなったから、ちょっと豪勢にできる。お前さんのおかげだ」
ゼルヴァンは少しだけ目を伏せ、短くうなずいた。
「……良い夜になる」
帰り道、台所の裏口に立ち寄ると、料理長が顔を出した。
「さっきの“焦げ鍋”の件な。まあ一生分のネタだ。ほら、持ってけ」
包みを渡される。開くと温かいシチュー。
「ありがとう。人の作る食べ物は、温かい」
「二回も言わせるな。分かってる」
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10 ご満悦
夜、王城の塔の上。
王太子、ユリウス、スラウザー、そしてゼルヴァンが並んで王都の灯りを見る。
「今日はよく働いたな、ゼルヴァン」
「うむ。役に立てた。壊すより、開く方がいい」
「それが分かったなら十分だ」王太子は笑う。
ユリウスは手帳を掲げた。「素材一覧と売却計画、明朝までに第一案を出します。数字が動く音がします」
スラウザーが肩を組む。「次は俺と山で筋トレだ。道を踏み固める」
ゼルヴァンは少しだけ胸を張った。
「我が友と、この国のためなら、いくらでも働ける」
王都の夜風が心地よい。下では屋台の灯り、人々の笑い声。
ゼルヴァンはふと思う。朝、荷物を落として謝っていた自分と、今。
——どちらも自分だ。だが今は、胸の中が温かい。
「友よ」
「なんだ」
「俺は、ご満悦だ」
王太子は吹き出した。「言葉を覚えたな」
ユリウスが笑い、スラウザーが笑い、ゼルヴァンも笑った。
その笑い声は、静かな夜空へ高く上っていく。
こうして、**人型ゼルヴァンの“はじめてのしごと”**は、失敗と成功と、たくさんの「ありがとう」で終わった。
そして翌朝から、山は開かれ、道は太くなり、港は忙しくなる。
ハイデニアの生活が、また一歩、豊かになっていく。